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~ 弐ノ刻   子消 ~

 翌日は、昨日の雨が嘘のように晴れていた。


 爽やかな朝の陽射しを浴びて、民宿の玄関を出た皐月が大きく伸びをする。鼻先をくすぐる、ほのかな草の匂いが心地よい。昨日の土砂降りの中では景色を堪能する余裕などなかったが、こうして見ると、なかなかどうして良い場所だと思えてくるから不思議なものだ。


 もっとも、そんな皐月とは反対に、芽衣子は朝から不満そうな顔だった。皐月と違い、彼女は田舎の暮らしというものに慣れていない。その上、企画していた温泉にも行けなくなったとなれば、彼女の不満もわからないではないのだが。


「はぁ……。ようやく雨が止んでくれましたね、お姉様。これで無事に、この村から帰れるといいんですけど……」


 どこかそわそわと落ちつかない様子で、芽衣子は辺りを見回して言った。できることなら、一刻も早くこの村から帰りたい。言葉には出さずとも、そんな気持ちが彼女の全身から溢れ出ている。


「残念だけど、それは無理ね。雨が止んで、これから土砂崩れで塞がれた道を開通させる作業に入るでしょうから……もう一日くらいは、この村に泊まることになりそうね」


「ええっ、そんなぁ! 雨が止んだから、直ぐに帰れるんじゃないんですかぁ!?」


 皐月の口から放たれた非情な言葉。残酷な現実を目の当たりにし、芽衣子が思わず倒れそうになって頭を抑えた。


 都会育ちの芽衣子にとって、この村での生活は不便極まりないものだ。場所にもよるが、携帯電話は圏外になるのが普通。トイレは未だに汲み取り式で、それは民宿である≪柳屋≫においても同じである。おまけに、夜になると窓には光に寄って来た虫がべったりと貼りついて、それらを狙って特大サイズのヤモリまで姿を現す始末。虫やトカゲなどが大嫌いな芽衣子にとっては、幽霊などよりこれらの生き物の方がよっぽど恐ろしい。


「はぁ……。せっかく、お姉様と水入らずのバカンスを堪能できると思ったのに……。こんなところにいたら、それだけで身体が痒くなっちゃいますよぉ……」


 地元の人間が聞いたら眉根を潜めそうな台詞を口にしながら、芽衣子がしょんぼりと項垂れる。が、次の瞬間、彼女は自分の視線の先にあるものを見て、そのまま言葉を失い固まった。


 民宿の玄関先に立つ芽衣子の正面。ちょうど、いくつもの植木鉢が置かれた場所に、一匹のカエルが姿を見せていた。雨上がりということで、葉の影から出て来たのだろうか。カエルは芽衣子をじっと見つめたまま、一声鳴いて大きく跳ねた。


「ひゃぁっ! こ、こっちに来ないでくださいぃぃぃっ!!」


 いきなり現れたカエルに驚いて、芽衣子は隣にいた皐月に飛び付いた。しかし、そこは皐月も慣れたものだ。このまま抱き付かれ、妙なところでも触られたらたまらない。軽く身を翻して避けたことで、芽衣子の身体は宙を舞い、そのまま民宿の壁に激突した。


 ドンッ、という鈍い音と共に、民宿の壁が軽く揺れた。その振動で、芽衣子の頭にパラパラと埃が落ちてくる。それだけでなく、最後は軒下に隠れていた蜘蛛までが、その尻から糸を出して芽衣子の目の前に降りて来た。


「ぎゃぁぁぁぁっ! こんなところ、もう嫌ですぅ!!」


 自分の顔の目の前で八本の脚を蠢かせている蜘蛛を見て、芽衣子はとうとう泣きながらその場にへたり込んだ。なんというか、二十歳も過ぎて情けない。芽衣子の精神年齢が低いのは皐月も知っていたが、それにしても大自然というものに耐性が無さ過ぎる。


「まったく……なに、遊んでるのよ。たかがカエルや蜘蛛如きで、こう叫ばれちゃ世話ないわ」


 泣き叫ぶ芽衣子を他所に、皐月は蜘蛛の尻から出た糸をひょいと指に絡め、そのまま近くにあった木の枝にひっかけた。その足下では、芽衣子がまだ泣きながら腰を抜かしている。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになり、とてもではないが見られたものではない。


 早朝の爽やかな空気と陽射しが、一瞬にして壊された瞬間だった。少なくとも、後一日はこの村に滞在せねばならないであろうに、これでは先が思いやられる。


 だんだんと頭が痛くなってくるのを感じながら、皐月はふっと顔を上げた。何やら、村の中が妙に騒がしい。民宿の前にある畑から、農作業をする格好のまま人が走り出て来ている。


(何か、あったのかしら……)


 昨日の土砂崩れで、けが人でも出たのだろうか。いや、それにしては、どうも村の様子が変だ。昨日の雨で何か問題があったとすれば、今さらになって騒ぐというのも妙な話である。


 何やら胸騒ぎを覚え、皐月は未だ泣き止まない芽衣子を立ち上がらせて民宿を出た。厄介事に首を突っ込む必要などない。そう、頭ではわかっていても、皐月は自分の中にある霊能者としての直感が、この村に漂う不穏な空気を捉え始めているような気がしてならなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 安藤敏夫あんどうとしおが通報のあった家に到着したとき、そこには既に大勢の人だかりができていた。


「ちょっと、どいてくんろ! 駐在の安藤だ!!」


 野次馬の群れを掻き分けながら、安藤はなんとか玄関先まで辿り着いた。こんな過疎の進む村で、祭りでもないのにここまでの人だかりができる。そのことが、事件がただ事ではないということを暗に物語っている。


 早朝、安藤を叩き起こした一本の電話。その内容は、村のとある家の一室で、少女が変死しているというもの。事故か事件か、それとも何かの病気なのか。原因もわからないということで、慌てて仕度をして家を飛び出して来たことは記憶に新しい。


 こんな寂れた寒村で、朝っぱらから何の騒ぎだろう。そう思っては見たものの、事件とあれば放ってはおけない。土砂崩れで街の警察も現場に来られない今、村の中で唯一の警官は自分だけなのだから。


 もっとも、そうは言っても自分はあくまで単なる駐在員だ。刑事ドラマにあるような検視ができるわけでもないし、とりあえずは現場の状態確保がせいぜいか。安藤の頭にそんな考えが浮かんだときだった。


