春。はじまり、はじまり
私立山鳴高校。創設二年目の高等学校。
真新しい舞台に新たな役者を迎えての新章スタート。
一人の“傍観者”が語る、それぞれの物語。
春になった。麗らかな陽光と桜の淡い色と。穏やかでぬるい風が満ちるはずの季節だが、ここ数年に関しては様子が違った。
「暑いな」
「暑いね」
校舎前の道に並べた長テーブル、それに据えられた椅子に腰掛けながら、二人の男子生徒が言った。
「四月でこれってどうよ」
「予報だと20度越えるって。初夏並みだよ」
「日本どーなってんの」
「異常だね。地球温暖化っつーくらいだから、世界規模だろうけど」
「終わってんなー」
ぐだぐだと、ある意味男子高校生らしい中身のない会話を続ける。
その内の一人が、持参したうちわで自身をあおぎながら、目線を動かす。その先には、この高等学校の体育館がある。
「そろそろ終わっかなー」
「あー。生徒会長の熱弁が長引いてなかったらな」
言いながら、椅子に深くもたれかかる。
「はー、こっちは炎天下。向こうは冷暖房完備の体育館でお座りかよ」
俺らの城だってのに、とぼやく。
「しょうがねーだろ。今はあいつらがお客様なんだから」
そう言って、また体育館を見る。その目に小さな剣を含ませて。
「今は夢見とけよ、一年坊ども。……春なんて、あっという間に終わるんだ」
「今時は、春が来たかどうかさえ分かんねーよ」
件の体育館。冷暖房完備の環境で、そこは確かに屋外よりは環境が良かった。
しかし、長時間座りっぱなし。しかも壇上でだらだら続く長口上に、聴衆はやや不満が見えつつあった。手元で小さくあくびをする学生もいる中で、彼らを見下ろす壇上では、ここ一番の高音での口上が行われていた。
「皆さん、ご入学本当におめでとうございます。皆さんの楽しく夢に満ちた三年間が始まります」
堂々と述べるのは一人の女子生徒だ。いかにも勝気な印象の目の大きな少女で、マイクの前で口を開いてことさらに大きく、高い声で壇下の少年少女に呼びかけている。
「勉強に身を入れるのも、部活にいそしむのも、校外での活動に力を入れたい人もいるでしょう。皆さんはまだ子供ですけど、それでも一つステージが上がって、今までより出来ること、やっていいこと、やろうと挑戦できることは増えました。……一方で、失敗しても間違いを犯しても、まだ許される時は続きます」
その言葉に、集団席の脇にいた数人の生徒、教師が眉を寄せたことに気付いた者は何人いたか。壇上の彼女は続ける。
「ならば今こそ、何かをやるべきです。行動することで何かを得られるかも、何かが変わるかもしれません。とにかく何かやることです。……良いことも悪いことも」
「……やばい方に話が行ってない?」
「だな」
階下に着席する生徒の中ではそんな密か話が聞こえる。こういう場で語られる話の内容ではない。
そんな懸念など意にも止めず、壇上の少女は語り続ける。
「これからの三年間をどうするかは皆さん次第。恐れず、躊躇わずに、挑み進んで下さい。………そうすることで始まるんです。皆さんの物語が」
少女は満面の笑みを浮かべた。聴衆に挑むように、或いは、自身に言い聞かすように述べる。
「いつかは終わりの来る物語です。皆さん場合、終幕まで三年。今日はその第一日目」
いつか来る、終わりの序章。その時をどんな風に迎えるかは、この第一歩と、これからも歩みにかかっている。
「楽しんで」
そう締めくくって、彼女は満面の笑みを浮かべた。まだ年若い少女だが、この時だけは、妙に嫣然としていて大人びて、あどけなさと入り混じる女性性が独特の魅力を発揮して、奇妙な迫力があり、また美しかった。
既に大人に近づいて、女性らしい肢体と力強い表情と、行動力。肉体的には大人と変わらず、しかし気持ちと知識だけはまだ未熟で、それゆえに危うく、未だ不定形で、だからこそどこまでも前向きで力強かった。要は若さであり、壇上の彼女は、その覇気をまさにそのままぶつけていた。
……だが、それに対して返答はまばらだった。体育館にずらりと並んだ座席から、ぱらぱらと小さな拍手が聞こえるだけ。
「第一日目から濃いな」
「てか長え」
「キャラの立った生徒会長だねぇ。今時珍しい」
