赤鼻の令嬢は、その赤い鼻で公爵令息を二度助ける
私は生まれつき、鼻がほのかに赤かった。
原因は分からない。
両親も、きょうだいも、誰も鼻は赤くないのに。
鏡を見る。
緩やかに波打つ茶髪が背中まで伸び、瞳は青く、唇だって艶やかに光ってる。両親のいいところを受け継いでいると自負している――だけど、鼻が赤い。
この鼻が他の長所を全て打ち消してしまう。
念入りに洗顔してみたり、石鹸を変えてみたり、お医者に通ってみたり、薬を塗ってみたり、鼻をマッサージしてみたり、食べ物に気を遣ってみたり……さまざまな方法を試したけど、私の鼻から赤みが消えることはなかった。
「あの赤い鼻では……貰ってくれる者は現れんだろうな」
「ええ、難しいでしょうね……」
父と母がリビングでこんな風にぼやいているのを耳にしてしまった時は悲しかった。
なぜ、こんな鼻で生まれてしまったのか、嘆きたい気持ちはある。
だけど、不思議とこの鼻を嫌いにはなれなかった。
それにきっと、学校に通うようになれば、友達もできて、この鼻を好きになってくれる人もいるはず。そんな希望もあった。
しかし、その希望は脆くも打ち砕かれることになる。
***
10歳の頃、私は王都にある貴族学校に入学した。
残念ながら、学校は私が夢見たような環境ではなかった。
クラスでの存在感・影響力が上位の生徒は王様のように振る舞い、下位の生徒は見下され、虐げられる。
こんな環境ではみんなが“自分より下の人間”を作り出そうとする。
私には鼻が赤いという明確な欠点があり、家柄もしがない子爵家、報復の心配も薄い。
こうして私は格好の“いじめ”の標的となった。
「こんなところにトマトがあるぞ! ……あ、ミルファの鼻か」
「ミルファさんってまるでピエロみたい!」
「鼻血出てるよ。悪い悪い、勘違いだった! 元から赤いもんな!」
鼻の赤さを徹底的にからかわれた。
学校に行きたくないと本気で思った。
だけど、この赤い鼻を嫌いにもなれない私は、何とか生き延びる道を考えた。
この鼻が原因で不登校にはなりたくなかった。
考えた末、導き出した結論は、自分から“おどける”ことだった。
「あ、こんなところにピエロがいるぞ!」
とからかわれれば、
「やぁ、私はピエロのミルファ・ロットン! よろしくね!」
と笑顔で挨拶を返す。
「トマトを収穫するわよ!」
と鼻をつままれれば、
「栄養満点だからよく噛んで食べてね!」
と笑ってみせる。
見世物役、笑われ役として、どうにか学校に居場所を作った。
もちろん、辛くないわけがない。
散々に笑われてクラスメイトと別れた後、一人きりで涙するなんてことがよくあった。
ある日も、私はそんな風に一人で王都を歩いていた。
放課後、私と遊んでくれる友達なんていないんだもの。
すると、一人の少年が前から走ってきた。
さらさらの銀髪、アクアブルーの瞳を持つ、白シャツ半ズボンの可愛らしい子だったけど――
「あいたっ!」
私の目の前で思い切りこけた。
膝をすりむいて、傷を見て目を白黒させている。
「ひっ……血だ! うええっ……!」
泣き出してしまった。
私と同い年ぐらいで、転んだだけで泣くというのはちょっと幼い気もするけど、それだけ大切に育てられてきたからかもしれない。
私は明るく話しかけた。
「こんにちは! 血が出ちゃってるね、でも大丈夫!」
「……?」
「私の鼻、見て!」
少年は私をじっと見つめてきた。
肌は雪のように白く綺麗な顔をしていて、ちょっと照れてしまう。
「ほら……赤いでしょ? お揃いね」
少年はしばらくきょとんとしていたが、やがて――
「うん、とても綺麗な鼻……」
「ふふっ、ありがとう」
私のおどけが通じたのか、少年はすぐに泣き止んだ。
普段学校でやるおどけは自分が情けなくなるけど、自発的にやるおどけはそうでもなかった。
むしろ少年を助けることができて嬉しかった。
「私はミルファっていうの。あなたは?」
「僕は……ルノエル」
「ルノエル君か。ちょっとお話でもしない?」
「う、うん」
少しだけ事情を聞いた。
ルノエル君はやはりかなり上流階級の子息とのことだった。
弟ともども独自のカリキュラムで教育を受け、学校にも通っていないとのこと。
今日は授業が休みで、久しぶりに王都ではしゃいでいたら、ああなってしまったらしい。
