~ 終ノ刻 宿業 ~
皐月達が柳屋を出る頃には、既に日も西の方へと傾きかけていた。
芽衣子と菜穂の二人を車に乗せ、皐月は彼女達を連れて目的の場所へと向かった。黒子消の呪い。その儀式を完遂させんと企む、この事件の元凶たる者の下へ。
風にたなびく緑色の稲を横目に、皐月は無言のまま車を走らせる。向かっている先が揖斐呼神社ではないことに気づき、助手席に座っていた芽衣子が尋ねた。
「あれ? お姉様、あの神社に行くんじゃないんですかぁ?」
「ええ、ちょっとね。もし、術者と一戦交えることになったら、あそこで事を構えるのは得策じゃないから」
それだけ言って、皐月は直ぐに視線を前方に続く道へと戻した。芽衣子も皐月の言わんとしていることがわかったのか、それ以上は何も尋ねることはなかった。
黒子消の呪詛は、揖斐呼神社の呪詛神である禍妻様の力を借りて行うもの。当然、術者の中にも禍妻様の力は宿っており、それを用いて実力行使に出ることもあるかもしれない。
そんなとき、最も重要になることは、実は戦いの場を選ぶことである。揖斐呼神社は禍妻様のテリトリー。言うなれば敵地であり、そこでは皐月も十分に力を振るえるとは言い難い。最悪の場合、禍妻様の力が術者により強く影響することで、敵が平時では考えられない力を発揮する可能性もある。
その力が、果たしてどのようなものなのか。なんとなく、それは芽衣子にも想像がついていた。
呪いとは、本来は己の心を殺し、鬼と成り変わって恨みの対象を殺す儀式である。今でこそ間接的に対象を殺害する儀式となっているが、古来、呪詛の儀式が成立したばかりのときは、自らを祟り神に変貌させる禁術の側面が強かった。
皐月が出がけに髪の毛を付けたのも、恐らくは万が一に備えてのことなのだろう。あれは、ただの付け毛などではない。きっと、何か理由があってのことなのだ。
村の中を流れる川に沿うようにして、皐月は車を走らせる。途中、何軒かの家の前を通り過ぎ、やがて一件の寂れた家の前で車を止めた。
「着いたわ。ここよ……」
先にシートベルトを外し、皐月は残る二人に目配せした。この村の中では珍しい造りの家でもないが、それでも随分と荒れ果てているような感じがする。生活の跡がないわけではないのだが、住んでいる者が少ないのだろうか。人が住んでいないというよりは、手入れが間に合っていないという言葉がよく似合っていた。
「えっ……!? こ、ここって……」
驚きの表情を隠せない菜穂を他所に、皐月は車を降りて後方のトランクを開ける。中から取り出したのは、米子から譲り受けたという黒いこけし。三人目の犠牲者、鈴倭沙杜子を呪い殺すのに使われたものだ。
「さあ、行くわよ、二人とも。でも……先に言っておくけど、ここから先は何があっても安全の保証はできないからね。勝手な行動をとったり、私から離れたりしないように気をつけて」
片手に焼け焦げたこけし、片手にフーチを持って、皐月は家の前に立つ。こけしには皐月が用意した霊害封じの札が貼られていたが、それでもなお、力を残しているのだろうか。こけしの中に宿る陰の気に反応し、フーチがふらふらと左回りに回っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
外から見た様子と比べ、家の中は随分と掃除が行き届いているようだった。一見して、何の変哲もない田舎の家。が、しかし、中に一歩足を踏み入れた瞬間、明らかに空気が変わっていた。
慎重に敵の気配を探りながら、皐月はそっと歩を進める。こうも簡単に家の中へと入れたことは、敵もまたこちらの動きに感づいていることを意味している。いつ、どこで奇襲を受けるか。その可能性が捨てきれない以上、闇雲に進むのはあまりにも危険だ。
フーチの反応を頼りに、皐月は警戒を緩めぬまま歩き出した。黒いこけしの放つ陰の気は、呪詛をしかけた本人からも発せられている。あまり遠くに離れられると反応が弱まるが、ここまで近づけば話は別だ。
「こっちね……」
土足であるのも構わずに、皐月はどんどん家の中へと進んで行く。途中、畳の部屋を抜け、最後は何やら物置のような場所へと辿り着いた。
部屋の中はカビ臭く、床には埃がつもっている。ここ数年、物の出し入れもまともに行われていなかったのだろうか。あちこちに積まれた荷物もまた、薄く埃を被っている。
だが、それだけに、人の入った跡を見つけるのは簡単だった。床の一部に荷物を引きずった跡を見つけ、皐月はすかさず部屋の隅に置かれていた葛篭へと目をやった。
なるほど、あれを動かしたのか。そのまま葛篭を引いた跡を追うと、何やら床の一部がめくれ上がっていることに気がついた。
「お姉様、あそこ……!!」
部屋の隅を指差して、芽衣子が叫んだ。
「ええ。あれ、地下室へ続く階段ね」
「地下室……ってことは、あの先に呪い事件の犯人が!?」
「そういうことになるわね。悪いけど、ここから先は私だけで行かせてもらうわ。待ち伏せされていたら、さすがに危険過ぎるから」
「で、でも……」
それ以上、芽衣子が何かを口にする前に、皐月は首を横に振って彼女の言葉を遮った。敵の力が未知数で、なにより菜穂もいる以上、これ以上は危険を冒せない。
もっとも、それは芽衣子にとっても同じことで、これ以上は皐月に任せきりになるもの嫌だった。自分など、大した力になれないかもしれない。それでも、こう何度も助けられてばかりでは気が引ける。せめて、微力でも皐月の力になりたいというのは、芽衣子にとって変え難い想いなのだから。
「お姉様の言いたいこと、私にもわかります。だけど……やっぱり、私も一緒に行きます! お姉様に何かあったら、私……私……」
