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~ 参ノ刻   猛雨 ~

 鈴倭沙杜子すずわさとこにとって、学校は特にこれといった面白味のない場所だった。


 沙杜子の家は、神凪村に代々伝わる名家。戦前は地主か何かだったらしく、それよりも以前は領主として村を治める立場にあったとも聞いている。当然、今でも鈴倭家の力は無視できるものではなく、こと年配の村人の中には、沙杜子を始めとした鈴倭家の人間に対して畏敬の念を抱いている者も少なくない


 自分が歩くだけで、周りの者は常に無条件で頭を垂れる。そんな生活が当たり前だった沙杜子からすれば、学校のような場所は酷く退屈で刺激の足りないところだった。


 生徒も教師も、沙杜子に面と向かって何かを言うことは決してしない。しかし、沙杜子はそれが、自分自身に向けられた尊敬の眼差しとは違うことを知っている。


 彼らが本当に恐れているのは、沙杜子ではなく鈴倭家の人間に睨まれることだ。沙杜子に何か失礼なことをすれば沙杜子の父や母が黙ってはいない。そう、わかっているからこそ、あえて沙杜子に従うふりをする。本心ではどう思っているのかわからないだけに、沙杜子からすれば、なんとも白々しい態度に映るのが滑稽だった。


「あの……。鈴倭さん?」


 昼下がりの気だるい空気の中、沙杜子は名前を呼ばれて面倒臭そうに顔を上げた。


「なによ、月子じゃない。何か用?」


 目の前に立つ気弱そうな少女に向かい、沙杜子は突き放す様な口調で言った。その、あまりにきつい態度に尻込みしたのだろうか。少女はそれ以上何も言わず、そのまま下を向いて押し黙ってしまった。


「悪いけど、用がないならどっか行ってくんない? 私、今ちょっと苛々してるのよね」


 ぶっきらぼうに言い放ち、沙杜子はそのまま席を立って教室を出ようとした。しかし、扉を開けて廊下に足を踏み出そうとした瞬間、後ろから袖を引かれて足を止めた。


「ねえ、さっきから何なのよ? 用があるんだったら、ちゃんと言いなさいよね」


「ご、ごめんなさい……。ただ……ちょっと、今朝のことで不安になって……」


 凄む沙杜子に、その少女、風森月子かざもりつきこは辛うじて聞きとれるかどうかといった小声で呟いた。半ば面倒臭そうにしながらも、沙杜子はしばし思い留まり、仕方なく月子の話に耳を傾けてやることにした。


「今朝のことって何よ? まさか、美弥が死んだこと?」


「うん……。村の人が噂してたの。海老沢さん、なんか普通の死に方じゃなかったっぽいって……」


「だから何よ。そりゃ、美弥が死んだって聞いた時は、私だって驚いたわよ。でも、普通じゃない死に方なんて……いったい、どこでそんなデマ仕入れて来たわけ?」


 不安そうに下を向いている月子を他所に、沙杜子はあくまで月子の話をデマであると決め付けた。


 海老沢美弥が死んだことは、沙杜子もその日の内に聞いていた。なにしろ、こんな狭い村の高校だ。クラスなど各学年で一つしかなく、そこに在籍する生徒の数も二十人に満たない。


 彼女の通う神凪高校は、地元の小学校から高校までが一つの敷地に置かれていた。小学校と中学校はとっくの昔に合併され、今では同じ校舎を使っている。さすがに高校まで無償で進学できるわけではなかったが、それでも入試などあってないような物だ。少子化と過疎の影響から、この学校が消えてなくなる日も遠くはないだろう。


 そんな寒村において、村人たちが根も葉もない噂に群がること。そういった姿勢が、沙杜子は何よりも嫌いだった。


 確かに、こんな寂れた村で、何か面白いことを探すのは無理だ。それは沙杜子にも共感できる。が、だからと言って、ちょっと人が死んだくらいで、あれこれと馬鹿馬鹿しい想像をして噂をかき立てる気にはならなかった。


