~ 四ノ刻 黒呪 ~
翌日、皐月が民宿で目覚めたとき、外はまだ雨が降り続いていた。
「まったく、嫌になっちゃうわね。こんな調子じゃ、いつになったら土砂崩れで封鎖された道が元通りになることやら……」
うんざりした様子で空をにらみつつ、皐月が溜息と同時にこぼす。先日の豪雨で起きた土砂崩れで、街までの道は封鎖されたまま。この雨では道の復旧作業もままならないだろうし、それ以前に、昨日の朝に起きた変死事件のこともある。ここまで村がドタバタしていては、下手をすると数日は村に閉じ込められてしまうかもしれない。
唯一の救いといえば、民宿の主人が宿賃を良心的な値段にしてくれたことだろうか。こちらの事情を理解してくれたのは、皐月としては嬉しいところだ。もっとも、芽衣子と相部屋であることは、あまり好ましい状況ではなかったが。
「ふわぁ……。おはようございますぅ、お姉様ぁ……」
眠たい目を擦りながら、芽衣子がぼんやりとした表情で呟いた。が、次の瞬間、直ぐに足下の縄に引っ掛かり、豪快な音を立てて転倒した。
「いった~い!!」
ぶつけた鼻を抑え、芽衣子が目に涙を浮かべて起き上がる。彼女の足に絡みついたのは、鳴子のついた頑丈なロープ。皐月が寝ていたであろう布団の周囲に、まるで囲いのようにして仕掛けられていた。
「うぅ、酷いですぅ……。ここに初めて泊まった日の夜もそうだったけど……これ、何の意味があるんですかぁ、お姉様ぁ……」
足に絡んだ鳴子を外し、芽衣子が半ベソをかきながら皐月に訊ねた。
「何って……そんなの、決まってるじゃないの。私が寝ている間に、あなたが何か変なことしないって保証はないからね。下手に近づいたら直ぐに飛び起きられるよう、トラップを仕掛けておいただけよ」
「そ、そんなぁ……」
ぶつけた鼻の痛みとは別に、芽衣子は再び泣きそうになっていた。もっとも、今までの彼女の行いを考えれば、これでも足りないくらいである。不満があるなら、まずは自分のしてきたことを反省しろ。そう言ってやりたいところだったが、皐月はなんとか喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
何やら外が騒がしい。窓辺から外の様子を窺うと、昨日と同じように村の者達が慌ててどこかへ向かっているのが見える。いったい、こんな雨の日に何事だろうか。思い当たる節はあるのだが、皐月はそれを告げないままに、近くにあった上着を羽織って駆け出した。
「行くわよ、芽衣子! さっさと着替えて仕度しなさい!!」
「えっ……? い、行くって、どこにですかぁ? それに、朝ご飯は……」
「そんなの後よ! 私の勘が正しければ……これはちょっと、厄介な事が起きているみたいね……」
服の襟下を正し、皐月は真剣な表情で芽衣子に告げた。
揖斐呼神社で米子から聞いた話では、盗まれたこけしは合わせて四体。その内の一体は黒焦げになり、呪詛の道具として用いられた。
こけしを盗んだ犯人が、残るこけしをどうするか。そんなことは、今さら口に出さなくともわかりきっていることだ。
退魔具の素材を手に入れるために訪れただけの場所だったが、どうやら自分はとんでもない事件に巻き込まれてしまったようだ。しかし、退魔具師として、そして何よりも向こう側の世界に通じる力を持った人間として、見過ごすわけにもいかないだろう。
我ながら、随分とお人好しな性格だと思う。皐月は苦笑しながら部屋を出ると、階下へと続く階段を小走りに駆け下りて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
診療所の休憩室で、鯨井は遅めの朝食を摂りながら溜息を吐いた。
今朝、また一人の少女が死んだ。いや、より正確に言うならば、昨日の内に死んでいたというべきか。両親が発見した時には既に遅く、少女は電話の前で完全に絶命していたという。
「まったく……。いったい、何が起きているのだろうか……」