それ以上は、何も言うことができなかった。もしも、あの地下に行ったまま、皐月が帰ってこなかったら。彼女に単なる憧れ以上の感情を抱いている芽衣子にとっては、そう考えると気持ちを抑えることができなかった。
「わかったわ。だったら、これを持って行きなさい。その代わり、自分の身はちゃんと自分で守るのよ」
いつになく頑なな芽衣子に折れたのか、皐月は自分の持っていた銀製のナイフを手渡した。銀は、霊的な波動を伝導しやすい金属の一つだ。それに、これならば幽霊などを相手にする以外にも、護身用として使うことができる。芽衣子の細腕でどこまで役立つかは不明だったが、何も持たないよりはマシだろう。
同様の物を菜穂にも渡し、最後に皐月はオマケで護符を一枚ずつ持たせた。敵が霊的な攻撃を仕掛けてきた場合、一度くらいならば、これで無効化することもできる。
最後に、あらかじめ用意していた懐中電灯を芽衣子に預け、皐月は地下への階段へと足を伸ばした。右手にはフーチ、左手には焼け焦げたこけし。彼女の用意した探知機は、地下への階段へと近づくにつれ、いよいよその反応を強めつつあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い地下の一室で、東雲純也は見覚えのある女性を前にしていた。
身体を動かそうとすると、彼の両手に食い込んだ荒縄が音を立てて締めつけた。腕の皮が擦り切れるような感触に、純也は思わず舌打ちをして頭だけを上に向ける。
カビ臭く、陰気な空気の漂う地下では、天井に取り付けられた裸電球だけが頼りだった。淡い、橙色に光る電球は、純也だけでなく目の前の女性をも照らしている。二人の足下からは長い影が伸び、壁に映し出されたそれは、まるで別の世界の人間のように、二人の姿を凝視しているようにさえ感じさせる。
「いったい、どういうつもりだ……。僕をこんな場所に閉じ込めて……何を考えているんだ、君は!?」
力の限り叫ぶ純也だったが、果たしてその声は震えを隠し切れてはいなかった。自分の目の前にいるのは、ただの人間ではない。人を越え、何か別の存在になってしまった者。そういった方が正しい様な気配を、全身から醸し出していたのだから。
「私が何を考えているか、ですって? 今さらそれを聞くなんて、あなたも随分と野暮な方なのね」
「ごまかさないでくれ! これは……もしかして、復讐のつもりなのか!? 真理を虐めていた者たちや……真理を守れなかった、僕への復讐なのか!?」
「そうね……。半分は正解だけど、半分は間違いってところかしら? 確かに、あの子を死に追いやった者は、相応の報いを受けるべきよ。でも、私はあなたを恨んではいないわ。むしろ、感謝さえしているくらいよ。あの子のことを、本当にわかってくれていたのは……この村では、あなたくらいのものだったからね」
「だったら、なぜ!?」
こんなことをするのか。そう問い掛ける前に、その女性は一枚の絵馬を取り出して純也に見せた。
ムカサリ絵馬。親より早く亡くなった子が、せめて常世では幸福な家庭が築けるようにという願いを込めて、架空の婚約者の名前を書いて神社へと奉納するものだ。冥婚と呼ばれる、この一風変わった儀式のことは、純也も知らないわけではない。
だが、それでも、純也はその絵馬に書かれた名前を見て、言葉を失わずにはいられなかった。絵馬に描かれた一組の男女。女の方には狄塚真理の名前が、男の方には純也自身の名前が刻まれている。架空の婚約者の名前を刻む、従来のムカサリ絵馬とは異なり、そこには確かに実在する二人の人物の名前が刻まれていた。
「あなたが真理のことを、今も愛しているというのなら……向こう側の世界で、あの子と一緒になってくれてもいいわよね? それが、真理にとっても最高の幸せだもの。そう、あなたも思わない?」
「馬鹿な! ムカサリ絵馬は、あくまで架空の結婚式だ! 死んだ人間と生きた人間を婚約させるなんて……そんな力、絵馬にはない!」
「そうね。でも……禍妻様の力を持っている今の私なら、その程度のことは簡単なのよ。あなたを殺し、その魂を真理のいる世界へ送り届ける……。そこで、末永く暮らしなさい。誰の邪魔も入らない世界で……ずっと……ずっと……永遠にね……」
だんだんと、女の視線が遠くを見るようなものに変わって来た。彼女の視線の先にあるのは、極楽浄土のような夢の世界か。それとも、暗く深い闇に包まれた、静寂の支配する死の世界なのか。
「今夜は、いい夜になりそうね……。私は今日、全ての復讐を終えることができる。そうすれば……次は、あなたを真理のところへ送ってあげるわね」
絵馬を部屋の中にあった小机の上に置き、女は恍惚とした顔で純也に告げた。代わりに女が手にしたのは、黒く焼け焦げた一体のこけし。海老沢美弥、風森月子、そして鈴倭沙杜子。三人の少女を死に至らしめた恐るべき呪詛人形。揖斐呼神社から盗まれたこけしの、最後の一つに当たるものだった。
もはや、自分の運命もここまでか。この薄暗い地下室で、誰に知られるともなく死んでゆく。そう、純也が覚悟を決めたとき、女の顔が一瞬にして夢から解き放たれたようなそれに変化した。
木製の板を軋ませながら、階段を下る鈍い音。望まぬ来客の登場に、女はじっと身構えたまま動かない。
「やれやれ……。やっぱり、あなたが呪いの犯人だったのね」
そこにいたのは、皐月だった。右手にフーチを、左手にこけしを持ったまま、彼女は勝ち誇ったような顔で言い放った。その後ろにいるのは、懐中電灯を持った芽衣子と、同じく二人に同行していた菜穂。二人とも、皐月とは異なり、現状を頭で整理することができないようだった。
「お前は……」
