3.『橋のある町』
3.『橋のある町』
青い帽子の男が紹介してくれた、彼の師匠が住んでいる町とは、太い川に大きな橋がかかった大都会でした。
橋の両端には、威厳のあるライオンが鎮座しており、こちらも古い歴史を感じさせられるような、美しさと荘厳さがありました。
青年は青い帽子の男が教えてくれた家を訪ねました。
そこは、町はずれの農家にぽつんとたたずんだ一軒家でした。
ドアをノックすると、小柄で非常に年老いた女が姿を現しました。青年は、青い帽子の男の紹介で、彼の師匠に会いに来たのだと、男からもらった紹介状を、その老女に渡しました。
「その師匠とは、私のことですよ」
と、小柄な老女は紹介状を読むと、ニコニコと笑って答えました。
「あなたが、あの人の師匠なのですか?」
と、青年はあまりに年老いていて、画家らしくない老女に驚きを隠せませんでした。
「わたしが絵を描くには、若すぎるとでも言いたいのかえ?」
と、老女はにっこりと笑いました。
彼女は青年を部屋に招き入れると、くつろぐように勧めました。
「あんたは、久しぶりのわたしの弟子になります。全く、いい時にきましたよ。ここでしっかり、絵の技術を学んでいくがいい」
老女は、青年にこの家に住んでかまわない、ここでわたしの絵の描き方を教えましょう、しっかりついてきなさいと、言いました。
翌日から、いきなり絵の特訓が始まりました。
青年は、青い帽子の男の家でやっていたような下働きから始めると思っていましたが、朝起きると、朝食もろくすっぽ口にせず、老女は青年をアトリエにひっぱっていき、太陽が出ている間は、絵を描き続けなければならないと、青年の尻をたたき、一分一秒でも惜しいと言って、彼に絵を描かせ続けました。
小柄で、よぼよぼの女師匠は、絵の話を始めると、人が変わったかのようにしゃんと背筋を伸ばし、口調もはっきりと、的確な指導を、青年に施していくのでした。
その熱心さがあまりにせっかちなので、青年は不思議に思って、老女にこうたずねたほどでした。
「どうしてそんなに急ぐのですか?まるで締切でもあるようだ」
「締切があるんですよ」
と、老女は重々しく答えました。
「人生に無駄にする時間なんて、一分だってありゃしないんです。ぼやぼやなんかしていられませんよ」
老女は、青い帽子の師匠だけあって、素晴らしい絵の腕前を持っていました。
彼女の書いた何枚かの絵を見るにつけ、こんな素晴らしいことができたらどんなにかいいだろうと、いつか描いてみたいと、青年は呟きました。
「いつかですって?いや、いつかではなく、どんなにか素晴らしかろうと、高望みだと感じようと、やろうと決めたからには、今すぐにでも、それに挑戦した方がいいですよ」
老女はそう言うと、彼が素晴らしいと言い、是非真似てみたいと思った技術を、いともあっさりと教えてくれて、試してみろと勧めるのでした。
「わたしの夢はね、これまで培った技術や、思いのひとつひとつを、一つでも多く、一人でも多くの人に、伝えることなんですよ」
と、師匠は言いました。
「夢を叶えるために、じっとしている暇はありません。思い立ったら、まずは、行動することですよ。
これまでに何人もの弟子をとってきて、おそらくあなたが最後になるでしょうが、わたしはわたしの知っているあらゆることを、あなたに伝えておきたいんです」
老女の許で絵を描き始めて数か月、季節も変わる頃になると、青年の画風は目に見えて変わってきました。
その変化に、青年は自分でも驚くほどでした。
老女は、だいぶ慣れてきたようだから、ひとつ大作を描いてみたらどうかと勧めました。
青年は、町のシンボルである大きな橋の絵を描くことにしました。
彼はスケッチを何度も重ね、試作品を作り、下絵を入念に描きました。
それは青年の描いたこれまでの絵の中で一番大きなものでしたが、師匠の教えを守って忠実に描いていったので、途中で迷ったり、失敗することなく、すんなりと仕上げることができました。
「大変よろしい」
青年の仕事ぶりに満足した師匠は、強く頷きながら言いました。
「あなたはスジがいいから、のみこむのが早くて、気持ちいいこと」
「じゃあ、町に出て絵を売ってもかまわないでしょうか?」