 そんなに面白いことがないのなら、いっそのこと村を捨てて出て行けばいい。そう、都会に出てしまえば、こんな村にいるよりも面白いことがたくさんある。下らない噂話を自分たちで作らずとも、もっと刺激的なことが溢れているはずだ。


 高校を卒業したら、自分はさっさと村を出て行こう。こんな窮屈で古臭い村を出て、都会の大学に進学するのだ。親が何と叫ぼうと、これだけは絶対に譲れない。


「悪いけど、私は村の人達の下らないデマに付き合うつもりないから。美弥のことは残念だけど、今さら私達にどうにかできるわけじゃないでしょ?」


 最後までつっけんどんな言い方で、沙杜子は月子を突き放して教室を後にした。後ろで月子が何やら言っているようだったが、沙杜子はあえて聴こえないふりをした。


 美弥も月子も、中学時代から沙杜子の友達だ。しかし、それはあくまで知らない者から見た姿であり、沙杜子自身は彼女達に友情などこれっぽっちも感じてはいなかった。


 亡くなった美弥は、言わば沙杜子の腰巾着。何をするにも沙杜子と一緒で、それでいて沙杜子を立てることも忘れない。典型的なナンバーツーなのだが、沙杜子はそれが返って気に食わなかった。


 美弥は所詮、虎の威を狩る狐なのだ。取り立てて特徴のない、田舎臭い娘のくせに、沙杜子と一緒になると急に強気になる。なんとも白々しい友人関係だったが、沙杜子が嫌っても美弥の方から近づいて来るのだから仕方がない。とりあえず、自分の邪魔にならないようにあしらいながら、使い勝手の良い手駒のような扱いをしていただけだ。


 一方、先ほどの月子に至っては、美弥以上に沙杜子の神経を逆撫でする部分があった。


 美弥と違い、月子は気弱で大人しい少女だ。自分では何もできないという点は美弥と同じだが、彼女は沙杜子と一緒になっても態度を豹変させるようなことはない。ただ、沙杜子と一緒にいれば、何かと不都合なことから逃れられる。半ば風除けのような感じで、沙杜子に近づき依存している。


 美弥と月子。この二人に悪意がないことくらいは、沙杜子とて十分に理解していた。彼女達は、一人では何もできない田舎の小娘なのだ。しかし、一方的に頼られるばかりでは、そこに友情など存在はしない。あるのはただ、寄生にも等しい一歩通行な関係だけ。彼女達と一緒にいて、沙杜子が得るものなどほとんどない。


「あーあ、嫌だ嫌だ。どこを向いても、ろくなやつがいやしない」


 誰に言うともなく、自然に沙杜子の口からそんな言葉が漏れる。長年のつき合いである友人でさえ、その裏では何を考えているかわからない。こんな窮屈で茶番に満ち溢れた村など、今に抜け出して都会での生活を謳歌してやる。


 色々と煮え切らない物を抱えながら、沙杜子はやがて校舎を抜けてグラウンドに出た。六限の授業が終わり、時刻は既に部活動の始まる時間となっている。もっとも、こんな子どもの少ない村では、部活の規模と言ってもたかが知れているのだが。


 ランニングを続ける運動部員の姿を横目に、沙杜子は高校の敷地を抜け出して中学校のグラウンドへと足を向けた。グラウンドからは少年たちの叫び声に混じり、バットでボールを叩く音が聞こえてくる。神凪中学の運動部は、今では野球部以外は既に廃部に追い込まれていた。


「先生、こんにちは」


 校庭で少年たちに野球を教える男の姿を見つけ、沙杜子は彼に近づいて挨拶した。ツンと澄ました態度は相変わらずだったが、月子に見せたような突き放す感じはなかった。


「なんだ、君か。高校の授業は、もう終わったのか?」


 沙杜子に気づき、男が彼女の方へと顔を向ける。来訪を予期していなかったわけではないようで、取り立てて驚いた様子は見られない。


「なんだとは失礼ね。先生こそ、またこんな小さな中学校のガキ相手に野球のコーチ?」


「ああ、そうだよ。言っておくけど、僕は好きでこの暮らしをしているんだ。例え、君がこの村のお偉いさんの娘であっても、僕の趣味にまでとやかく口を出して欲しくはないな」