女が、憎しみとも怒りとも取れる感情を剥き出しにして、低く唸った。だが、皐月はそれにも構わずに、フーチを目線の高さまで上げて微笑する。
こけしの波動を受けた銀製の錐が、ふらふらと宙を彷徨いながら反応を示していた。呪具に残された陰の気と、同じ気配を放つ者。彼女のフーチが指し示す先にあるのは、他でもない狄塚杏子の姿。鯨井の下で診療所の助手を務める、亡くなった狄塚真理の姉に他ならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「えぇぇぇっ! ど、どうして、杏子さんがここにいるんですかぁ!?」
薄明かりの中、驚きを隠せないままに芽衣子が叫んだ。
鯨井の助手、狄塚杏子。彼女は確か、診療所に侵入した族に襲われて、芽衣子と同じく酷い目に遭わされたはずではなかったか。いわば、彼女は被害者の立場。それがなぜ、皐月のフーチに反応しているのか。残念ながら、芽衣子の足りない頭では、これらの事実を結びつけるには至らなかった。
だが、それでも皐月にはわかっていた。フーチを用いた霊的な直感だけでなく、杏子が今回の事件の主犯であることを。全ては彼女の仕組んだこと。そう、確信していたからこそ、迷わず彼女の家まで向かったのだから。
「悪いけど、禍妻様の呪いはここまでよ。そのこけし……諦めて、こっちに渡しなさい」
互いににらみ合ったまま、皐月は杏子が手にしているこけしを指して言った。が、ここまで追い詰められてもなお、杏子もまた不敵な態度を崩さない。右手にしっかりとこけしを握り締めたまま、氷のように冷たい笑みを浮かべて皐月に問う。
「どうして、私が呪いをかけているとわかったの? 妙な他所者が村をうろついているのは知ってたけど……まさか、あなたもその筋の関係者なのかしら?」
「まあ、そんなところね。ただ、私の仕事は呪いをかける方じゃなくて、呪いを打ち破る方なんだけど」
最後の方を少しばかり強調し、皐月は杏子に言葉を返した。杏子は鼻で笑っていたが、皐月はそれには構わなかった。
「確かに、あなたの執念は凄い物があったと思うわ。妹さんの復讐のために、揖斐呼神社のことを調べ上げて、プロの呪殺師顔負けの呪いを仕掛けたんだからね。でも……呪いに関しては一流でも、普通の殺人に関しては三流だった。それが、あなたの最大の敗因よ」
三流。その言葉に、杏子が微かに反応した。己の失態に気づいた故なのか、それとも皐月の言葉に怒っているのか、その心の奥底までは覗けなかったが。
「診療所で鯨井先生と一緒にあなたを見つけたとき、ちょっとおかしいと思ったのよね。葬儀屋の男を毒殺するために毒を奪ったのなら、その人間は、どうしていきなり二階の窓ガラスを割って侵入したのかしら? 診療所に入るだけなら、患者を装って侵入するなり、一階の窓ガラスを割って入るなりすればいいのにね……」
淡々とした口調で述べる皐月だったが、杏子はそれには返事をしなかった。だが、皐月の言っていることは、確かに正しい。脚立を使い、二階の薬がある部屋へピンポイントで侵入するのは、診療所の構造を知っている人間でなければ不可能だ。それでなくとも、わざわざ人目につくような侵入経路を取ることは、それが即ち侵入者にとってのリスクを拡大することに繋がってしまう。
「まあ、それだけじゃなくて、不審な点は他にもあったわ。まず、薬が奪われたとされた棚だけど……荒らされた形跡がほとんどなかったのよね。棚の中を熟知した人間でなかったら、見知らぬ診療所の中で、迷うことなく目的の薬を見つけ出すなんて不可能よ」
徐々に追い詰めるような口調になって、皐月は自分の考えを告げてゆく。先程から何も言わない杏子だったが、その唇が微かに震えているのを皐月は見逃さなかった。
「後は……そうね、強いて挙げるなら、カーテンが閉まっていたことかしら? 侵入するときにはカーテン越しに窓ガラスを割ったとして……帰るとき、ご丁寧に窓やらカーテンやらを閉じてゆくのは不自然だわ。もし、それが本当なら、随分と親切な泥棒もいたものね」
ざっと挙げただけでも、これだけ不審な点がある。初め、現場を訪れた際、杏子は粘着テープで手足を縛られていた。が、縄とは違いテープなら、上手くやれば自分で自分を縛ることも可能だ。それらも含め、あの窃盗事件が自作自演だったこと。そして、盗まれた薬品のせいで葬儀屋が亡くなったことを考慮すれば、おのずと事件の真相は見えてくる。
呪いを仕掛けていたのは、狄塚杏子だ。これは、揺らぎようのない事実である。彼女は実の妹の復讐として、虐めの首謀者達を一人ずつ呪い殺していった。一度にまとめて呪い殺さなかったのは、恐らくは呪詛の力が拡散するのを防ぐため。一つの呪いで殺せる相手は一人。あまり知られてはいないが、これも呪殺を行う際の常識だ。
芽衣子を襲い、棺桶の中に入れて火葬しようとしたのは、恐らく悪虫で間違いないだろう。杏子がどうやって悪虫と通じるようになったのかは不明だが、彼女は己の呪いを邪魔する者を始末するため、あらかじめ保険をかけていた。自らの手を汚さず、かつ確実に邪魔者を始末するため。そのために、悪虫を影で動かしていたのだろう。
そんな悪虫を殺したのは、単に口封じという可能性が高かった。仮に芽衣子を火葬に処せたとしても、いずれは殺害が発覚する。その際に、悪虫が何かの拍子で妙なことを口走らないよう、用済みの彼を毒殺した。
毒殺に用いたのは、診療所から杏子が持ち出した薬だろう。その後、彼女は自分のアリバイ工作を含め、自ら診療所に族が侵入した演出を施した。これにより、彼女は今回の事件から、完全に容疑者として外れることになる。それこそ、悪虫や芽衣子の殺害からも、そして呪いを仕掛けた人間としても。