「頑張ってね、ルノエル君。辛くなったら、私の赤い鼻を思い出して。なーんてね」
「……うん」
私はルノエル君と別れた。
楽しいとはいえない学校生活の最中、数少ない愉快な出来事だった。
その後も、私は赤鼻赤鼻とからかわれつつ、無事学校を卒業。
いよいよ本格的に、社交の世界に足を踏み入れることとなる。
***
――今夜も成果はなかった。
いくらパーティーに出ても、誰からも相手にされない。
話しかけられることはないし、話しかけても避けられてしまう。
いつか聞いた父と母のぼやきが脳裏に思い浮かぶ。
『あの赤い鼻では……貰ってくれる者は現れんだろうな』
『ええ、難しいでしょうね……』
この鼻のせいなのだろうか。いいえ、そんなことない。私のことを好きになってくれる人なんていないのだろうか。いいえ、きっとどこかにいるはず。空しい自問自答を繰り返す。
そんな日々を過ごしていた時のことだった。
私の前に一人の貴公子が現れる。
伯爵家令息のオデリ・ジーグル様だ。
あでやかな金髪と、燃えるような赤い瞳を持つ貴族男子だった。
彼は私に会うなりこう言った。
「君が“赤鼻の令嬢”だね。噂は聞いているよ」
「は、はい」
「学校ではみんなを楽しませていた、とてもユニークな人だとか」
「楽しませるだなんてそんな……」
オデリ様はとても感じのいい方で、私が喜ぶようなフレーズを次々に聞かせてくれる。
話しているうちに、ある種の浮遊感を覚えるほどだった。
「今日は楽しかったよ」
「私もです」
オデリ様はそのルビーのような瞳で私をまじまじと見る。
「君とはぜひ交際したいな」
「よ、よろしいんですか? 私などと……」
謙遜する私に、オデリ様は優しく微笑む。
「人は見てくれじゃない。中身だよ」
「……ありがとうございます!」
この時、周囲の人たちは私たちを見て笑っていた。
明らかに祝福という感じではなかった。
人々の笑みの意味に、この時の私はまだ気づかなかった。
***
私とオデリ様は、幾度かデートを重ねた。
会話の中で、私は褒められ、おだてられ、持ち上げられ……すっかり舞い上がってしまう。
そして、オデリ様はこう言った。
「今度、僕が開くパーティーで大々的に婚約発表しよう」
「こ、婚約……ですか!?」
「ああ、君と僕の幸せな姿をみんなに見せつけてやるんだ」
「でも、早すぎるのでは……」
戸惑う私に、オデリ様は首を横に振る。
「そんなことはないさ。こういうことは早い方がいい。というわけで、今度のパーティーではオシャレをしてきてくれよ」
かなり強引に婚約発表パーティーの開催が決まってしまった。
しかし、これもオデリ様が私を愛するあまりのことと、そう解釈していた。
そう、きっとそうだと信じていた……。
***
ジーグル家の屋敷の邸宅で開かれた夜会。
私も自分の持っている中で最も高級な、ダークブルーのイブニングドレスを着て出席する。
大勢の若い貴族が会場に集まっている。
今日ここで私とオデリ様は婚約を発表し、みんなを驚かせる手筈になっている。
ドキドキするけど、長年ピエロだった私がやっとヒロインになれる日が来たと、嬉しい気持ちが大きかった。
オデリ様は私を横に立たせ、出席者たちを注目させる。
これから素晴らしい発表をすると、皆を盛り上げる。
全て打ち合わせ通りであり、私も期待と喜びで胸を膨らませる。
ところが、オデリ様は突然こう言い放った。
「……ホントにお前なんかと婚約すると思ったか?」
「え?」
この時のオデリ様の顔つきはまるで悪魔が乗り移ったかのようだった。
「誰がお前なんかと婚約するか! この赤鼻が! 僕の言うことを本気にして、いっちょ前に着飾りやがって……身の程をわきまえろ!」
「な……!?」
「みんな、こいつは僕との婚約の約束を本気にして、今日ここに来たんだ! こんな赤鼻でだ! こいつは笑われるのが好きらしいから、みんなで笑ってやってくれ!」
オデリ様は私を指差して笑い物にした。
出席者の中にはオデリ様に合わせて笑う者もいれば、苦笑いしている人もいる。中には顔をしかめている人も。
はっきりしていることは、オデリ様は私を愛してなんかいないということだ。
これは後で知ったことだけど、オデリ様はこういう“お遊び”が大好きらしい。オデリ様に口説かれた私をみんなが笑っていたのは、そういうことだったのだ。