 沙杜子の問いに、その男、東雲純也しののめじゅんやは煩わしそうな表情を浮かべて返した。彼女が鈴倭家の長女であること。そんなことは、純也にとっては些細なことでしかないと言わんばかりの態度を見せて。


 その口調に訛りがないことからも、純也がこの村で生まれた人間ではないことは明白だった。今時流行りの、スローライフとでも言うのだろうか。まだ二十代の青年であるにも関わらず、純也は都会でサラリーマンをすることを良しとしなかった。


 神凪村の親戚の下で、有機農業を教わる傍ら野球部の特別顧問を引き受ける。そんな生活を始めて早数年。今時の若者の中では稀有な存在だと、今では村人からも重宝がられている。特に学校側からは、部活の顧問を務められる専門知識のある者がいなかったので喜ばれた。


 そんな純也であったからこそ、沙杜子が彼を気にかけるのも当然の流れだった。純也はこの村の住人の中でも、数少ない都会を知る人間だ。田舎臭い村の大人やセンスのない高校の同級生たちと比べても、純也は格段に魅力的な存在に見えた。


 自分を村から連れ出してくれる可能性があるとすれば、それはこの純也だけだ。今は何かの気まぐれで、有機農業だの野球のコーチだのをやってはいるが、それでも彼は根っからの都会人。やがては田舎の暮らしに愛想を尽かし、この村を離れてゆくだろう。少なくとも、沙杜子はそう信じて疑わなかった。


「ねえ、先生。練習が終わったら、私の家にお茶でも飲みに来ない? いつもいつも、こんな埃っぽいグラウンドでコーチなんかしていたら大変でしょう?」


 露骨に迫るような態度を取りながら、沙杜子は純也に近づいて腕を取った。田舎の高校生には見られない、妙な色気が沙杜子にはあった。女慣れしていない男なら、そのまま沙杜子の誘いに乗ってしまってもおかしくない。同じ神凪村で生まれた少女達の中でも、沙杜子には格別に男を魅了するような何かがある。


 ところが、そんな沙杜子の言葉を受けても、純也はなおも態度を変えずに彼女の手を振り払って距離を取った。これには沙杜子も閉口したのだろうか。さすがに気分を害したようで、少々口調を荒げながら純也に詰めよった。


「ちょっと! せっかく誘ってあげたのに、そんな態度はあんまりじゃない!」


「勘弁してくれ。僕には君の誘いに乗る理由がない。それに、今はあの子たちに野球を教えなくてはいけない時間だ。悪いけど、話があるなら今度にしてくれないか?」


「なによ、それ! そんなこと言って、先生はまだ、あいつのことが忘れられないだけなんでしょ!?」


「その話はよせ! もう……あれは、終わったことだ。終わったことなんだよ……」


 最初は強く、しかし直ぐに消え入るような声になって、純也はどこか遠くを見るような目をしながら沙杜子に言った。それでも沙杜子は納得せず、さらに純也に詰めよった。こうなると、もう相手の気持ちなど関係ない。ただ、自分の我を通したいだけの感情が、沙杜子の中でどんどん大きく膨らんでゆく。


「終わったって……そう、自分で言うなら、なんで私を見てくれないのよ! あの子は死んだの……死んだのよ! 死んだ人のことをいつまでも覚えていたって、そんなの辛いだけじゃない!!」


「ああ、そうだ。でも……だからこそ、僕は覚えていたいんだよ。それに、彼女が死んだからと言って、僕の中から思い出が消えるわけじゃない。彼女は……真理は、まだ僕の心の中に生きているんだ。だから、それを君が追い出そうとしたところで、それは無駄なことなんだよ……」


「なにそれ、馬っ鹿じゃないの!? 言っておくけど……私が先生とあの子の関係をバラせば、それで先生の人生も終わるのよ? その点、私だったら、先生との仲だって……」


「いいかげんにしてくれ! 何度も言うが、僕は君なんかに興味はない! それに、僕と真理のことだって、バラしたければ好きにすればいい。それで、君の気が済むならの話だけどね」