自らの推理を淡々と語る皐月の前に、さすがの杏子も少しは観念したようだった。ふっ、と軽い溜息を吐いて肩の力を抜くと、苦笑しながら口を開いた。
「まったく、お見事な推理だわ。状況証拠しかないけど……さすがに、この現場を抑えられたら、言い逃れはできそうにないわね」
その手に握り締めた黒いこけしと、柱に縛りつけられている純也。その二つを互いに見比べながら、杏子は呟いた。
「あなたに誉められても嬉しくないわね。それよりも……最後に、一つだけ教えなさい」
「何かしら? この期に及んで、私に訊きたいことでもあるの?」
「ええ。私が知りたいのは、あなたと妹さんの関係よ。黒子消の呪いを仕掛けられるのは、子を失った母親だけ。葬儀屋を毒殺せざるを得なかったのは、呪いの効果が女性にしか及ばないものだったから……。そうよね?」
「ええ、その通り。そこまで知っているなら、他に何を知りたいと……」
「ごまかさないで! あなたは、真理さんの本当のお姉さんじゃないわ。確かに、真理さんはあなたの身内だったかもしれないけど……その関係は、姉と妹なんかじゃない。違うかしら?」
皐月の言葉に、今まで力を抜いていた杏子の顔に、再び緊張が走った。その態度が何を意味するものなのか。芽衣子や菜穂、それに純也にはわからずとも、皐月は直感的に気づいていた。
「そう……。私は、あの子の……真理の姉なんかじゃないわ……。あの子は……真理は……私の娘よ」
衝撃的だった。その場にいた全員が、皐月を除き、何も言えずに息を飲んでいた。
狄塚杏子と狄塚真理。二人の関係は、姉妹ではなく母と娘。確かに、そうでなくては黒子消の呪いは成立しない。禍妻様の力を手に入れる条件。子を失った母親という条件は満たさない。
だが、それでもあまりに衝撃的な事実に、皐月以外の人間は、口を閉じたままだった。そんな中、杏子はうっすらとした笑みを浮かべ、か細く消え入るような声で語り出した。彼女がなぜ、偽りの立場で真理を育ててきたのか。その、呪われた運命に弄ばれた、一人の少女の生い立ちを。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
狄塚杏子が初めて男の身体を知ったのは、彼女が十二歳のときだった。
当時の杏子は、どこにでもいる普通の小学生だった。家庭は決して裕福ではなかったが、彼女自身は、それを不幸だとは思わなかった。優しい母親の愛情に包まれて、控え目で慎ましい生活を送っていた。
だが、父親だけは別だった。彼女の父は酷い酒乱で、おまけに酔うと杏子の母に暴力を振るう癖があった。しかし、気の弱い母はなかなか離婚にも踏み込めず、ただ暴力に耐える日々を送っていた。もしかすると、杏子のことを考えて、シングルマザーになることを恐れていたのかもしれない。
そんな父親は、当然のことながら杏子にとっても冷たかった。彼女が幼い頃は、まるで虫けらのように彼女のことを邪険に扱った。休日は昼間から酒を煽るか、パチンコをするかしか能の無い父親。おまけにパチンコで負けが重なると、容赦なく杏子に八つ当たりをした。
やがて、彼女にとって忌むべき存在である父親は、杏子が成長するにつれていよいよ本性を現し始めた。杏子が幼い女の子から、一人の少女へと成長してゆく中で、父は彼女のことを女として意識し始めたのだ。
あれは、忘れもしない夏の日のこと。杏子の父は母親の外出している隙を狙って、酒に酔った勢いで杏子に乱暴を働いた。そればかりでなく、そのまま欲望の命じるままに、杏子のことを何度も犯した。実の娘であり、血の繋がりのある彼女のことを。
程なくして、この一件は杏子の母の耳にも入ることとなった。が、非力な母親では杏子のことを守りきれず、彼女はそれ以来、何度も父親に犯された。そうして、彼女が中学校に上がったばかりの頃……彼女の妊娠が発覚した。
自分の腹にいる子の父親が誰なのか。それは杏子だけでなく、彼女の父も母も知っていた。父は降ろせと口にしたが、そんな金はどこにもなかった。杏子自身、このまま自殺を考えたこともあったが、その度に腹の子のことを考えて思い留まった。
どんな形であれ、今、自分の胎内には新しい命が宿っている。それを簡単に壊してしまうなど、どうしてできようか。例え、忌まわしき行為の結果に作られた子であったとしても、一つの命に変わりはない。増してや、自分の血を半分わけた子のことを、どうして殺すことができようか。
悩みに悩み抜いた末、彼女は自らの子を産むことにした。当然、対外的には自分の子だと明かすわけにはいかなくなる。だから、自宅でこっそりと出産した上で、歳の離れた姉という立場で接することにした。母親としての感情を押し殺しつつも、自らの娘である真理のことを、影ながら見守るという姿勢を貫いて。
それから程なくして、父は酒の飲み過ぎで亡くなってしまった。杏子は高校へは進学せずに、そのまま働く道を選んだ。そして、母が亡くなったことをきっかけに、この神凪村にいる親類を頼ってやって来たのだった。何も知らず、杏子の妹だと信じて育った娘、真理と共に。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
煌々と輝く裸電球の明かりの下で、杏子が重たい口調で語っていた。皐月も芽衣子も、そして純也や菜穂も、じっと口を閉じたまま耳を傾けていた。
杏子は真理の母親だ。だからこそ、黒子消の呪いを執り行うことも可能だった。どれだけ周りの人間に対して事実を隠していたとしても、呪詛神としての禍妻様は、杏子の全てを見抜いていた。
