第26話 人類よ、目覚めよ!
エッセイではお久しぶりです。東雲明です。
今日は、いま何かと話題にのぼる「生成AIを使った創作」について、少しだけ一緒に考えてみたいと思います。
最近、タイムラインを眺めていると、不思議な光景に出会います。AIを使わず、時間も体力も気力も削って書いた小説に対して、それAIでしょ、と決めつける声が飛んでくる。では、と補助的にAIを使ったと正直に書けば、それもやっぱりAIでしょ、と言われる。後書きで応援お願いしますと書いただけで、テンプレだ、AIだ、違法だ、と机を叩く勢いで断罪する人まで現れる。
どこまで行っても疑われるのなら、いったい作者はどうすればいいのでしょう。
ここで、少し立ち止まってみてほしいのです。私たちはいま、何を疑っているのでしょうか。目の前の作品でしょうか。それとも、作者という存在そのものでしょうか。
考えてみれば、歴史に残る名作だって、書かれた当時は無名の誰かが、狭い部屋の片隅で、孤独と向き合いながら書いたものかもしれません。のちに文学賞を受け、教科書に載り、世界中で読まれるようになった作品も、最初はただの原稿でした。もし今の空気のままなら、あれもAIではないか、これも怪しい、と疑いの目を向けられていた可能性だってある。
しかも皮肉なことに、断定口調で決めつけるその態度こそ、どこか機械的に見えてしまう瞬間があります。相手の背景や意図を想像する余地を持たず、パターンに当てはめて白か黒かを即座に判定する。その振る舞いは、人間らしい揺らぎや迷いよりも、むしろアルゴリズムに近い。そんなことを思ってしまうのは、私だけでしょうか。
もちろん、これはあくまで私個人の考えです。違う意見を持つ方もいるでしょうし、生成AIに強い不安や危機感を抱く気持ちも理解できます。自分の仕事や表現の価値が揺らぐのではないか、と感じるのは自然なことです。
でも、少し視野を広げてみませんか。
私たちはこれまで、いくつもの変化を受け入れてきました。ブラウン管テレビが液晶に変わったときも、折りたたみ携帯がスマートフォンに置き換わったときも、最初は戸惑いがありました。それでも便利さや可能性に触れながら、いつの間にかそれが日常になっていった。SNSの名前が変わったときでさえ、文句を言いながらも結局は新しい環境に適応してきたはずです。
では、なぜ生成AIだけが、これほどまでに激しい賛否の渦を生むのでしょう。
おそらくそれは、技術そのものよりも、人間の領域だと思っていた創作に踏み込んできたからなのでしょう。物語を書くこと、絵を描くこと、音楽を作ること。そこには魂が宿ると信じてきた。だからこそ、機械が関与することに強い拒否反応が起こる。
けれど本当に大切なのは、道具ではなく、最終的に何を伝えたいのかではないでしょうか。ペンで書こうが、キーボードで打とうが、辞書を引こうが、検索エンジンを使おうが、そこに込められた意志や感情が読者に届くかどうか。それが作品の価値を決めるのだと、私は思っています。
すべてをAIだと疑う世界は、きっと息苦しい。けれど、すべてを無批判に受け入れる世界もまた危うい。そのあいだで揺れながら、自分なりの立場を探していくしかないのかもしれません。
少し大袈裟に書いてしまった部分もあります。でも、この問題はしばらく続くでしょう。だからこそ、ここでは感情的な断罪ではなく、ゆっくりと考える場にしたい。賛成でも反対でもいい。ただ、自分の言葉で語ることをやめないでいたいのです。
またこのテーマについて、折に触れて書いていこうと思います。
では、また。




