~ 壱ノ刻 封鎖 ~
鳴澤皐月が山を降りたとき、既に辺りは日が落ちかけていた。
橙色の太陽は、既に半分ほど谷間へと姿を隠している。後、数十分もすれば、やがて夜の帳が降りてしまい、辺りはすっかり暗闇に包まれるだろう。
林道の脇に止めた車のトランクの蓋を上に上げ、皐月はそこに置かれたジュラルミンケースの鍵を開けた。ケースの蓋を開けると、中には拳銃や木刀のような物に混ざって、なにやらたくさんの小瓶が入っている。
ある物には水晶のような鉱石の欠片が、また別の物には、なにやら苔の塊のような物が詰められていた。中には毒々しい色の植物や、虫の死骸まで入っている物もある。知らない者が見たら、漢方薬の材料でも集めているのではないかと思うことだろう。
懐から新たな小瓶を取り出して、皐月はそれをジュラルミンケースの中にそっと置いた。ケースの中に新たな瓶が陳列されたところで、皐月は自分の背後に近付く足音に気づいて後ろを振り返った。
「うぅ……。お姉様、歩くの早過ぎですよぉ……」
声の主は、片手に登山用のストックを持った若い女性だった。皐月の助手の、周防芽衣子だ。童顔で精神年齢も低いためか、皐月と比べても芽衣子は随分と若く見られることが多い。もっとも、二人の年齢は十歳までとはいかないが、それでも一回り近く離れているのは事実だったが。
「遅いわよ、芽衣子。あまりぐずぐずしていると、今に日が暮れちゃうわ」
「そんなこと言ったって……私、山歩きは苦手なんですよぉ……。足は痛いし、泥だらけになるし、虫はたくさん出るし……。もう、こんなところ嫌ですぅ……」
ストックに全体重をかけ、芽衣子はよろよろとした足取りで皐月に泣きついて来た。だが、彼女の性格を知っている皐月は、冷静にその様子を窺っているだけだ。優しく声をかけることもなければ、間違っても手を差し伸べることもしない。
「ああ、もう駄目ですぅ~! 私……ここで死んじゃいますぅ~!!」
果たして、皐月の予想通り、芽衣子はわざとらしくストックを放り投げ、皐月の胸目掛けて飛び込むようにして倒れ込んだ。が、皐月はそれを難なく避け、芽衣子の身体は虚しく宙を舞って地面に激突した。
「いった~い!! ひ、酷いですよぉ、お姉様ぁ……。なんで、受け止めてくれなかったんですかぁ!?」
打ち付けた鼻面を抑え、芽衣子が目に涙を浮かべて抗議の声を上げる。それを見ても、皐月は相変わらず知らん顔。半ば呆れた様子で溜息をつきながら、転がったストックを拾って芽衣子の前に放り投げた。
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。どうせ、どさくさに紛れて、私の変なところを触ろうとか考えていたんでしょ?」
「うぐっ! な、なぜそれを!?」
「悪いけど、あなたほど行動パターンが読みやすい娘も、今時珍しいわよ。それよりも……本当は、もう立てるんでしょ? だったら、早く起き上がって仕度しなさい」
目の前で転んだ者に対して、この仕打ち。傍から見ると、今の皐月は随分と冷たい人間に映ったことだろう。だが、それでも、ここで気を許してはいけないことは、皐月自身が一番よく知っている。何を隠そう、芽衣子は真性の同性愛者。その上、顔に似合わず公然で堂々とセクハラ行為を働くこともあるのだから、彼女を知る者からすればたまらない。
そんな芽衣子ではあったものの、これでも立派な皐月の弟子だ。腕も確かで、特に宝石類に細工をする技術だけならば、既にプロの領域に達している。現に、皐月が東京で経営しているジュエリーショップは、ほとんど彼女が一人で切り盛りしているようなものなのだ。仕事の都合で店を留守がちにする皐月にとって、これだけは唯一の助かるところだった。
洋服に付いた泥を払い、芽衣子が車のトランクに背中のリュックサックを放り込んだ。リュックサックの口から覗いているのは、これは何かの枝だろうか。葉と小枝を落とされた比較的太めの枝が、乾いた音を立ててぶつかった。