誰に告げることもなく、鯨井はそう呟いた。念のため、少女の解剖を行ったところ、死因は美弥と同じ物だった。あの、子宮を内部から焼かれ、更には切り裂かれるという謎の症状だ。
もしかすると、本当に何か危険な伝染病でも流行っているのではないか。ふと、そんな考えが頭をよぎったが、鯨井は直ぐに首を横に振って否定した。
これが伝染病ならば、もっと多くの患者が出ていてもおかしくないはずだ。今はまだ潜伏期間だったとしても、初期症状程度なら現れていなければおかしい。それこそ、腹部の痛みや発熱など、風邪に似た症状の患者が増えてくるのが普通である。
両親の話では、亡くなった少女、風森月子は、その日も普通に学校へ行っていたという。特に身体の調子が悪いわけでもなく、無論、何か妙な物を口にした形跡もない。
世界的に有名な出血性の伝染病でさえ、患者が亡くなるのには潜伏期間を含めて一週間を要するという。その間、インフルエンザに似た症状が現れたり、口から激しく喀血したりすることがあるものの、それでも一夜にして亡くなることはない。だんだんと、それらの症状を発現させながら、徐々に命を削り取られるのが普通である。
美弥と月子の症状は、それらの感染症と比べてもあまりに急過ぎた。病気というよりは、どちらかといえば毒物中毒の類に近いのかもしれない。急性の中毒であるならば、彼女達が何の前触れもなく亡くなったことにも一応の説明はつく。
だが、それでも、子宮が内部から唐突に焼かれるという現象までは、さすがに説明することができなかった。内臓破裂や内出血なら話はわかるが、内臓が第三度火傷まで焼かれるとは異常の極みだ。ガスバーナーで直接炙りでもしない限り負わないような傷を、いったいどうすれば少女達の胎内に負わせることができるというのだろう。
「駄目ですね……。今の私では、わからないことだらけです……」
自分の無力さに打ちひしがれながら、鯨井はそっと箸を置いた。食欲は、完全に失せている。少女達の内臓に火傷を負わせる方法を考えては見たものの、極めて残酷な想像しか思い浮かばなかった。それこそ、医師である鯨井さえ辟易とさせるような、酷くおぞましい方法しか。
遅めの朝食を終わらせたところで、鯨井は再び診察室へと戻った。助手の杏子には、美弥と月子の解剖結果を整理するように言ってある。今はまだ駐在の安藤が事件を追っているだけだが、土砂崩れで封鎖された道が解放されれば、直ぐにでも街の警察が駆けつけるだろう。そうなるように、鯨井からも安藤に頼み込んでいた。
もし、二人の少女の死因が病死でないのだとすれば、これは何らかの事件に巻き込まれた可能性もある。素人の自分が判断することではないが、念のために警察にも動いてもらった方がいいはずだ。勝手な推測や思い込みで判断して、取り返しのつかない結果になることが一番怖い。
「お疲れ様、狄塚君。記録の方は、整理がついたかい?」
調度、仕事が一段落ついたのだろうか。診察室の扉を開けたところで、鯨井は杏子とはち合わせた。
「はい……。こちらです……」
相変わらずの、気のない返事。以前から大人しい女性だとは思っていたが、この半年の間に彼女は随分とやつれたと思う。
やはり、原因は妹の突然の死か。鯨井には、それ以外に考えられなかった。
妹の真理が亡くなってから、杏子は以前にも増して大人しく……いや、もはや寡黙と言っても差し支えないほどにまで無口な人間になってしまっていた。ただ、鯨井の命令で機械的に仕事をこなす。まるでロボットのように、感情のない無機的な姿が目立つようになった。
こんなとき、自分はどのようにして彼女に接すればよいのか。残念ながら、その答えを鯨井は知らない。時に杏子とは男女の関係を疑われることもあったが、誓っても彼女とはそんな関係ではない。もっとも、あくまで仕事のつき合い故に、今の彼女にとっては自分も他人同然なのだという認識だけは嫌というほど痛感していたが。
与えられた資料に目を通しながら、鯨井は一度、頭を横に振って雑念をかき消した。
止めよう。今は、考えていてもどうにもならない。それよりも、二人の少女の変死した原因。それを突き止めることの方が先決だ。