「おや、駐在さん。遅かったですね」


 突然、後ろから声がした。安藤が振り向くと、そこには妙に細身で長身な男が眼鏡を光らせて経っていた。


鯨井くじらい先生でねえか! まさか、先生も来とったとは!?」


「そう、驚くこともないでしょう。私だって、この村の診療所に勤める医師ですからね。変死の報を受けたのは、あなただけではないんですよ」


 未だ周りで好き勝手なことを言っている野次馬を他所に、鯨井と呼ばれた男は至って冷静な口調で安藤に言った。その言葉に訛りがないことからして、街から村の診療所へとやってきた医師なのだろうか。少なくとも、彼がこの地方の出身ではなく、どこか別の土地で生まれ育った人間であることは確かだった。


「とりあえず、現場は私の方で抑えておきましたよ。もっとも、あくまで現場に誰も近寄らせないようにするだけで、後は何も触っていませんが……」


「いんや、こいつは済まねえだな。なんか、先生がいれば、もう本官がおらんでも村は安泰なんじゃねえかと思うべよ」


「おやおや、とんだ買被りですね。私はあくまでただの医師です。警察の仕事は、警官である安藤さんの仕事ですよ」


 そう言いながら、鯨井は玄関の戸を開けて、家の中へと安藤を案内した。外の騒ぎとは反対に、家の中はしんとして薄暗い。途中で家主と思われる夫婦も加わり、四人は変死した少女の遺体が待つ部屋へと足を急がせた。


「それで……遺体の様子ってのは、どんな感じだったんかね?」


 廊下の軋む音と一緒に、安藤が鯨井に訊ねる。


「どんな様子……ですか。一応、そこのご夫婦にお訪ねしてもよいとは思いますが……まあ、自分で現場を見ればわかりますよ」


 何やら意味深な言葉を述べて、鯨井は一足先に前を進む。納得の行かない表情のまま、安藤は隣にいる家主の夫婦に目をやった。


(うむ……。さすがに今は、ちょっと話さできる余裕はないかのう……)


 自分の一人娘を失ったからだろうか。夫婦は揃って沈痛な面持ちのまま、一言も言葉を発しようとはしなかった。安藤には子どもはいなかったが、それでも彼らの気持ちは痛いほどわかる。それだけに、いくら仕事であるとはいえ、彼らの心情を察しない質問をするのは気が引けた。


 やがて、廊下の突き当たりに差し掛かったところで、鯨井が襖をサッと開けた。ここが、目的の部屋ということだろう。恐る恐る、安藤が足を踏み入れると、何やらむっとする臭気が彼の鼻腔を刺激した。


「こ、こいつぁ……」


 それ以上は、何も言葉が出なかった。


 布団の上で、寝衣の浴衣を着たまま倒れている少女の遺体。その顔は恐怖にひきつり、生前の面影など見る影もない。大きく見開かれた両目と、何かを叫ぼうとしたまま固まった口。それらが物語っているのは、少女の死が決して楽な物ではなかったということだけだ。


 そして、何よりも安藤の胸を詰まらせたのが、少女の遺体の下に広がる一面の鮮血痕だった。


 股下から流れ出た赤黒い血が、少女の下半身を中心に染めている。浴衣に染みわたらなかった分の血液は不気味な血溜りを作り、それは布団の下の部分一面に広がっている。


 いったい、これは何なのだろう。場所が場所だけに、何か鋭利な刃物で刺されたとは考えにくい。だとすれば、毒物の類でも口にしたか、はたまた妙な病気にでも罹ったのか。


「先生……。先生は、いったい何が原因だと思うがね……?」


 震える声で、安藤は鯨井に訊いてみた。まさか、何か恐ろしい感染症などに罹って死んだのではあるまいか。そうだとすれば、自分の身も危ない。そんな取りとめもない不安だけが、次々に安藤の中に湧いて来る。


 ところが、そんな安藤とは反対に、鯨井は実に落ち着き払った様子だった。先に遺体を見ていたからか、それとも彼の医師という立場がそうさせるのか。どちらにせよ、安藤のような不安の色は、今の鯨井には見受けられなかった。


「心配しなくてもいいですよ。私も実際に検視をしたわけではありませんが……少なくとも、伝染病などの類である可能性は低いです」


「ほ、本当だべか!?」


「ええ。私が思うに、これは何かの毒物中毒ではないかと思います。詳しくは、検死をしてみないとわからないのでしょうが……少なくとも、昨日まで健康そのものだった少女が、いきなりこんな死に方をするなど考えられません」


 血溜りの中に沈む無残な少女の姿を見降ろしながら、鯨井は淡々とした口調で言っていた。一見して冷たいようにも思われるが、その顔には時折、この部屋に漂っている生臭い空気に嫌悪感を示す色が現れている。


 鯨井は、この村で生まれ育った人間ではない。元々は無医村だったこの場所に、何の気まぐれか診療所を開きたいと言ってやってきた変わり者だ。彼の専門は外科だったが、実際にはそれ以外の様々な仕事も全て一人でこなす。都会の大病院にいれば、間違いなく出世街道まっしぐらなだけの腕を持っている男だった。


 そんな鯨井でさえ、今日の遺体は少々腹に据えかねるものがあった。人の死体を見るのは初めてではないし、血の臭いなどはオペで何度も嗅いでいる。それでも、目の前で絶命している少女の姿は、人間の遺伝子レベルに刷り込まれた嫌悪感を煽る何かがある。


「ちょっと、お立会願えますかね、駐在さん。これから私は、この遺体を調べねばなりませんので……」


「し、調べるっで……。まさか、この場所で解剖でもするつもりだべか?」


「いえ、それは私の診療所で行います。ですが、現場の検証というものは、可能な限り事件が起きた状態で行うのが常でしょう? 昨日の土砂崩れで街からの応援が頼めないとなれば……後は、我々でやるしかないんです」


 部屋の臭気に耐えきれず吐き戻しそうになっている安藤に、鯨井は申し訳なさそうにしながらも言ってのけた。


 昨日の雨で、街に通じる道は塞がれた。当然、医者も警察も、およそ街からの応援と呼べるものは全く期待できない。道が開通すれば話は別だが、それまで遺体をこの部屋に転がしておくわけにもいかなかった。


 結局、その後は鯨井の下で、安藤は泣く泣く検視の立ち合いをさせられた。途中、少女の浴衣を脱がせたところで、血に覆われた下半身が姿を現した際には思わず卒倒しそうになった。