と、青年は思い切って言いました。
最近かなり自信がついてきて、思う通りに描くことができ、楽しくなってきたので、売ってみたくてうずうずしていたのです。
「自分の描いた絵が気に入ってもらえるか、人々に見てもらいたいのです」
と、青年は言いました。
「町に出て、絵を売るって言ってもねえ…」
老女は、青年の思いにちょっと驚いたようでした。
「あんたが今まで習得してきたのは、わたしの技術だけなのだよ。
あなた自身の、オリジナルな絵を描かずして、いったい何を町の人に見せるというのかね?」
「オリジナルの絵ですか?」
「そうとも、これがあんた自身だと、自信を持って言える絵のことを言っているのさ。
今のままじゃあ、あんたはわたしのコピーを描いたにすぎないじゃないか」
その日青年は、寝床につくまで、師匠が言った言葉について深く考えていました。
彼は、今まで自分自身の絵を描いてきたつもりでした。
しかし師匠は、彼の描いた絵を、自分の技術の踏襲としか見ていないようでした。
自分のオリジナルの絵を描く…とはいったいどう意味なのか、いったいどうしたらいいのか分からず、青年は途方にくれてしまいました。
答えを見つけることができず、青年は、師匠にその方法をききだすしかない、オリジナルの絵を描いていくにはどうしたらいいのか、教えてもらわねばならないと、その心づもりで眠りにつきました。
翌朝、青年が起きてきても師匠はまだ眠っている様子でした。
いつもは早起きな師匠が、珍しいことがあるものだと、青年が師匠の部屋をのぞきに行きました。
「師匠、朝ですよ」
と、青年は老女に声をかけました。
師匠は返事をしませんでした。
彼女は、上布団を被ったまま、胸の上で両手を組み合わせていました。
彼は顔をのぞきこみました。
彼女は、幸せそうに頬をピンク色に染め、あどけない少女のような表情を浮かべていました。
青年は再び声をかけましたが、やはり、反応はありませんでした。
青年はまさかと思い、彼女の体に耳を近づけました。
体は冷たく、心臓の音は途絶えていました。
その時、青年は、師匠はもはやこの世の人ではないことを知ったのでした。
これまで生きてきた中で、これほど悲しくショックな出来事はないと、青年の驚きと嘆きは、いかほどのものか、それはそれは、筆舌に尽くしがたいものでした。
師匠は、彼女の持つ多くの宝石を、無償で青年に与えました。
しかし彼女は、青年が師匠の気持ちに感謝を伝える間もなく、慌ただしくこの世を去ってしまったのです。
しかも、師匠は青年がききたくてたまらなかった
「オリジナルの絵を描く方法」
を教えずして逝ってしまったのですから、青年にとって、これほど悔しいことはありません。
しかし、後悔しても仕方のないことです。しばらくして、気持ちもおさまってくると、青年はこれからどうしようか、と真剣に考えるようになりました。
さしあたって、ここに来てから描いた絵が、部屋の中からあふれんばかりにあって、それをどうにかしなければならない問題がありました。
師匠からは、これを売るのはいかがなものかと言われていたけれど、せっかく描いた絵を人々に見せないのはもったいないことだし、お金も底をつきかかっていたので、彼は思い切って町に出て、これらの絵を売ることにしました。
町のシンボルである川にかかる大きな橋まで、青年はやってきました。
橋の上では、沢山の商人が集まってきており、多くの人々があらゆる商売をしていました。
青年は、古城のある町でやっていたように、自分も露店を出してここで絵を売ろうと思いました。
しかし、彼が適当な場所を見つけて、店を広げようとすると、どこからか橋の管理人と称する人がやってきて、青年に向かって言いました。
「橋で商売をするには、許可証が必要だよ。君はもっているのか」
青年は持っていない、どこへいったらもらえるのかと聞きました。
その男は青年をじっと見つめて言いました。
「あんたは、地元の人間じゃないね」
「僕は外国からきました」
「ここでの商売は、この国の人間に限られておる。外国人はお断りだよ」
青年は、驚いて許可証を交付している役所に飛んでいきました。
答えは同じで、外国人には許可は出せないとの一点張りでした。
