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位置について

春が春らしくなくなっても、春は始まりの季節だ。新しい教室に新しい級友(級“友”になれるかは不明確だが)。

「高丘です。これから1年間、皆さんのクラスを担当します」

壇上から声が聞こえる。これもまた、新しい。若い女の声だ。

「まだ教師になりたてで、担任を持つのもこれが初めてです。至らない点も多いと思いますが、精一杯努めます」

そんな声を耳に流しながら、高月霧は窓際に決まった席で、窓の外をぼんやり見ていた。

そこからは中庭が見下ろせた。庭といってもひどく殺風景で、地面に芝生が植わっているだけで、木も花もない。何か意図があるのか、単に偶然なのか知らないが、どうも周囲に色付きの少ない校舎のようで、何というか、すぐに見飽きそうな景色だなと霧は思った。

「入学早々ですが、注意事項です。ここ最近、街では不審火が相次いで───」

入学式後のクラス分け。担任教師の紹介と、学校生活の案内を述べる。若い教師の声はややたどたどしく、気取った感がないのが好ましくは思えたが、言葉の内容は事務的で感慨はない。

高月霧は、こう見えてもこの新たな学府に足を踏み入れた瞬間は多少の興奮や歓喜を持っていた。────が、ものの数時間でその感性は弛緩し、午前いっぱいで終わるはずのこの新入生案内が早く終わらないかと、それだけ考えていた。

入学初日。学生生活を一年の中でおよそ200日。三年にすれば500日を越え、時間にすると2000時間にもなる日々の始まりが、()()だった。

これから先、ただ膨大にある時間を前に、霧は陽光の中で物憂い顔になっていた。


高月(たかつき)(きり)は、基本的には受動的な人間で、何事にも積極性も嗜好性もなかった。()()()()がないのである。

例えば、友人らで数種類の菓子パンを分け合う時。買って来た代表(パシリ)が机上にばら撒いたそれを、皆で指差す。被ればジャンケン、とお決まりの様式美の際に、季節限定の商品に指を向ければ他の誰かも指を差す。そうなれば、霧はすぐに誰も選ばなかった定番商品に指の向きを変える。皆が盛り上がってジャンケンしている横で、食べ慣れた味を静かに口にする。

通信販売で店の手違いで違う商品が届いても、使うものなら特に何も言わない。予約して行った病院でシステム不備で待たされても順番抜かしにあっても、いつかは回ってくるだろうと気にしない。

ちょっとしたことで怒ったり苛立ったりする人間というのはいるが、霧はその対極だった。怒らない、苛立たない、感情を荒げない。

状況任せ。流れるまま。

なればこそ、今そこを歩いているのも成り行きの結果に過ぎなかった。()()見てだが。

霧はそこに至るまでに食堂の近くを通った。そこで自動販売機が目に入る。四月というのに相変わらず暑い日に、()()()()()も後輩の気遣いかと、心からそうしたいと思った訳ではなく、あくまでも礼儀としてそうすべきという感覚で、事務的にその場に立った。

「………」

商品はいろいろ。こういう場合は自分の分も買っていくものだろうなと、一応その時の口の好みに合うストレートティを購入。先輩にはカフェオレ。

これで、礼儀は整った。目的の場所に向かう。

そこは校舎にして二階にある。本来の用途は美術室。扉の前に立った時点で絵の具の匂いが漂ってくる。横開きのドアを開けると、そこには一人しかいなかった。

光の差し込む窓を背に、乱雑に置かれたキャンバスや石膏像、絵の具の染みたカーテンとその匂いが空気に溶け込む独特の臭気が満ちる中で、彼女は一人佇んでいた。

「よう」

「お久しぶりです。………これからよろしくお願いします」

ぺこりと一礼。相手が笑った気配がする。

「はい、()()よろしく。……最近活動はどうよ」

「………そこそこです」

はっきりしない答えを返すと、相手は今度は溜め息をついたようだった。

霧は下げていた頭を上げて、相手を直視する。以前と変わらぬ潔い佇まいを認めて、その勇ましさに安堵すると共に億劫さも覚える。またこの(ひと)と一緒に過ごすのか。彼からすれば流された先にあって、この女はずっしりした中身をそのまま水底に縫い止めて、そこの在り続ける不動の大岩だった。これから、この女にぶつかり続けるのだ。