だが、それにしても、まったく何ということだろう。実の娘を犯して孕ませた父親と、そんな男の血を引きつつも、何も知らないままに育ってきた娘とは。自分の本当の母親のことを、真理はあくまで姉と思って接していた。己の中に流れる忌まわしき血。それを知らずに、あくまで普通の少女として、この神凪村で暮らしていた。
正に、現代の禍妻と忌子だ。そう、皐月は心の中で呟いた。
杏子と真理。二人には何の罪もない。が、その歪んだ運命は、最後まで彼女達を縛り続けたのだろう。そして、だからこそ、揖斐呼神社の禍妻様も、杏子に力を与えることを惜しまなかった。呪詛神として、彼女の願いを聞き届けたのは、二人の背負っている運命を垣間見たからなのかもしれない。
「私はね……真理にだけは、幸せになって欲しかったのよ。確かにあの子は、忌まわしい男の血を引いた子だわ。半分は……いえ、私の中に流れているものも考えれば、その四分の三は、あの男の血を引いていると言っても間違いではないわ……」
ぽつり、ぽつりと呟くように、杏子は自分の想いの丈を吐露していた。芽衣子や菜穂、それに純也は茫然と耳を傾けるだけだったが、皐月だけはしなかった。
杏子はまだ、全てを諦めたわけではない。彼女の瞳に、だんだんと力が戻りつつあること。皐月はそれに、気がついていた。
「でもね……それでも……やっぱり、あの子は私の子よ……。母親として……自分の子に幸せになって欲しいって思うのは……当然のことじゃない?」
いつしか、その瞳に宿る光さえ消し、杏子はゆっくりと顔を上げる。その瞳に映っているのは、皐月や芽衣子、それに純也の姿ではない。部屋の奥で事の成り行きを見守っていた少女、柳原菜穂に向けられていた。
「だから……これで、終わりにしてあげるわ。予定とは少し違ったラストだけど……結果が同じなら、細かいことはどうでもいいもの……」
そう言って、杏子は手にしたこけしを握り締め、大きく息を吸い込んだ。そのこけしから溢れ出るどす黒い気が、杏子の中に徐々に吸収されてゆく。一般の人間の目には映ることのない光景だったが、皐月と芽衣子には見えていた。
「さあ、最後の仕上げよ……。私の子の……真理の幸せを奪った女……。お前を殺せば、全ては終わる!!」
こけしを片手に握ったまま、憤怒の形相になって菜穂を睨む杏子。揖斐呼神社から盗み出されたこけしは、合わせて四体。では、杏子の計画では、最初から菜穂を呪詛の対象としていたということか。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ! なんで、菜穂さんが殺されなくちゃならないんですかぁ!? 真理さんを虐めていたのは……菜穂さんとは別の、三人の女の子だったんでしょう!?」
話の流れについてゆけず、芽衣子が何やら取り乱した様子で叫ぶ。そんな彼女を鼻で笑い、杏子は小机の上にあったノートを放って見せた。
床の埃が舞い、芽衣子は慌ててノートを拾う。中を広げてみると、そこにあったのは一面の、文字、文字、文字。どうやら真理の手によって書かれたもののようで、そこには彼女の虐められた際の記録が、克明に名前入りでつづられていた。
自分がいつ、どこで何をされたのか。その相手は誰で、自分は何を思ったか。それらのことが書きつづられた中から、芽衣子は目敏く菜穂の名前を見つけ出した。
「えっ……これって……」
そこから先は、何も言えなかった。柳原菜穂は、真理が親友だと信じていた少女は、鈴倭沙杜子に通じていたこと。彼女は親友のふりをして、沙杜子に真理の様々な情報を――――それこそ、彼女が純也と秘密裏に交際していることまで――――流していたと書き記してあった。
「ほら、これでわかったでしょう。あそこにいる女は……私の真理に近づいて、悪戯に運命を弄んだ詐欺師よ。他の三人と同様に、あいつには死による贖罪が相応しいわ……」
自分の中に、こけしから溢れ出た全ての闇を取り込んで、杏子のからだがゆらりと揺れた。部屋の湿度が急激に増し、鳥肌の立つような感覚が皐月や芽衣子を襲う。
(来るわね……)
狄塚杏子は、菜穂の殺害を諦めたわけではない。いや、それ以前に、呪いの成就も決して諦めてはいない。彼女が最後に、こちらに全てを語ったこと。それは即ち、この場から生きては帰さぬという意思の裏返し。呪詛を暴いた者を殺せば、呪詛返しは起こらない。それを知っているからこそ、杏子は皐月達を逃がしはしないはず。
冥途の土産として、事件の真相を洗いざらい喋る。安っぽい展開に苦笑しそうになる皐月だったが、杏子の瞳は真剣だった。
次の瞬間、咆哮と共に杏子の髪の毛が一瞬にして伸びた。艶やかな黒髪は瞬く間に色の抜けた白髪となり、二本の角が額の皮膚を貫いて姿を現す。両手の爪は鋭く伸び、口からは牙を生やし、瞳孔は赤銅色の輝きを持って細く割れる。
――――禍妻様だ。
直感的に、皐月は頭の中で理解した。こけしの中に宿る怨念。それを自らの中に吸収したことで、狄塚杏子は真の意味で禍妻様になったのだ。
以前、皐月は同じように呪いを扱った事件に関わり、その際にも鬼と化した人物と相対したことがあった。が、あの時のそれが呪詛返しによる力の暴走だったのに対し、今の杏子は明らかに呪詛の力を己の制御下に置いている。呪詛返しではなく、あくまで呪詛の一環として、自立した鬼として行動しようとしているのが見て取れた。
腰まで伸びた白髪を振り乱し、刃のような爪先を光らせ、杏子は雄叫びを上げて襲いかかってきた。狙いは菜穂だけでなく、ここにいる全員。この場にいる全ての者の命を狩らんと、赤い瞳に邪悪な光を滾らせて。
もう、これ以上は黙っているのも限界だった。フーチも、そして霊害封じを施したこけしも放り捨て、皐月はそっと呼吸を整える。直ぐそこまで悪鬼の爪が迫っているというのに、彼女は驚くほどに冷静だった。