 今までの穏やかな表情から一変して、とうとう純也は沙杜子のことを怒鳴りつけた。その声があまりに大きかったので、今まで練習を続けていた中学生達も、何事かと思い集まって来た。


「ほら、用が済んだら、早く帰ってくれないか? こう言っちゃ悪いが、はっきり言って練習の邪魔だ」


 心配そうな顔で自分を見つめる野球部員たちを制しながら、純也は強引に沙杜子のことを追い返した。沙杜子は悔しそうに唇を噛んでいたが、それ以上は何も言わずに校庭を去った。


 帰り際、沙杜子は悶々とした気持ちのままに、純也の言葉を頭の中で繰り返した。


 真理は、まだ心の中に生きている。そう、純也は沙杜子に告げたのだ。沙杜子に対する決定的な拒絶として、純也はあえて今は亡き恋人の名前を口にした。かつては沙杜子の同級生でもあった、狄塚真理いづかまりの名前を出した。


 狄塚真理。沙杜子の同級生であった彼女は、半年ほど前に亡くなっていた。しかし、彼女の存在は今もなお、純也の心の中に生きている。彼の心の中は真理への想いでいっぱいであり、沙杜子が入れる隙などない。


 これぞまさしく、死してなおというやつだ。沙杜子がこの言葉を知っていたら、間違いなく口にしていただろう。


 気に入らない。この村の連中も、自分を取り巻く環境も、そして自分の恋路を邪魔するやつも。なにもかもが気に入らないし、憎たらしい。いっそのこと、こんな村は全て滅んでしまえ。そんな自暴自棄にも似た感情が、沙杜子の奥から沸々と湧いてくる。


 気が付くと、空には再びどんよりとした雲が広がっていた。先ほどまでは晴れていたのに、こう天気が崩れやすいのではやっていられない。


 鞄の中から折り畳みの傘を取り出して、沙杜子はそれを一足先に広げてみせた。やがて、数分もすると、大粒の雨が空から次々に降って来る。傘の布地を叩く雨音を聞きながら、沙杜子は今の天気がまさしく自分の気持ちを代弁していると思えて仕方がなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夕暮れ時から降り始めた雨の音を聞きながら、鯨井は診療所の一室でしばしの休息を取っていた。


「先生、お茶が入りました……」


 ぼそり、と呟くようにして、緑茶の入った湯呑を乗せた盆を片手に助手の杏子が姿を見せた。来年で三十路になろうという年齢だったが、老けた雰囲気は見られない。身長が低く、線も細く、抱けば折れてしまうような身体つき。枯れ木のような胴体に、幽霊の頭が乗っていると言えばいいのだろうか。


「ごくろうさん。それよりも……君も、少しは休んだらどうだい? カルテの整理なんて、あんなものはいつでもできるだろう?」


 やつれた顔の杏子を気遣うように、鯨井は何気なく口にした。だが、杏子は無言のまま軽く頷いただけで、そのまま何も言わずに部屋を出た。


 診療所の床を歩く足音が、だんだんと鯨井の耳から遠ざかってゆく。まるで機械のような、規則的かつ無機質な音だ。やがて、それが完全に聞こえなくなったところで、鯨井は湯呑の緑茶を一口だけ飲み干して溜息を吐いた。


 鯨井が杏子に出会ったのは、彼がこの無医村にやってきて間もない頃のことだった。もう、かれこれ十年程前になろうか。まだ駆け出しの医師だった鯨井にとって、村での診療は困難を極めた。


 過疎の進む無医村で、少しでも病に苦しむ患者を助けたい。その思いから診療所を開いてはみたものの、待っていたのは過酷な現実。


 まず、排他的な村人たちから信頼を得るのに一苦労。信頼を得ても、今度は次から次へと訪れる患者の診察で、こちらの方が過労で倒れそうになる毎日。そんな彼の前に現れたのが、自ら助手を志願した杏子だった。


