第八章 「嵐ヲ呼ブ」
銀天――商業街であり繁華街である。そのいずれの面でも帝都内では最大の規模を有していた街であった。
古来、商売の神とされる銀狐天を祀る社があり、それが特に御利益があると評判になり参詣者が増えた。関央全域はもとより遠く北の裏邑や西の海南地方からも参詣者が訪れたという。やがてその門前に参詣者を当て込んだ市が生まれ、やがては宿場も備えた商業街にまで発展した。
時が衛治の世に至り、新政府の洋化政策の一環として帝都の再開発が実施され、銀天の「洋化」もまたその有力な一翼を担うに至った。爾来、銀天は帝国内外の物産を扱う高級商業地としての性格を確立した他、先進文化の発進地としても神和中にその名を知らしめることとなったのである。
陵からその銀天には、路面電車で行けた。
車窓から仰ぐ青空と、注ぐ陽光が目と肌に心地よい。東京の様に天界まで侵食する勢いで建つ高層建築物は此処には無い。だが平屋からビルに至るまで、無個性な建物が無いことが遥を内心で驚かせた。食品から衣料、自動車家電に至るまで、様々な種類の看板が見渡す限りに広がる。
一台の車が濃い排気炎を吐き出しながらに電車の横をすり抜ける。それが三輪の大型トラックであることに気付き、遥は驚いて電車を抜き去るその後ろ姿を目で追った。三輪トラック……そんなものもあるのか? 排気煙が車内にも入って来て咳き込む客もいる。窓の外、車の数が増え始めている。歩道を行き交う人々もまた多い。時を追うごとに無秩序が街を侵食し始めている。繁栄の証だ。
窓に流れる景色に見とれる一方で、視線が刺さるのに遥は気付く。顧みた対面に、洋装の少女がふたり席に収まって遥を見ている。セーラー服にズボンを履いた少女とワンピース姿の少女のふたり、遥と同年かもしれない。キョトンとする遥に頻繁に視線を注ぎつつ、少女は小声で話を続けていた。電車が街中で停まり、遥もまた腰を上げて車掌に降車を告げた。遥の後を、ふたりも追う様に降りた。
「もし……?」
「……?」
話し掛けられ、遥は背後を顧みた。少女がふたり、躊躇いつつも遥に話しかけようと試みている。微笑が初々しい。男と話した経験もそれ程無いのかもしれない。それでも――
「お兄さんがすごくカッコいいから、お茶でも一緒に如何かなと思いまして……」
「……」
遥は、内心で驚いた――逆ナンパというのは、神和でもあるのか?
「慈遊堂パーラー」という銅板の表札には、この銀天の街において十年単位で刻を重ねて来た貫録が感じられた。
衛治時代の末、西界こと西方世界まで渡って菓子作りの修行をした初代からすでに四代を重ねた慈遊堂は、敷地内に洋食店も併設する程の広さを有する。少女ふたりに誘われて入った積りが、構図からして遥が連れて来たようにしか見えないであろう。帝國ホテルのそれと変わらない調度の店内とレコードから流れるクラシック調の曲の組み合わせが、遥には却って敷居の高さを感じさせ、財布の具合を内心で心配させた。神和に来てからというもの、高価い買物ばかりしている様に思える。
少女たちはさも当然という風にフルーツパフェを注文した。メニュー表の価格は思った通り……今日の昼食は抜いた方が得策かもしれない、などと貧乏性が頭を擡げる。
遥はコーヒーを頼んだ。前夜は警察の手入れもあってまともに眠れていなかった。頭を醒ます手段を、遥は欲した。
「お兄さん、帝都の人じゃないね」
と、パフェを頬張りつつ少女が言った。「わかる?」と遥も肯定する。
「お兄さん、いい服着てるもの。上着の作りも丁寧だしあとズボン……それ、ジーンズでしょ? 映画で見たことあるもの。西界の俳優さんが着てた」
「神和にはまだジーンズ入って来てないから……すごく珍しくてつい声かけちゃった」
片方の少女が言った。遥は微笑い、言った。
「きみたち、まさか毎日こうやって奢ってもらってたりする?」
「……」
少女は、互いに顔を見合わせた。遥は察する――平然と「違う」と言ってのける程場数を踏んでいるわけでもなさそうだ。ひょっとしたら「パパ活」も、神和にはあるのか?
