第七章 「軍神ノ貌」
夏が過ぎ、秋風の尖兵が迫る時分になっても、名物の桜並木は未だ満開の翠を繁らせていた。枝葉に彩られた黒煉瓦の高楼、帝都中央区陵 そこに所在する軍振会館の一室で朝方から始まった会議は、今のところ一点、陸軍大佐 関原 信雄の「事後報告」に終始している。実のところ、この狭い会議室で唯一の佐官にして、唯一の参謀将校たる関原 信雄の報告のみで、この会議は動いていると言ってもよい。
「事後報告」とは、先々週に寧北管区陸軍の主導で実施された「反和武装勢力」の掃討作戦についてであった。「反和武装勢力の掃討」というのは、あくまで外野の民草向けの喧伝であって、その実、総軍と政府の一部高官のみが極秘裏に把握する、「時空転移装置」を介した「異世界」日本との技術交換ルートの壊滅を、それは意味していた。
襲撃の主体となった陸軍は、「確かな筋」からの情報提供を理由に、「武装勢力の拠点」攻撃を正当化した。その「確かな筋」というのが関原たちの関知しない、別系統の「特務機関」であったのだから性質が悪い。総軍には、個々の部門長が、己が都合で「特務機関」をでっち上げる悪癖が衛治建軍の頃から存在する。
その「特務機関」が真に有能で、国益に貢献するに足るのならよい。だが「神和帝国では、択ばれた秀才が軍人になって国を守るのではなく、軍人になって己がやりたいことをやる」という悪口もある程で、この辺り、神和帝国軍の市井に対し隠された裏の性格を象徴している。本性と言ってもいいかもしれない。
その「己がやりたいこと」が国益に合致していれば問題は無い――否、これでさえも実は問題大ありなのだ――が、個人の都合で作られて税金を投入される「特務機関」は、大抵それが所在し活動する「前線」で、現地住民や諸外国とのいらぬ軋轢を引き起こす。そうした数多い「軋轢」の、ひとつの結果として、関原の特務機関はとばっちりを受けて一方的に蹂躙されるに至った、というわけである。
結果として、「関原機関」の主任務は長期にわたり停滞し、帝国総軍は過去十五年以上に亘り、技術上多大な恩恵を享受して来た術の一切を失った。同時に帝国の未来もまた……少なくとも列席者の中で関原自身だけは、そのように考えている。
「……時空転移装置の根幹部は保全に成功しております。ただし、補助体系の再構築と時空裂探知機の再調整には時間が必要かと思われます。目下の課題と致しましては、これら専用機器の修復と同じく破壊された拠点の回復が――」
「そのことについてなのだが関原君」
「……?」
ほとんど棒読みしていた報告書から顔を上げて、関原は会議室の上席を仰ぎ見た。席に収まる三人の将官は、もはや困惑した表情を隠してはいなかった。「神聖ニシテ侵スベカラザル」皇主の、外交国防上の諮問機関たる御前会議に臨席する資格をも有する軍事参議官たる彼ら。その軍の有力者と、彼らを通じてさらに繋がった政界中枢とのパイプが、「関原機関」の依って立つ処であった。
「時空移転装置を通じた『日本』との通交は、これを当面凍結することに決した」
「何故でしょうか?」言いつつも、関原の表情は動じない。
「神祇院と枢密院より、君の『樹情報』に対し懸念が出ているのだ。それも昨日今日の話ではない。君が開拓した『樹情報』が、国防上有益な情報源であることは我々も認める。だがその内容が有益なるを越えて先鋭的過ぎるという意見もあることは、君も知っている筈だと思う」
「はっ……!」
低頭し、関原は将官たちの意見を肯定した。
「異世界」の軍事から民生分野に跨る各種技術、行政システムの構築に関する情報――それらこそが、時空転移の術を得た関原が、異世界「日本」との通交により十年以上の時間を掛けて収集した「樹情報」の全てであった。
それらの中には基礎技術の遅れから神和での実用化に時間を要する技術もあり、神和の政治体制にそぐわない行政システムもまた存在する。だが「樹情報」の中で「使える」と判断された技術と情報は、それが急進過ぎない程度の慎重さで徐々に実用化し、あるいは社会に浸透させていく……関原と彼の特務機関、そして関係各省庁の担当者が長い時間と幾度もの調整を経て、まさに神和帝国そのものを対象に継続して来た「秘密工作」は、まさにこの日を持って中絶を見ようとしていた。
「今回の襲撃による『日本』との通交途絶状態は、これを契機として現状を維持する。これは神祇院の見解と閑清院公の意見をも含めた枢密院の結論だ」
「老公が……?」
聞き返した関原に、将官がひとり頷いて返した。「老公」こと閑清院 允望 神紀一千年代に宮中にて権勢を揮った「五清家」の一角より連なる堂上公家を祖とする公爵家の当主であり、過去三度の首相就任経験を有する政界の「重鎮」。五年前に老齢を理由に国政の第一線を退いても尚、「国政の指南役」として現役の首相と国務大臣、ひいては皇主の信任は篤い……その老公が、今回の事変に介入した?