内臓を中から引き裂かれるという謎の症状。昨日と今日の解剖結果を思い出し、ふと鯨井の頭に、かつて映画で見たB級SFホラーの様子が浮かんできた。
宇宙生物に寄生された人間が、やがて腹を食い破られて死亡するというあまりに有名な話だ。あれはフィクションの話だったが、まさか、本当にあんな生物が存在し、今回の事件を引き起こしているのではあるまいか。
(馬鹿馬鹿しい……。いくらなんでも、非科学的だ)
映画と現実を混同しそうになる自分を叱咤しつつ、鯨井は大きな溜息をついて席を立った。昨日から、どうにも全てが行き詰っているような気がしてならない。医師として、時に救いようのない絶望に直面することは何度かあったが、ここまで八方塞がりな気持ちにさせられるのは久しぶりだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
沙杜子が月子の死を知ったのは、その日の朝のことだった。
学校の担任からは、月子は不慮の事故で亡くなったと聞かされていた。が、それが嘘だということくらい、沙杜子もとっくに気がついている。
月子の死んだ理由。それが美弥の死んだ原因と、何らかの関連性を持っていること。いったい何故、二人が死ななければならなかったのかまでは不明だが、こうも立て続けに人が死ねば、繋がりがない方がおかしくなる。
いや、本当は、自分は知っているのだ。美弥と月子の二人が、死ななければならなかった理由を。彼女達を殺したいと願っている存在がいることと、それが既にこの世の者ではないということ。そして、自分もまた、その存在の標的にされているということを。
無言のまま席を立ち上がり、沙杜子は逸る気持ちを抑えて廊下を駆けた。がら空きの教室を二つほど通り過ぎたところで、沙杜子は知り合いの姿を目にして立ち止まった。
「あら、柳原さん」
あくまで平静を装いつつ、沙杜子は同級生の柳原菜穂に声をかけた。声をかけられた菜穂は、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべるものの、直ぐに冷めた口調になって沙杜子に質問を投げ返した。
「なんですか、鈴倭さん? 私に、何か用ですか?」
この学校では、沙杜子に逆らう者などいない。それにも関わらず、菜穂は沙杜子を邪険に扱った。沙杜子も沙杜子で、普段ならば感情的になって怒鳴りそうになるところが、今日は何故だが不安と焦りの方が先立っていた。
「そんな言い方、ないじゃないの! あなただって、今、この村で何が起きているかくらいは、知っているんでしょう?」
「ええ、まあ……」
相変わらずの、冷たい態度。できることなら関わりたくない、そんな感じが菜穂の全身から見てとれる。が、沙杜子も沙杜子で、ここで引き下がるわけにはいかないのだろう。立ち去ろうとする菜穂の袖をつかんで、強引にその場に引き止めた。
「だったら、話は早いわよ! あんた、あの子とも仲が良かったのよね? あの子が死ぬ前、何か妙な物を残していなかったか……。そういうの、心当たりないの!?」
沙杜子の口から出た、『あの子』という言葉。それを聞いたとき、菜穂の動きが一瞬だけ止まった。名前を言われずとも、菜穂には沙杜子が誰を指して『あの子』と言っているのかがわかる。
「残念ですが、知りません。確かに、私はあの子と……真理とは仲が良かったですけど……。でも、真理が私に何かを残したなんてことは、絶対にありませんよ」
「本当に? それとも……まさか、あなたが真理の代わりに、美弥と月子に何かしたんじゃないでしょうね!?」
「馬鹿なこと言わないでください。海老沢さんも、風森さんも、事故で亡くなったんでしょう? それに、もしも私が生前の真理から何かを頼まれていたとしても、二人を殺せるはずもないですよ。そんな力、私にあるはずないですから……」
慌てる沙杜子と、あくまで冷静に切り返す菜穂。普段であれば、決して見ることのできない光景がそこにあった。それほどまでに、沙杜子は焦り、不安に押し潰されそうになっていた。
