第2話「兆し」
「一泊。いつもの料理で」
外套を着た客は、それだけ言うと帳場を離れた。
「あっ、ちょっと――」
声をかけたが、振り向きもしない。
慣れた足取りで廊下を進み、
勝手知ったる場所のように階段を上っていった。
失礼な客だ、と思った。
同時に、
いつもの料理って何だ?
という疑問が頭に残った。
厨房の隣には
オヤジが書き留めた帳面保管部屋がある。
天井に届きそうな本棚が並んでいる。
オヤジが残した、料理の本や帳面や、
何の分類かも分からない記録。
どれも「いつもの」とは言い難かった。
立ち尽くしていると、
鈴が鳴ったような気がした。
「……ん?」
戸口を見たが、何も変わらない。
次の瞬間、
頭の上から一冊の帳面が落ちてきた。
思わず拾い上げる。
表紙は古く、油の染みがついている。
開くと、
何度も書き直された文字で
ひとつの献立が記されていた。
見慣れた几帳面な
オヤジの字だった。
直感的に思った。
――これか。
帳面に書かれていたのは、
手の込んだ料理ではなかった。
根菜を刻み、
鍋に水を張る。
火にかけると、
やがて静かな音が立ちはじめた。
味付けは塩だけ。
量も、特別な工夫もない。
オヤジの字の横に
小さく丸が付いている。
これでいい
そう書かれているような気がした。
椀に注ぐと、
湯気がゆっくり立ちのぼった。
香りは強くない。
ただ、空腹を思い出させる匂いだった。
客は黙って食べた。
箸を置くまで、
ひとことも言わない。
最後の一口を飲み干したあと、
ほんの少しだけ、息を吐いた。
それが、礼のようにも見えた。
客は静かに席を立った。
跡継ぎは、綺麗に食べられた皿を見て、
これでよかったのだと、胸の奥で息をついた。
翌朝。
いつまで経っても、客は降りてこない。
しびれを切らして、二階の部屋を覗いた。
そこには、
誰もいなかった。
布団は畳まれ、
窓も閉じられている。
ふと、部屋の隅に目が止まった。
昨夜までは、なかったはずの酒瓶が一本。
栓は閉じられたまま。
銘柄も、見覚えのないものだった。
手に取ると、
不思議と重さがしっくりきた。
――皆と飲め、
と言われているような気がした。
もっとも、
それを確かめる相手は、もういない。
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第3話「火守」へ続きます。