全ての荷物を積み終えたところで、皐月はジュラルミンケースの蓋を閉じる。次いで車のトランクも閉め、しっかりとロックがかかったことを確かめる。そして、芽衣子が助手席に乗り込んだのを見計らって、自分も運転席へと移動した。車にキーを差し込むと、夕刻の山に軽いエンジン音が鳴り響く。
「ふぅ……。ようやく、山歩きから解放されましたよぉ……。もう、こんな場所に来るのはこりごりですぅ」
助手席で、自分の脚をさすりながら芽衣子がぼやく。彼女の言いたいこともわからないではないが、それでも皐月は首を縦には振らなかった。これから先、芽衣子にも色々と仕事のノウハウを教えるに当たって、時に深山幽谷とした山の中へと足を踏み入れるのは不可欠ともいえることだからだ。
皐月の仕事は、表向きはジュエリーショップの店長ということで通っている。しかし、その本当の顔は、現代を生きる霊能力者の一人。それも、テレビに出て霊視などをするような類の人間とは少々異なり、霊的な存在と戦うための武器を作ることを生業としていた。
退魔具師。霊的な存在、向こう側の世界の住人と呼ばれる者たちのことを知る人間からは、皐月のような武器職人は、そう呼ばれていた。
霊能力者の中には、時に霊的な存在と戦うことを生業とし、それで生計を立てている者も存在する。だが、それらの人間は戦うことに特化した能力を持ってはいても、自分で自分の武器を作るだけの技術がない。いかに優れた力を持っていたとしても、霊能力者は超能力者とは似て異なる。誰も彼もが念力のような力で霊を調伏できない以上、どうしても、霊的な存在と戦うための武器が必要となる。
そんな時、やはり頼りになってくるのは、皐月のような退魔具師だ。彼女のような武器職人が作る道具は、その辺の寺や神社で売られている気休めの護符などとは訳が違う。本当に本物の力を持った人間が用いれば、並みの悪霊であれば軽く祓ってしまうだけの威力を発揮する。
それらの退魔具を作り、そして時には自ら作った道具を持って、事件の解決さえもやってのける。本業はあくまで武器職人だが、実際に皐月が行っていることは、半ば何でも屋に近い仕事だった。
大きく蛇行した山道を下りながら、皐月はふと、今日の収穫について考えた。相変わらず芽衣子は文句を言っていたが、それでも今日は、随分と良い素材を手に入れられたと思う。こんな山奥まで足を伸ばしただけあって、実に質の良い霊木と出会うことができた。ここまで良質な素材は、このご時世ではなかなか入手することが難しい。
皐月が退魔具を作る際、問題となるのはその材料である。なにしろ、霊的な者を退治するための道具を作るのだ。その辺の店で、適当に買えるような素材では話にならない。どのような退魔具を作るにしても、その素材として霊的な力の宿った物を使うことが不可欠となる。
一昔前、それこそ戦前から戦後直ぐの日本であれば、まだ多くの自然が残されていた。皐月の仕事に理解を示す者も多く、微弱ながらも霊能力を持っている人間も多かった。その大半は年配の僧侶や神主などだったが、彼らは皐月のような人間に、ほとんど無償で退魔具の材料を譲ってくれたという。
しかし、そんな都合の良い話も、今となっては昔のこと。皐月が生まれ、物心ついた頃には、既にこの日本でも多くの場所に開発の手が伸びていた。山は崩され、森は切り開かれ、場所によっては気の流れさえも大きく歪められる程に開発が進められた。皐月が父親の後を継ぎ、この仕事を本格的に行うようになったときには、退魔具の素材を集められる多くの場所が失われた後だった。
結局、そうなってしまっては、後は昔の伝手を頼って素材を集めざるを得なくなる。霊水晶のような鉱石であれば、その手の石を扱う商人から買うことも可能だ。少々値が張るのが欠点だが、ネットも普及した現代では、オンラインでの取引で入手することも可能ではある。
だが、それに比べて霊木のような、生きた素材だけは別だった。
霊木とは、その名の通り樹齢数千年を経て霊気を十分に蓄えた木のことを指す。通常は御神木などと呼ばれて神社の境内に祀られている存在だが、人里離れた山奥に行くと、稀にそういった木が天然自然の中にも自生していることがある。