全身を伝う気の流れ。それを頭部に集中させ、力の限り皐月は念じた。その瞬間、彼女の髪の毛が別の生き物のようにしなり、まるで意思を持っているかのようにして悪鬼へと絡みつく。
「えっ……! な、なんですかぁ、あれ!?」
茫然と立ち尽くしたまま、芽衣子が驚愕の声を上げていた。皐月の髪――――旅館で芽衣子が施した付け毛である――――が、無数の蛇のようにして杏子に襲いかかっていたのだから。
あの付け毛は、単なるアクセサリーの類などでは決してなかった。呪髪。人の怨念を宿した髪は、それがそのまま意思を持った一つの生命体と化す。ならば、それを応用し、自らの念で髪の毛を退魔具の一種に加工すること。それもまた、不可能なことではない。
念を送る前とは比べ物にならない強靭さで、皐月の髪は杏子の動きを封じていた。が、それでも、やはり間に合わせの呪髪では力が劣るのだろうか。早くも各所から黒い煙が立ち昇り、その限界が間もないことを告げている。
もう、これ以上は抑えきれない。奥歯を噛み締めながら、皐月は最後の力で杏子の腕を蹴り上げた。こけしが手から離れ、ごろごろと床を転がってゆく。それが芽衣子の足先まで来たとき、皐月は無言のまま目配せした。
――――こけしを壊せ。
言葉にはしなかったが、確かに芽衣子には伝わっていた。別に、テレパシーなど使ったわけではない。霊能者の力に関係なく、皐月と芽衣子の間には、一種の無言の信頼のようなものがある。なんだかんだと言っていても、ここぞという時、お互いを信じる気持ちに変わりはない。
皐月にもらった護符とナイフ。その二つを取り出して、芽衣子は迷うことなくナイフで護符を貫いた。銀のナイフは、霊的な波動を伝える武器。その刀身に、護符の力を乗せるため。
足下のこけしを拾い上げ、芽衣子はその首を外して中身を出す。中から出て来たのは一枚の写真。そこに写っていたのは、紛れもない菜穂だ。
やはり、杏子の言っていたことは本当だったのか。菜穂は沙杜子に内通し、密かに真理の情報を与えて煽っていたのか。
そんなことは、今の芽衣子にとってはどうでもよかった。仮にそれが本当だとしても、菜穂を糾弾するのは後回しだ。今はまず、悪鬼と化した杏子を止めねば先はない。
こけしの首があった場所。そこにぽっかりと空いた穴の中へと、芽衣子はナイフを突き立てた。呪いの道具と化したこけしに、銀製のナイフを通して護符の力が伝わってゆく。頭の代わりに退魔の道具を突き立てられ、魔を滅する力がこけしの内部を蹂躙する。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
突然、杏子がガラスを引っ掻いたような叫び声を上げ、そのまま大きく膝をついた。無理もない。こけしに秘められし呪いの力。それを取り込み鬼と化した今、彼女の魂は呪具のこけしとも繋がっている。こけしを通して退魔の力を注ぎ込まれれば、それは即ち、彼女の中にあるどす黒い闇を、直接焼き払うことになる。
己の身を、魂を焼かれ、杏子は全身を震えさせながら前のめりに崩れ落ちた。それと同時に、皐月の頭からも呪髪が音を立てて抜け落ちる。抜け落ちた髪は、そのまま青白い炎を上げて、跡形もなく消え去った。
「やれやれ……。さすがに間に合わせの紛い物じゃあ、これが限界か。まあ、それでも、我ながらよく持った方だとは思うけど……」
ほっ、と深い溜息を吐いて、皐月がよろよろと壁にもたれかかった。思った以上に消耗が激しい。今回はなんとか期待通りの性能を発揮してくれたが、武器としては、いささか諸々の消耗が激し過ぎる。
本格的に髪の毛を使った退魔具を作るのであれば、まだまだ改良が必要だ。そんなことを考えながら、皐月は改めて杏子へと目をやった。
伸び放題に伸びた白髪は、既に元の黒い艶のある髪へと戻っていた。角も爪も、そしてここからでは見えないが、口から伸びた牙も失って、杏子はただの人間に戻っていた。
だが、それでも、皐月は警戒を緩めることなく杏子から目を離すことをしなかった。呪いが破られたということは、それは即ち、術者が呪詛返しを受けることを意味している。人を呪わば穴二つ。呪いという禁断の儀式に手を染めた時点で、遅かれ早かれ、術者の魂は地獄の釜へと招待される運命にある。
果たして、そんな皐月の予想した通り、やがて杏子の身体から黒い煙が立ち昇り始めた。肉の焦げる臭いに鼻をつまむが、それでも我慢できるものではない。人の身体が焼ける際に出す独特の臭い。それらが鼻腔を刺激して、皐月は思わず顔をしかめた。
人の身を内部から切り裂き、焼き尽くす。それが黒子消の呪いならば、その反動もまた似たようなものとなる。全身から黒い煙を立ち昇らせたまま、杏子は指先一つ動かさない。いつしか、その肌さえも黒く染まり、気づいた頃には完全に炭化してしまっていた。
「ふぅ……。これで、全部終わったということですか? まあ、何はともあれ、助かってよかったです」
先程まで何も言わなかった菜穂が、前髪をかき上げる仕草と共に言った。その口調に、怯えのようなものは既にない。皐月と芽衣子に初めて会ったときのものと同じ、年齢に不相応な落ちつきを持ったものに変わっていた。
「全て終わった、ね……。よく言うわ。元はと言えば、あなたがその真理って子を死に追いやったんじゃないの? まったく……可愛い顔して、とんだ狸だこと」
物言わぬ塊となった杏子を横目に、皐月が菜穂を睨みつけた。確かに、杏子の犯した罪は許し難い。どんな理由があれ、人を三人も殺した罪は変わらない。が、それ以上に、皐月は菜穂のしたことが許せない。