そんな声と笑みが漏れる。覇気溢れる演説にひどく冷めた反応。誰かの情熱や前向きさを嗤うその反応は、それもまた若さの象徴だった。中途半端に大人に近づいた精神は、その自意識からかえってそちらに寄ろうとする。子供じみた賑わいや、無邪気な夢見をこき下ろして、自身をより大人びて見せようとする。裏を返せば結局はそれも幼さで、結局のところ、壇上も壇下も温度差はあれど同じ時期にあったのだ。
若さの初め。春。年月を制度で区切った場合のまさに初旬。
高校生活の、新たな日々の始まりだった。
私立山鳴高校は、創設から二年を数える、まだ真新しい高等学校だった。二年目であるので、当然この学校には二年生と新一年生しかおらず、そうなるとどうなるかと言うと、少ない人員を取り合って、各部の宣伝、勧誘の勢いはとてつもなく大きいのである。
「吹奏楽部でーす。体験やってます、ぜひどうぞ!」
「水泳部どうですか。未経験でも大丈夫でーす」
声を張り上げ、手作り感溢れるチラシを渡し、時に強引なまでに新入生に迫る。一年生達はその勢いに押されつつも、後輩の義務として一応応対する。そうなると、体育館前には二年と一年が一時ダマになって、ちょっとした混雑が起こるが、教師らもそれを入学時の名物的光景として、苦笑しつつ見過ごしている。
“新学期”の光景。だがそこから、冷めて抜ける生徒らもいた。目立つのは三名。
「熱心だね。やっぱり人が少ないから」
柊八尋が、背面の熱気を振り向きつつ言う。眼鏡をかけた理知的な顔つきの彼は、その涼しげな風貌をやや苦笑で歪めていた。黒い短髪をきれいに整え、黒縁の眼鏡の奥にはくっきりした二重の丸目。輪郭もまだまろみを残し、顔つき自体は結構幼く見えるのだが、やはり瞳にある理知的な光と、制服を規則正しく着込み背筋を真っ直ぐ伸ばしたいかにも優等生という風貌が彼を大人びて見せていた。その言動も冷静で、繰り広げられる熱狂を少し引いた目で見ていた。
「売り手市場は学校でもなんだなー。ま、新入生、去年より少ないらしいし、人手不足になるだろうからね」
少子化の賜物、と言うのは瀬田夕香里。彼女は軽薄に、自身の学校の現状を解析していた。上がり気味の目尻を更に釣り上げて、その眦の形状に相反するまん丸の黒目に面白がるような光を湛えて、薄いが艶やかな唇の動きは軽やかに、実に見事な斜線を描いた輪郭の中の顔は今時らしい若者の様相を呈していた。世間に流布する言論を持ち出すところもある意味今様だった、情報だけはいくらでも仕入れられる時代だが、無論、彼女はその意味を本質的には理解していない。
「今更って気もするけど。高校にもなれば、部活なんか、大体中学の持ち上がりだろ。もう皆ある程度行き先は決まってるだろうに」
ひどく無感情に言うのは高月霧。言葉の調子の通り、異様に無表情な彼は視線を背後にやることもなく粛々と歩み続ける。早足で迷いなく、その背中がひどく真っ直ぐで直線的な分、動きが平坦すぎてどこか陰気だった。実際、奥二重の切れ長の瞼を伏せ気味にしてやや下向かせている彼の顔は暗く見える。虹彩そのものは黒く大きいので、それが長めの黒髪と相まって、残念ながら明るい雰囲気はない。口元を頑なに引き結んで、口角やたらに歪めているから一層だ。
「いやでも、この学校部活動入部必須らしいし。これまで帰宅部だった奴とか新しく何か始めるんじゃね?」
「どうせどっかのお遊び部に入ってお茶濁すだろ、そういう奴は」
男まさりの夕香里の言葉に高月霧は溜め息をつきつつ言う。言うことが常に後ろ向きなのだ、彼は。そこで初めて振り向く。体育館前に溜まる大集団。声と存在と、熱気が凄い。
その様をどこか暑苦しく感じて、霧は顔を顰める。
「あの熱気もいつまで保つやら。新しい環境に興奮して、妙なチャレンジ精神が沸く期間なんてあっという間だぜ」
「………」
あの生徒会長の言葉じゃないが、“新しい”ことに妙な熱意を見せることは往々にしてあるものだ。新しい環境、新しい人間関係、新しい部活に授業、経験に知識。その中で何かが得られるかもしれないと意気込んで、全く知らない分野に、これまで関わって来なかった人種に接触しようとするのはよくある。最初は楽しい。知らないことや、未知の言動に触れて、自分が変わったような気分になって、その陶酔と刺激に酔う。
……が、人間というのは、どこかで落ち着くものだ。新しい何かも、年月の中で古くなり、新鮮味がなくなると、結局のところ篩にかけられて、残るのは個人の性分に見合うもの。それは、古くから持ち続けているものであることが多い。