しかたなく青年は、橋以外で露店を出すことを考え、下町の入り口で絵を並べましたが、泥はとばされるし、お客になりそうな人はおらず、全く商売になりませんでした。
「困ったなあ。別の町に移るという方法もあるが、これほど沢山の絵と大きな絵を担いでいくわけにもいかないし・・・」
青年は、小さめの絵を小脇にかかえて、毎日橋の入り口に通い、観光客相手に絵を見せてまわりました。
しかし、橋の入り口は通行量が多すぎて、見てもらうことはおろか、立ち止まってもらうことすらできません。
青年が困っているところに、やくざ風の品のない男がふらりと寄ってきてこう耳打ちしてきました。
「兄さん、露店に店を出せなくて困っていたのだろう。許可証を買うかい?」
「ええ?でも僕は外国人だから出店は無理なはずです」
「そんなことは、百も承知さ。だから、あんたがこの国の人間である偽造の証明書を売ってやるって言っているんだよ。細工は巧妙で、ぜったいバレっこない証明書を作ってやるぜ。これさえあれば、あんたは許可証を手に入れることができるってもんだ」
彼は、続けてこう言いました。
「いいとこ、五十万でどうだい?」
「ご、五十万だって??」青年は叫びました。「そんな大金、どこにあるっていうんだ!」
青年は、橋のたもとで毎日足を棒にして、絵を売り続ける努力をし続けました。
数メートル先の橋の上では、許可証を持った露店が、賑々しくの軒を連ねていました。
青年の視線の先には、こぎれいな陶器を売っている店があって、多くのお客にめぐまれているようでした。
青年は、その陶器屋が、羨ましくてなりませんでした。
「自分もあそこに、店を出すことさえできれば…自分が外国人であるばっかりに絵を売れないなんて。許可証さえ、手に入れることができたら何とかなるのに」
青年は、思い詰めながら、羨望の思いで眺めているうちに、露店で店番をしていた少年とぱったりと目があってしまいました。
彼はにっこりと笑い返してきました。
するとその少年は、すっと立ち上がると、橋のたもとで数枚の絵を持っている青年に向かって自分から歩み寄って、話しかけてきたのです。
「お兄ちゃん、その絵を見せてくれる?」
青年は、小脇に抱えている自分の絵を少年に見せてやりました。
「買うかい?」
と、青年は言いました。
「とてもきれいな絵だ。僕は、こんな絵を知っているよ。お母さんが、昔よく描いてくれたもの」
「お母さんが?」
少年は、魅せられたかのように、じっと絵に視線を落としていました。そして、「お兄ちゃんは、外国の人?」と、尋ねました。
「そうだよ」
「さっきからずっとこっちの方を見ていたでしょ?橋で露店が出せないんで困っていたんじゃない?」
「そうなんだ」
少年は、青年に絵を返すと、何か考えがあるのか、何も言わず自分の店に小走りに走っていって、店主らしき男に、何か小声で話していました。
少年は戻ってくると、店にきて自分の父親に会って話をしてくれないかと言うのでした。
事情がよく分からないまま、青年は、少年の後について陶器屋の主のところまで来ると、主は青年の絵を見せてくれないかと話しかけました。
「ふうむ、素晴らしい」
主は、あごひげをなでながら、非常に感心したように言いました。
「とても素晴らしい、この町のことを知りつくした人の絵だ。
外国人が描いた絵だとは思えない。
あんたは、この橋で露店が出せなくて困っていたんだってね」
「ええ」
「こうしたら、どうだろうね?」
と、主は言いました。
「わしの店の一角に、あんたの絵を並べて売ったらどうだい?」
事の成り行きに、青年は戸惑いました。
陶器屋の店主は続けました。
「ここは、外国人は店を開くことはできん。
その代り、わしのようなここに許可証を持っている人間の店を間借りして、商品を並べることができるんだよ。
そのかわり、売上の対価の五割を場所代に頂きたいのだがね」
「本当ですか?売上の五割を支払えば、本当にわたしの絵をここで売って下さるのですか」
「五割は多すぎると言う人もいるが、許可証に支払う代金を思えば、安いものだと思うんだがね」
「いいえ、わたしはさっきまで、橋の上で商売することさえできない身だったのです。本当に五割で、あなたの店に絵を飾ってくださるんですね?」