 やがて、全ての検視が終わったところで、鯨井は納得の行かない顔をして遺体に服を着せ直した。詳しい理由まではわからなかったが、恐らく死因は出血多量によるショック死。出血場所はこともあろうか、少女の膣口とのことだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 皐月と芽衣子が騒ぎの起きた現場に到着したとき、そこでは既に事件のあった家から少女の遺体が運び出されているところだった。


 担架に乗せられ、顔にも身体にも白い布を被せられた少女。遠目から見ただけで細かな様子はわからないが、少なくとも少女が絶命していることだけは明白だ。悲観にくれて啜り泣く両親の横を、村の駐在の安藤と鯨井医師の運ぶ担架が無情に通り過ぎて行く。


「うわぁ……。いったい、何があったんですかねぇ?」


 状況が今一つ飲み込めず、芽衣子はきょとんとした顔で皐月に訊ねた。が、皐月はそれには答えずに、事の成り行きを見守っているだけだった。


 運ばれてゆく少女の身に何があったのか。そんなことは、皐月の知るところではない。だが、やはり人の死というものは、どのような形であれ痛ましいものだ。こんな小さな村で、余命幾許もない老人が天寿を全うしたのであればいざ知らず、よりにもよって未成年者が亡くなるとは。


 少女の年齢を皐月は知らなかったが、恐らくは中学生か、あるいは高校生くらいではないかと思われた。こんな田舎の村であるが、一応は県立の中学も高校もある。過疎のせいで生徒はほとんどいないのだろうが、そこに通う学生の一人ではないかと思われた。


「いくわよ、芽衣子。もう、ここに用はないわ」


 未だ残る人だかりを他所に、皐月はすっと踵を返して歩き出した。これ以上は、この場所に留まる理由はない。騒ぎの原因がわかった今、後は村の者に任せればよい。他所の者自分が口を出したところで、何がどう変わるわけでもない。そう思い、芽衣子を連れて立ち去ろうとしたときだった。


「大変じゃ……大変じゃぁ!!」


 突然、群衆の中をかきわけて、一人の小柄な老婆が姿を現した。薄汚れた着物にボサボサの髪。夜の山道で出会ったら、間違いなく山姥か何かと勘違いしそうな風体である。呆気に取られる村の者を他所に、老婆は駐在の安藤のところに走り寄ってすがりつくと、なにやら早口で色々とまくし立て始めた。


「なんだ、米子婆よねこばあでねえか。なんぞ、用か? 見ての通り、今、忙しいんだ。後にしてくんろ」


「そったらこと言うても、こっちも一大事なんじゃ! 社の祠が……禍妻様の祠が壊されたんじゃぞ!!」


「なんじゃい、物盗りかえ? だったら、それこそ後で駐在所まで来て、そこで話をしてくんろ。こっちは人が一人亡くなっとるで、まずは遺体を鯨井先生んとこへ運ぶのが先だ」


「人が……。そうか、人が亡くなっただか……」


 人が死んだ。安藤のその言葉に、老婆は何やら意味深な笑みを浮かべて呟いた。


「ひひひ……。祟りじゃ……いや、呪いじゃよ。こん村の中に、禍妻様にお頼み申して、呪詛の願をかけた者がおる……」


 未だどよめきが止まない群衆を他所に、老婆は独り、≪呪い≫という言葉を繰り返し呟いた。もっとも、その言葉に耳を貸す者は、残念ながら誰もいない。老人の戯言だと思って気にしていないのか、それとも、あえて聴こえないふりをしているのか。その、どちらなのかはわからない。


 やがて、安藤と鯨井が少女の遺体を車に乗せたところで、周りにいた野次馬達もばらばらと立ち去り始めた。それぞれが好き勝手な憶測を立てて話をしながら、彼らは普段の村の生活へと戻ってゆく。後に残されたのは、先ほどの老婆と皐月、それに芽衣子の三人のみ。野次馬達が去ってしまうと、事件の起きたと思しき家の前は、驚く程に静かだった。


「待って!」


 去り際に自分の横を通り過ぎたところで、皐月は老婆に声をかけた。その言葉に、老婆の動きが一瞬だけ止まる。曲がった背中はそのままに振り向くと、老婆は皐月に訝しげな視線を向けて来た。


「ねえ、お婆さん。あなたの話、もう少し詳しく聞かせてくれないかしら?」


「なんじゃ、まだ人がおったか。しっがし……お前さん達は、この村の者ではなさそうじゃの。興味本位で冷やかすだけなら、遠慮さしてくれねえか?」


「そんなつもりはないわよ。こう見えても、私は≪そっち系≫の力を持った人間だからね。この村で、何か妙なことが起きているなら……少しは力になれるかもしれないわよ?」


 懐から愛用の振り子を取り出して、皐月はそれを老婆の前で揺らして見せた。純度の高い銀を用い、皐月の霊感を最大限に発揮させるための道具だ。彼女の得意とする技、ダウジング――――物体の残留思念などから特定の存在の居場所を探る術――――を駆使するために、常に持ち歩いている物の一つだった。


 朝の陽射しを反射して、振り子の先にある銀色の錐が輝きながら揺れる。それを見た老婆は、何かを悟ったのだろうか。「ふむ、少しは話のわかりそうな女子じゃの」とだけ呟くと、着いて来たいなら勝手にしろとだけ告げて歩き出した。


 呆気に取られる芽衣子を他所に、皐月も老婆の後に続く形で歩き出す。先頭を行く老婆の足取りは、その年齢と背格好に反して思いの外に早い。


 先ほどまでは、この事件に首を突っ込もうとは思ってなどいなかった。他所者の自分は、この村の騒ぎに口を出すつもりはない。村のことは村の人間で解決すればよいと……少なくとも、この老婆が現れるまでは、そう思っていた。


 だが、老婆の叫んでいた言葉を聞いたとき、皐月の中で考えが変わった。祟り、呪い、そして禍妻様。普通の人間であれば鼻で笑ってしまいそうな言葉だが、皐月のような霊能者にとっては避けて通れない言葉でもある。


 そして、何よりも皐月が妙に思ったのが、老婆が現れたときの村の人間の反応だった。


 駐在の安藤を覗いて、老婆の相手をまともにしようとする者などいなかった。老婆を狂人扱いして無視を決め込んでいるのかとも思ったが、村人たちの顔を見る限りでは、どうも違っているようだった。