霧は悟られないように溜め息をついた。そして、思い出したように手に持っていた飲み物を差し出す。

「どうぞ」

「あら、ありがと。気がきくね」

彼女はざっかけない態度で、手に持っていたごついカメラを置いて、霧に近寄って来た。こうして近場で見ると、結構背の高い女性である。

彼女は手を伸ばして、後輩となった少年の手から、()()()()()()()を受け取った。

「………」

「どうもねー」

歯を見せて笑う女性。悪意もなく、そして配慮もなく種類の違う飲み物の内、一種を奪い取って行った。

霧の手にはカフェオレ。今は気分ではない。

……だがだからといって、先輩相手にストレートティを返してくれというのも。

高月霧はまた溜め息をついて、カフェオレを手の中に落ち着かせた。別に、これも嫌いではないし、いつか飲みたくなる時もあるだろう。すぐに悪くなるものでもない。

彼はどこまでも受け身だった。自身の意思を侵害されても無視されても気にしない。主張したいほどの意見も、守るべき体面もない。

どこまでも、自我(こだわり)のない人間なのだ、高月霧という人間は。


(ひいらぎ)八尋(やひろ)は知性こそが人間を作ると信じて疑わない人間だ。基本は理系の人間だが、彼の知性は多岐に及んだ。歴史、文学、芸術、スポーツ、時事問題や世論にも通じて、それゆえに思考や口上は年齢に無相応に成熟していた。

教師に理不尽な校則を突きつけられれば、組織内規約と基本的人権の対立、そこに公衆道徳との兼ね合いまで交えて説き伏せて……というか沈黙させて、その裏で教師を発狂させつつ、やたらと自由だ多様性だと権利主張する学生を、そのもはやどこから発生したのかも分からないほど呪文のごとき流通言語になった言葉の正しい意味を授けて行動を嗜める……要は調子に乗った無知(バカ)を馬鹿にし、学校という組織内で対立しやすい両者に同時に敵認定されて、しかしその現状を、現代外交情勢になぞらえて面白がる。面白がれる程度に、彼は頭が良く、そして頭の良い人間にありがちな共感、協調性の極端な欠如という病理をごく当たり前のように備えていた。

………そして、だ。その手の人種のお約束のもう一つとして、彼には確かに知識があったが、()()()がなかった。要するに知識先行、経験や行動が伴わないのである。

「………」

その手合いが一番苦手とするのは緊急事態(トラブル)。ことにそれが人同士の諍いだった場合はひとしお。……感情のもつれ合い自体、それ自体は彼のような人間は理屈で片付ける。アドレナリンがどうとか、興奮による心拍増加とか血圧上昇とか。そんなことで受け流すが、この場合、いやこれは柊八尋独自の傾向(パターン)かもしれないが。

………その感情の出どころが“女”あった場合、対処の難易度が一気に上がるのだ。

「ドライアイス使いなよ」

「それじゃ、煙の量足りないんだって。もっとこう、……ぼわっと!勢いよく出てくる煙ない?」

眼前で女子二人何やら言い合いしている。ここは化学実験室である。薬品の匂いが充満し、他の教室にはない暗色のカーテンで昼でもやや薄暗いそこで、何というか、この空間にはひどく似つかわしくない女が二人───要は美人が二人、何やら押し問答している。

「ダイナマイトでも仕込めっていうの?学校でどんな危険物使うのよ」

「違うって、そうじゃなくて。大体、あんな一気に煙が出てくるんじゃなく、こうほわっとさ。魔法使いの登場シーンなんだから」

「そんな都合良いもんそうないわよ。てか、危険物じゃなくても、あんたには触らせたくないんだけど。あんたが触っちゃ、ただの塩化ナトリウムでも劇物になりそう」

「ひどい、そこまで不器用じゃないし」

「前に砂糖を爆発させたでしょ!」

「うっかり火に近付けただけじゃん!」

どんどんヒートアップしていく女の争い。八尋は口を出せずに立ちすくんでいた。女の言葉の掛け合いは、ことさらに理論も何もなく、本来なら八尋は呆れ顔で理論的かつ理性的な物言いでその感情重複を笑うところなのだが、ここでそれが出来るほど、柊八尋はそこまで成熟していなかった。ただ。

