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第六章 「帝都」


 帝都関京 宮衛特別区――

 帝都中皇(ちゅうおう)区 「至尊ニシテ侵スベカラザル」皇主の鎮座する宮城。そこに隣接する宮衛特別区の外縁に近い位置に、通称「研矛台(けんむだい)」――国軍省本庁舎が所在する。


 鉄筋コンクリート造り、外観に装飾や調度の一切無い三階建て建造物は他の省庁舎と比べて目新しく見え、それは遡ること二十年前、光紀二十二年に竣工を果たしたが故の結果であった。「冒険的な設計(デザイン)」と、創建当初は賛否両論の的となったものだ。


 外観の殺風景なるが故に、その佇まいは却って質実剛健に映え、あるいは宮城により近い位置に、群れる様に並ぶ他省庁に対し、国軍省は距離を置いて超然と佇んでいるかのように見える。ひいてはそれは国軍と言う組織に対する、一般人の印象にまで昇華する。

 「衛治維新」により施行された徴兵制によってもたらされる「国民軍としての経験」――言い換えれば従軍経験は、結果として民衆の軍への親近感を増し、一方で国軍に対し、俗世と決別した、ある意味浮世離れした存在という印象すら、民衆に与えることとなったのである。


 正門の裏側、北部通用口の衛所を、公用車は抜けて研矛台に入る。衛所から幹部通用口まで、凡そ十六年前の「第三次蕃神侵寇」後に建設された巨大な電波通信塔を、間近に眺めることのできる経路であった。車寄せに付けた公用車から降り、舎屋に一歩を標した影に、奇しくも遭遇する形となった武官文官の別なく、影の醸し出す無言の気迫を前に表情を消して道を譲った。影が受付の女子事務官の前に立つなり、未だ少女の面影すら残した事務官は名簿を速やかに捲って言った。


「関原大佐ですね。総監がお待ちでいらっしゃいます」

「……うん」

 軍帽を被り直し、大佐 関原 信雄は天井を見上げた。濃緑の軍服は兎も角、ボロボロの外套は軍の俊才というよりも、街中に屯する浮浪者の身形を連想させた。総軍大臣をはじめ、国軍の中枢を為す将官執務室が並ぶ最上階たる三階、そこへ続く階段を前に、関原は恐らくは少し躊躇し、意を決して昇り出す。普段の関原――政財界の有力者、軍の長老連に対し手練手管(てれんてくだ)を弄して立ち回る関原――を知っている者からすれば、それは意外に過ぎる側面ではあった。



「陸軍大佐 関原 信雄 招致に応じ参上いたしました」

『入れ』

 外見の殺風景さとは対照的に、舎屋内の調度は荘厳なものに仕上がっていた。かと言って決して華美と言うわけではない。その一端、将官執務室に繋がるマボガニーの扉を関原は叩いた。女性の声が入室を促した。入るのと同時に軍帽を脱ぎ、踵を鳴らして最敬礼の姿勢を取る。これまでに数度、彼女(・・)の部屋に招かれる度に取っている行動だ。目下の者が入室するに当たり、着帽しての敬礼を、彼女は決して許さない。


「……」

 最敬礼の姿勢を維持したまま、関原は上目遣いに執務机の方向を見上げた。敬礼の相手は関原の入室から一貫して机に坐して、書類の決裁を続けている。面会の予定を入れておきながら、関原を物言わぬ部屋の調度か、或いはその場にいないものと見做しているかのような態度であった。出来の悪い小学生が教師に懲罰として立たされているのに、その構図は似ている――体感で恐らくは三分、関原は部屋の主と沈黙のうちに対峙を続けた様に思った。


「寧北の氷海で、しっかり頭を冷やして来たか信雄(のぶかつ)?」

「はっ……!」

 敬礼を解かないまま、関原は言った。「近く寄れ。話したき議がある」

「失礼します」


 窓から差し込む後光の陰になって、女の顔を見出すのに距離を詰める必要があった。女は、美しかった。関原の良く知る彼女の姉と、(かお)の造形の基調(ベース)はほぼ同じ。だが姉とは違う、線の細さと化粧で隠せぬ目元の険しさは、彼女自身の個性として関原の目には映る。吊り上がり気味の細眉もそうであった。それに姉には全く似合わなかった軍服が、この妹の細身にはよく似合う……その軍服、肩の階級章は中将。拭えぬ緊張とともに、彼女の一挙手一投足を関原は伺った。