 あのとき、その場にいた誰しもが、老婆の言葉に耳を貸そうとはしなかった。いや、あえて貸さないようにしていたと思ってしまうのは考え過ぎか。


 自分達が見たくない現実、聞きたくない言葉、そして思い出したくない忌まわしい過去。それらの事柄に対して、臭い物に蓋をするかのように封殺しようとする際の表情。それと同じような物を、皐月はあの場にいた野次馬達から感じ取っていた。


 迷信と鼻で笑うのは簡単だ。事件の裏に、本当に何者かの呪いが関わっているのかどうか。今は、それさえも定かではない。ただ、自分の仕事を考えた場合、このまま見て見ぬふりをするというのもはばかられる。


「ああ、待って下さいよ、お姉様~!!」


 いきなり皐月の気が変わったことで、未だ状況を飲み込めない芽衣子が慌てて追いかけてくる。その言葉が終わりきらない内に、皐月の後ろで何かが豪快に転ぶ音がした。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 診療所に運び込まれた少女の遺体を前に、白衣に着替えた鯨井晴夫くじらいはるおはメスを片手に立っていた。


「では、これより解剖を始める」


 物言わぬ屍となった少女の身体を見つめ、鯨井は抑揚のない声で呟くようにして言った。隣にいる女医――――これは、彼の助手だろうか――――が首を縦に振り、鯨井の言葉を記録するためにペンを取る。


 寒村の診療所に勤める鯨井にとって、当然のことながら変死体の解剖など初めての経験だ。本当ならば、街の警察に応援を頼み、そこでしかるべき法医学者にでも解剖してもらうのが筋のはず。が、しかし、昨晩の土砂崩れで街までの道は封鎖。その上、こう蒸し暑い陽気が続いては、遺体も直ぐに駄目になってしまう。冷凍保存などの手段も考えたが、それでは死亡推定時刻などがわからなくなるという欠点がある。


 結局のところ、ここは自分がやるしかないのだ。幸いにして、遺族の了承は比較的簡単に得ることができた。自分の娘が亡くなってしまった原因を知っておきたい。そんな遺族感情が、今回はこちらに有利な形で働いてくれたのかもしれなかった。


 慣れない仕事に多少の緊張を覚えつつも、鯨井は少女の胸にメスを走らせる。既に現場で大量の血液を失っていたためか、切開にはそこまで激しい出血を伴わなかった。


 亡くなった少女の名前は海老沢美弥えびさわみや。この村に残る唯一の県立高校に通う女子高生である。村の診療所に勤める医師として、鯨井も何度か彼女の顔を見たことがあった。


 美弥が持病や、その他の先天的な疾患を抱えているわけではないということ。それは、鯨井も知っている。両親からの報告でも、彼女は昨晩まで何の不調も見られなかったという。それだけに、伝染病を始めとした感染症の類が死因である可能性は、限りなく低いと思われた。


 だが、それにしては、彼女の死はあまりにも急過ぎる。心筋梗塞や脳溢血で倒れるにしては、彼女はまだ若過ぎる年齢だ。それらの症状を引き起こす様な持病も、当然のことながら抱えてはいなかった。


 では、そんな彼女がこうも不可解な亡くなり方をしたのは何故だろう。少女の腹部を切開しながら、鯨井の頭に毒物中毒という単語が浮かんできた。


 現場の検視で確認したところ、美弥の下腹部、より具体的に言えば膣口からは、大量の出血が確認された。腰から足下まで広がった、巨大な血の水溜り。失血性のショックで死ぬには十分過ぎる量だ。出血の原因は未だ定かではないが、病気の類として片付けるには、あまりにも不自然なことが多過ぎた。


 胸から腹にかけてYの字状にメスを通し、鯨井は美弥の身体をそっと開いた。ちょうど、観音開きの戸を開けるようにして、美弥の中に詰まっている臓器の様子を覗いて見る。


 初め、鯨井が確認したのは、美弥の胃袋や腸内だった。毒物を飲んで中毒症状を起こしたというのであれば、そこから何らかの残留物が発見されるかもしれないと思ったからだ。


 ところが、そんな鯨井の予想に反し、胃からも腸からも何ら怪しい物は見つからなかった。念のため、他の臓器なども調べては見たが、結果はどれも同様に白だった。


「心臓、肝臓及び、その他の臓器にも異常を発見できず。引き続き、出血の原因を探るべく解剖を続行する……」


 淡々とした口調で助手に告げ、鯨井はさらに解剖を進める。胃や腸に異常がないとなると、残された可能性はただ一つ。膣口から大量出血していたことを思い出し、鯨井は多少の申し訳なさを覚えながらも、切り開かれた少女の下腹部をまさぐった。


 赤い肉の塊の中から、女性特有の子を育てる器官が顔を覗かせる。鯨井はそれにメスをあてがい、サッと滑らせるようにして切開した。


 出血した場所の関係から、鯨井は美弥が子を孕んでいたのではないかと疑っていた。こんな寒村の女子高生が、不純な行為に及んでいたとは考えにくいが……それでも、万が一ということもある。両親には酷な話かもしれないが、何らかの事情で流産した可能性も捨て切れなかった。


 仮に堕胎の跡が見られたら、その際はどう親に説明するか。そんなことを考えながら、鯨井は美弥の子宮を切り開いた。が、次の瞬間、その中から現れた物を目の当たりにして、鯨井の顔に戦慄が走った。


「な……なんだ、これは……!?」


 そこにあったのは、果たして鯨井が想像していたような堕胎の跡などではなかった。代わりに姿を見せたのは、どす黒く変色した内臓の内側。まるでガスバーナーか何かで焼かれたように、完全に黒化して見る影もない。加えて複雑な形状の刃物で切り裂かれたような跡も見つかり、どうやら出血の原因はこれのようだった。


「狄塚君……。落ち着いて、聞いてくれるか……?」


 震える手でなんとかメスを握り締めながら、鯨井は助手を務める狄塚杏子いづか・きょうこにそう告げた。


「子宮内部に第三度火傷と思しき痕跡と、多数の裂傷を確認。死因は……これらの内傷・・及び出血多量によるショック死と思われる……」


 全てを言い終わった後、鯨井は力なくメスを手術代の上に置いた。未だ、身体の震えが止まらない。目の前の少女に、いったい何が起きたのか。その原因がつかめぬまま、言い表しようのない不安と恐怖が襲いかかって来る。


 最初は毒物性の中毒死か、そうでなければ堕胎によるショック死かと思っていた。しかし、それらの現実的な考えは、今、この瞬間に、物の見事に打ち砕かれた。


 海老沢美弥は、その身を内から焼かれ、切り裂かれて殺されたのだ。誰が、何のためにそんなことをしたのか。否、それ以前に、そんなことができる者が、この世に本当に存在するのか。