「結局、身の丈に合ったもんに落ち着くだんよ。環境が変わったからって、人間がそうそう変わるか」
「冷めすぎだよ、あんた」
「ま、無理に変わることも何かする必要もないよ。好きなことをやってりゃ良い」
そう言って、柊八尋は少し視線を上向かす。
「それが許される期間であるってことは、俺もあの会長に同意」
何をやっても許される、そこで生じる功罪の責任を、まだぎりぎり請け負わなくて許される年齢だ。
だから、何かやれと。……それは強制されるものではないが、やる分には良い働きかけだった。
八尋は、見上げた顔に風を受けながら言った。
「良い三年間になると良いね」
「……」
それは、現実的で理性的な彼には珍しい不明確な展望だった。未知の日々に夢を見るその姿勢は、彼の飾り気のない、だからこそ十代の清廉さをそのまま表す風貌と奇妙に親和していて、その顔に、穏やかな春風が当たる様は美しくさえあった。
その情景は、高月霧の錆びた感性にも響くものがあって、彼の裡にある僅かな若さを震わせた。友人に倣って、彼も前を向く。
歩んでいる内に体育館の影を脱して、明るい表通りに出た。校舎とグラウンドの合間にある道は、光に満ちている。
「あつ……」
春らしからぬ陽光。だが、吹く風は穏やかで季節相応。ぬるい風が涼しく感じて、相違がかえって親和する、奇妙な天候だった。
霧は、ふと、その道沿いの風景に眉を寄せた。
「………この学校、桜がないな」
え、と友人の呟きに二人が反応した。
「学校ならあるもんじゃないか」
学校施設には付き物だろう、薄紅の小さな花々。それがここにはなかった。季節外れの暑さに散ってしまったとかそういうことではない。校舎の真正面にあり、表から入る分には学生達の毎日の通学路になるだろうその道沿いには、背の高い細身の木が植っているが、それはただ緑の葉を風になびかせて、花の気配はない。学校中そうだ。グラウンドを取り巻く木々も、裏門に植わる木も、全て葉色の木だ。
「ほんとだ、めずらし」
夕香里も眉を寄せる。だが、八尋は冷静だった。
「いや……。最近は桜って、新築の建物には植えないらしいよ」
その言葉に、二人は彼を見る。
「桜って、咲いてる内はきれいだけど、すぐに散るし、花びらが道や側溝に詰まって結構処理が面倒だから。夏になると虫もつくし」
花以外は歓迎されない存在らしい。だから、新しく建てる施設には、あの僅か数日の美しか価値のない木は遠ざけられると。
「……まさに花より団子」
美観より効率。現代らしいといえばそうだが。
「まあ、気候も変わって来て、入学式や卒業式を桜と共にって、現実的に難しくなってるし。春休み中にしか咲かないなら、あってもしょうがないって考えもあるよ」
八尋は言って、ただ青々と立つ木々を見つめる。
「これがこれからの春の情景かも。……少なくとも、僕らは三年、この春を見るんだろうね」
また風が吹く。熱気の中の春風。青い葉がさらさら揺れる。
─────これが春。自分達が三年通うと決めた学府が、毎年見せる春の景色だ。最初の季節。
「どんな春でも春は春だ。………始まりの季節」
「どんな三年間かなー」
「……無事に終わってくれればいいよ」
なろうことなら、“めでたし めでたし”で。
……………年月と共に、春も変わった。陽は照って、風は涼やかに、そして色味は青々と。かつて古くからある学舎が冠してきた光景はもうなくなりつつある。
だが、そこを子供らが歩いて、日々を過ごし、これからの毎日と期待と不安で過ごすことは、今も昔も変わらない。子供らもまた、変わったという人もいる。昔ほど若者は感動せず、能動的でもない。
だが、今ここから始まるという事実は、これもまた変わらない。
わたしも始まる。わたしはそこには行けないし、貴方たちと見合うことも言葉を交わすことも出来ない。
……けれど、ここからは見える。貴方たちの表情も、言葉も、歩みも走りも。
貴方たちのこれからを、見ていたい。私が歩むことの出来ない道を歩む貴方たち。────そこにある秘密を、嘘を、真実を、良いことも悪いことも。
そこで起こるすべてのことを、私はここで見る。
──────私は、羽野貴音。
舞台袖から貴方たちを見る、傍観者。