 初め、杏子が診療所を訪れたとき、鯨井は彼女のことを信用してはいなかった。なにしろ、こんな無医村で診療所を開くというだけでも十分に変わり者なのだ。そんな変わり者のところへ、わざわざ仕事をしたいなどと言って訪れる者がいるだろうか。その上、彼女が正式な看護師の免許を持っているのかも、その時点では定かではなかった。


 案の定、鯨井の心配していた通り、杏子は医療に関しては素人だった。診療所の掃除や事務処理などは任せられても、患者に薬を与えたり診察の手伝いをさせたりするわけにはいかない。だが、それでも助手が必要なのもまた事実であり、仕方なく鯨井は杏子を自分の下で働かせることにした。


 あれから十年。杏子は鯨井の下で仕事をしつつ、その傍らで看護師の資格を取得するための勉強を続けた。そして、晴れて看護師の資格を得た今では、鯨井にとっても欠かすことのできない助手となっていた。


 いったい、何がそこまで杏子を駆り立てていたのだろう。考えられることはただ一つ。彼女の連れている、歳の離れた妹の存在だった。


 杏子の妹、狄塚真理。彼女のことは、鯨井もよく知っている。杏子と真理の二人はこの村の生まれではなかったが、どうやら都会から親戚を頼って引っ越してきたようだった。が、その親戚が亡くなったことで、杏子には身寄りがなくなった。杏子の話では、既に親は二人とも他界しているとのこと。それ故に、どうしても自分が妹を守るために働かねばならないという責任に駆られていたのだろう。


 杏子の身体では、この村で農作業をして生活するのは少々酷だ。どこかで雇ってもらうにしても、排他的な村社会のこと。親戚が亡くなり、村との繋がりもなくなってしまった彼女のことを雇ってくれるような人間など、村の中にはいなかったのだろう。そんな杏子にとって、鯨井のような他所者の存在は、ある意味では親近感を覚える相手だったのかもしれない。


 だが、そんな杏子であったものの、今ではほとんど言葉を口にすることさえも少なくなっていた。もう、半年ほど前になるだろうか。彼女の妹である真理は、不慮の事故で亡くなった。学校の裏で、頭から血を流している真理が発見されたときには、既に彼女は事切れた後だった。


 鯨井にとって最悪だったのは、その真理を発見したのが、こともあろうか杏子本人だったということだ。妹が忘れた弁当を学校に届けに行き、その果てに妹の遺体を発見したというのだからやるせない。以来、杏子は完全に塞ぎ込んでしまい、まるで機械人形のように淡々と仕事をこなすだけの人間になってしまっていた。


 こんなとき、いったいどのような言葉をかけてやればよいのだろうか。仕事一筋で生きて来た鯨井にとって、残念ながら答えは簡単に見つけられなかった。村の老人達には気休めの言葉でもかけてやれるのに、肝心要の自分の右腕に対しては、何の力にもなってやれない。


 湯呑の中身を全て飲み干したところで、鯨井は再び大きな溜息を吐いて席を立った。どうやら、誰か客人が来たようだ。この雨の日に、また村の誰かが身体を壊したのだろうか。


「今、行きますよ。ちょっと待っていてください」


 診療所の入口にまで聞こえるように、鯨井は普段よりも声を張り上げて叫んだ。休憩室を出て小走りに受付まで向かうと、そこにいたのは背中の曲がったみすぼらしい一人の老人だった。


「お久しぶりですなぁ、先生。今日は、患者もいないんで?」


 鯨井の姿を見るなり、老人は黄ばんだ歯を剥き出しにしてニタニタと笑った。なんというか、見ているだけで生理的な不快感をもたらす笑みだ。フケの湧いた頭と染みだらけの顔も相俟って、目の前の老人が人間というよりは妖怪のように思えてならない。


「悪虫さんですか……。なんですか、こんな日に?」


 露骨に嫌悪感を剥き出しにして、鯨井は少々冷めた視線を老人に向けた。受付の奥では、杏子が小さくなったまま、無言でこちらの様子を窺っている。言葉にこそ出してはいなかったが、どうやらあまり悪虫と顔を合わせたくないようだった。