「……閑清院公だけではない。これ以上の『日本』との接触は危険であると言う意見が元老の中には多い。我々は既に十分な成果を得た。今までの『樹情報』の蓄積を、時間を掛けてものにしていけば長期的には神和の興隆は成る。急ぐ必要はないというのが皆の結論だ」
「わかりました……では確約を頂けませんか?」
「……?」
将官らが顔に浮かべた怪訝を了解と解釈し、関原は続けた。
「『日本』との通交途絶状態を、情勢が変われば即座に通交再開が可能な状態にまで復旧すること。我ら特務機関襲撃を主導した勢力の処罰を行うこと。これまでの工作を統括せる立場として、そして帝国軍人として小官は以上二点を望むものであります」
「関原!」
将官がひとり、関原に目を剥いた。隣席の将官がそれを制し、言った。
「寧北における襲撃事案の是非については既に協議している。以後の貴公らの活動に図る便宜の範疇を拡大することで話は付いた。予算獲得も他機関と比べて有利になる見込みだ。それも全て、これまで貴公らの帝国に為した貢献の大きさを、政府及び軍の誰もが認めた証だと思ってもらいたい。前者においては――」
「……?」
「――我々の懐には入れておくが、確約はしかねる。釘を刺しておくが、この件に関し以後勝手な事はするな大佐。これは帝国の未来と関原少将、君個人のためを思って言っているのだ」
「少将……?」
「辞令は来週になるが、来月付けで君は少将に昇進だ。新しい配属先は参謀本部を考えておる」
文句はあるまいな……正面より自分を凝視する老将の眼光が、関原にそう語り掛けていた。それに動じる素振りすら見せず、無表情を保ったまま関原は畳みかけた。
「ではこれだけでもお教え願いたい。我々の事業を頓挫せしめるのに、機導神軍団と貴方がたとの間で「協議」はあったのですかな?」
「貴様……っ!?」
関原を怒鳴りつけようとして、将官は失敗した。関原の無表情が満面の笑み、それも狂気を宿した笑顔に一変している。だが哂わないまま、自分たちを見据える半白眼を前に、老人たちは内心で慄えた。
軍振会館は、軍人及びその関係者の使用を想定して建設された集会用の施設であり、地方在住の退役軍人及び予備役軍人が上京した際の宿泊所としても建設された。「第二次蕃神侵寇」終息後、「軍神」朝霧 圭乃が、時の皇主驍仁より下賜された一時金を原資に傷痍軍人補償の基金を募り、その一部を流用して建設され、長じて竣工が成ったという経緯を有する。
現役退役を問わない軍人の福利厚生施設という性格の他、軍振会館は帝国在郷軍人会の本部が所在し、同時に帝国傷痍軍人協会の本部、軍人遺族会の本部も併せて所在する。それ故に普段より人の出入りが多く、此処が秘密会議の場に択ばれたのは、関原らを警戒する軍内の敵対勢力の監視を分散させうると言う計算が存在した。
不毛な会議が終わった。
会議室を一番最後に出、正面通用口に続く一階ホールに出たところで、ホール中央に佇む銅像に関原は敬礼した。敬礼する関原の眼差しの先で、軍用外套の下に機導神操縦服を纏った女性像が、軍刀を手に外套を翻して眼下を睥睨する。だが建物の構造上、決して広いとは言えないホールを行き交う人々に注ぐ彼女の眼差しの暖かいことは、銅像の端正な顔の目付きから誰の目に察せられた。
国のために身命を賭し、心身に傷を負った人々を見守る女神 朝霧 圭乃の貌、凶暴な蕃神に対し容赦しない「軍神」朝霧 圭乃の貌、そして夏秋 遥の母 朝霧 圭乃の顔……これが在る故に軍振会館にはあの女も容易に近付けない。否、近付かないと言った方が的確だろう。
「圭乃どの……すまない」