青年は、いままで感じていた心のわびしさが救われたような思いになりました。彼は、天までとびあがらんばかりに喜びました。
「本当ですね?」
「本当だとも」
「ばんざい!」
青年は、叫びあがりながら、陶器屋の店主にだきつきました。
陶器屋の親子は、まだ青年の絵に見入っていた。
あごひげの主人は、青年の絵に深く感動したようで、長い間見つめていました。
「本当に、あんたの描く絵は、わしの妻の描く絵によく似ているよ」
その日から青年は、陶器屋の親子の店を間借りして、絵を売り始めました。
橋のたもとで素通りしていた人々も、広い場所で見やすく陳列された絵に興味を示して、足を止めるようになっていきました。
彼は、ものは試しだと、これまで売っていた絵の、三から五倍近い値段をつけました。
そして、青い帽子の男から教わったように、彼と同じやり方で、絵を売りました。
最初は不安でしたが、絵は、すぐに売れ始めました。そして面白いほど、店に飾る絵は次から次へと売れてゆくのでした。
「すごい、魔法にかかったかのようだ。一体、何が起こっているのか分からない」
と、青年はキツネにつままれたような感じでした。
絵は、数日のうちで、羽が生えたように売れてゆきました。
青年はついに、師匠の家で、彼女に指導してもらいながら、一番最後に描いた大作を、店に出すことにしました。
一体、どのぐらいの値段がつくのか、本当に興味を持ってくれる人がいるのか、全く予想はつきませんでしたが、青年は、この絵も、きっと誰かが気に入ってくれて、買ってくれる人がいるに違いないという確信を抱いて、店に飾りました。
数日が過ぎたある日、橋に、この国を治める宰相が通りかかるという出来事がありました。
宰相は、この町のシンボルである橋を、行列を組んで歩いて渡り、陶器屋の露店の前で足をとめました。
彼は、青年の描いた大きな絵をじっと見ていました。
「これは、あなたが描いた絵ですか」
と、宰相は青年に言いました。
「はい、わたしが描きました」
宰相は、再び絵に視線を移しました。
「あなたは、地元の方ですか」
青年は、自分は外国人だ。遠い外国の地からここへ絵を描くために、やってきたのだと答えました。
「この絵を見たら、この町の人間の手によるものかと思いましたよ。絵を描くために、こんな遠いところまで、足を延ばしたのですか」
「はい、わたしの故郷は世界一素晴らしい場所ですが、絵の修業をするにはあまりに田舎なのです。それで、都会に出て、修行をしようと思ったのです」
「故郷を離れるのには、決心がいっただろうね?」
「はい、それはもう」
「故郷では、何か別の仕事をしていたのでしょう。その仕事をやめて絵の道に進むのは、大変なことだったに違いない」
「わたしは故郷では、父と一緒に畑を耕しておりました。
しかし、農作物の出来は年によって波があり、安定した収入が得られません。
それに父は近年、リューマチにかかって体が大層つらいようなのです。
故郷に残って農業を手伝うだけでは薬代が足りず、限界があると判断しました。
わたしは、いい絵描きになって、少しでも父を楽にさせてあげたいと考え、思い切って故郷を離れる決心をしたのです」
「では、故郷ではお父上が待っているのですか?」
「はい、出発から一年の後に帰るとの約束でしたから、その間に、わたしは絵を売って帰らねばなりません」
宰相は、大変感心したようでした。
彼は、何度も深く頷いていました。
そして、随行してきたまわりの人々にこう言いました。
「今の話を聞いたか?何という親孝行な、勇気のある青年だろう。
父親のリューマチをよくしてあげるために、わざわざこんな遠い国まで絵を習いに来るとはね」
宰相は、感動したように大げさに上げた片方の手を、青年の肩に優しくかけました。
「君のような青年に出会えて、わたしは幸運だ。久しく接していなかった美しい心に触れたような気がして、心がくつろいだよ」
宰相は青年を労うと、こう言いました。
「君の絵を買おう」
「えっ」
「この、君の絵を買おう。いくらで売ってくれるのかな?」
青年は、一瞬頭が真っ白になりました。