 病気か、毒物か、それとも鯨井のまったく知らない力が働いたのか。原因は、解剖を担当した鯨井自身にもわからなかった。ただ、未だ恐怖にひきつったままの美弥の顔を見て、彼女が生きながらにして内臓を焼かれ、更には切り裂かれて死んだということだけは、紛れもない事実であると認めざるを得なかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 無数の苔生した石段を登ったところに、その古い社は建っていた。


 老婆に案内される形で、皐月と芽衣子が辿り着いた場所。それは、村の外れの森に置かれた古く寂れた神社だった。社のある森の中は、日中でもひんやりとした空気が漂っている。伸び放題に伸びた森の木々が緑の天井を作り出し、照りつける太陽の光をさえぎっている


「ひぃ……ひぃ……。も、もう、歩けないですよぉ~……」


 膝を抱え、肩で呼吸をしながら、芽衣子が情けない声を上げていた。日頃から、運動不足という証拠だろう。皐月は元より、あの老婆でさえ難なく登っていたにも関わらず、芽衣子は石段の半分程を登った辺りで泣き言を言い始めたのだからたまらない。


 鳥居の脚に手をついて休んでいる芽衣子を他所に、皐月は改めて境内の中を見回した。


 暗い。時刻は昼に向かっているというのに、この場所だけは、まるで永遠の夕暮れに包まれているかのような薄暗さがある。


 何やら肌寒い気配を感じ、皐月は思わず両手で腕を庇うようにして身体を丸めた。季節は夏なのに、ここは未だ冬の空気が留まっているとでも言うのだろうか。それとも、霊的な力がもたらす何かが、彼女の霊能者としての感覚を刺激しているのだろうか。


 ふと、皐月が境内の隅に顔を向けると、絵馬の奉納場所が目に止まった。こんな古びた神社でも、未だに絵馬など納めに来る者がいるのだろうか。少しばかり気になって近づいて見ると、そこには仲睦まじい男女の姿が描かれていた。


「へぇ、ムカサリ・・・・絵馬じゃない。まあ、東京じゃお目にかからないとはいえ、この辺じゃ珍しい物でもないんでしょうけど……」


 奉納された絵馬を見て、皐月は独り納得したように呟いた。一方、後ろから眺めている芽衣子は、こちらは何が何なのかわかっていない様子だ。不思議そうに絵馬と皐月の顔を見比べながら、何やら小首を傾げていた。


「ねえ、お姉様。この絵馬、なんか変わってますよね。絵馬って普通、縁起物とか神社で祀ってる神様の絵なんかが描いてあるんじゃないですか?」


「そうね。確かに、神社の神様に願掛けをするんだったら、そういった絵馬を納めるはずだわ」


「えっ……!? ってことは、この絵馬、お願い事をするために納めたんじゃないんですか!?」


 神社の絵馬は、願掛けをするために納める物。受験生の合格祈願などでお馴染なだけに、それ以外の用途で使われる絵馬があることが、芽衣子は純粋に不思議でならなかったらしい。


「この絵馬は、ムカサリ絵馬って言ってね。願掛けじゃなくて、故人の追善供養の一種として神社に奉納されるものよ。東北地方では、そう珍しい物でもないみたいだけどね」


「追善供養? それじゃあ、この絵馬は死んだ人へのお供え物みたいな感じなんですか?」


「そういう考えで構わないわ。ところで……芽衣子は、死後婚って考えを聞いたことない?」


 いきなり皐月から質問され、芽衣子はしばし戸惑った表情で瞬きした。


 死後婚。書いて字の如く、死んでから結婚するということだろうか。だとすれば、いったいどうやって死者が婚姻を結ぶのだろう。葬式を終えた後に結婚式をするなど、そんな話は生まれてこのかた聞いたこともない。


「ごめんなさい、お姉様。ちょっと、よく知らないです……」


「勉強が足りないわよ、芽衣子。死後婚っていうのは、生涯独身のまま亡くなった人に、死んでからも一人ぼっちじゃ可哀想だろうってことで、架空の婚姻相手を用意して供養の代わりとする風習よ。親より早く亡くなった子に対する供養の意味合いも強いから、絵馬を納めるのは殆どが亡くなった子の親ね。青森県なんかでは、男女の人形を揃えて供養するところもあるみたいだけど……これは、その絵馬版ってところかしらね?」


「へぇ……。そんな風習があったなんて、全然知りませんでしたよぉ……」


「あなたねぇ……。仮にも、退魔具師の見習いなんだったら、もう少し日本の風習や、そこで使われる道具なんかにも興味を持ちなさいよね……」


 ぽかんとした表情で話を聞いている芽衣子を見て、皐月は半ば呆れ顔になって口にした。退魔具師の仕事は、何も護符や霊木刀れいぼくとうなどの武器を作るだけではない。時に、自ら新しい退魔具を考案して作成するために、古今東西に伝わる様々な神器や武法具などの伝説を知っている必要がある。


 それに比べると、今の芽衣子は少々自覚が足りていない。見習い故に仕方がないのかもしれないが、それでもあまりに無知である。


 我が教え子ながら、なんとも情けないと皐月は思った。いいかげん、女の尻ばかり追いかけていないで、少しは向こう側の世界・・・・・・・に関する勉強もして欲しい。彼女の持つ、物に宿る残留思念を読み取る力は高く買っているが、才能だけでやっていけるほど、この仕事は甘い物ではない。


 もっとも、そんな皐月の気持ちなどお構いなしに、芽衣子は早くも何やら妙な妄想をしているようだった。


「死後婚かぁ……。死んでからも永遠に一緒にっていうの、なんか素敵ですよねぇ……」


 どこか遠くを見るような目で、恍惚とした表情を浮かべている芽衣子。こういうときは、決まって邪なことを考えているというのがお約束。口元からだらしなく垂れる涎が、彼女の美貌を台無しにしている。