「彼がまた新しいオモチャを見つけたな」と――
私は逃げた。
夜会から走って逃げ出した。
あまりに自分が惨めで、哀れだったから。
きっとこの時の私は、鼻だけでなく顔全てが真っ赤で、さぞ滑稽だったに違いない。
***
気づくと、私は馬車に乗っていた。
放心状態だった。
かろうじて御者に「気分転換に夜の町を走らせて」と告げた。
御者も、私に何があったのか何となく察しているのか、黙って言う通りにしてくれた。
一時間ぐらい走っただろうか。
「少し郊外を通ってちょうだい」
馬車が夜の郊外を進む。
静かだった。その静かさがわずかに私の心を癒やしてくれる。
――その時、音が聞こえた。
慌ただしい足音、刃がぶつかる音、そして怒号……。
すぐ分かった。誰かが襲われている。
私は馬車を止めさせた。
「お嬢様、どうなさるので!?」
「ちょっと行ってくるわ」
私はランタンを手に、馬車を飛び出した。
確信はなかった。
だけど私は“この赤い鼻が役に立つ時”だと思った。
私の鼻はどう照らせば最も赤く輝くか、私は熟知している。
別に正義感のための行動じゃなかった。
私なんかどうなってもいい。暴漢に命を奪われてもかまわない。
そんな自暴自棄さが、私をどこかの誰かを助けに向かわせた。
闇夜の草原の中に数人の人影がある。
私はギリギリまでランタンの明かりを隠して、彼らの元に近づき、そしてランタンで照らすと同時にこう叫んだ。
「あなたたち、何してるの!!!」
刃物を持つ黒装束の男たちが、一人の青年を囲んでいた。
そして今、私の赤い鼻はランタンによって禍々しく光り輝いているはず。そういう角度で照らしているから。
闇夜の中、ランタン片手に突如現れた赤鼻女。きっとさぞ不気味に見えることでしょうね。
「な、なんだこの女!?」
「鼻が赤いぞ!」
「ひいいっ!?」
黒装束の男たちはぎょっとしている。
襲われていた青年は――できればこの隙に逃げて欲しいんだけど。
だけど、青年は逃げるどころか――
「はっ! せやぁっ! ――せあっ!」
持っていた剣で、黒装束の男たちを一瞬で叩きのめした。
すごい早業だった。私の助けなんかいらなかったんじゃと思うぐらい、鮮やかな手並み。
青年が私に歩み寄る。
「ありがとう、助かったよ。君のおかげで彼らの隙を突くことができた」
「いえ……無事でよかったです」
改めて青年を見る。
銀髪で、アクアブルーの瞳を持つ、涼しげな雰囲気の人だった。年は私と同じぐらいだろうか。
あまりに凛々しく美しいので、私とは住む世界が違う人だと感じてしまった。
「僕の家は、後継ぎ争いが激化してしまっていてね。今夜も剣の修行をしていたら、こうして狙われてしまった。だが、彼らを返り討ちにできたから、後は依頼者を吐かせれば、僕が後継ぎとなるのは確定するだろう」
今まさに命を狙われたばかりだというのに、とても落ち着いている。まるで氷のようだ。
それにしても後継ぎ争いが命のやり取りにまで発展するなんて、相当上流階級の人なんだろうな。
すると――
「君に助けられるのはこれで二度目だね」
突然、妙なことを言われた。すかさず聞き返す。
「二度目?」
「覚えてない? 僕は一度、君に助けられたんだよ。転んだところをね」
「……あ」
すっかり思い出した。
この人はあの時、膝をすりむいて泣いていた――
「ルノエル君!!!」
「久しぶりだね、ミルファ」
確かに彼だ。しかし、見違えるように立派になった。
転んだだけで泣いていた彼が、複数人から命を狙われても冷静に対処できるくらいに。
「立派になったね、ルノエル君」
「君のおかげだよ。あの時君に励まされて、『次にミルファに会った時はかっこいいところ見せるぞ!』って思ったから、剣術の修行を始めて、貴族としての勉強にも打ち込んで、今に至ってる」
もし、あれがきっかけだったとしても、ここまで強くなれたのは間違いなく本人の資質だろう。
本当はもう少し話したかったけど、この日は襲撃者の後始末が先決ということで、一度別れることにした。
「後日改めてお礼を言いたい。時間を貰えないか?」
「もちろん。私もルノエル君とはもっと話したいし」
「嬉しいよ、ミルファ」
近いうちにまた会う約束をした。