「でも……やってるの私たちだけじゃないよ?」と、悪びれることも無く言う。
「それはいいんだ。おれ、銀天初めてだから、面白い所あれば案内してもらおうかと思ったんで」
「……」
「お菓子買ってあげるよ? どう?」
これじゃほんとに「パパ活」だな……自己嫌悪すら覚えた遥の眼前で、二人の顔に喜色が満ちる。
街の名称の元となった銀狐天の社に、遥は連れて行かれた。
賑やかで華やかな場所に憧れを抱いたところで、長いこと喧騒を歩けば疲れる。そこで静かな場所での癒しが欲しくなる、というのが少女たちの言い分だった。位置関係の効果もあるのだろうが、彼女らの言う通り社の境内に身を置く限り、街の喧騒が遠くに聞こえる。
社殿に参る様、二人は促した。外目は日本の神社に似ているが、参拝の仕方はどうだろう?……などと遥は考えた。
「お社は、商売繁盛の他に縁結びの御利益もあるんだよ」
手水場で手と口を濯ぎ、少女がふたり進み出る。小さな鈴を鳴らして二礼二拍手一礼――信仰に向き合う姿勢の良さ、挙動の確かさは日本の女子高生よりしっかりとしているかもしれない。遥もふたりに倣う。ぎこちない動きを笑う声を背後に聞いたが、悪意は感じなかった。参拝を終えた遥に、ふたりが聞いた。
「何をお願いしたの?」
「はやく故郷に帰れるようにって……君は?」
「わたしは……良縁が来ますようにって」
「彼氏とか、いないの?」
「カレシ?」
「何というか……一緒に遊ぶ男友達とか……」
少女の表情が、曇った。それだけで遥は自分の言葉を後悔した。
「……わたしはお家がいい人との縁を取り持ってくれたら、あとはお父様お母様の勧めに従うのが幸せだと思ってるから……」
「……」
やはり此処は、日本では無かった……いや、昔の日本って、確かこんな感じではなかったっけ……遥は困惑する。
「わたしはこのまま神和が平和でありますようにってお祈りしたよ」
もうひとりがあっけらかんと言った。「お祖父ちゃんが蕃神に襲われて死んだから……」
「……!」
次には勢いを付けて背中を叩かれた様に、遥は胸をビクつかせた。「わたし、家が横天戸にあるんだけど、十四年前のことはよく覚えてる……」
彼女が語ったのは、「第三次蕃神侵寇」の光景であった。
このとき、警戒網の不備を突いた蕃神の浸透が関央州一帯に及び、幼い自分の少女が住んでいた町もまた、蕃神群による「喰襲」の対象となった。町の大半を占める木造家屋はおろか煉瓦造り、鉄筋コンクリートの構造物すら翅鬼の強靭な顎の前には無力であった。噛み砕かれ潰された家屋や建物から逃げ遅れた人が鼠の様に引き摺り出され、やはり喰われる。
空と陸を蹂躙する翅鬼から逃げ惑う人々――少女もまた祖父に抱かれ、避難船の待つ川の渡し場まで向かっていた。父母兄弟とはとうの昔にはぐれていた。
渡し場を目前にして、少女は自分の名を呼ぶ声を聞いた。海に向かう汽船、避難民で立錐の余地の無い汽船の中に叫ぶ母の姿を見出し、幼い少女は泣く。急ぐ祖父の背後に絶叫が生まれ、悲鳴も重なった。
「――来たぞ!」
対岸、かねてより生じた大火により曇天が朱に染められる。その雲の一点、翅鬼の群が急に針路を変えて渡し場まで降りて来るのを目の当たりにした時、それまで辛うじて保たれていた避難民の秩序は崩壊した。群衆が我先に汽船に川船へと殺到する。転んだところを踏みつけられる者、川に落ちる者もいる。警察官や在郷軍人の静止と怒声も無力であった。船員ではない船上の誰かが舫を解く、母を乗せた船が岸を離れ、乗りかかった数名が足を滑らせて川に落ちる。祖父が大声で母の名を呼び、少女を母に放り投げた――
「――生きろ!」
その言葉を、少女は幼心にいまでも覚えていると言った。母に抱き留められた少女の眼前で、祖父の姿が飛来した翅鬼に攫われて消えた。逃げ遅れた人々の頭上から禍々しい異形が襲う。顎に千切られ、鍵爪に引き裂かれる人型。翅鬼複数に圧し掛かられて沈む川船が、顎に齧られて血と肉の桶と化していく。少女の船を生き餌と見做した翅鬼が二鬼、曇天を背景に翅と顎を拡げ、頭から少女の船に圧し掛かる――