これらの木の枝を加工して作る退魔具は、当然のことながら、神社の授与所で参拝客に売られているような護符とは物が違う。また、護符だけでなく、枝を削って木刀に加工すれば、霊能者が持つことで幽霊を叩き斬れる武器、霊木刀を作り出すことも可能だ。退魔具師の仕事をする際には、霊木の存在は不可欠であると言っても良い。
ところが、そんな霊木でありながら、その入手は今となっては随分と困難になった。霊木となる木の種類は様々だが、樹齢数千年の大木となると、そう簡単に生えているものではない。また、以前は田舎の山々に行けば譲ってもらえた種類の木も、山間部の過疎化や林業従事者の減少から、確実に入手が困難になってきている。
例えば、樅。クリスマスツリーとして使われることで有名だが、日本では昔から卒塔婆や棺桶を作る際にも用いられてきた。その他にも、神社で用いられる木札の類を作る際に使われることも多い。
そんな樅でさえ、今では後継者問題が深刻なのだろうか。単なる木材として使えるような素材は簡単に手に入っても、退魔具の材料にできるほどの優秀な素材には、なかなかどうしてお目にかかれない。現に皐月も、自分のお得意先としている村を除いては、優秀な樅の手に入る場所を知らないのだ。
昔は、どこの村にも退魔具師に協力してくれる人がいて、そういった人が山奥に生える霊木を守り続けていたという。しかし、今のご時世、林業に従事する者はどんどん減っている。そんな中で、霊能者のために霊木を守り続けてくれる酔狂な人間など、そうそういるはずもないのは当然だ。
林業の辛さは肉体労働もさることながら、その生産サイクルの遅さにもある。なにしろ、一生をかけて木を育て、ようやく売り物を作れるかどうかといった仕事である。中には事業に失敗し、大きな借金を抱えた結果、泣く泣く山を売り払って兼業農家に転じる者も少なくない。そうなると、今までは大切に守られてきた霊木も、山の開発と同時に切り倒されてしまうようなこともある。もしくは、霊木までの山道が封鎖され、二度と再びその下を訪れることができなくなってしまう。
そして何よりも問題なのが、山の所有者が変わったことで、山に立ち入ることができなくなってしまうことだった。どんなに人里離れた山であっても、その土地が誰かの所有物である限り、勝手に入ることは許されない。ましてや、そこにある木の枝を折り取るなど、下手をすれば犯罪行為だ。
今回の霊木収集も、皐月は山の持ち主にきちんと許可をとっている。幸いにして、この山の所有者は皐月の父の知り合いだった。そのため、皐月の仕事にも理解を示してはくれているが、この近くに住んでいないというのが困りものだ。結局、案内人もつかないまま、自力で霊木の場所まで行かねばならないというのが少々辛い。
だが、それでも、皐月はやはり霊木の持つ強い力の魅力には抗えなかった。
今の時代、霊木は貴重な素材の一つだ。山奥まで自ら赴かねば手に入らないのは残念だが、足を運ぶだけの価値はある。普段は黒いスーツにヒールという都会的なファッションを好む皐月だったが、今日はそれらを全て排し、ガチガチの登山スタイルで山に挑んだ。真に高い質を持った霊木には、皐月にそこまでさせるだけの魅力がある。
「あ~あ……。なんか、足に豆ができちゃったみたいですぅ~」
助手席で、自分で自分の脚を揉んでいる芽衣子がぼやいた。皐月と違い、普段の彼女は店で留守番をしていることが多い。そのため、このような山歩きにも慣れておらず、足の裏の皮が剥けてしまったようだった。
「ちょっとは我慢しなさい。麓の街に着いたら、そこで温泉にでも連れて行ってあげるから」
「えっ、本当ですかぁ!?」
温泉と聞いた途端、芽衣子の顔がパッと明るくなった。今までの愚痴など忘れて気分を変えられる芽衣子が、こんな時は少しばかり羨ましく思えてくる。
「まあ、あなたも今日は、随分と頑張ったと思うからね。せっかくのお休みを潰して同行してもらったんだし、少しくらいは旅行気分を味わってもいいんじゃない?」
人気のない山道を走り抜けながら、皐月はにやりと笑って見せる。皐月自身、今回の素材収集の帰りには、ちょっとしたバカンス気分を味わいたかったというのは事実だ。それに、普段は店番しかしていない芽衣子にとっても、今日の強行軍は堪えたことだろう。