「ねえ、柳原さん。あなた、本当に何も知らないの……?」
「しつこいですよ。知らないものは、知らないです。それとも……まさか、真理の呪いだなんて言うつもりはないですよね?」
ばっさりと切り捨てるようにして、菜穂は沙杜子の言葉を否定した。なんだか馬鹿にされたような気がして、これには沙杜子も少々腹が立った。
「そりゃ、私だって、普段はこんなこと言わないわよ! でも……こうも立て続けに友達が死んだら、気味悪いと思うのだって当然でしょう?」
「友達……ですか。ふふ……友達、ねぇ?」
「な、なによ! 私、何か変なこと言った!?」
「別に。ただ、ちょっと不思議に思っただけです。鈴倭さんともあろう人が、まさか死んだ人の祟りにでも怯えているんですか?」
ほとんど挑発するように、菜穂は沙杜子の言葉を鼻で笑い飛ばした。ふざけるな。そう、沙杜子が言いかけたところで、菜穂は更に言葉を続けた。
「まあ、私は別に構いませんけど。それに、海老沢さんが亡くなった朝、彼女の家で澤村のところのお婆さんが騒いでいたって話も聞いてますし……」
「澤村のところのお婆さん? それって、あの米子婆さんのことよね? 確か、この村の外れにある、汚い神社を管理してるっていう……」
「ええ、そうです。あの人、迷信深いところがありますけど……それだけに、不気味ではありますね」
先程の嘲笑するような態度を改め、菜穂はとたんに普段の冷静な彼女に戻っていた。そのまま指先で眼鏡の位置を直すと、しばし腕を組んで考える。
「いいでしょう。今日の帰りに、私が揖斐呼神社まで行って、澤村のところのお婆さんに会ってきます。それで、何かわかることがあれば……鈴倭さんの不安も少しは解消されるかもしれませんよ?」
だから、一緒に来てはどうか。最後に菜穂はそう付け加えたが、沙杜子はうんざりした様子で首を横に振って答えた。
自分でも、馬鹿なことを考えていると思っている。真理は既に死んだのだ。しかも、彼女が亡くなってから既に半年ほど経っている。そんな彼女が、今さら自分に何ができるというのだろう。
オカルト好きな人間ならば、真っ先にこう口にしたことだろう。これは真理の呪いだ。だから、呪いを解くためにお祓いをしなければならないと。実際、美弥と月子の相次ぐ死を説明するには、そう言ってしまった方がどれだけ楽か。
だが、それを認めてしまうことは、即ち沙杜子自信が自らの嫌う田舎臭い人間になることを意味していた。噂好きで迷信深く、都会的なセンスの欠片もない。自分の目指したい方向とは、およそ真逆の人間性。そんな者に、徐々に自分が近づいていること。それが嫌でたまらなかった。
今、ここで自分が揖斐呼神社に向かったら、それは沙杜子自身にとっての敗北を意味するに等しい。自分は認めない。認めたくない。自分が田舎者になってゆくのも、真理の呪いで美弥と月子が亡くなったという話も。
「悪いけど、私はこの村の人達と違って、妙な迷信を信じないことにしてるの。だから、米子婆さんに会いたいなら、あなた一人で行ってよね」
自分の感情を押し殺し、沙杜子は菜穂に改めて告げた。強がりを言っていることは、沙杜子自身にもわかっている。片や真理の怨念のようなものが漂っていることを心配し、その一方で村の老人の話す迷信に耳を傾けないというのが、随分と無理のある話だということも。
だが、ここで認めてしまうわけにはいかない。それに、これ以上誰かに弱みを見せるのも、沙杜子のプライドが許さなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
曇天の空の下、揖斐呼神社へと続く石段を登る足がある。昨日に引き続き、皐月と芽衣子の二人は再びこの場所を訪れていた。
今朝、村で再び変死事件があったとの噂を聞き、色々と自分なりに調べてはみたのだ。が、それでもやはり、皐月は所詮部外者である。村の者がそう簡単に皐月達に何かを教えるようなことはなく、ともすれば妙な目で見られることもあったのは記憶に新しい。