私の中で、オデリ様から夜会で受けた屈辱はすっかり消えてなくなっていた。
***
三日後、私とルノエル君は王都のカフェで待ち合わせた。
二人で紅茶を頼む。
まずはルノエル君が襲撃者の顛末を教えてくれた。
「やはり弟の差し金だったよ。弟は家を追放されることになり、僕が家督を継ぐことは確定した」
「身内で争いが起こってしまったことは残念だけど……おめでとう」
ルノエル君は改まった態度になる。
「こうして君に出会えたのも神の思し召しなのかもしれないな……」
「えっ……?」
私がきょとんとすると、ルノエル君は自身の胸に手を当てる。
「そういえばきちんと自己紹介したことはなかったね。僕の名はルノエル・レインディル。どうぞよろしく」
「レッ……」
言葉に詰まった。
レインディル家といえば公爵家。上流階級の人だというのは分かっていたけど、ここまでだったとは。本来私が一対一で話していい相手じゃない。
「ル、ルノエル君……あ、いえ、ルノエル様が……公爵家の方だったんですね」
「今まで通り“君”でいいよ。なんだったら呼び捨てでもいい」
「いえいえいえ! さすがにそれは……! 君で呼ばせてもらいます!」
私の中でルノエル君の呼び方が確定した瞬間だった。
「私はミルファ・ロットンと申します。覚えてもらえたら嬉しいです」
「ああ、君のことはよく知っている。調べていたから」
……調べていた? どういうことだろう。
「僕も家督争いが済んだら、ぜひもう一度君に会いたいと思っていたんだ。そうしたら先日、偶然にも君に助けられ、家督争いも予想より早く片付いてしまい、こうして機会に恵まれた。僕はこのチャンスを逃すつもりはない。はっきり言おうと思う」
はっきり言う? 何を? 「君って鼻が赤いよね」とか? それなら言われ慣れているけど。
「この僕――ルノエル・レインディルと交際して欲しい。むろん、婚約を前提として」
「ええっ!?」
思わず叫んでしまった。
公爵家の子息からの告白。貴族としても、一人の女としても、嬉しくないはずがない。
だけど、素直には喜べない。
やはりオデリ様のことを思い出してしまう。
なにしろ数日前、あんな目にあったばかりなのだから。
「からかってらっしゃるのでは……」
「からかう? あいにく僕はユーモアのセンスがなくて……いつも全力だよ。どうか信じて欲しい」
あまりにも真剣な眼差し。
オデリ様の軽快で聞き心地のいいアプローチとは明らかに違う。
“本気”だというのが分かる。
「嬉しいです。見かけだけでなく、中身を見て下さって……」
私がこぼした言葉に、ルノエル君はきょとんとする。
「中身を?」
「だって、見た目で判断されたら、私なんかとてもルノエル君の好みじゃないし……」
ルノエル君はさらに困惑している顔を見せる。
そして、私の意図を察したのか、表情を正す。
「僕は君の外見も中身も気に入ったんだよ。残念ながら、容姿は気にしないというほど“できた男”じゃないからね。二度も助けてもらったことに対する恩義はもちろんあるけど、それ以上に単純に君に惚れてしまったんだ」
中身だけじゃなかった。ルノエル君は私の容姿も評価してくれている。
みんなから笑われ続けた私を……。
「ありがとうございます……!」
「今度、二人で夜会に行こう。僕たちは交際していると宣言するために」
「……はい!」
私の鼻のあたりがじんと熱くなった。
悲しさや悔しさからではなく、嬉しさでこうなるのはおそらく初めてのことだった。
***
一週間後、私とルノエル君はある夜会に出席した。
ルノエル君はやはり人気で、多くの人から挨拶される。
邪魔になってもまずいと思い、私は少し離れることにした。
そこで思わぬ人から声をかけられる。
「なんだお前? あんだけ酷い目にあったのにまだ夜会に出てるのか」
オデリ様だ。
あの屈辱が脳裏によみがえり、悲鳴を上げそうになるが、かろうじてこらえる。
「その節はどうも」
「何が“どうも”だよ。意外と図太い神経してるんだな。もう少しこっぴどくイジメてやるべきだったか」
オデリ様はけらけらと高笑いする。
私もそこまで図太い神経ではないので、少し落ち込む。
その時だった。
「……おい」
怒気をはらんだ声が響いた。
ルノエル君だ。