「うへへ……。この絵馬に名前を書いて納めれば、死んだ後に、その人と結婚できるってことですよねぇ。と、いうことは、ここに私とお姉様の名前を書けば……」


 最早、彼女の妄想は止まらない。口にこそ出していないものの、頭の中では絶対にピンク色のお花畑が広がっているに違いない。


 もう、これ以上は見ているのも限界だ。妄想に耽る芽衣子の頭を、皐月は軽く叩いて正気に引き戻した。


「いった~い! ちょっと、何するんですかぁ、お姉様!!」


「何するんですか、じゃないわよ! いつまでも変な妄想に浸ってる場合じゃないでしょ!?」


「だってぇ……。現世ではお姉様と結ばれることがなくても、あっちの世界で一緒になれたらいいなって思って……」


「残念だけど、それは無理ね。ムカサリ絵馬に書く相手の名前は、架空の人物って決まってるの。要するに、自分の子どものために作ってあげた最高のパートナーってわけで……。まあ、親の作ったオリジナルのキャラクターと結婚することしかできないってことね」


「ガ~ン!! そ、それじゃあ、私がここに自分とお姉様の名前を書いて納めても、何にもならないってことですかぁ!?」


「そういうこと。わかったら、さっさとこっちにいらっしゃい。それに、お婆さんをいつまでも待たせたら、それこそ失礼でしょ?」


 衝撃に硬直して言葉も出ない芽衣子を置いて、皐月は一足先に老婆の待つ祠の前へと足を進めた。案内されるままに祠の中を見ると、なるほど、そこにはたくさんのこけし人形が置いてある。中には随分と古い物もあるようで、どことなくカビ臭い空気が漂っていた。


「これじゃよ。これが、禍妻様のお力さ借りて、呪詛をかけるために使われた物じゃ」


 訝しげにこけし人形の群れを見つめる皐月の前に、老婆は黒焦げになった人形を取り出して見せた。祠の中に納められている物と同じく、それはこけし人形である。しかし、今は表面が全て焼け焦げ、見るも無残な姿へと変わってしまっている。


 いったい、誰がこのようなことをしたのだろう。いや、それ以前に、こうしてこけしを焼くことに、何の意味があるのだろう。


 自分の持ち得る呪詛に関する知識を総動員して考えてみたが、残念ながら、その意味は皐月にもわからなかった。人形を用いて呪詛をかける当たり、丑の刻参りを連想させる何かはあるが……正直なところ、それだけでは呪詛をかける条件も、力の種類もわからない。


「ねえ、お婆さん。あなた、さっきは村の神社からこけしが盗まれたって言ってたわよね。だったら、この黒焦げになったこけしが、盗まれたこけし人形ってことなのかしら?」


「うむ、そうじゃ。これは、元々は水子供養のために作られた物での。親より先に、成人する前に亡くなった子の御霊を弔うため、その童の一部を中に詰めて、ここに奉納する慣わしなのよ」


「こけしが水子供養か……。でも、それって確か、都市伝説の類じゃなかったかしら?」


 こけしを漢字で書くと≪子消≫となる。皐月はふと、そんな話を思い出した。


 東北の寒村で、生まれた子どもを養うことが出来ない貧農の家は、仕方なく間引きを行ったと言われている。その際に殺された子の霊を弔うため、こけし人形が作られたとされる説だ。


 一見して説得力のある説だが、皐月はこれを単なる創作の類であると考えていた。そもそも、本来のこけし人形は、子どもが生まれた時に祝福の意を込めて作る物。生まれたばかりの子の背丈と同じ大きさの人形を作り、後の成長を測るためにも使われるという話を聞いたことがある。


 こけしが水子供養に使われるのは、怪談好きの誰かが語りだした作り話に過ぎない。このときまでは、少なくともそう思っていた。が、老婆の話を聞く限りでは、どうやらまんざら嘘というわけでもなさそうだ。


「ほれ、これを見てみい。このこけしは、こうして中に亡くなった童の遺品を詰めることができるようになっておるのよ」


 そう言って、老婆はこけし人形の首に手をかけると、それをくるくると回して取り外した。人形の中は空洞になっており、そこには何やら小さな紙のような物が入っている。皐月が手を伸ばして取り出してみると、それは村の少女を移したと思しき一枚の写真だった。


「この写真の人、この村の高校生ですか? こけしの中に入ってるってことは、もう亡くなった人ってことですよねぇ……」


 皐月の後ろから首を伸ばし、芽衣子が写真に写っている少女の姿を見て言った。が、老婆は静かに首を横に振ると、彼女の言葉を否定した。


「いんや。こいつは遺品なんぞではなく、呪いに使われた物さね。一度、社に奉納されたこけしには、禍妻様のお力さ宿っておる。そのこけしに、呪いたい相手の写真や持ち物なんぞを詰めて燃やして……それを再び納めることで、禍妻様に呪詛の願いが届けられるのじゃよ」


 喉の奥で殺すようにして、老婆は笑いながら言ってのけた。なにやら不気味な物を感じ、芽衣子が少しばかり後ずさる。知らない者から見たら、この老婆もまた妖怪か何かの仲間ではないのかと思わずにはいられない。


「禍妻様の呪いか……。でも、こう言っちゃ悪いけど、呪いなんてそう簡単にできるものじゃないわよ。こけしに呪いたい相手の持ち物を詰めて、それを燃やすだけで呪詛が成立するんだったら……もっと、色々なところで呪いが起こっていても不思議じゃないと思うけど?」


 完全に場の空気に飲まれてしまっている芽衣子を他所に、皐月はあえて老婆に疑問をぶつけてみた。退魔具師として向こう側の世界・・・・・・・に関わる以上、呪いの存在を信じないわけではない。しかし、だからこそ、何でもかんでも安易に信用するわけにもいかないのだ。


「ほう、なかなか鋭いねぇ、お嬢さん。お前さんの言う通り、この呪いをかけるには、ちょいとした条件が必要なのさ。そいつを説明するには、ちょいとばかり、この社の由来を話さねばならなくなるが……それでもええか?」


 不敵な笑みを浮かべつつも、老婆は質問に質問で返してきた。皐月はそれに黙って頷くと、とりあえずは老婆の話に耳を傾けることにした。


 場所を社の縁側に移し、老婆は賽銭箱を前に語り出した。老婆の名は澤村米子さわむらよねこ。この村にある社を管理している人間だが、神職に就いているわけではない。ただ、無人の神社が荒れ果てないよう、暇を見つけて境内の掃除などをしているだけとのことだった。


 彼女の話では、ここの村は神凪村と呼ばれる場所らしい。今では離農と過疎が進み、人口は年々減っている。県立の小学校と中学校、それに辛うじて高校が残ってはいるものの、昨今の少子化の煽りも受けて、それとて後数年以内には廃校になることが決定していた。


 地方の村では、特に珍しくないことである。村の行末には興味を示さず、皐月はこの社の由来について訊ねてみた。すると、老婆は何やら少し考え込んだ様子を見せた後、この村に伝わる昔話を語り始めた。