皐月が芽衣子を連れて来たのは、彼女にも退魔具師としての仕事を教えるためである。東京のど真ん中で暮らしているだけでは学べないこと。そういった類のことは、実際に現場に出て教えないと覚えてもらえないことが多い。
皐月と違い、芽衣子は物体に宿った残留思念を読み取る力に長けている。しかし、そんな彼女の力を持ってしても、やはり霊木選びは現地で実際に木の持つ霊気を肌で感じなければ駄目なのだ。いくら優れた力を持っていたとしても、最終的に物を言うのは技術と経験である。職人的な側面の強い仕事は、時にこうしたフィールドワークを必要とすることも多いのだ。
落石注意の看板を通り過ぎたところで、皐月は辺りが随分と暗くなっていることに気がついた。もうじき林道を抜け、道は小さな村を通り抜ける県道に入るはず。が、山奥から抜け出そうとしているにも関わらず、なぜか辺りはどんどん暗くなってきている。
夜の帳が完全に降りるまでには、もう少しだけ時間があったはず。そう思った矢先、皐月はこの暗さの原因が何なのかを知ることとなった。
車のフロントガラスに降り注ぐ、大粒の雨。夕立ならぬ、夜立と言ったところだろうか。急に降りだした雨に軽く舌打ちをしながらも、皐月は慎重に車の速度を落としつつ、ワイパーとライトを起動させた。
山の天気は変わり易い。それは、どのような季節でも例外ではない。山を降りることに夢中になって、いつしか発達した積乱雲の真下に潜りこんでしまったようだ。時折、空を覆う黒い雲の中で、何かが断続的に光っているのが見える。
「まったく……。ここまで来て夕立なんて、ついてないわね」
「本当ですぅ。でも、雨が降る前に車に戻れてよかったですね」
黒雲に覆われた空を、芽衣子が不安そうに見上げながら言った。その途端、空が今までになく激しく光り、次いで物凄い轟音と共に雷が落ちる。
「ひぃぃぃぃっ! ち、近くに落ちましたよぉぉぉぉっ!!」
大袈裟に両手で耳を塞ぎ、芽衣子が身体を丸めて叫んだ。一瞬、皐月は演技かとも思ったが、恐らくこれは本気だ。霊に関わるような仕事をしていながら、芽衣子は妙に怖がりで、おまけに気が弱く泣き虫なところもある。
「大丈夫よ、芽衣子。落ちたと言っても、たぶん山一つ越えた場所だと思うから」
そう、皐月が言ったそばから、再び空が光って雷が落ちる。しかも、今度は先ほどよりもさらに近く。明らかに皐月達が下っている山のどこかに落ちたようだった。
「ぎゃぁぁぁぁっ! もう駄目ですぅ! 助けてください、お姉様ぁ!!」
ほとんど半狂乱になりながら、助手席の芽衣子が皐月に抱きついて来た。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったその顔に、普段の愛らしい様子は欠片も無い。
「ちょ、ちょっと芽衣子! こっちは運転してるんだから、そんなにしがみつかないで!!」
「嫌です、駄目です、怖いですぅ~! 私、雷苦手なんですよぉ~!!」
「だからって、このままじゃ下手すると事故るわよ! あなた、それでもいいの!?」
「わ……私は、お姉様と心中できるんなら、それも本望ですぅ! だから……最後に、その豊かな胸元を、今一度……」
肩にしがみついている手が胸に伸びて来たところで、皐月はそれを容赦なく振り払った。
最悪だ。このどさくさに紛れて、芽衣子はまたもや邪なことを考えている。こんなところでハンドルを切り損ね、挙句の果てには芽衣子と心中など……いくらなんでも、それは御免こうむりたい。
「こら、芽衣子! 運転中に、変なところ触ろうとするんじゃないの!!」
「別に、ちょっとくらいならいいじゃないですかぁ……。それとも、お姉様、照れてるんですかぁ? あっ、きっと、そうですよね。もしかして、お姉様ってツンデレなんですか? そうに違いないですよね?」
「違うわよ、もう! いいかげんにしないと、本当に怒るわよ!!」