「――ッ!?」
肉が弾ける音がした。母に庇われた胸の中で翅鬼の気配が消えた。
翅鬼の体液が散って船体を穢す。母の腕を掻い潜る様に見上げた少女の円らな瞳が、天に向かい船の前に立ち塞がる影を見出して固まった。空に浮く機導神の翅の生む爆音と衝撃波が、地上にまで達し船を烈しく揺らす――長い刀を握った、白く輝く機導神が独り空に佇んでいる。
「――爾麒だ!」
「――爾麒だっ! 助かった!」
「――っ!」
口々に名前を呼ぶ声が上がる。大人たちの声には安堵と喝采、そして畏敬の響きがあった。中空に在って襲いかかる翅鬼を一匹、また一匹と斬り伏せて行く真白い巨人、それは大きな翅を拡げて上昇し、尚も迫り来る翅鬼の群にたった独りで突っ込み白刃を揮う。地上の人間を喰らうどころではなく、翅鬼は一鬼、また一鬼と爾麒に斬られ、群は蹂躙されていく――
「ミツル……ギ」
少女もまた、たどたどしくその名を口走り、祖父の死を一時忘れた。
「爾麒を……見たの?」
遥の問いに、少女は湿っぽくなった瞳を瞑って頷いた。蕃神の被害がこの華やかな街にも及んだことは、社の境内に建つ慰霊碑から察せられた。社を出、現在自分の立つ街が、蕃神の来寇という破滅から十年以上に亘って続いた復興事業の結果であることを、遥はふたりに案内されつつ自覚する。
路地を歩く途上、その前を通った赤煉瓦造りのある喫茶店は、蕃神の襲撃により全壊し、瓦礫の山と化した煉瓦の破片全てを集め、それらを繋ぎ合せて再建を果たしたという。同じように復興に臨む執念を感じさせる話が、銀天の煌びやかな街のそこかしこに転がっている。少女ふたりはその隣の唐支料理店の店頭で売られている餡入りの唐支饅頭を所望し、遥はそれを買ってやってふたりと別れた。別れる間際、少女のひとりが聞いた。
「貴方は、これからどうするの?」
「浅月町に行く。レビュウを見に行くんだ」
「浅月? ひょっとして古星デンカ? デンカのレビュウ見に行くの?」
「うん」
頷きつつ、内心で苦笑する。今朝、軍振会館前で降車するさい、当のデンカにチケットを握らされたのだ。「これあげるよ。帝都に来たからには、ぼくのレビュウは絶対見ないと」と、デンカは半ば自画自賛の様に言っていた。「関原大佐には、ぼくの兄に君が劇場に居ることを伝えさせるからさ」とも、彼は押し付けがましく言った。つまりはこの瞬間、レビュウは兎も角、遥はデンカの演芸場に絶対行かねばならなくなったわけだ。子供がそのまま大人になったようななりをしていて、なかなかどうして押しが強い。
「じゃあ今度は映画見に行こうよ。先ずは洋画にして、それからデンカの喜劇でも……」
「……あいつ、映画にも出てるのか?」
「デンカのこと、友達みたいに言うんだね。ヘンな子」と、少女は笑う。彼が相当な有名人であることは、彼女らの態度からなら、今更ながらよくわかる。
本通りまで戻る途中、その本通りの方向が騒がしいことに遥は気付いた。本通り方向から来た女子の三人組が、遥と歩くふたりに手を振って近付いて来た。「御機嫌よう」「御機嫌よう」――遥の前で、漫画の中でしか聞いたことの無い挨拶を五人が交わした直後、三人は眉を顰めて言った。
「今は本通りに出ない方が宜しくてよ」
「どうかしたの?」
「殉國党が来てるの。また車道を占拠して演説を始めてる」
「まあ……また?」
「殉國……党?」
「幼年学校の生徒たちよ。週末に学校から殉國社まで行軍して来るの」
殉國社?……聞き慣れない名に困惑する遥に、ワンピースの少女も困惑気味に言った。「でもよりにもよって銀天を通ることないじゃない……」
「おれも出ない方がいい?」
「あなた……その格好はまずいと思う。私は好きだけど」
「絶対あの人たちに目を付けられるから駄目!」
「……」
ふたり同時、即座に否定され、遥は更に困惑した。本通り沿いに演芸場のある浅月まで直通の地下鉄駅がある。時間も圧していた。隠れて様子を見て来ると言い、遥は少女達と別れることに決めた。ゆっくりと前へ歩き、側道から本通りを覗く様に見た。まるで祝祭の最中であるかのように生じた人混みが遥の視界を塞いでいる。それらをかき分けて更に前へ出る必要があった。若い、若者と呼ぶには未だ初心な声が、拡声器に乗って一帯に響く――