「………倒流香(とうりゅうこう)

ぼそりとそう言っただけだ。

だがその言葉が発された瞬間が、上手い具合に二人の言葉の空白にはまった。そういうことはある、たまたま独り言を発したタイミングが、空間内の沈黙に重なる。聞かすつもりのない独り言を聞かれるということだが。

二人の女は初めて、八尋を見た。

「柊」

「わー、八尋ちゃん、久しぶり」

お久しぶりです、と八尋も頭を下げた。

「今日から入学ですので、ご挨拶に」

「そうなんだ、よろしくね」

「また先輩後輩か」

女性二人は笑い、八尋もそれに笑って返す。とりあえず収まった場に、内心安堵していた。

「科学部入ってくれるの?」

「コンピューター研も気になってるんですが」

「掛け持ちでも良いよ。部員不足で困ってるから」

「一、二年生しかいないのに、クラブ入部必須とかきついよね」

きゃははと笑う。

「………」

先程の諍いが嘘のように藹々としている。女というのは感情が高まるのも一瞬なのに、鎮まるのも一瞬なのだ。諍ってるように見えるのに、ひとたび感情が収まると急にその尖りが消え、むしろ丸くなるのも妙といえば妙に見えた。

理屈で解説できないものを不可思議な心地で見ていると、ふいに言葉を振られる。

「さっきの、とうりゅう……て、何?」

まん丸な目で問われて、驚く。先程の呟きをちゃんと聞いていたのか。人の話など聞いていないように見えるのに、何気にきちんと耳に入れているのも女の凄さというか怖さというか。

驚嘆しつつ、表情は冷静にしたまま語る。

「お香の一種です。香の配合が特殊で、煙が重くて下に流れるんです。それが香炉の造りで絶妙な広がり方をする。……多分、一番イメージに合ってると思いますよ」

八尋の中の知識による説明を受けて、二人はふうんと頷く。

「香を上に置いて、下に流すのかぁ。良いかも」

「香の配合で煙を空気より重くする訳か。けど」

理系の女性は眉を寄せた。

「舞台で目立つほどの量の煙出すなら、発生源をかなり大きめにしないと」

「流れを調整するために通路も作ってやらないとね。まあ煙ですから、ダンボールで十分でしょうが」

“舞台装置”の制作には手間と時間が要りそうだ。何の気なしに呟く八尋に、意味ありげな視線を浮かべていたのは、“舞台女優”。

「………手伝ってくれる?」

相変わらず大きな目でねだられて、八尋は身じろぐ。()()()()は想定していなかった。いつだって、頭と口ばかり動くのが八尋だ。

彼は視線を逸らして、もう一人の女性に向ける。制服に白衣をまとった理知的な女性。

彼女は肩をすくめた。

「言い出しっぺはあんた」

「………」

八尋は口を歪める。こういう場面では口も頭も動かないのが彼だ。他人に依頼された時、頼られた時。敵意を受け流すのは得意だが、()()を、特に女のそれを跳ね除けるのは、極端に下手だった。

柊八尋は、そういう男だった。


瀬田(せた)夕香里(ゆかり)は、行動こそが正義という考えの少女だ。というか、行動しない理由がよく分からない少女だった。

昔、小学校の頃に授業参観で、親らが見守る中でグループになって美術作品を完成だせるという課題があった。すでに線画が出来上がっている絵にそれぞれの感性で色を加えていくという類のもので、言ってしまえば巨大な塗り絵で単純なものだった。……が、その単純な課題がなかなか進まなかった。生徒らが親の目線の先で緊張して、なかなか身動きを取ろうとしなかったから。普段は無闇に明るくやかましく、皆の前に立って声を張り上げ悪目立ちしている陽キャ(出たがり)も、何故か親が見ている前ではやけにはにかむ。