片手でハンドルを切りながら、皐月は芽衣子の魔手から自分の身体を守るので精一杯だった。こうなっては、もう仕方がない。あまり手荒なことはしたくないが、事故を起こして死ぬよりマシだ。
「せいっ!!」
気合の入った掛け声と共に、皐月は芽衣子の鳩尾に強烈な左ストレートを叩き込んだ。拳は見事に急所に決まり、芽衣子は軽い悲鳴を上げて意識を失った。
「ふぅ……。まったく、冗談じゃないわよ、本当に……」
溜息交じりに呟いて、なんとかハンドルに両手を戻す皐月。しかし、それも束の間。彼女の目の前には白い二本のガードレールが、もう直ぐにそこまで迫っていた。
「……っ! いけない!!」
急ブレーキをかけつつも、皐月は強引にハンドルを切った。濡れた路面は滑り易く、車のタイヤがスリップする嫌な音が響き渡る。それでも強引にブレーキを踏みながらハンドルを切ると、車は辛うじてガードレールに直撃する寸前で軌道を変えた。
瞬間、軽い衝撃が、車のハンドルとシートを通して伝わった。直撃は避けたものの、どうやらガードレールで車の後部を擦ってしまったようだ。
遠くの山に落ちる雷の音を聞きながら車を走らせ、皐月は東京に帰ってからのことを考えて気が重くなった。傷の程にもよるが、車の修理代は決して安くはない。今の気持ちを現すならば、まさにこの空模様と同じ、土砂降りの雨と言った方がいい。
こうなったら、修理代は芽衣子の今月分の給料から引いてやろう。少しばかり意地悪かとも思ったが、今回ばかりは仕方がない。それに、本当ならば再三に渡るセクハラ行為への迷惑料も請求してよいくらいなので、むしろ有難く思って欲しいくらいである。
もうじき車は山を抜け、小さな村の中を通る県道へと入るだろう。未だ助手席で気を失っている芽衣子を横目に、皐月は慎重に車を走らせて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
曲がりくねった山道を抜けると、車は突然開けた場所に出た。
盆地と呼ぶには少々狭いが、それでもあちこちに田んぼの姿が見える。藁ぶき屋根の古い農家が立ち並び、どこか懐かしい田園風景が広がっている。
これで雨さえ降っていなければ、もう少しだけのどかな雰囲気を楽しめたかもしれない。そう、頭では思うものの、皐月は口に出さず車の運転に意識を集中させた。
舗装されているとはいえ、それでも田舎の道は悪路が多い。こんな場所でハンドルを切り損ね、まかり間違って田んぼにでも落ちれば……それこそ、そこから先は最悪の展開しか待っていない。
山道を抜けたとはいえ、ここはまだ山の中腹付近。街に出るには、まだ少しばかり車を走らせねばならない。
視界の悪さに悪態を吐きつつも、皐月は車の速度を落として慎重に運転を続けた。幸い、村の出口に向かう県道は一本道のため、道に迷う心配だけはない。
山の向こうで鳴り響く雷の音と、それから古びたバス停の標識。様々な物を横目にしながら、皐月が村の出口に差し掛かったときだった。
県道の中央に赤いカラーコーンが置かれ、そこに黄色と黒の棒がひっかけられているのが見える。更に目を凝らすと、コーンの側には一人の男が経っており、レインコート姿のまま赤い誘導灯を振っていた。
「ねえ……。いったい、何があったの?」
車を止め、皐月は窓を開けてレインコートの男に訊ねた。よくよく見ると、男の頭には警察官のかぶる帽子が乗っている。恐らく、この村の駐在だろう。大きな丸眼鏡が特徴的な、小役人と呼ぶのに相応しい顔つきをしていた。
「あんれ、こいつは珍しいな。こんな山ん中で、べっぴんさんが揃って何してるべ?」
「悪いけど、先を急いでいるのよ。検問か何かじゃないんだったら、早く通してくれない?」
「いんや、すまねえが、そいつはできねえ。こん先で、なんや崖崩れがあったらしくてな。こっから先は、今は通れんことになっとんのよ」
「そんな……。この村から出る道って、これ一本だけなんでしょう? だったら、このまま車の中で夜を明かせって言うの?」
「うむ……。確かに、お嬢さん二人を野宿させるちゅうのも、忍びないだが……。すっかたねえけど、ここは引き返して、村の民宿にでも泊まってくれねえだか? こっから三百メートルも行けば、≪柳屋≫ちゅう看板が出てるから、直ぐにわかるべ」