『――国民諸子よ聞け! 今日銀天の繁栄と安寧あるは誰の献身に依るものか!?』
拡声器に叫ぶ若者は、自分と同年代であるように遥には見えた。少年ばかりの中に、少女もごく疎らにいる。彼らの全員が例外なく軍服、腰に短刀を提げている。制服は軍振会館で出会った少女が着ていたものと同じだ。軍服と短刀の組み合わせは、それを着ている年齢に関わらず接する者に威圧感を与えているようで、演説を打つ生徒たちを遠巻きに眺める人々の表情には緊張の色が見えた。
『――今日の国民諸子の繁栄と安寧は、元を糺せば帝国のために散華せる英霊たちのものである! 三度に及ぶ蕃神掃滅戦を顧みよ! 暴戻なる唐支反和勢力の暗躍を顧みよ! 攘夷戦争以来続く西界列強との抗争を顧みよ! 諸君ら国民は燦然たる神和の歴史を顧みたるか? 悠久にして勇壮なる神和民族の歴史を顧みたるか? 万世一系なる皇主陛下の賜いしご厚恩を顧みたるか!?』
「――――ッ!」
「皇主陛下」の単語が出た瞬間、生徒達が一斉に背筋を糺す。多勢が生む動作が重い音響となって繁華街の群衆に一石を投じる。人間性をお首にすら出さないその挙動が、遥の目には非人間的な、あるいは機械の様な反応に映る。彼らがただの少年少女ではない、軍人であることの何よりの証だとも思えた。背筋が寒くなる。
『――我ら帝国総軍は数多の勝利を以て歴史を創り、万世一系の皇主陛下の御付託に応えてきた! 国民諸子に偉大なる皇国の威光と恩恵を示して来た! 然るに政府は不忠にも不磨の大典たる憲法に、穢れに塗れた手を入れ、全軍を総攬せる皇主陛下より統帥の権を奪おうとしている! これを不遜にして乱臣の極と云わずして何と云うか!? 無知なる閣僚並びに文官どもは、神聖にして不可侵なる皇主陛下の威光を何と心得たるか!』
拡声器を握る若者の頬が紅潮していた。羞恥に拠るものではなく興奮に拠るものだと思った。そこに愚昧なる民衆を導くのだという使命感と陶酔感が重なればもう手は付けられないだろう。人形の様に端正な、だが特徴に乏しい顔をした彼の周囲では、人気芸能人の取り巻き宜しく囲み立つ多数の軍服の他、複数名の軍服が盛んに走り回っている。何をしているのかと訝しんで目で追った遥の眼前で、それは衝撃的な答えを見せた。
「――貴様! その髪型は何だ!?」
「――キャアッ!」
カールさせた頭髪を掴まれた女学生が叫ぶ。腰から引き抜いた短刀で引き切られた長髪が乱れて地面に落ちる。
「――神和撫子らしき慎ましやかな髪形にせよ! 品位を保て!」
髪を切った生徒が怒鳴り声と共に少女を解放する。両手を顔で覆い泣く少女が、友人らしき女学生に付き添われて逃げるように裏通りへと離れて行く。
「……」
あまりのことに呆然とする遥の眼前で、生徒たちの横行は続いた。髪を伸ばしているのを見咎められ、学生服の少年が頬を張られる。派手な柄の着物姿、長い飾り煙管を持った女が、生徒数人に淫売呼ばわりされて路地に逃げる。通りを挟みその反対側では、やくざ者らしい傾いた服装の男が生徒三名に囲まれ、烈しい言い合いにまで発展している。軍服を着ていなければ単なる不良と変わらない。それは異常な振る舞いに遥には見えた。
『――国民諸子よ、諸子らは弛んでいる! 諸子らは永い平和に慣れ過ぎてはいないか? 治に在って乱を忘れてはいないか? 奢侈に浸り過ぎてはいないか? 神和の民はそのようなものではない! 真の神和人というものは!――』
群衆を掻き分け、女性の影が独り進み出た。
群衆と演説する生徒を隔てる軍服の壁が、女性の姿に軽く動揺した。遥ですら、教会のシスターを思わせる黒尽くめの姿に息を呑む。被り物の下から覗く顔は――やはり美しかった。白い肌、長い睫毛と二重の瞳、縦にはっきりと通った鼻筋は、遥から見ても神和人離れしていると思ったものだ。