唯一、聞き込みをして入手できた情報といえば、この村で半年ほど前に一人の少女が亡くなっていたことぐらいだろうか。だが、彼女の死因は事故により後頭部を打撲したというものであり、今回の騒ぎと直接の関係性は薄く感じられた。そう、死因に限って言えば、直接の関係性は……。
「ふぅ……。やっぱり、この石段は疲れますよぉ……。せめて、もうちょっとだけ低い場所に社を建てて欲しいですぅ……」
肩で息をしながら、芽衣子が情けない声で不平を口にしていた。確かに、この石段は決して楽な道ではない。が、この程度で息切れするのは、そちらの運動不足もあるのではないか。そう、皐月は言ってやりたかった。
「我慢しなさい。それとも、先に帰りたかったら帰ってもいいのよ?」
少しばかり意地悪そうな笑みを湛え、皐月は試すようにして芽衣子に告げる。その答えがノーであることを知っているから、あえて返事を待つことはしない。
再び石段を登りながら、皐月は半年前に亡くなった少女のことについて考えた。
揖斐呼神社の管理者である老婆、澤村米子は言っていた。黒子消の呪いをかけられるのは、子どもを失った母親のみ。では、その亡くなった少女の親が、呪いの主犯なのだろうか。そう考えるのが自然に思われたが、残念ながらそれは否定せざるを得なかった。
半年前に不慮の事故で亡くなった少女、狄塚真理。彼女の身内は歳の離れた姉だけで、親は既に二人とも他界しているという。元々は都会の出身らしかったが、親戚を頼って村を訪れ、静かに慎ましく暮らしていたのだとか。その親類も先んじて亡くなった今、真理に残されていた唯一の家族は姉の杏子だけである。
姉と母親。同じ女性であるものの、これは呪いの条件を満たすことはできない。呪いに限らず、儀式とはそれを執り行うための条件が等しく揃い、初めて成立するものだからだ。一つでも欠けてしまえば、それはもう儀式としての体を成さない物になる。特に、呪いの場合は呪詛の力の暴走が引き起こされる可能性もあるから恐ろしい。
正しい手順で儀式を行わなかった結果、全ての呪いが自分自身に降りかかる。呪い返しの一種であり、それ故に、下手に人など呪わない方が身のためなのだ。人を呪わば穴二つという言葉は、決して迷信の類などではない。
「はぁ……。ようやく上に到着しましたよぉ……」
呼吸を荒げたまま、芽衣子がその場に膝をついてへたり込んだ。
「でも、お姉様? どうして、またこの神社に来たんですかぁ? 昨日、お婆さんに説明してもらった話だけじゃ、何か足りなかったとか?」
見上げるようにして顔を上に向け、芽衣子はきょとんとした顔で皐月に訊ねた。皐月は「ちょっとね……」とだけ答えると、いつになく真剣な顔つきになって社へと目を向ける。
つんと鼻をつくような臭いに、皐月は微かに眉間に皺を寄せる。
これだ。御霊信仰の神社に独特の、なんとも言えぬ重たい空気。初めて来たときから感じてはいたが、米子の話を聞いた後ではより強い確信を抱いていた。
間違いない。この社に潜む存在、禍妻様の力は本物だ。霊的な何かを目で『見る』ことはできなかったが、『力』そのものの存在を、こうしてはっきりと感じ取ることができる。
村で相次ぐ少女達の変死。その理由が呪いであるならば、原因は間違いなく禍妻様だ。では、その禍妻様を倒せば全てが終わるのか。いや、事はそう簡単に話が運ぶ物ではない。
古びた田舎の神社に祀られているとはいえ、それでも神は神だ。その辺を漂っている悪霊とは違い、力の差は桁違い。その上、実体がどこにあるのかもわからない以上、こちらから仕掛けたくとも仕掛けようがない。
何から何まで、通常の霊魂とは規格外。それが、神霊と化した存在というものだ。以前、地図から消えた村で邪神に遭遇した際のことを思い出し、皐月は戦う以外の解決法を探さねばならない必然性を感じざるを得なかった。
「おや、どうしたね? また、禍妻様のことで何かを聞きに来たのかえ?」