「民宿ね……。まあ、確かに今は里帰りのシーズンってわけでもないから、宿なしになる心配はなさそうだけど……」
駐在の言葉に、皐月は顔を曇らせながら言った。こんな田舎の辺鄙な村で足止めを食らうとは、今日はとことん憑いていない。駐在は民宿に泊まれと言ってくれているが、いくら帰省の時期ではないとはいえ、こんな時間に急に訪れて泊めてもらえるのだろうか。
「ああ、そうだ。民宿に泊まるんなら、駐在の安藤に言われたちゅえば、たぶん部屋を都合つけてくれるだよ」
皐月の気持ちを察してか、駐在が最後にそう付け加えた。警察と民宿に繋がりがあることに、皐月は一瞬だけ奇妙な感じを覚えたが、直ぐに気を取り直してハンドルを切り返した。
なにしろ、こんな小さな村だ。住民の数も限られているだろうし、今では過疎も進んでいることだろう。そんな村では、誰も彼もが知り合い同然。駐在と民宿の経営者が親しい関係にあったとしても、何ら不思議なことはない。
未だ降り続く雨の中、皐月は今しがた来た道を引き返すべく車を走らせた。本当は、一刻も早く山を降りたかったが、こうなっては仕方がない。
せっかく民宿に泊まるのだ。予定とは少し違ったが、こうなったら小旅行にでも来た気分で、宿の食事と風呂を堪能させてもらおうではないか。観光地の大ホテルには敵わないのだろうが、こういった田舎は、総じて食事が美味いところが多い。
なんだか自分でも随分と親父臭い考えに浸っていると気づき、皐月は思わず苦笑した。しかし、状況が変えられない以上、嘆いていても始まらない。今の状況を悲観するくらいなら、いっそのこと開き直って、存分に楽しんだ者の勝ちだろう。
「ふぅ……。今日の夕食は、新鮮な川魚の塩焼きでも食べられるといいわね」
民宿の食事に少しばかりの期待を抱きながら、皐月は車を急がせた。しかし、彼女達の真上では灰色の雲が、これから始まる惨劇の凶兆を示さんばかりに激しい雷鳴を轟かせていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
駐在の言っていた民宿は、それから直ぐに見つかった。
東北の寒村にある民宿にしては、≪柳屋≫と書かれたその宿は大きかった。なるほど、確かに駐在の安藤が言っていた通り、これなら直ぐにわかるだろう。
駐車場らしきスペースに車を止め、皐月は未だ助手席で伸びている芽衣子のことを叩き起こした。夢心地の状態から現実に引き戻され、芽衣子が眉間に皺を寄せて目を覚ます。
「うぅ……。あれぇ……? ここ、どこですかぁ……?」
「ようやく起きたわね。悪いけど、今日はこの村に泊まることになったから。あなたもいつまでも寝てないで、早く荷物を降ろす準備して」
「えぇっ!? な、なんで、そういう展開になるんですかぁ!? 温泉は……温泉は、どこに行っちゃったんですかぁ!?」
「文句言わないの。この先の道、崖崩れで通れなくなったみたいだからね。撤去が済んで、道が開通するまでは、この村から出ることはできないわよ」
「そ、そんなぁ……。山の麓の温泉、楽しみにしてたのにぃ……」
半分、泣きそうになりながら、芽衣子はがっくりと項垂れて溜息を吐いた。その間にも、皐月は車の扉を開けて、後部のトランクから荷物を引っ張り出した。
外は未だ激しい雨が降っていたが、そんなことなど構っていられない。手早く荷物を取り出すと、皐月は芽衣子を連れて民宿の戸を叩く。軒下にいるにも関わらず、横殴りの雨が否応なしに肩と髪を濡らしてゆく。
「おんや……。こんな時期にお客さんとは、珍しいこともあるもんだ」
程なくして、民宿の戸の向こう側から、年老いた老婆が姿を現した。この宿の経営者だろうか。およそ、田舎の村には似つかわしくない皐月と芽衣子の二人を見て、しばし驚いた表情のまま固まっている。
「ごめんなさいね、急に押しかけて。それよりも、今日はまだ、泊まれる部屋ってあるかしら?」
「空き部屋かえ? まあ、あるにはあるんだけんど……なにしろ、今は旅行客の多い季節でもねえからのう。あまり大層なもてなしできんが、それでもええか?」