宰相の顔を穴があくほど見つめていましたが、自分でも知らないうちに、口が勝手に動いて、
「この絵は百万です」
と、答えていました。
宰相は言いました。「よろしい、百万払いましょう」
宰相は、随行員のひとりに絵の代金を払うように告げました。
そして、静かにその場を離れて行きました。
青年は、何が何だから分からないような感じでしたが、自分の手に百万もの大金が握られ、宰相の随行員達が青年の描いた絵を運び去り、露店の一角が空になってから初めて、自分の絵が百万もの大金で、しかもこの国の宰相と呼ばれる人に評価されたことに、やっと気づいたのでした。
橋に居合わせ、事の成り行きを見ていた人々は、皆とても驚いていました。
宰相直々にお褒めの言葉をちょうだいし、その絵を百万で売ったのです。陶器屋の店主をはじめ、息子の少年、仲間の露店主達も、青年に駆け寄ってくると、いっせいに祝いの言葉をかけました。
「君、すごいじゃないか!宰相に絵を買いあげてもらえるなんて」
「しかも、百万で!」
「君は、これでもう立派な画家の仲間のひとりだよ。大先生だ!」
青年は、賞賛の言葉を嵐のようにうけ、びっくりするやら、嬉しいやらで、地に足がついた心地がしません。
素晴らしい、よくやったといった声が、いつまででも、彼の耳のまわりをとりまいていました。
そして、時がたって、ようやく分かりかけてきたことは、自分が、一枚の絵を百万で売れる画家になれたという目標を達成したということでした。
それが理解できた瞬間、青年は心からこの身に起きた出来事に感激し、感動で胸をうちふるわせました。
青年は、突然地面にしゃがみこんだかと思うと、恥ずかしげもなく人前でおいおいと泣きはじめました。
これで、お父さんを楽にしてあげることができるのかと思うと、感激して涙がとまりませんでした。
感謝の思いで胸がいっぱいになりました。
露店の仲間たちの笑顔が、故郷の人々と重なりました。
彼は、どんなことをしてでもいい、この町の人々にお礼をしなければと思ったのでした。
その日の夜、陶器屋の主の家での夕食に招かれました。
店主は、妻と息子の三人暮らし。彼の妻が、料理をふるまいました。
「この人は、もう大作家先生なんだ」
店主は、誇らしげに、妻に青年を紹介しました。
その日の夜の食事は、とても楽しいものでした。
故郷を出て以来、こんなに楽しい食事は初めてでした。
店主は青年に酒をすすめ、今後はどうする気なんだ、もちろんこの町で絵を描き続けるつもりなんだろうなと、ききました。
「あんたが、そのつもりなら、わしはいつまででもあんたに協力するぜ」
と店主は並々とグラスに酒を注ぎながら言いました。
「協力するったって、この方はもう有名人でいらっしゃるのだから、うちの露店を間借りする必要なないでしょう。
お客さんの方から、注文をしに訪ねてきますよ」妻は、夫に言いました。
「そうだろうなあ」店主は言いました。「でも、わしの目に狂いはなかったのは確かだろう?」
「あなたから、あのように店を貸してくれると仰ってもらえて、どれだけ助かったか分かりません」
と、青年は店主に礼を言いました。
「実は、お金も残り少なくなってきていたので、万が一、許可証をもらえたとしても、橋の許可料を払えなかったと思うのです。絵を橋の上で売れるのなら、売上の五割を高いとは思いませんでしたよ。それに」
と、青年は、思った通りのことを言いました。
「それのお陰で、あなた方と知り合いになれましたしね」
「この人は、欲がないんだ」
店主は照れたように言いました。
「たいがいの連中は、五割の場所代を請求されたら、侮辱されたと言って断ってくるもんだ。しかし、わしは、この人の絵をみたときから、気が付いたよ。
彼は、この町のことをよく知り尽くしている…淡い絶妙な色の混ぜ具合と構成が、家内の昔描いていた絵にそっくりで、この男の描いた絵なら、うちの店に飾ってもいいと思ったのさ」
「わたしも、絵を描いていた時期がありましてね」
妻は青年に説明しました。
「今はすっかりやめてしまいましたけど」
「家内は、一時は、いいところまでいったんだ」
店主が言い添えた。
「肖像画の依頼をしに、外国から人がやってきたぐらいだった。お役所や官公庁からもこの土地の風景を描いてもらえないかと頼まれたほどさ」