 昔、それこそ今から数百年も前のこと、この神凪村には随分と力のある地方領主が住んでいた。彼女は≪御前様≫と呼ばれ、村の決まり事は全て彼女によって決められた。彼女の先祖がどこから来たのかは定かではないが、その力によって村を興した功績から、人々により崇められている存在だったという。


 御前様の正体については、米子の話を聞いた皐月にもわからなかった。都落ちした皇族の血を引く一族だったのか、はたまた倭寇の元女親分だったのか。考えられる可能性はたくさんあったが、今は気にする必要はなさそうだ。


 老婆の話によると、この村には御前様が現れる以前から、忌まわしき風習があったという。なんでも、神凪村では身体に障害を負って生まれた子のことを≪忌子≫と称し、名前さえも与えずに殺したのだという。そればかりか、忌子を産んだ女も≪禍妻≫と呼んで差別と偏見の眼差しを向け、村から追放したというのだ。


 老婆は淡々とした口調で語っていたが、皐月は早くも胸が悪くなってきた。日本の寒村に間引きの風習があったのは知っていたし、当時の食糧事情などを考えれば、それも致し方のないことだったのかもしれない。増してや、身体に障害を抱えて労働力として使えない子どもなど、真っ先にその対象とされたのだろう。


 しかし、だからといって、生まれたばかりの命を大人の身勝手な都合で殺めて良いという理由にはならない。先ほど、自分の頭に浮かんで来たこけしの都市伝説を思い出し、皐月はいつしかそれが単なる創作ではないのではないかと考え始めていた。


「この社の名は揖斐呼いびこ神社というのじゃが、勘の良いお前さんには、もうわかっておろうな。揖斐呼は忌子が訛ったもの。つまりは、無残にも殺された忌子を弔うために建てられた社ということよ」


 皐月の顔を覗き込むようにして、老婆はそう説明した。だが、まだ疑問は残る。忌子は本来、その村にとって忌むべき者。ならば、なぜそのような存在を、わざわざ弔う必要があったのか。皐月がそれを訊ねるよりも先に、米子は再び話の続きを語りだした。


 米子の話によると、この村にはかつて藤吉と小萩と呼ばれる仲の良い夫婦がいたそうだ。二人はやがて子を設けたが、こともあろうか、その子どもは忌子に他ならなかった。当然、村人は二人の子を殺し、果ては小萩も村から追放しようとしたものの、藤吉はそれを許さなかった。


 やがて、忌子と禍妻をかくまったとして、藤吉の家には御前様が直々に村の男達を連れて現れた。それに対して藤吉は、自ら刀を抜いて立ちはだかり、時間を稼いで小萩を山へと逃がしたという。が、やはりそこは女の足。その上、生まれたばかりの赤子まで連れているとなれば、そうそう簡単に逃げおおせるものでもない。


 案の定、小萩は村の男達に包囲され、最後は御前様の手によって忌子共々殺されたという。しかし、彼女の怨念は死してもなお残り、やがては彼女の躯を一匹の悪鬼へと変えた。そして、人であることを捨てた彼女は村へと舞い戻り、最愛の夫の刀を片手に、誰かれ構わず村人を斬り殺したのだという。


「うわぁ……。なんか、とっても暗くて陰湿な話ですねぇ……」


 今まで黙って話を聞いていた芽衣子が、思わず顔をしかめて口にした。昔話ということで、寝物語のような日本の民話でも期待していたのだろうか。残念ながら、米子の口から語られたのは、聞くも無残な血生臭い歴史。都会育ちの芽衣子にとって、これは少々刺激が強過ぎた。


「結局、その後は村の者が総出でかかり、なんとか小萩の化けた悪鬼を退治したのよ。じゃが、その後の祟りを恐れ、村の衆は小萩と殺された忌子たちの霊を弔うための社を建てた。最後まで御前様は反対しおったようじゃが、村の惨状を放っておくわけにもいかんでの。こうしてできたのが、この揖斐呼神社というわけじゃよ」


 顔色を悪くしている芽衣子には構わず、老婆はそう言って締めくくった。生まれながらにして身体に障害を抱え、それだけで殺されねばならなかった忌子。そして、忌子の母親として、今までの人生の全てを奪われ、人であることさえ許されない存在となった禍妻。


 彼女達の無念を考えれば、小萩が悪鬼として蘇ったのもわかる気はする。が、しかし、それでも疑問は残る。この社の由来はわかっても、それではこけしと呪いの話の説明にはなっていない。


「ねえ、米子さん。村の伝承と神社の由来はわかったけど、それだけじゃ呪いの説明にはならないわ。たぶん、この神社で祀られているのは、その小萩さんって人の霊なんだろうけど……いったい、どうすれば小萩さんが、呪詛の願いを聞き届けてくれるのかしら?」


 単刀直入に、皐月は米子に切り出した。自分が訊きたいことは、正にそこだ。今、村で起きている騒ぎが呪いによるものだとすれば、その仕組みを知らないことには話にならない。


「おお、そうじゃったな。殺された小萩の御霊は、言わば母親の味方とも言える存在よ。特に、彼女は自分と同じ境遇の者に情けの心を見せるようでの。我が子を亡くした親の願いなら、大概は聞き届けてくれるそうじゃよ」


 皐月に急かされ、米子は思い出したようにして口を開いた。恐ろしい悪鬼のことを話しているはずなのに、その口調はいつしか穏やかな物に変わっていた。


「ふうん……。だったら、この呪いにしても、誰でも自由にかけられるってわけじゃないのね?」


「その通りじゃよ。禍妻様に願をかけられるのは、子を亡くした親だけと決まっておる。特に、≪黒子消≫の呪詛を仕掛けるには、随分と難しい手順が必要となるのじゃ」


「黒子消の呪詛?」


「左様。黒子消とは、さっきお前さんたちに見せた、あの黒焦げのこけしのことよ。あれを仕掛けられるのも子を亡くした親、それも母親だけと決まっておる。子を亡くした母親が、既に奉納されているこけし人形の中身を呪いたい相手の写真や毛髪とすり替える。そして、それを黒焦げになるまで焼いた後、再び奉納することで、呪詛の儀式は成り立つのじゃ」