「なんだとはご挨拶ですなぁ。わしがここに来るってこたぁ、先生もわかっていると思うんですがねぇ?」


 なにやら探るような顔つきで、老人が首を傾けながら鯨井を見た。ぎょりとした目玉に見つめられると、それだけで胸の奥がむかついてくるからたまらない。


「すみませんが、例の少女なら、ようやく解剖が終わったばかりです。これから検死報告書も作らねばなりませんし、正直、忙しいんですよ」


「おや、そうですかい。だったら、儂は出直すとしましょうかね。まあ、全てが済んだときには……わかっておりますな?」


「ええ、勿論ですよ。どうせ、この村では葬儀を執り行う際に、必ずあなたを通さねばならないんだ。心配しなくとも、直に彼女はあなたの下へと送られることになるでしょうね」


「ひっひっひ……。では、そのときを楽しみにさせてもらいますよ、先生……」


 最後まで不気味な笑い声を上げ、老人はいそいそと診療所を出て行った。再び静寂が訪れたことで、鯨井は思わず肩を撫で下ろして脱力した。老人が去ったことで、今まで部屋の中に漂っていた重苦しい空気が、一瞬にしてなくなったようだった。


「もう、出てきてもいいよ、狄塚君」


 老人が完全に去ったことを確かめて、鯨井は奥にいるであろう杏子に声をかける。しかし、杏子からの返事はなく、ただ診療所の外から響く雨の音が聞こえるだけだった。


 まあ、あの老人が訪れて来たのであれば、警戒するのも無理はないか。そう思い、鯨井もまた診療所の奥へと戻ってゆく。今日は朝から凄惨な遺体を解剖したばかりだというのに、なんだか気の滅入ることが立て続けに起きているような気がしてならない。


 悪虫卓三あくむしたくぞう。先程の老人の名を思い出しながら、鯨井は再び背中に嫌な物が走って来るのを感じていた。


 醜く曲がった背中には、山のように大きな瘤がある。恐らく、生まれついてのものだろう。が、医師である鯨井は、そんなことを理由に悪虫を差別するつもりはない。ただ、そのことを差し引いても、悪虫の性格や嗜好が鯨井の理解の範疇を越えているというだけの話だ。


 悪虫の仕事は村の火葬場の管理である。要は葬儀屋ということなのだが、そのような仕事をしているからだろうか。悪虫は遺体に関して並々ならぬ執着を抱いているようで、特に女性の遺体に関心があるようだった。


 村で死人が出る場合、その大半は高齢の老人がほとんどである。が、中には若くして事故で亡くなる者、病死する者などもおり、鯨井自身もそういった理由で亡くなった人間を何人かは目にしてきた。


 どんな人間であれ、いつかは必ず命の灯が尽きるときがやってくる。死は、全ての者に等しく訪れる運命だ。医師としてやりきれない部分はあるものの、これは紛れもない事実である。


 そして、そんな故人の遺体の処理を一手に引き受けているのが、この村で古くから葬儀屋として仕事をしている悪虫に他ならなかった。鯨井と同じく、悪虫もまた死を身近に感じる職に就く者。が、それでも鯨井は、悪虫に対して何ら親近感のようなものを覚えることはなかった。


 鯨井が悪虫を嫌っている最大の理由。それが、悪虫の中にある死体への異様な執着だ。彼は死体に関して独特の美学のようなものを持っているようで、どのような死体が美しく、どのような死体が美しくないのかということを、時に鯨井の前で批評していた。葬儀屋という仕事を続けている間に感性が歪んでしまったのか、それとも最初から異様な価値観の持ち主だったのか。そこまでは、鯨井にもわからない。


 今しがた悪虫が訪れたのも、どうせ変死した海老沢美弥の遺体を見ようという魂胆からだろう。いったい、死んだ人間の身体の何が彼を惹きつけるのかは知らなかったが、どのみち美弥の遺体が悪虫のお眼鏡に適うことはないだろう。


 解剖の際、美弥の遺体は胸元から腹部にかけて大きな切開痕ができた。今は既に塞いでいるが、それでも縫合跡だけは隠せない。葬儀の際には見えないように工夫をするのだろうが、深い傷跡の残った遺体を、悪虫が好むとは思えない。