「あらやだ、そんなに褒めないでくださいよ。昔の話ですよ」
妻は、顔を赤くしました。
夕食が終わると、店主の息子が母親の昔の絵を見ないかと誘うので、彼は見せてもらうことにしました。
「これが、母さんの描いた絵さ。とってもキレイだろ?」
少年は自慢気に青年に母親の絵を見せました。
「これは、本当に君のお母さんが描いたもの?」
と、青年は言いました。
「もちろんさ。こっちが、この町の真ん中にかかった橋を知っているだろ、丘の上から見おろした景色さ」
青年は、少年が見せてくれた彼の母親の絵を、一枚一枚入念に調べていました。
少年が言った通り、絵は、青年の描いた絵とそっくりでした。
青年の描いた絵というより、この町にやってきて師匠から指導を受けて描いた絵と描き方があまりに同じだったのです。
少年の母親が部屋に入ってきたので、青年は彼女にきいてみました。
「あなたの描いた絵を拝見しておりました。
とても素晴らしいものばかりですが、一体どこで習われたのですか」
「あらいやだ」
母親は、恥ずかしそうに言いました。
「もうずっと、昔のことですのに。それに、大した絵でもありませんわ。
夫はあんな風に言っていましたけど、自分ではそれほどの絵描きだったと思ったことはありません」
「そんなことありません。素晴らしいと思います。きっとどなたかに手ほどきを受けられたのでしょう、この町でですか?」
「ええ、この町ですわ。手ほどきというほどでもありませんけど。この町では誰でも知っていますが、町はずれの農村に、この町の生き字引と言われた女性の絵描きさんがいましてね、その方がわたしの師匠だったのです」
「師匠って、もしかすると、橋を渡った、ずっと向こう側に広がっている、あの農地の先にある農家にお住まいだった女性のことですか」
青年は、たずねました。
「そうですわ。残念なことに、最近、お亡くなりになってしまわれましたが、そこにお住まいだった有名なある女性の画家が、わたしを弟子にしてくださって、色々教えてくださいました。とても親切な方で、様々な技術を伝授してくださいました。わたしの絵を素晴らしいと言ってもらえるのは、その方のお陰、ほかなりません」
「なぜ、描くのをやめてしまったのですか」
「確かに、絵を描き続ければ、いいお金になったかもしれません」
と、彼女は答えました。
「わたしは、病気持ちで薬代がかかるものですから、絵を売れば、家計を助けることができたかもしれません。が、絵を描き続けることはできなかったのです」
そう言って、彼女は自分の手を、ひょいとあげて青年に見せました。
「ご覧のとおり、リューマチにかかってしまって。絵筆をとると手が震えますし、指の関節もこんなに曲がってしまいました。こんな状態で、描き続けることは、もはやできないのです」
「リューマチ・・・」
と言って青年は絶句してしまいました。
「医師からは、絵を描き続けたら、病状が悪化すると言われましてね。描くことを諦めたのです。これ以上関節が曲がって、痛みが強くなったら、家事すらできなくなってしまいますもの」
青年は、驚いて言葉も出ませんでした。
同じ病気を持つ父のことを思い出して、その痛みと苦労たるや、どれほどであるか想像できたからです。
妻は、話を続けました。
「でもね、今では、何とも思ってはおりません。ご覧のとおり、わたしは主婦で、毎日忙しくて絵のことを考えている暇などありませんもの」
「治療は、受けていらっしゃるのですか」
「いいえ、大したことは何も。医師は温泉療法がいいとかなんとか勧めますけど、うちの経済状況では夢のような話ですもの」
「お辛いでしょうね」
と、同情を示しつつも、青年は、月並みなことしか言えない自分に腹が立ちました。
「そうでもありませんわ。絵を描けないからと言って、さして、恨みに思うことはありません」
妻は、微笑みながら答えました。
「でもねえ、今思えば、こんな風に手がダメになる前に、もっと自分で自分が満足できる絵を描いておけばよかったと思いましたわ」
「自分に満足できる絵?」
「ええ、師匠によく言われていましたの。
技術を得るだけでなく、これが自分自身なのだと、自信を持って人様に見せられる作品を作りなさい、