突然声をかけられて、今までしゃがみこんでいた芽衣子が飛び上がった。皐月が声の方へと首を向けると、そこには箒を持った米子が立っていた。
「こんにちは、米子さん。実は、ちょっと村でまた騒ぎがあってね。道の復旧も進まないし、色々と気になることもあったから、個人的に調べてみようと思って……」
「ほう……。しかし、調べると言うても、既に答えは出ておるじゃろう。これは、禍妻様の力をお借りした黒子消の呪詛じゃよ」
「別に、私も呪詛の線を疑っているわけじゃないわ。ただ、事件の背後にあるのが呪いの力だったら、きっとそれを解くための方法も存在するはずよ。今日は、それを聞かせてもらいたくてね」
「ほう……。呪詛を解く方法とな」
皐月の言葉に、米子が意味深な笑みを浮かべて言った。薄暗い神社の敷地内で、その姿はどこか不気味に映る。昨日、二人にお守りを渡してくれた米子とは、まるで別人でもあるかのように。
湿った風が唐突に吹いて、森の梢をガサガサと揺らす。老婆の髪も風にたなびき、芽衣子が思わず皐月の後ろに隠れた。
「黒子消の呪いを解く方法なぞ、この世には存在せぬわ。そんな物があるならば、この揖斐呼神社を建てる必要とてなかろうて」
「でも……そもそも呪いは、祟りとは違って人が人に仕掛けるものよ。禍妻様が本気になって誰かを祟っているなら話は別でしょうけど……人が人を呪っている以上、そこに呪いを解く方法は必ず存在するはずよ」
「ふむ、やはりお主らはただの娘というわけではなさそうじゃの。まあ、そこまで知っているというなら、呪いを解く方法も既に知っておろうて」
皐月と芽衣子の二人から目を逸らし、米子はどこか遠くを見るような目つきになって顔を上げた。その視線の先にあるのは、灰色の雲に覆われた空。それらはまるで、何かの生き物の内臓の如く、醜く絡み合って蠢いている。
「呪いを終わりにしたければ、その道具を壊すか術者を見つけ出して呪いの事実を暴けばよい。ただし、道具を……こけしを壊すのは、当然ながら犠牲者が出る前でないといかんのう。それに、術者を見つけるにしても、単に見つけただけでは駄目じゃ。その顔をしっかりと拝まんと、呪いを破ることはできぬのよ」
「なるほど……。要は、丑の刻参りと同じってわけね」
米子の話に、皐月が独り納得したような顔をして頷いた。
呪いの方法は違えども、その破り方は丑の刻参りと同じ。要は呪った相手の顔を見てしまえばよいということなのだが、そう簡単な話ではない。
呪いの現場を抑えれば、その呪詛を阻むことは可能だろう。が、その代わり、今度はこちらが相手に命を狙われることになる。誰かに呪いを破られそうになったら、その相手を殺すことこそが、失敗しかけた呪いを成功させる唯一の方法なのだから。
やはり、一筋縄ではいかないか。黒子消の呪詛を仕掛けた相手は、恐らく呪いについてかなりの知識を持っている。元から術者としての才能があったのか、それとも自分で色々と調べ上げた挙句、呪詛を実行するに至ったのか。どちらにせよ、素人が中途半端な気持ちで呪詛を仕掛けているわけではないのは確かだ。
相手はプロか、もしくはそれに準ずる知識を持った者。心なしか、皐月の顔が少しだけ険しくなる。自然と意識が研ぎ澄まされ、辺りの気配にもまた敏感になる。そんな彼女が木陰に隠れている少女の姿に気づいたのは、必然というべきだったのだろうか。
「あら……? どうやら、先客がいたみたいね」
こちらに向けられた視線に気づき、皐月は普段の顔に戻って声をかけた。一瞬、木陰の少女は木の裏に隠れようとしたが、今さらである。仕方なくこちらに姿を現すと、やや俯きがちな姿勢で皐月に訊ねた。
「すいません。立ち聞きするつもりはなかったんですが……。あなた達も、呪いについて何か調べているのですか?」
大人しい、いかにも真面目そうな雰囲気を纏った少女だった。歳は、高校生くらいだろうか。生まれたままの色である黒髪を三つ編みのお下げにし、化粧をしているわけでもない。都会の女子高生には見られない、純朴そうな田舎の娘といった感じだ。
「ちょっとね。そういうあなたは?」