もし、杏子の言っていたことが本当だったならば、菜穂は真理を裏切ったのだ。いや、最初から裏切るつもりで、利用していただけなのかもしれない。温厚で真面目な生徒会長を思わせる風貌とは裏腹に、皐月はその中に潜む確かな闇を見た。
「なるほど、狸ですか。なら、私をどうするつもりですか? そこに転がっている黒焦げの女みたいに……私のことを、呪い殺すとでも?」
「そんなことはしないわ。ただ……ちょっと、こうするだけよ!!」
芽衣子に純也の縄を解くように指示を出し、皐月はつかつかと菜穂の前に歩み出た。そして、菜穂が何かを口にする前に、その頬に力の限りの平手を食らわせた。
乾いた音が、地下室に響く。倒れた菜穂が皐月を睨むが、皐月はまったく動じなかった。
「あなたのしたことは、友達への裏切りよ! それが周りに知られたってのに、よくもしゃあしゃあとしていられるわね!」
「友達? 言っておきますけど、私は別に、真理のことを友達だなんて思っていませんから。まあ、それは鈴倭さんも同じことですけど……」
スカートに付いた埃を払い、菜穂は何事もなかったかのように立ち上がる。いったい、彼女は何を考えているのか。ある意味では杏子以上に、菜穂の中にある闇は深いのかもしれない。
「私が真理と鈴倭さんに近づいたのは……まあ、暇潰しみたいなものですね。こんな田舎臭い村だと、さして楽しみにできることもないんで……。退屈な学園生活に、ちょっとした刺激を与えてあげようとした。それだけです」
「刺激、ですって……。だったら、あなたはそれだけのために……そんな下らないことのために、真理ちゃんを死なせたって言うの!?」
「勘違いしないでください。真理が死んだのは、あくまで事故です。鈴倭さん達が、真理を呼び出した際に、ちょっと揉めたらしいんですよね。そのときに、たまたま校舎裏の石に頭をぶつけたようで……彼女が死んだのは、それが原因ですから。殺したって言うなら、鈴倭さん達の方が正しいんじゃないですか?」
淡々とした口調で、菜穂は何ら悪びれずに言ってのけた。自分はあくまで演出家であり、傍観者だ。その選択をしたのは、他の人間。真理の死にも、沙杜子達の死にも責任はない。そう、考えているようだった。
「ふざけるな! そこまで知っているってことは……どうして君は、本当のことを言わなかったんだ!」
芽衣子に縄を解かれると同時に、純也が立ち上がって菜穂に叫んだ。が、それでも菜穂は動ずることなく、純也のことを鼻で笑い飛ばす。
「本当のこと、ね……。でも、それを言う資格、あなたにありますか? あなたが真理と交際していたことも、私は知っているんですよ。そして、交際の事実を周囲には隠していたことも……。そうですよね、東雲さん?」
勝ち誇ったような表情で、菜穂は純也の言葉を遮って言った。確かに、純也は真理との交際を秘密にしていた。別に、不純な動機から交際を始めたわけではない。が、片や相手は女子高生、自分は大人の男性だ。少年野球チームの監督という立場を考えると、大っぴらに交際の事実を公開できなかったのは認めざるを得ない。
「酷いですぅ! 菜穂さん……どうして、そんなに冷たいことが言えるんですかぁ!? 真理さんは……真理さんは最後まで、菜穂さんのことをお友達だと思っていたのに!!」
その胸に真理のノートを抱き、今度は芽衣子が叫んだ。相変わらず菜穂は不敵に笑うだけだったが、芽衣子もまた譲らなかった。
真理のノートに触れた時、芽衣子はそこに書かれていた文字だけでなく、真理の想いにも触れることができた。彼女がなぜ、何を考えて、このノートにある文面を書き記したのか。物に残された強い残留思念を読み取れる芽衣子には、一瞬にしてその全てが頭に入っていた。
――――私が私でなくなるのが怖い。
真理のノートに、最後に綴られていた一文である。それを目にしたとき、芽衣子もまた真理の想いを確信した。
真理は、全てを知っていたのだ。いや、途中から知ったというべきか。その絶望と悲しみは、彼女をどれだけ深く傷つけたことだろう。だが、それでも真理は最後まで、菜穂を責めるようなことはしなかった。
ただ、友達を恨んでしまう自分が怖い。人を恨まずにはいられない自分が恐ろしい。その現実に押し潰されそうになりながら、真理はノートに虐めの事実を書き記すことで、なんとか自分を保っていたのだろう。自分の醜い一面を、母親や純也、そして菜穂に知られないようにするために。自分の中の闇を吐き出して、その心が押し潰されないようにするために。
芽衣子はそのことを菜穂に告げたが、相変わらず菜穂は顔色一つ変えなかった。だからどうした。これは所詮、退屈凌ぎの遊びに過ぎない。無言のまま芽衣子を見つめる瞳は、そう告げているようにしか思えない。
「菜穂ちゃん……。いえ、柳沢菜穂! あなたのしたことは、決して許されない行為だというのに違いはないわ。今は誰の手で裁かれることがなくっても、この宿業は、巡り巡ってあなたを滅ぼすわよ」
「へぇ、今度は予言ですか? さすがは霊能者ってとこですね。そうすると……今度は真理や、そこで死んでいる女の霊が、私を殺しにでも来るんですか?」
「そうかもしれないわね。因果応報って言って……己の働いた心無い行いは、必ず自分に返って来るものよ。それを忘れたとき、あなたに本当の破滅が訪れるわ。それは、誰にも止めることができない。あなた自身が播いた種よ」
「最後の最後で、下らない脅しですね。確かに、あなた方の力は本物なのかもしれませんが……私だって、迷信と現実の区別くらいはつくつもりですよ」
皐月に糾弾されてもなお、菜穂はさらりと流すようにして言い放った。皐月はそれに答えない。もう、何も話すことはないとばかりに、深い溜息を吐いて階段へと目を向けた。