とね。
でもね、習ったことだけを忠実にやっていけば、お金になりましたから、師匠の言うことなど右から左で、若い頃は、目の前のことばかりにかまけて、お金になる肖像画とか、お役所から依頼の風景がばかりを描いていたんです。
でも、こうやって、手が動かなくなってから、師匠の言うことが理解できるようになって、わたしは今、初めて後悔しているのですよ」
陶器屋の主人の家で過ごした夕べは、大変楽しいものでした。
青年は、丁寧に礼を述べると、宿に戻って行きました。
翌日から、彼は新しい絵を次々と描こう、この町の人々に喜んで描いてもらえる絵を描くつもりでいました。
青年は、スケッチブックを持って、いい画材になりそうな風景を探しに行きましたが、どの場所も、どの構図も満足できませんでした。
青年は、土手の青々とした芝生にあおむけに寝転んで、流れゆく雲を目でおいかけました。
何かがしっくりこず、落ち着かないこの気持ちの正体が何なのか、一生懸命探そうとしました。
青年は、絵を買ってくれた町の人々のこと、彼らの笑顔、宰相のことなどを、ひとつひとつ、思い起こしました。
彼らは、青年の絵を見て、こう言って褒め称えていました。
「この絵を描いた人は、この町のことを知り尽くしている」
しかし、この町のことを知り尽くしていたのは青年ではなく、青年に絵を教えてくれた師匠でした。
青年は宿に戻りましたが、つい数日前まで、絵でいっぱいだった部屋は、きもちのいいぐらいに、がらんどうでした。
青年は、部屋の中にぽつんと置いてある椅子に腰かけ、考え続けました。
青年は、行かねばならないと思いました。
今は苦しくても、努力し続けなければいかないと思いました。
今、青年が持っているものといえば、旅の最初に持ってきた大きな鞄と、絵の道具箱だけでした。
彼は、心の中でこう思いました。
新しい旅立ちには、絵の道具があるだけで十分
だと。
青年は、荷物をまとめると、早朝に出発しました。
彼は、まだ薄暗い頃から、橋のたもとで、陶器屋親子を待っていました。
親子は、東の空が薄ピンク色に染まり始めた頃に、姿を現しました。
「おはよう、ずいぶん早いね」
少年が、眠そうに青年に話しかけました。
「お別れを言いたくて、待っていたんだ」
青年は答えました。
「お別れ?」
ふたりは、青年は何を言っているのだろうかと顔を見合わせました。
「僕は、旅にでて、もっともっと絵の修業を積むことにしました」
と、青年はふたりに打ち明けました。
「この町で、絵描きを続けるんじゃなかったのかい」
店主は言いました。
「僕は、まだ、一人前どころか、半人前にさえなっていません。このまま
旅に出て、絵の修業を続けようと思います」
陶器屋の店主は、もったいない、これからいくらでも稼げるのにと、
「せっかく仲良くなれたのに、もう、お別れとは寂しいね」
と言って悔しそうに言いました。
青年は、「わたしも、あなたと友達になれて楽しかったです」
と言うと、宰相に買ってもらった絵の代金を包んだ包を、少年に渡しました。
「これを、お母さんの病気の治療費のたしに使ってくれ」
少年は、大変驚きました、そして手をひっこめてもらえないと言いました。
しかし、青年は、包を再び少年の手の上に置くと、町の人達が、自分にしてくれたことに何かお礼をしたいので、君のお母さんにその気持ちを受け取ってもらいたいのだと、言いました。
「それじゃ」
と、言って青年は橋を渡っていきました。
青年は、長くこの橋の上の露店で、絵を売ってきましたが、この橋を渡って向こう側に行ったことはありませんでした。
橋の終わりにもライオンの像が座っており、青年は、そこで、この町を見納めるために振り返りました。
町は、朝陽を浴びて、人々が行き交い、活気ある一日がまさにはじまらんとしていました。
青年は呟きました。
「僕は、ここで何て幸運なことに巡り合い、素晴らしい日々を送ったことだろう!
僕は、きっと、師匠の言うような、自分自身の絵を描けるようになってみせる。
人の真似ではない、
自分が考え出した絵を、自分の作品だと胸を張って言えるような、そんな、立派な画家になって、故郷に帰ってみせる」と。