敬礼を解き掛けて、関原は銅像に呟いた。彼の傍に松葉杖を突いた私服の男が立ち、銅像に向かい空いた手で敬礼した。と同時に、男の片足が無いことに関原は気付いた。その次に片目を眼帯で覆った老人が銅像に向かい、背を糺して敬礼する――敬礼する手には、指が二本欠けていた。開いた片目からは涙が溢れている。彼女は斃した蕃神の数よりも、それで救った将兵の数を誇りにしていた。囁かではあるが、圭乃の戦いは此処で報われている。
宿泊用の部屋を一室、既に押さえていた。玉川社長には悪いが、遥君は明日にでも軍振会館に移そう――近い将来の計画を脳裏で漠然と弄びつつ、関原は正面玄関を潜る――
「……?」
物陰、あるいは背後から進み出て自身を囲んだ憲兵隊を、関原は敵兵でも見る様な眼で睨む。軍服の壁の隙間、将官用大型公用車の後部座席に、我関せずと収まる機導神軍団総監 朝霧 朱乃の姿を見出したとき、今更何の用があってこのような……などと内心で訝しむ。それを口に出すより先、憲兵の無機質な声がした。
「総監閣下が、大佐にお話があると」
同道願いますか? と、憲兵の無表情が言っていた。その瞬間疑念はすぐに晴れた。かと言ってそれについて話す気を、関原はとうに失っていた。
「僕には話すことは何も無い」
敢えて声を大きくして答える。玄関の階下、憲兵が有無も言わさず高級車の分厚い後席ドアを開けた。軍刀を握った朝霧 朱乃が、上目遣いに関原を見ている。怒りも呆れもその美貌からは見出せないことに、関原は内心で困惑する。「どけ」言うが早いが憲兵を押し退け、関原は開けられた後席へと歩いた。
「帝國ホテルへ回せ」
「……!?」
朱乃の命令に関原が驚くのと同時に、車は走り出した。恐る恐る見遣った席の隣、朱乃は両目を瞑り軍刀を握り続けていた。煙草を探す振りをしつつ取り出したオイルライターの鏡面に、後方、側車が一台距離を置いて追尾している姿を一瞥する。さり気無くライターをポケットに収め、関原も沈黙を守るよう努めた。途上、民用車を何台も追い抜き、信号すら職権で無視して車は走り続けた。都市の装いに、郊外特有の田園の装いが混じり始めた。長閑だが、破局しか待っていないドライブ。だが静寂は不意に破られる。
「信雄」
「ハッ……!」
拳――横合い、それも鞭を思わせる速さとしなやかさで繰り出された一撃は、生返事しかけた関原の頬を刃の如くに貫いた。拳を受け止められずに仰け反った関原の頭が、窓ガラスにぶつかり罅を入れた。唐突の事態に運転手が慌てたのか、車の挙動が微かに乱れるのを体感した。血の滲む口を結び、関原の半白眼が横目に朱乃を睨む。憎悪に満ちた女の眼が、それを受け止める。
「あの少年、圭乃の息子だな?」
「……」
「父親は誰だ?」
「……」
「少年の父親は誰かと聞いている」
「圭乃どのは処女のまま身籠ったのです。閣下のためにもそういうことにしといた方がいい」
「ふざけているのか? 下郎……!」
朱乃が軍刀の柄に指を掛けた。「貴方が一番ご存じの筈だ。総監」
「私に言わせるのか? 圭乃に誑かされたあの人の名前を」
「そういうところだよ……樹が貴方を択ばなかったのは」
伏せ目がちに関原は言った。眼を剥き、朱乃は関原を睨む。
「やはり斬られたいらしいな信雄」
「いい加減に認めたらどうですか? 樹と圭乃どのが相思相愛の仲だったことを」
「……」
怒りと絶望が、隣の女の粗い息となり、吐息が呪詛となるのを聞く。話題を変える必要を、関原は感じた。
「それで遥君を……如何するお積りか? 殺す積りか?」
「遥……というのか」
「……」関原も、朱乃も互いに答えない。沈黙の間、見知った道に車が入る。帝國ホテルに近い道だと、関原も朱乃もその実知っていた。
朱乃が言った。
「信雄……おまえはその少年を、爾麒に搭乗せる積りか?」
「適性があれば、そうなります」
