1.『旅立ち』
1.『旅立ち』
昔、あるところに、絵を描くことが大好きな少年がいました。
彼は、故郷の景色を描いて、それを町の出店で売っていました。
少年の夢は、画家になって素晴らしい作品を描くことでした。
少年の隣の家に住む、一人住まいのおじいさんが少年にたずねました。
「どんな絵描きになりたいの?」
「ゴッホやモネのような世界に名を馳せる、素晴らしい絵を描きたいんだ」
「どうしてまた、そんなに有名な画家になりたいのかね?」
「有名になれば、沢山の人から注文をもらうことができるだろう?
そうすれば今よりずっとお金をかせぐことができる。
僕は、リューマチで苦しんでいるお父さんを、
少しでも楽にさせてあげたいんだ」
少年が青年になったある日、彼は、おじいさんにある決心を打ち明けました。
「おじいさん、僕は絵を描く旅に出ようと思うんだ。
この町の絵を描いて売っていても、お父さんの病気の治療費にはぜんぜん、足りないんだ。
旅に出て、立派な絵を沢山描いて、それを売ろうと思うんだよ」
「旅って、どこに行くつもりだね」
「素晴らしい景色が沢山ある外国に、僕は昔から憧れていたんだ。
そこで絵を描いて、旅行客に買ってもらうんだ。
どんなに時間がかかっても、立派な画家になるまで帰ってこないつもりなんだ」
「そんなにうまくいくものかね。
もし、そこで、絵が売れなかったらどうするんだい」
「そこがダメなら、別な場所に移動すればいいことさ。
世界は広いもの、行くべきところは、山ほどある」
「若者の背中を笑顔で見送るのは、老人のつとめだが」
青年の情熱におじいさんは圧倒されたようでした。
「君がいなくなってしまったら、ここも寂しくなるな」
悲しそうに呟いたおじいさんは、がっかりとし、老けて、疲れたように見えました。
そんなおじいさんの様子を見て、青年の決心は少し揺らぎました。
いつも応援してくれているおじいさんなら、
きっと両手を叩いて賛成してくれると思ったのです。
おじいさんはかなり老齢でした。
もし、今この町を離れれば、おじいさんとは一生会えないかもしれないとも思いました。
青年が町を出ようとしているといった噂は、すぐに村じゅうに広まりました。
近所のパン屋のおかみさんが話しかけてきました。
「絵を描くために、町を出るんだってね」
「そう思っていたけど、今は、どうしようかと迷っているんだ」
「どうしてさ?」
「僕がいなくなったら、リューマチのお父さんは、今まで以上に大変になるだろうし」
「でも、お金を稼げるようになって、お父さんを楽にさせてあげるんだろう?」
と、おかみさんは言いました。
「そうだけど、でも、旅に出ても少しも絵が売れなかったらどうしようかと、つい思ってしまうんだ」
「おやおや、行く前からもう臆病風かね?」
町で自分の描いた絵を売っていると、お得意の、顔なじみの老紳士が話しかけてきました。
「絵を描くために、外国に行くんだそうだね」
「はい、でも、行くかどうか迷っています」
青年はパン屋のおかみさんに話したように、迷っている心の内を打ち明けました。
「では、行かない方がいいね」
と、老紳士は口髭をなでながらこう言いました。
「どこへ旅に出るかも、留守中のお父さんの世話のことも、
そして、どんな絵を描いて、どんな値段で売るかさえも決めていないのだろう?
そんな中途半端な気持ちでは、何もなしえることなどできないだろうからね」
青年は、老紳士の言葉に、はっとしました。
彼は旅に出るには、目標を持って、事前に計画を立てなければならないと気付いたのです。
彼は、家に帰って、すぐに貯金を調べてみました。
そして、お父さんに旅に出たい旨を切り出しました。
お父さんは、すぐには答えることができないようでした。
「お前の気持ちは嬉しく思うが、わたしの事なら気にしなくてもいいんだよ。
人間何かしらの病気を抱えているものさ。
これしきの痛みぐらいどうってことないよ。
それに、今のお前の話じゃ、旅に出て、
本当に立派な画家になれるという保証などどこにもないじゃないか。
長年貯めたお金をかけてまで本当に旅に出る価値があるのかね」
「確かに立派な絵描きになれる保証なんてどこでもないよ。
でもねお父さん、僕は絵がもっと上手になりたいんだよ。
この村にいていたままでは、決して今以上上手になれそうにないんだ。
都会に出て、僕よりずっと上手な人の絵を見て、もっと刺激を受けたいんだ。
もっともっと上を目指したいんだよ」
翌日、青年はパン屋のおかみさんを訪ねました。
青年は、自分が留守の間、リューマチのお父さんに、
毎日パンを届けてくれないかと頼みました。
「では、旅に出る決心をしたんだね?