 できることなら、このまま穏便に葬儀を済ませてやりたいものだ。そういう意味では、悪虫などのお眼鏡に適わない方が、美弥にとっては幸せなのかもしれない。


 未だ降り止まない雨の音を聞きながら、鯨井は大きく肩を回して診察室の戸を開けた。これから、午後の往診の時間が始まる。外は雨だが、待っている患者がいる以上は仕事を休めない。


 自分の存在は、この村に不可欠。ならば、少々風変わりな老人との付き合いも、割り切って過ごす他にない。そう、頭の中で考えをまとめ、鯨井は雑念を振り切って午後の仕事に戻って行った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 風森月子は怯えていた。


 海老沢美弥の訃報を聞いたのは、今日の朝。学校側からは事故としか伝えられなかったが、なにしろ小さな村だ。噂が広まるのは思いの外に速く、月子の耳に美弥の変死が伝わるのはそう遅くはなかった。


 美弥は沙杜子と同じく、月子と仲の良い友人の一人だった。いや、仲の良い友人というには、少々語弊がある。美弥は月子が沙杜子の取り巻きになっているのを知っていて、それをネタに自分自身の優越感を満たしているような部分があった。言葉には表さないものの、明らかに美弥は、月子のことを自分の下僕か何かだと思っているようだった。


 だが、それでも月子が美弥のことを頼りにしていたのは、美弥の勝気な性格に起因する部分が大きかった。美弥は沙杜子と一緒になると、まるで人が変わったかのように強気になる。そんな美弥と、それから沙杜子と一緒にいれば、月子自身が誰かから虐められるようなことは間違っても無い。


 自分でも、嫌な人間関係だと月子は思っていた。しかし、この村の中では沙杜子の家の権力は絶対だ。もし、万が一にでも睨まれたら、自分はあの狄塚真理と同じ末路を辿る。例え、沙杜子自身に睨まれずとも、沙杜子の側にいないことは、常に自分の命綱を離して動き回っていることと同じだったのだから。


 美弥に沙杜子。なんだかんだで、自分は二人の力がなければ何もできないのだと月子は思った。そして、そんな美弥が今朝、何の前触れもなく突然死んだ。村の人間の話では、彼女の死には不可解な点があったとのこと。それが何かまではわからないが、友人の変死という事実だけでも、今の月子を震え上がらせるのに十分だった。


 これは呪いだ。確証はなかったが、月子はそう直感していた。真理が……半年前に死んだはずのあの女が、怨念となって帰って来たのだ。馬鹿馬鹿しい話と笑われるかもしれなかったが、月子にはそうとしか思えなかった。


 震える手で、月子はそっと机の上に置いた手帳に手を伸ばした。外では夕刻から降り始めた雨が、風と共に激しく窓を叩いている。


(とにかく……誰かに相談しなきゃ……)


 汗ばんだ手はぬるぬると滑り、手帳をめくる指が小刻みに震えて止まらない。ただ、とにかく誰かと話をしていなければ、不安に押しつぶされそうで仕方がない。


 手帳のページをめくる指を止め、月子はそこにある電話番号を確認して階段を降りた。そのまま廊下の突き当たりに置かれた、黒電話の受話器を取ってダイヤルを回す。


 こんな田舎の村に、携帯電話などありはしない。あったとしても、半分近くの場所で圏外になってしまう。それに、この天気でこの時間に外出する人間もいないだろう。なんだかんだで、家に電話をするのが一番早い。


 月子が電話をかけたのは、他でもない沙杜子の家だ。今日は学校で一笑に付されたが、それでもやはり、最後に頼れるのは沙杜子しかいない。沙杜子と自分、それに美弥には、あの狄塚真理に呪い殺される共通の理由があるのだから。


 二回、三回とコール音が鳴っていたが、残念ながら沙杜子の家には繋がらなかった。普段なら少しくらい待たされても気にしない月子だったが、このときばかりは少々気が焦り過ぎていた。


 電話をかけて一分と経たない内に、月子は受話器を一端置いて、深く息をしながら考えた。


 沙杜子の家には繋がらない。ならば、残された手段はただ一つ。狄塚真理と接点を持つ、沙杜子や美弥以外の人物。彼女と連絡を取ることぐらいしか、もう考えられる術はない。


(そう言えば……あの子の家の電話って、何番だったっけ?)