「では爾麒は、当方に返してもらうしかないな。そして少年もまた、朝霧の人間だ」
「朝霧家に言わせれば取るに足りん妾の子の、そのまた子でしょうが? 余りに勝手過ぎるだろ!」
「よくも他人のことが言える」
車が帝國ホテルの正門を潜り、そして左右に洋風庭園を臨む道に入る。車寄せに停めさせたところで、朱乃は関原に遥を連れて来るよう言った。文字通りの命令であった。帯刀した上官――それも居合の達人――に刃向かうのは賢明とは言えなかった。不承々々、関原は車を出て玄関に向かった。そのまま更に暫く時が過ぎる――足早に玄関を出た関原が、息を弾ませて車に走り寄って来る様を、車上の朱乃は訝しげに見詰めた。不動の姿勢、そして敬礼――
「――報告します。夏秋 遥は現在、ホテルを出て帝都に外出しております!」
「本当か?」
「事実です」
「……」
無表情をそのままに、朱乃は運転手に手振りした。立ち尽くす関原独りを置いて、車寄せを出た高級車が走り出す。加速した車の姿が完全に消えるのと入れ替わりに、側車が一台、滑らかな運転で車寄せに入り、関原の前に滑り込んだ。
「大佐どうぞ」
ハンドルを握る黒蘭が、無表情のまま搭乗を促した。助手席に腰を下ろしつつ、関原は言った。
「総監御自ら此処に乗り込んできた。すぐにでも遥君を移送さねばならん」
「それは先刻……それで遥君は?」
「間一髪の差で外出して部屋はもぬけの殻だ。今頃帝都の真ん中だろう」
「勘がいい少年でございますから」
「……?」
黒蘭の声が微笑った様に、関原には聞こえた。彼女なりに遥君に安堵した積りなのだろうか? 関原が疑念を口にするより早く、クラッチを繋いだサイドカーが走り出す。軽やかにギアを重ねて加速し、そしてふたりはホテルの敷地を抜けた。
「あの女が見付けるより早く、遥君を探さないとな……」
関原の呟きに、希望が灯っていた。
「軍振会館」――小振りな城郭を思わせる黒煉瓦の建物を対面に臨む路上で、乗用車は停まった。軽自動車を思わせる小振りな車体、その極端に狭い後席から夏秋 遥が降りるのに、優に三分程の時間を要した。
「朝飯はあそこで食えるから。味の方は保証するよ。ぼくは和食ダメなんで食べたことないけど」
と、助手席から古星デンカが指差して言った。丸眼鏡とポマードした髪が印象的な太った男に、神和では典型的な大衆車という「タマガワ350」のテントウムシの様な車体は窮屈である様に思えた。というか彼が助手席に居座っているせいで、車内の閉塞感がかさ増しされている様に遥には思われた。それに加え移動の最中、始終車がガタピシ揺れて何時分解するか不安でしょうがなかった、というのが本心だ。礼を言って離れようとする間際、デンカは遥を呼び止めた。
「ニイチャン、開演は二時からだからね。待ってるよ」
「じゃ」
軽く会釈して手を上げる。運転席のマネージャーも会釈して、そして土埃を上げてタマガワ350は走り出した。先日夕食を共にした大食漢は古星デンカという名の、いわば芸人で、一座の座長として帝都で手広く公演しているのだと言っていた。映画やラジオにも数多く出ているとも言うが、遥は「異世界人」であるから当然、その様なことは知らない。より言えば、帝都の風俗とか流行とやらには自然、遥は無頓着であった。しかし古星デンカという彼の名が、本名ではない所謂「芸名」であることぐらい、遥には容易に察せられた――
――食堂での一件があった夜、デンカとはまたひと悶着が起こった。
デンカはただ帝國ホテルに飯を食いに来ただけではない。彼は麻雀をしに来たのである。それもただの麻雀ではなく、現金の掛かった「賭け麻雀」であった。