いったい、どのぐらい留守にするつもりなの」
「一年後に帰ってきます」と、青年は答えました。
青年は次に、農地を借りている地主さんの家に行きました。
青年は、自分が留守にする一年間、父は今までの半分しか畑を耕すことができないので、
地代の支払いの半分を、一年間待ってもらえないかと頼みました。
地主さんは、青年の話をじっくりと聞いた後、こう答えました。
「支払が一年延びるとなると、延長金を頂けるかね。
君たちが耕せないなら、荒地にならないように、土地の世話をしなきゃならん。
その費用がいるんだよ」
青年が、延長金はいくらになるかとたずねると、
地主はそろばんをはじいて金額を述べました。
「分かりました、旅から帰りましたら、延長金を支払います」
「いや、延長金は出発してもらう前に払ってくれないか」
青年は、最後に、隣の家のおじいさんに会いに行きました。
「いよいよ、旅に出ることにしたよ、おじいさん」と、青年は言いました。
おじいさんは、弱々しく微笑えむだけで何も言いませんでした。
「心配することなんてないよ。僕は、ちゃんと計画を練ってから行くんだから。
うまくいかなかったら、別の方法をためすまでさ。
もちろん、不安はあるけど、
ここで、何もせずにくさくさしているより、ずっといいと思わないかい」
おじいさんは、君がそこまで決心しているなら、反対することなど何もないよと言いました。
「実はおじいさんにお願いがあって」と青年は言い出しました。
「僕が留守の間、ひとりぼっちのお父さんの様子を、ちょくちょく見に行って欲しいんだ」
おじいさんは、そんなことはわけはない、今まで以上に、話友達になるつもりだよと答えました。
青年は、パン屋に支払うお金、地代の延長金、
留守中に自分がいない間に必要な屋根の葺き替えにかかる費用、などを全て算出し、
加えて、絵を描く材料、交通費、宿泊費などを上乗せすると、もっと多くなりました。
貯金からそれらを差し引くと、残りのお金は、わずかになってしまうのでした。
しかも、帰ってきたら、延長した残りの地代を支払わねばなりません。
青年は、旅の間にお金を沢山稼ぐつもりでしたので、
それが手にはいれば、地代の支払いも問題ではないのですが、
湧き上がる不安を、抑えることはできませんでした。
出発が迫ったある日、出店で絵を売っていると、例の口髭の老紳士が、また近寄ってきました。
「旅に出る決心をつけたんだと聞いたよ。なんでも一年後に帰ってくるそうじゃないか。
きっと、君のことだから、その間に、どのぐらい儲けられるか、目算をつけているのだろうね」
「ええ、僕は、一枚、百万で買ってもらえるような絵を描くつもりです」
と、青年は胸を張って答えました。
「百万の絵をかく絵描きになるのか」紳士はぼれぼれしたように言いました。
「それでは、君が今ここで売っている絵も、一年後には値打ちが上がるわけだね」
彼は、そう言うと、気前よく、店頭に並べてある青年の全ての絵を買おうじゃないかと言いました。紳士が代金を払おうとすると、青年は、お金はいらないと申し出ました。
「代金をいらないって?」
と言って、老紳士は目をまるめました。
「この前、お会いしたときに、
あなたは、わたしに目が覚めるようなことを言って下さいました。
旅に出るには、目的と計画が明確でなければならないと。
あの言葉をきいて、わたしは旅に出る決心ができたのです。
ですから、今回、お礼に、この絵の代金は頂きたくないのです」
「君は、普通の人と、真逆の反応をする傾向にあるようだ。
普通の人間なら、言葉通りに受け取ってしまうものだがね」
青年は、褒められているのか、そうでないのか分からない
ちょっと照れくさいものを感じました。
老紳士は、戸惑っている青年を前に、にっこり笑うと、
そういうことなら、代金は払わないでおこう、そして、
「君が帰ってきたら、旅の土産話を是非きかせてくれ」
と言いました。
出発の前日に、青年は、全ての支払を終え、老紳士の家に絵を配達し、
明日の準備を全て整えて、ベッドにもぐりこみました。
不安がないわけではありません。
威勢のいいことばかり言ったものの、本当に思いが現実するとは思えなかったのです。
しかし、心から暗い気持ちを払いのけ、きっと大丈夫と心を強く持とうとしました。
出発の朝はやってきました。
お父さんと、お隣の家のおじいさんが並んで見送ってくれました。
お父さんは息子の肩をたたいてこういいました。
「これから道中、楽なことばかりじゃないだろう。
苦しいことの方が多いはずだ。
でもどんな時も、自分の力を信じてそれを乗り越えなさい。
自分を信じて入ればきっと道は拓ける。
迷ったときは初心を思い出して、自分がなろうと思った、
ほんとうに立派な画家になれる道だけを選ぶんだ。
お前は一人じゃない。
ここにいる皆はお前を応援している。
それを忘れるんじゃないよ」
パン屋のおかみさんが、弁当にと、パンを包んでもってきてくれました。
近所に住む地主さんが、畑の向こうから手を振っていました。
彼らは、
「お父さんのことは心配せんでいいから、安心して行っておいで」
と言って青年を見送りました。
青年は、心温まる故郷の人々の笑顔や声援に、胸がいっぱいになりました。
そして、この試みはどうしても成功させねばならない、
絶対に、立派な画家になってここに帰ってくるんだ
と強く心に刻みながら、
故郷の地を後にしたのでした。