襲撃者に命を取られそうになった時も涼しげだったアクアブルーの瞳が、明らかに怒りを帯びている。着ているタキシードさえも殺気を発している。
「な、な、なんですか、ルノエル様……」
オデリ様が怯えを見せる。彼はルノエル君のことを知っているみたい。
伯爵家の令息だし、どこかで会っているのかもしれない。
「僕の恋人を侮辱する気か?」
「へ? 恋人?」
「先日、ミルファは僕の恋人になった。その彼女を侮辱する気か?」
「は? ……え、こいつ、いえ……この方が!?」
ルノエル君の瞳はさらに荒々しい光沢を増す。
「お前のやったことは知っている。恋人の名誉を守るため、弄ばれた過去を消し去るため、この場でお前に決闘を申し込む」
「け、決闘……!?」
「さあ、日時はいつにする。希望を言え」
「あ、あの、僕はその……決闘は苦手で……ぜひ話し合いで……」
「言え」
ルノエル君はいつも全力。冗談やごまかしが通じる相手じゃない。
オデリ様は顔面蒼白になり、この場から逃げようとした。
だけど、あまりに慌てていたのか、派手に転んでしまった。
「んぎゃあっ!」
手をつかず、大理石の床に鼻からぶつかってしまい――
「鼻……折れっ……いぎゃあああっ……! 血がっ……ひいいっ!」
鼻血まみれになった。
あまりに痛々しく、私はハンカチを手渡そうとするが、オデリ様は私にも怯えて逃げてしまった。
オデリ様の鼻は上手く治らず、これ以後「鼻血公子」「鼻曲がり公子」などと呼ばれるようになる。
これまでの所業も響いて、結婚相手も見つからなかったそうだ。
そして、私とルノエル君はこの夜会で交際を宣言し、後日正式に婚約を交わした。
***
鏡を見る。
ルノエル君と婚約してからというもの、鼻の赤みが急速に薄れてきた。
お医者様に尋ねると、こんな答えが返ってくる。
「不思議なことです。しかし、恋をする、結婚するなどの機会を経て、体のホルモンバランスが変わり、体質が変わってしまうことは実際にあるんですよ」
式を迎える頃には、私の鼻は殆ど赤みを失ってしまい、寂しささえ覚えた。
私はルノエル君に聞いてみる。
「ねえ、ルノエル君」
「ん?」
「私の鼻……赤みが薄れてきちゃったけど、嫌いになってない?」
本心からの問いだった。
この頃になると、初めて出会った時のように、だいぶフランクに話せるようになっている。
「鼻が赤くなくなったからってこと?」
「うん……」
ルノエル君はこういう時、茶化したりはしない。真面目に考えて、真剣に答えてくれる。
「確かに、僕は君の鼻の赤さに惚れた部分もあったから、僕の中でマイナス5点ぐらいはされてしまってるかもしれない」
ルノエル君は私を真正面から見つめる。
「でもね、君と付き合う中で他の色々な要素でプラス100点ぐらいはしてるから、何の問題もないよ」
「プラス100点!?」
いくら何でも加点しすぎでは、と言う暇もなく――
「それだけ好きってことさ。愛してるよ」
ルノエル君はそのまま私を強く優しく抱き締めてくれた。
転んで泣いていた子が、こんなに大きくなっちゃって……。
きっとこの時の私も、鼻だけでなく顔全てが真っ赤で、さぞ幸福だったに違いない。
***
ルノエル君の妻となった私は、幸せな家庭を築いている。
私の鼻の赤みはまだ少し残っているけど、今となってはむしろチャームポイントともいえる。
社交界には自分から鼻を少し赤く塗る、私のフォロワーのような人まで現れた。
リビングでくつろぐ私の胸には息子のルミールがいる。
ルミールが私に言う。
「ぼく、おかあさんのはなだいすきー!」
人差し指で私の鼻を触る。
「ちょっとイタズラはやめなさい」
「だって、すきなんだもん……」
こう言われてしまうと、私としてもつい触らせてあげてしまう。
するとそこへ――
「ルミール、一人だけずるいぞ」
「あなた?」
今や貫禄ある紳士となった夫まで、指で私の鼻を触ってきた。
「柔らかくて形のいい鼻だ」
「……もう」
こうなるとルミールも黙ってはいられない。
「おとうさんばかりずるい! ぼくもぼくもぼくもー!」
夫と息子が揃って、私の鼻を触る。
「程々にしてね……」
似た者親子の二人には呆れてしまう。
だけど、私はとても幸せだ。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。