「はい……。私も少し、思うことがありまして……。そこの米子お婆さんに、呪いについて聞いていたんです」
「呪い? それって、この神社に伝わる禍妻様の話?」
「いえ、そこまでは……。ただ……私の学校の友達が亡くなったとき、米子お婆さんが現場で何か叫んでいたと聞きましたから……」
何やら言い難そうにしつつ、少女は途切れ途切れに言葉を選んでいるようだった。まあ、無理もないだろう。呪いだなんだと言った類の話は、いきなり見ず知らずの他人にするにはいささか唐突過ぎる。例えそれが、自分と同じような話をしている相手であったとしても。
警戒する少女に、皐月は次にかける言葉をどうしようかと迷っていた。恐らく彼女は、事件について何か知っている可能性がある。情報を聞き出せれば進展があるかもしれないが、下手に関わろうとすれば逃げられる。
(まいったわね……。こういうの、私はあまり得意じゃないのよね……)
珍しく、頭の後ろに手をやって、皐月は髪の毛を指に絡ませる。この手の聞き込みは、自分はどうも得意ではない。だが、彼女はすっかり忘れていた。こういうとき、ある意味では自分以上に役立ちそうな、能天気な性格の人間がいることを。
「まあまあ、そんなに警戒しないでくださいよぉ~。私達、こう見えても『そっち系の話』の専門家ですからぁ~」
先程まで横でヘタレていた芽衣子が、ここに来て急に元気を取り戻していた。
「えっ……。『そ、そっち系の話』って……」
「だ、か、らぁ~、呪いとか幽霊とか、そういった話の専門家ってことですぅ~」
固まっている皐月を他所に、何故か積極的に声をかける芽衣子。その瞳が、どこか輝いて見えるのは気のせいか。無論、彼女の嗜好を知っている者からすれば、その輝きが意味することもまた容易に想像がつくのだが。
「ちょっと、芽衣子……。あなた……もしかして、何か妙なこと企んでるんじゃないでしょうね?」
その身に静かな殺気を纏い、皐月は芽衣子に釘を刺した。ここで彼女を調子に乗らせれば、下手をすると目の前の少女を毒牙にかけかねない。さすがに、これには芽衣子も気づいたのか、仕方なく少女の前から見を引いた。
「あの……。もしかして、お二人は霊能力者の方なんですか?」
芽衣子の本性を知らないためか、少女が二人に訊ねてくる。横目で芽衣子をにらみつつも、皐月はあくまで平静を装ってそれに答えた。
「そうね……。まあ、実際はちょっと違うんだけど……似たようなものよ。そういうあなたは、ここの村の学生さん?」
「はい。私、柳原菜穂といいます。もし、よろしければ……お二人にお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「オッケー、いいわよ。でも……正直、こっちもまだ、色々とわからないことが多くてね。だから、情報交換ってことでどうかしら?」
「そうですね。それでは……こんな場所で立ち話もなんですから、よろしければ私の家で話ませんか?」
芽衣子のおかげで、これでも少しは警戒を解いてもらえたのだろうか。家に招待するのは性急過ぎる気もしたが、こんな田舎の村である。洒落た喫茶店など無いに等しく、人目を気にせず話ができる場所など、そうそう他にないのかもしれない。
「家、ねえ……。まあ、私は構わないけど、そっちはいいの? いきなり家にお客さんが来たら、お家の人にも迷惑がかかるんじゃない?」
「それは平気ですよ。私の家、この村で柳屋っていう民宿をやっていますから。村の外の人が一緒にいても、何もおかしいことなんてありません」
皐月の問いに、菜穂はきっぱりと言い切った。その言葉で、皐月の頭の中で何かが一つに繋がった。
村の民宿、柳屋。他でもない、皐月と芽衣子が泊まっている場所だ。そして、彼女の名字は柳原。恐らくは、民宿経営者の娘だろうか。
人と人が、こうも簡単に繋がる現実。村の小ささを考えれば、何ら不思議なことではないのかもしれない。が、それでも皐月は菜穂との出会いが、何か強い力によってもたらされたものだと思わずにはいられなかった。