それがどういう経路か警察に密告された。結果として高級ホテルに、「摘発」を名目とした一個小隊相当数の警察官が闖入し、都市の喧騒からは超然として閑静な筈の帝国ホテルは、一瞬にしてハチの巣を突いた様な騒ぎとなった。デンカはといえば、偶々ルームサービスを頼みに外で電話を掛けていたところを、警察の突入から免れた形となった。部屋に引きこもってラジオを聞いていて外の騒ぎに気付き、そっと部屋のドアを開けた遥と、遥のいる階まで逃げてきたデンカの目が合った途端、遥は反射的にドアを閉めた。慌ただしい足音がドスドスと、遥の部屋まで迫って来た。
「頼むぅー! 開けてくれ!」
掌でバンバン扉を叩き、外聞も無く喚かれる以上、入れないわけにはいけなくなった。汗だくで部屋に入り込んだ煙草臭い大男が、まるで母親とはぐれた子供の様に周囲を見回して叫んだ。
「隠れる場所! 隠れる場所ない!?」
「……」
ブーツが無数、カチ合って廊下の絨毯を奔る気配が外からした。
「警察だ! 開けろ! 部屋を検める!」
硬い拳の乱打がドアを叩く、ドアが開き、顔を見せたのはガウン着の少年……それに訝しさを感じる暇すら邪魔と言わんばかりに、踏み込んだ警察の靴がドアと玄関への楔となった。
開襟シャツにハンチングキャップを被った、目付きの鋭い刑事を先頭に、黒い詰襟服の制服警官が流水の様に入り込む。少年はと言えば、備え付けの安楽椅子に座り、水を飲んでいた。クローゼットにベッドの下、そして窓の外……凡そ部屋周りを構成する全てにマーキングするかのように、警察の眼、手と足は延びる。剛腕が目に見える全てをひっくり返し、引き剥がす。それが一段落した後、刑事が遥に言った。
「おまえ、此処で何をしている?」
「見ての通りだよ。シャワー待ちだ」
床に散らかる服と下着に、刑事は目を細め、次には眉を険しくする。耳を澄ませば、浴室の方からシャワーが勢いよく泣く音がした。
「男物だな……お前ら何を……」
「男が男に買われて、何が悪いんだ?」
「……!?」
刑事と警官は顔を見合わせた。まるで獣でも見るかのように遥に向き直った刑事を、遥は上目遣いに睨む。浴室を覗こうとした警官を、遥は呼び止めた。
「ああ、顔は見ない方がいいよ。お客さん、政府のすごい偉い人みたいだから。顔見たらどうなるかわからないよ? ここにもデカイ車で乗り付けて来たし……」
「……」
「宮中で働いてるって言ってた……よく知らんけど」
「……ダメです。こいつら以外に誰もいません」
刑事に警官が囁く様に言った。外で逃げる者を追う声がした。応援の必要が彼らをして部屋に長居する意味を失わせた。潮が退く様に警官が部屋から出て行く最中、苛立たしげに刑事は向き直り、遥に吐き捨てる。
「今回は見逃す。風紀を乱すような真似は慎め」
「はいはい」
階から警官の気配が消えた。それを再び外を覗いてから遥は確信する。
「……おい、出て来ていいぞオッサン」
シャワーの音が、止まった。ずぶ濡れの巨体が全裸のまま、震えながらに部屋を伺う。「た、助かったー」
「ホラ、服着たら出て行ってくれよ。おれもそろそろ寝たいし」
「スマン! 此処に泊めてくれ!」
「ハァ?」
恐らく朝まで一階に警官が詰めている筈だと、古星デンカは言った。この時初めて、男は自分の名と素性を遥に名乗った。別に先入観からではなく、過去の経験からデンカはそう言っていた。自分はこれで捕まったら二回目になる。一回目は注意と罰金で済んだが、二回目となると起訴も覚悟しなくてはならない。それでは自分の名声と仕事に支障が出る――外聞も弁えずに言い訳する子供の様に、涙ながらに頼みこむデンカを前にして、遥は内心ウンザリしながらも庇い立てを択ぶしか無かった。乗り掛かった船、あるいは毒を食らわば皿まで……といった心境だろうか?