「別に構わないわよ。こっちも、そう長居するつもりはないから。この先の道が土砂崩れで塞がっちゃって……それが開通するまでの間、お世話になるだけよ」
「土砂崩れかえ? そいつはまた、難儀な目に遭っただのう……」
皐月が事情を説明したことで、老婆も納得してくれたようだった。彼女は宿の帳場へと皐月達を招き入れ、直ぐに受付の奥から手拭を持ってきた。
渡された手拭で肩と髪の毛を拭きながら、皐月は改めて宿の中を見回した。
古びた宿ではあったものの、建物自体は随分と広そうだ。民宿と言うにしては、いささか大き過ぎる感じがする。帳場から奥に伸びる長い廊下が、そう感じさせるのだろうか。
しかし、その一方で、帳場そのものは随分と狭く感じられた。靴置き場には十分な広さが設けられているにも関わらず、この圧迫感はなんだろう。
ふと、靴箱の上に飾られている物を見たところで、皐月にもその原因が直ぐにわかった。そこに置かれていたのは、大小様々なこけし人形。大きい物から小さい物まで、そのどれもが全て同じ顔をして、同じ方向を向いて微笑んでいる。
「うわぁ……。なんか、ちょっと怖いかもですぅ……」
所狭しと並べられたこけし人形を見て、芽衣子が皐月の袖を引っ張った。普段であれば直ぐにでも腕を振り払うところだが、今回ばかりは皐月もそれをしなかった。
確かに芽衣子の言う通り、この人形の群れは少々不気味だ。退魔具師という仕事柄、この人形に何の曰くもないということぐらいは直ぐにわかる。が、それでもなんとなく違和感を覚え、人形の群れを横目にしながら帳簿に名前を書き込んだ。
いったい、この違和感は何だろう。胸の中に奇妙な靄を抱えつつも、皐月は老婆に案内されるままに廊下を進む。宿の部屋にはお約束の如く名前がつけられており、皐月達が案内されたのは≪イタヤの間≫と書かれた札の下がった部屋だった。
「お客さん達のお部屋は、こちらになりますだ」
「ありがとう、お婆さん。ところで……駐在の安藤さんって、あなたのお知り合いか何か?」
宿を紹介してくれた駐在の言葉を思い出し、皐月は老婆に何気なく訊ねた。それを聞いた老婆は一瞬だけ目を丸くしたが、直ぐに先ほどの柔和な顔に戻って皐月に答えた。
「あんた、トシ坊に会ったんかえ? あん子は私の甥っ子じゃよ」
「甥っ子? お婆さんの息子さんってわけじゃないのね」
「んだ。本当は宿の跡取りが欲しかったんじゃが、私は女子にしか恵まれんでのう。すっかたねえから婿養子さもろうて、なんとか宿を継いでもろうたのよ」
「そういうことだったの……。ごめんなさい、つまらないこと訊いて」
「いんや、お客さんが気にするこどじゃねえだ。こんなちっぽけな村の宿に、わざわざ婿養子に来てくれるなんぞ、それだけでもありがたいことじゃからのう」
申し訳なさそうな顔をする皐月を他所に、老婆はけらけらと笑っていた。自分の置かれている状況を理解し、開き直っているのだろうか。血筋や家系に縛られがちな田舎の人間にしては、随分と柔軟な考えを持っているものだと感心した。
やがて、老婆から鍵を渡されたところで、皐月は案内された部屋の中へと足を運んだ。畳みの香りが、どこか懐かしさを感じさせるような和室だった。
「へぇ……。仮初の宿にしておくには、勿体ないくらいね。派手さはないけど、こういうのも悪くないわ」
部屋を見回しながら、皐月は率直な感想を述べる。部屋は隅々まで手入れが行き届き、シーズンオフの宿とは思えない。どんな時でも、常に宿泊客を迎え入れるための準備を怠っていないという証拠だろう。
「お姉様ぁ~! のんびりしてないで、荷物を運ぶの手伝ってくださいよぉ~!!」
部屋の入口で、芽衣子が荷物を引きずりながら叫んでいた。
「はいはい、わかってるわよ。それよりも、無理して変な運び方して、荷物の中身をその辺に撒き散らさないように気をつけなさいよ」
そう言いながら、皐月は部屋の隅が気になって、何気なく視線をそちらに向けた。そこに置かれていたのは一体のこけし人形。帳場に置かれていたのと同じ物だが、こちらは随分と小ぶりなようだ。