 ふと、自分が相手の電話番号を知らなかったことを思い出し、月子は慌てて先程の手帳を取り出した。あの子の電話番号は、いったい何番だっただろう。そう思ったところで、彼女が自分自身の異変に気付いたときには遅かった。


「うっ……」


 下腹部に走る激しい痛みと、口の中から溢れ出す物が焦げたときのような臭い。たまらず腹と、それから口元を抑えたが、それは何の気休めにもならなかった。


 次の瞬間、恐ろしいまでの痛みが月子の全身を駆け廻り、彼女はそのまま声にならない悲鳴を上げて廊下に倒れ込んだ。


 腹が痛い。そして熱い。まるで、何か見えない怪物が、自分の身体の中で暴れ回っているかのようだ。今までに味わったこともない痛みに、手足が痺れて脳が震えた。このままでは狂ってしまうと思っても、月子には抗う術さえない。ただ、苦悶の表情に顔を歪め、大きく身体を仰け反らせたまま、廊下の上でのたうつことしかできなかった。


「あ″……あ″ぁ″ぁ″ぁ″ぁ″ぁ″……」


 掠れた声で、最後に月子の口から出た言葉がそれだった。


 やがて、全身の感覚が失われてゆく中で、月子は自分の股の間が生温かいもので濡れてゆくのを感じていた。だが、それが何かを知る前に、彼女の五感は完全に失われて消え去った。後に残されたのは、かつては風森月子と呼ばれた一人の少女の無残な躯だけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ふりしきる雨の中、東雲純也は神凪高校の裏手にいた。


 激しく、叩きつけるような雨が、彼のレインコートを容赦なく濡らす。雨具を全身にまとっていても、これだけ強ければ半分は無意味だ。辺りに漂う異様な湿気とも相まって、純也は自分が何やら粘性の高い液体の中にいるのではないかと感じていた。


 遠くで雷鳴が轟き、閃光が純也の顔を一瞬だけ照らす。彼の視線の先にあるのは、誰もいない校舎の裏手。狄塚真理の遺体が、最初に発見された場所だった。


「真理……」


 ひっそりと呟くようにして、純也は真理の名を呼んだ。無論、それに答える者などいない。真理は既にこの世を去り、ここには自分の他に誰もいないはずなのだから。


「君の同級生が……今朝、一人死んだよ……」


 しかし、それでも純也は語り続ける。まるで、今もそこに真理が立っているかのように。自分にしか見えない幻に、淡々と思いを告げるようにして。


「君はこの話を聞いて、いったいどう思うんだろうね……」


 また、遠くで雷が鳴った。純也の声に答える者は、相変わらずいない。辺りに聞こえるのは激しい雨が大地を穿つ音と、時折響く雷の音のみ。それ以外は、まるでこの世の全てが停止したように、ひっそりと音を立てずに静まり返っていた。


「まあ……君がどう思っていても、僕には君を責める資格なんてない……。ただ、君を最後まで助けられなかったこと……。それが、残念で仕方ないよ……」


 最後の方は、少しばかり涙の混じった声になっていた。が、その涙さえ、横殴りの雨が顔を叩いたことで流され、直ぐに雨垂れと混ざってわからなくなった。


 全身を雨に打たれながらも、純也はそっと手にした花束を地面に置いた。雨と風でかなり酷くやられていたが、それでも大切な花束だった。


「真理……。僕はまだ、君がここに……この村にいると思っている。その想いが消えない限りは、こうして君に会いにくるよ……」


 献花を終えた純也は、それだけ言ってそっと学校を後にした。花も地面も、彼に何も答えない。相変わらず、聞こえてくるのは激しい雨の音ばかり。その音が、純也には今は亡き真理が泣いているようにも、また叫んでいるようにも聞こえて仕方がなかった。

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