「行くわよ、芽衣子。もう、この場所に用はないわ」
それだけ言って、皐月は一足先に地下室を後にした。
黒子消。人の心の闇が生み出した呪詛神の力を借りて、己が憎いと思った女性だけを殺す禁断の儀式。しかし、それ以上に恐ろしいのは、やはり菜穂のような者の考え方そのものだ。
この村は、人の悪意によって包囲されている。虐めの首謀者、鈴倭沙杜子。暇つぶしのためだけに、友人を破滅に導いた柳沢菜穂。葬儀屋という立場を利用して、平然と生きた人間を火葬に処そうとした悪虫。そして、呪われし血の宿命に支配され、ついにそこから脱することのできなかった狄塚杏子と狄塚真理。
事件は終わった。しかし、皐月の中に残されたのは、敗北にも近い深い虚無感。人が心に抱く様々な闇。その深さとおぞましさを、改めて見せつけられただけだった。
完全に言葉を失ったまま、皐月は家の外に出た。空には美しい満月が浮かんでいたが、今の皐月にはその光でさえも、人の心を惑わす妖しげな輝きに見えて仕方がない。
「あの……お姉様……?」
皐月に追いついた芽衣子が、後ろから遠慮がちに声をかけた。その瞳には、皐月とはまた別の、深い悲しみが刻まれている。
「あの人達……あのままにしておいて、よかったんですかぁ? 私達にできること、ないんでしょうか……」
「仕方ないわ、それは。私達は別に、探偵でも警察でもない。呪いを打ち破ることを生業とする霊能力者。それだけよ」
芽衣子の問いに、皐月は半ば切り捨てるような口調で答えた。
自分達は、所詮は行きずりの退魔具師だ。呪いを打ち破り、魔の力を滅することはできても、人の心の闇までは祓えない。そして、己の行いが呼び寄せる、宿業という名の定めを覆すことも。
これから先、柳原菜穂には因果の裁きが下されるであろう。狄塚杏子の肉体は滅びたが、その魂まで滅びたわけではない。禍妻様の力を得た彼女の怨念は、必ずや菜穂の前に現れるはずだ。
そのときに、果たして自分はどうするべきか。そして、それはいつなのか。残念ながら、答えは皐月にもわからなかった。ただ、人の心に巣食う闇の深さ、人間の持つ業の深さを改めて感じながら、静かにその場を立ち去った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――――10年後。
あれから、いくつもの季節が過ぎ去った。
黒子消の事件が終わっても、神凪村は何ら変わる様子を見せなかった。一連の連続変死事件を、警察は狄塚杏子の犯行と判断。呪いではなく毒殺という見解であり、最後は追い詰められた彼女が、自ら焼身自殺したと発表していた。
そんな中、菜穂は全てが終わったことに、安堵よりも喪失感の方が大きかった。これでまた、自分は再び退屈な日常に取り込まれてゆく。我慢のならなくなった彼女は、高校卒業後に村を出た。そして、程なくして職場で知り合った男性と交際するようになり、やがては婚約も考えるまでの関係になっていた。
今、菜穂は産婦人科で、自分の中に宿った新しい命が誕生する瞬間にあった。予定よりも早い出産だったが、それでも菜穂に不安はなかった。院長は太鼓判を押してくれたし、この程度の早産ならば、保育器を使えば問題ない。そう、告げられていたからだ。
看護師の声に導かれるままに、菜穂は激痛に耐えて子を産んだ。産みの苦しみ。母親になるための通過儀礼を終え、彼女は全身から力が急速に抜けるのを感じていた。
自分は今、大きな仕事を一つやり遂げた。生まれた子どもは、果たしてどんな顔をしているだろうか。自分か、それとも父親になった男に似ているのか。早くも確かめたい衝動に駆られ始めたが、そんな彼女が身体を起こそうとするよりも先に、看護師の甲高い悲鳴が響き渡った。
いったい、何が起きたのか、菜穂には直ぐにわからなかった。子どもの産声よりも先に看護師の悲鳴が聞こえ、担当医もまた口を閉ざしたまま動けないでいる。
菜穂の中から生まれ出た者。それは実に奇怪な姿をした、一体の未完成児だった。
頭蓋骨は二つに避けて脳膜が剥き出しとなり、両手と両足の指はなく丸まっている。背骨も曲がり、尾骨まで生やし、耳はエラ状のひだがあるだけだ。口は割れ、鼻は潰れ、眼球を含んだ顔の半分は溶けてなくなっている。妊娠数カ月後の胎児の姿のまま、この世に生を受けた生き物がそこにいた。
いったい、何故こんな子どもが産まれてしまったのか。最新鋭の機器を用い、何度も検査をしたというのに。何故、こうなるまで誰も気がつくことがなかったのか。
驚愕の表情で言葉を失う医師と看護師を他所に、菜穂はゆっくりと目を開けた。自分の上に、誰かいる。誰かが自分を見下ろしている。そんな気配を感じたのだ。
次の瞬間、周りにいる医師や看護師と同様に、彼女もまた言葉を失った。分娩室の天井に貼り付くようにして、菜穂をじっと見降ろしていた者。それは紛れもない、白髪の鬼女だったのだから。
「おめでとう……禍妻さん……」
鬼女が、ふっと笑って呟いた。白髪の髪が垂れ、鼻先にそれが触れたとき、菜穂は目の前にいるのが誰なのかを無意識の内に悟っていた。
「あ……あぁ……」
それ以上は、何も声が出せなかった。ただ、鬼女の声だけが、菜穂の頭の中で繰り返し響いている。
「おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……禍妻さん……。おめでとう……」
永遠に続く呪いの祝辞に、菜穂はだんだんと自分の心が崩壊して行くのを感じていた。
禍妻……。その、忌むべき称号を受け継ぐ者が、今度は自分自身になったこと。全てを理解したときには時既に遅し。心の堤防が音を立てて崩れ落ちるのを感じながら、菜穂の意識は深い闇の中へと落ち込んで行った。