そのシスターが修道服を翻して幼年学校生徒たちの前に立つ。台上の生徒ですら演説を止め、困惑気味にシスターを見下ろしていた。他者を批判し責めることに夢中ではあっても、その他者に反抗されることを、全く想像していなかったかのような狼狽であった。
「いい加減におやめなさい!」
シスターが言った。「皆が怯えています。今すぐに集会を解散して、皆の迷惑にならない場所でやりなさい」
「……っ!」
目を血走らせた生徒たちがシスターを取り囲んだ。握り直した拡声器から、早口で罵倒に近い言葉が飛び出した。
『――脅しているのではない! 盲いたる民に皇国と国防の大義を教授しているのだ! 異教徒風情が皇都の表を歩くな!』
「弱い者の髪を切ったり、弱い者を殴ったりすることが、大義を教授する方法なのですか!?」
『――退がれ下郎! 夷狄の神を奉じ、皇国の大義を軽んずる輩に用は無い!』
「貴方こそ退がりなさい! 此処はみんなの往来です! 貴方がたが占有していいものではありません! 殉國社の英霊も、このようなことは望んでいません!」
『――異教徒め!……言わせておけばっ!』
「やばい……」
呟き、遥の胸が高鳴った。シスターを取り巻く負の熱気が上がった様に彼の目には見えた。木刀を握り締めた生徒がシスターの背後に回ったのを目にしたとき、遥は周囲の群衆を見回した――眼前、孤影が多勢に囲まれても尚、助けに出ようとする者はひとりとしていない。一様に硬直し怯えた人々の顔を目で探るうち、ボールを抱えた幼児が目に入る――フットサルに使えそうな、手頃な大きさのボール。
『――異教徒の分際で英霊を愚弄するか!? これは乱心だ! 矯正する必要がある!』
「――発言を取り消せ!」
「――英霊に謝罪しろ!」
『――議論の余地は無い』
台上の生徒が目配せした。気配に気付きシスターが顧みた背後で、表情の無い生徒が木刀を振り上げる。生殺与奪の一切を握った優越感に、生徒の端正な表情が歪む――
『――ぶべらッ!』
蹴り出されたボールは緩やかに放物線を描き、生徒の顔面を直撃した。表記不明な悲鳴を上げて顔を抑え、台上から滑り落ちた生徒に、周囲の生徒が一斉に駆け寄った。
「――允且様? 允且様!?」
「――目がっ! 鼻がぁっ!」
人事不詳に陥ったリーダーを生徒が囲むのと同時に、周囲に拡散していた抑圧感が消えた。唐突な展開に呆然と佇むシスターと息を呑む群衆、その中でボールを蹴り出した遥は動いた。「お兄ちゃんすごい!」と、紙幣を握らせた幼児の声を背後に受け、遥は脱兎の如くに通りへ出る。この子は新品のボールとお菓子にありつけるだろう。
「……?」
「行くぞ!」
驚くシスターの手を引き、遥は通りから路地に走った。「あいつを追え!」「逃がすな!」など恐慌染みた怒声が背中に追い縋る。
いち区画を貫く狭い路地の先、さらにその出口で別の通りが広がる。大人数が路地を奔る気配を感じる。ゴミ箱を蹴り倒し、遥とシスターは更に走った。ゴミ箱に躓いた数名が派手に転ぶ気配まで感じられた。狭い通りを路面電車が走る。それを目指し、遥はシスターを引き摺る様に走り続けた。
通りを行き交う人の波に入り、そして停車駅まで車道を横切る。駅からは路地を出た生徒の白い軍服姿が無数、此方を探して人込みに分け行ったのが見えた。通行人や自転車とぶつかってトラブルを起こしている者もいる。通りの警官が異変を嗅ぎ付け、人込みの方向に駆け出した――シスターを先に車内に押し込め、遥が続いて足を踏み入れるのと、路面電車がゆっくりと動き始めるのと同時であった。いち早く人込みを脱して停車駅に達した幼年学校生徒が、脱力して電車を見送った。しかしその目は例外なく獣の様に血走っている。
車窓からそれを眺めつつ、吊り輪に捕まって息を粗くする遥を、肩で息をするシスターが座席から上目遣いに見ていた。幾度かの駅で停まり、乗り降りを繰り返す内に銀天が遠ざかる。浅月もまた、遠ざかる。
「おれ、浅月に行かないといけないから……」窓の外に地下鉄への入り口を見つけ、降りようと構える遥の服を、シスターの白い手が掴んだ。
「……?」
「いけません、あなたは怪我をしています。一緒に来なさい」
シスターの眦には、拒否を許さない険しさがあった。