そう言えば、この部屋の名前は≪イタヤの間≫だった。イタヤとは、こけしの素材になる木の名前。他の部屋の名前も、覚えている限りで≪ミズキの間≫や≪ヒトツバの間≫というのがあったような気がする。これらも全て、こけしを作る時に使われる木材の名前だった。
どうやらこの宿は、何やらこけし人形に対してのこだわりがあるようだ。いや、もしかすると、この村の特産品がこけし人形ということなのかもしれない。
ここは東北。こけしの産地としても有名であり、別に不思議なことなど何もない。帳場で感じた妙な違和感の正体が気になったが、この時点では、皐月はそれ以上の詮索をしようとは思わなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日の雨は、夜半になっても止むことがなかった。普段であれば小一時間ほどで止む夕立が、今日に限って未だに静まる気配を見せないでいる。
風が家々の戸を叩き、雷が空のあちこちで鳴り響いた。激しい雨は大地を穿ち、川がゴウゴウと音を立てて濁流を巻き上げる。まるで、山に住まう八百万の神々が怒りに震えているように、嵐はなおも激しく続く。
そんな豪雨の中、村の外れにある神社の石段を登る一つの影があった。黒いフード付きのレインコートを身にまとい、それは一歩ずつ確実に石段を登ってゆく。どれだけ雨に打たれ、風に吹き飛ばされそうになりながらも、決して歩みを止めずに歩を進める。
こんな嵐の日、それも真夜中であるにも関わらず出歩くとは、いったいどんな物好きだろう。
風が唸るようにして木々の間をすり抜け、激しい光と共に雷が落ちた。が、それさえも気にかけず、その者はひたすらに石段を登る。フードに隠されて性別も年齢もわからないが、その口元は確かにうっすらと笑っていた。
この雨も風も、そして雷さえも、全ては自分の味方である。そう言わんばかりの表情で、それは石段を登り鳥居をくぐる。鳥居の先に現れたのは、古びた小さな神社だった。社の横では奉納された絵馬が風にゆれ、カタカタと音を立てている。御神木と思しき巨樹に巻かれた紙垂が、これまた風に舞い上げられてはためいている。
やがて、境内にある祠の前まで来たところで、それは手にした棒のような物を力強く握り締めた。ところどころ錆の目立つ、バールのような形状をした金属棒。雨垂れが棒を伝わって、その先端から滴となってこぼれ落ちる。棒の先端は赤い錆に覆われており、その色を映した水滴は、まるで赤い鮮血が滴っているかのようだ。
雷鳴と共に、それは金属棒を大きく振りかぶった。そのままL字に曲がった先端を、祠の扉に取り付けられた南京錠に叩きつける。
金属と金属がぶつかる激しい音。しかし、それは直ぐに雨と雷の音にかき消される。二度、三度と繰り返して叩きつけている内に、やがて鈍い音がして、南京錠が転がった。幾度となく金属棒を叩きつけられたことによって、扉の一部が先に壊れてしまったようだった。
破壊された祠の扉を、それはそっと開いていった。祠の中に安置されていたのは、大小様々なこけし人形。中には随分と古い物もあるようで、ところどころカビに覆われたり、埃を被っていたりする物もある。最も奥に置かれた物は、今や完全に塗装が剥げ落ち、かつての面影さえ失っている。
そんなこけし人形の群れの中から、それは手頃な物を見つくろって懐に入れた。数は合わせて四体。大きさはどれも同じくらいで、古い物も新しい物もある。
目的の物は手に入れた。そう言わんばかりに、レインコートを着た者の口元がにやりと歪んだ。祠からこけし人形を持ち出すと、それはそそくさと神社を後にした。
破壊された祠の扉。その下には、今まで封印を守っていた南京錠が泥にまみれて転がっている。風と雨と雷と。そのどれもが一向に静まる気配を見せず、更に激しく荒れ狂う。
吹き荒ぶ風が格子戸の隙間を通り抜け、祠の中に雨水を運んだ。水滴がこけし人形の顔にかかり、一筋の滴となって下に落ちる。それはまるで、何の意思も持たないはずの人形が、これから起きるであろう惨劇に対し、悲しみの涙を流しているかのようだった。