翌朝、デンカの見立て通り警官の影はフロントから消えていた。デンカが遥に演芸場の電話番号を記した紙片を渡し、迎えを寄越す旨フロントに電話させるよう言ったとき、遥は内心で憤慨した。
昨夜にしてもそうだ。デンカにはソファーをベッド代わりに使わせる積りが、ソファーではあまりに狭過ぎて収まりが悪いと泣き付く始末、結局遥がソファーで眠り、デンカは広いベッドを使うこととなった。そこに烈しいイビキで眠れなかったことこの上ない……ふと、前日考えていた計画とデンカの日程が遥の脳裏で重なった。匿った上に電話までさせる代わりに、都内まで迎えの車に便乗させる旨遥は求め、デンカは「何だそんなことか」と快諾した――
――こうして、遥は軍振会館の前に立っている。
地下にあると言う食堂を目指して軍振会館に踏み入り、受付に面した玄関ホールまで進んだ時、眼前に立つ若き母の銅像を前に、遥は立ち竦んだ。
この国で母が「軍神」だの「英雄」だのと呼ばれていることは既に知っていたが、朝食をしに訪れたこの建物では銅像まで建っている。あまりの光景に立ち尽くす遥の傍らで、ホールに入った軍人が銅像に敬礼し、あるいは老人が手を合わせて拝む。それもまた、遥の眼には異様な風景に映った――ただ、ひとりの軍人が遥の傍に立つまでは。
「……?」
若い……それどころではなく、横顔が自分と同年代に見えた。背丈も自分とほぼ同じ、だが軍服を着ていても隠せない線の細さと、微かに膨らんだ胸が、自分の横に立って像を見上げる軍人が女子であることを遥に気付かせた。美少年と思わせる位に整った顔立ち、女子らしい嫋やかさと軍人らしく均整の取れた躯の調和に、遥は立場を忘れて見とれた。軍人は改めて背を糺し、まるで神でも見る様な真摯さで母の像を仰ぐ――敬礼。
「――あの徽章、機導神学校の生徒さんだね。凛々しいねえ」
「――朝霧軍神は全ての機導神乗りの憧れだから……」
周囲の会話が微かに聞こえる。そうか……神和で母が尊敬されるのにはそれなりの根拠があるのだと遥は悟る。命の恩人としての母、信仰の対象としての母、そして人生の目標としての母……よく見れば、銅像の母は優しい顔をしている。地上に迷える者を見守り、導く女神の顔だと遥は思った。見上げるうち、遥の瞳が潤み、涙が溢れた。何故かはわからなかった。
「……」
「……?」
敬礼を解いた女子が遥の落涙に気付き、怪訝な顔もそのままに彼を見ていることに気付く。「失礼」と言うのもしどろもどろに、遥は目頭を抑えてその場から去った。地下で食べた朝定食が味気無く思われたのは、恐らくはこの時の衝撃故だったのかもしれない……神和において母は尊敬されているのではない。崇拝されている。
外に出て関原の勧め通り銀天とやらでもぶらつこうかとホールに戻った時、軍人の一団に遥は行き合った。折り目正しい軍装の老人たち。遠巻きに彼らを眺める来館の人々の様子に、彼らがただの軍人ではないことを遥は察した。「中将……大将……」と言った人々の会話から、彼らが下っ端の兵士や士官とは違う、俗に言う「将軍」であることに遥は気付いた。彼ら将軍たちは待たせていたエレベーターにぞろぞろと乗り込むや、速やかに上階へと昇っていく――
「――軍の偉い人が打ち合わせをやるんだと」
「――へぇー……此処でかね?」
「……」
面倒を避ける必要を感じ、遥は足早に軍振会館を出た。帝都見物は早めに切り上げた方がいいのかもしれない。