「こけしを焼いて、また奉納する? 既に水子供養に使われていた物を使うってことは……どうやら、その亡くなった水子の無念を、そのまま怨念に変えて使用できるみたいね」


「そういうことじゃ。しかし、呪いをかけられる相手も、誰でも自由に選べるわけではない。この呪詛で呪い殺せる相手は、女子だけと決まっておるのよ……」


「なるほどね。女性が女性を殺すための呪いってことかしら? だとしたら、呪いを仕掛けた犯人も、直ぐに見つかるかもしれないわね」


 米子からの話を聞いて、皐月は独り納得したように頷いた。


 鬼女と化して村人を殺してまわった小萩の怨念は、相当なものがあったはずだ。そんな小萩が、自分と同じように子を失った母親に、憐れみの情を抱いても不思議ではない。この社にムカサリ絵馬が奉納されていることからも、小萩は恐ろしい呪詛神としての一面を持ちつつ、同時に母親の守護神的な役割も担っていると言える。


 典型的な御霊信仰の在り方だ。古来より、この日本では神霊の祟りを鎮めるために、悪霊を神として祀ることで怒りを鎮めてもらうという方法を取って来た。京都にある上御霊神社や下御霊神社は言うに及ばず、あの有名な北野天満宮でさえ、元々は菅原道真公の怨霊を鎮めるために建てられた。平将門の首塚なども、恐ろしい心霊スポットとしての一面を持ちながら、同時にパワースポットとしても人気が高い。


 揖斐呼神社に祀られている小萩の霊も、恐らくはそういった御霊信仰の類なのだろう。禍妻様の呪いが女にのみ効果をもたらすなど、いくつか理由のわからない部分もあったが、それでも十分な収穫だった。


「ありがとう、米子さん。でも……最後に一つだけ訊かせてちょうだい」


「なんじゃ。まだ、何か訊きたいことでもあるのかえ?」


「ええ、ちょっとね。米子さんは、どうして私にこんな話をする気になったのかしら? 普通、こういう話は、他所の土地の人間には語らないってお約束があるはずだけど?」


「ああ、そんなことかい。だったら、話は簡単じゃよ。この村の者は、禍妻様の存在を未だに忌むべきものとしておるからの。自分達の先祖が持つ後ろ暗い歴史……。それを忘れるために、あえて知らぬふりをしておるのよ」


 どこか遠くを見つめながら、米子は寂しそうに呟いた。そういえば、彼女が村人に叫んでいたとき、その声に耳を貸そうとする者は誰もいなかった。あまつさえ、彼女のことを邪険に扱い、鬱陶しそうな視線を向ける者も多かった。


 禍妻様の生まれた経緯を考えれば、村の人間がそれを忘却の彼方へ押しやりたいというのもわかる気がする。差別と偏見によって人々が苦しめられていた時代は終わりを告げ、今は閉鎖的な農村など次々に消滅してきている。この神凪村とて、例外ではないのだろう。


 だが、それでも、かつてこの村で恐ろしい惨劇があった事実までは消すことはできない。下らない迷信に縛られて、何の罪もない親子を殺した村の人間の業。それを知った上で、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、この揖斐呼神社はあるのではないか。


 御霊信仰は、単に悪霊を封じるためのものではない。過去の過ちを繰り返さぬよう、人々の心に楔を刺す。怨霊を神として祀るということは、それだけ後世の人間に残したい何かがあるからなのだ。


「もうじき、この村も過疎でなくなる。後、十年もすれば、揖斐呼神社諸共に地図から消え失せるじゃろう。そうなれば、禍妻様の伝説も無くなると……村の衆は、本気でそう思うとるのよ」


「米子さん……」


「この神社の由来を知り、手入れを続けておるのは既に私だけじゃ。だから、村の連中は、私のことを半ば狂人のように扱いよる。村が消えずとも私が先にあの世へ行けば、やがては社も森に覆われて消える定め。それを、知っておるのじゃろう」


 ほうっ、と大きな溜息を吐いて、米子は重たい腰を上げて立ち上がった。その途端、境内の木々に止まっていた烏が一斉に飛び立ち、ギャアギャアと騒いで方々へ散ってゆく。


「こんな年寄りの戯言に、最後まで耳を貸してくれたお礼じゃ。お二人さんには、これを渡しておこうかの」


 懐から何やら小さな布切れのような物を取り出し、米子はそれを皐月と芽衣子に手渡した。よくよく見ると、それは赤と青の布地で覆われた、どこにでもあるようなお守りだった。


「この、揖斐呼神社に伝わるお守りじゃよ。これを持っていれば、禍妻様から睨まれることもない。村で妙なことが起きているだけに、他所者のお前さんたちも注意した方がええ」


「ありがとう、米子さん。それじゃ、遠慮なくいただいておくわね」


 米子の手からお守りを受け取り、皐月はそれをポケットにしまった。赤い方は芽衣子に渡して、皐月もまた社の縁側から腰を上げた。


 鳥居を抜けて帰る際、皐月は一度だけ後ろを振り返って上を見た。そこには誰の姿もなく、ただ鳥居だけが、その場を守るかのようにして静かに鎮座しているだけだ。


 二人の後を追って来なかったことを考えると、米子はまだ境内にいるのだろうか。社の掃除などを手掛けていると言っていたので、もしかすると、まだ仕事が残っているのかもしれない。


 米子がなぜ、こちらに話をする気になったのか。その本当の理由は、皐月にもわからなかった。ただ、今までの話からして、あの老婆が村の中でも快く思われていないことは確かである。その理由が、揖斐呼神社の由来を村人たちの記憶から抹消するためだとすれば、これは随分と酷い話だ。


 神社を管理する米子もまた、向こう側の世界・・・・・・・に通じる力を持っている人間なのだろうか。一瞬、そんなことも考えたが、今となっては些細なことに過ぎなかった。


 あの老婆は、恐らくは寂しかったのだろう。だから、例え他所者であろうとも、皐月と芽衣子に揖斐呼神社の由来を話したのだ。少しでも自分の話を真剣に聞いてくれる者。二人のことをそう判断し、禍妻と忌子の悲しき歴史を伝えたのではあるまいか。人々の記憶から、非業の死を遂げた小萩のことを消させないために、あえて二人に村の暗部を語ったのではないか。皐月には、そう思えてならなかった。


 久しぶりに、随分と歪んだ人間の業を見せつけられた。老婆の存在を無視し、社が朽ち果てるのを待ったところで、この村に住む人間の先祖が犯した罪は消えないというのに。


 木々の間で鳴き始めたひぐらしの声を背にしながら、皐月はなんともやるせない気持ちで揖斐呼神社の石段を後にした。

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