その状況に、夕香里は首を傾げたものだった。

前提条件が変わると行動を変える児童(こども)の心理が分からなかった。教室の後方に居並んだ大人達の存在が彼らにとって何になるのか。夕香里にはさっぱり理解できなかったので、彼女はさっさと身を乗り出して、線画の中に好き勝手に色を塗り出した。一人がやり出したら皆倣う。結果として、絵画は見事に仕上がった訳だが、教師や同級生、保護者らに称賛されながらも、その視線には複雑なものがあった。

夕香里には、席から後ろを振り向いて手を振る子供らの気持ちも、それに手を振り返す親らの気持ちも分からなかったから。

何にせよ、夕香里は状況や周囲に囚われず、常に自己決定による行動を是としてきた。それを間違いとも思わないし、後悔もなかった。これからもそう生きる。

「お疲れ様です」

少し声を張る。グラウンド。既に強い日差しの中で、スポーツウェアの生徒らがまばらに活動している。その中の一人が振り向いた。

「おう、瀬田」

屈託ない笑顔で呼びかけられた。よく日焼けした肩幅の広い体躯が絶妙に合っている男だ。彼に近寄る。

「今日からよろしくお願いします」

「こっちこそ。期待してるぜぇ?」

にっと笑い合う。体育会系らしいやり取り。

「走ってくか?」

「まだ入部届も出してないすわ」

運動場を指差す男に言うが、彼はいかにもな雑破さで言う。

「良いじゃねえか。フィールドに慣れとけよ」

夕香里は苦笑する。そして言われるまま、フィールドに足を踏み入れる。

彼女は制服姿だった。靴も普通の外履きで、いわゆる専用のスポーツ(シューズ)ではない。

彼女に呼びかけた青年は顎で示し、数人の選手を夕香里に並ばせた。その意図を皆が悟って、一瞬、空気が引き締まる。

()()()()()()

体育会系社会における様式美というものがある。が、瀬田夕香里は、状況にも空気にも呑まれない。ただ、行く先にある太陽の眩さに目を細めた。

一列に並んだ生徒らは、身を屈めてスタートに備える。そして、示された合図と共に一斉に駆け出す。一歩目から力強い。その強さが恐ろしいまでに規則的に緻密に回転して、少女らの身体を前に前に運んで行く。

その中で、一番早く前に進むのは瀬田夕香里だった。何でもない靴で、やや短く揃えたスカートの裾を風にひるがえしながら、ぐんぐん前に。そして彼女は、前に誰もいないまま足を緩める。

時間としては一瞬。走り出してから止まるまで僅か10秒ほど。その短時間に、期待と興奮と緩和が全て篭っている。いつもながら(せわ)しいな、と走り終えた瀬田夕香里は息を整えながら他人事のように思う。

彼女の奇妙な冷静の外部で、周囲は沸いている。

「すげ───」

「さすが」

明らかな感嘆と称賛。拍手まじりの呟きを聞きつつ夕香里は振り向く。すると、この場で唯一笑っていない人々に行き合う。彼女の後に足を止めた人々。走る最中、ずっとこの入部届も出していない部外者の背中を見ていた“先輩”方。

ひどく複雑な表情を認める。こういう場合、“一年生”は卑屈な気分になるものかもしれない。が、瀬田夕香里は、とにかく行動を全て己の意思一つで決定する人間だった。前に走る者も横を走る者も気にしない。前しか見ない。誰もいない前しか。

彼女は笑った。ひどく艶やかに。照りつける太陽を背に、その輝きはそのまま彼女を差した。

()()を仰ぎ見る側には、光が強すぎて正視できず、ただその弧を作る口元がゆるりと動く様だけが認められた。

「お疲れ様でした。これからよろしくお願いします」

彼女にはただの挨拶だった。だが、それを受けた側がどう受け取ったのかは分からない。何せ瀬田夕香里は、誰かに影響されてその心情を動かすことがなかったので、人が他人に与える情動というものを知らなかった。自分の言動が相手にどんな影響を動かすのか、どんな反応を呼び起こすのかまるで想像がつかなかったのだ。


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