「寧北、陸嶺、裏邑……寧北の拠点より逃走を図り、これらの地で捕縛した貴公の部下たちはみな、帝都の総軍刑務所にて保護してある。貴公もこれからの返答によっては、その『保護』の列に加わることになる」

「政局になりますな。また総軍大臣の首が替わる」


 心から脅しの積りで、関原は言った。眼前の中将の心が動いた様子は無い。感情の無い、鷲の様な眼が机上から関原を見上げる。敵意ではなく侮蔑の、それは発露であった。寧ろ眼前の「下郎」に対し、侮蔑を覚える気にすらなっていないのかもしれない。そして睨まれた関原はといえば、この女性に始めから親愛の情など期待してはいなかった。


「総軍大臣になりたい者など参議官から予備役に至るまで数多居る。それで参議と事務次官どもの胃の腑が幾ら軋んで傷もうが私には何の関係もない」

「……」

 切り札が呆気なく崩されたことに、内心で焦燥する。だがそれも当然だ。法規上は皇主の直接指揮下にある機導神軍団は、省庁の連携から半ば独立した立ち位置にある国軍から、更に独立した状態に在る。それも兵器としての機導神の、戦術単位としての破格の価値ゆえだ。これで機導神軍団総監 機導神中将 朝霧 朱乃を御するなど、最初から無理筋であったのだ。爾麒を手に入れるべく、総軍大臣の首と、それに続く国政の混乱を盾に強行突破を図ろうとした政界軍部の「老人ども」の、何と浅薄(あさはか)なことだろう……


「……話したき事とは、何でございましょうや?」

「知れたことだ信雄。爾麒を、何処へやった?」

「……」

 そのとき、黒檀(エボニー)の執務机の隅に小さな花瓶を見出し、関原は自身の迂闊さを呪った。紫苑(しおん)の花が一輪生けてある。出処など、もはや聞くべくもないことだ。


「誤解なさらず聞いて頂きたく願います。爾麒は……小官が拾いました」

「拾った?」

「はい……陸嶺にて軍の訓練用地の選定作業中に、小官が発見し拾いました。(ごみ)だと思いましたので……このままでは拙いと思い――」

「面妖なる物云いかな。あれが塵に見えたのか信雄」

「はい」

 込み上げてきた狼狽を抑えるのに、戦場に立ったのと同じ真剣さが必要だった。この女の前では、全てが上手く行かない。だいいち姉、朝霧 圭乃と違い朱乃は万事に寛容な人物ではない。怒り出す朱乃を想像し、関原は内心で身構えた――だが静かな哄笑。それに関原は耳を疑った。


「確かに爾麒(あれ)は塵だ。今の朝霧家には必要無い」

「……?」

「それで拾ってどうするのだ? 己が手駒にでもするのか?」

「成り行きによっては……」

 本音を混ぜ、関原は答える。嘆息が答への報いだった。呆れた視線もまた向けられた。

「信雄、爾麒(あれ)は呪物だ。あれで貴公ひとりの身が滅ぶのはどうでもよいが、いま一度帝国の使い魔と為すなどと戯言(そらごと)を語るでない」

「肝に銘じます」

「……それとも、今更圭乃に殉じたいのか?」

「それも成り行きによりますれば」


 ギィ……と椅子が動いた。鋭い眼を細めて、朱乃は外を見遣る。

「姉とは言えあれは哀れな女であった。愛した男に裏切られ、神和における地位も名誉も失った挙句に爾麒に全てを委ね、そして囚われた……お前は男として醜いが、かつて逸材と呼ばれたお前が、圭乃の様に破滅を択ぶのは看過しかねるな……」


 語を継ぎ、呆れた様な言葉は続く。

「……だいいち、誰を搭乗()せるのだ?」

「それはいずれ……」

 言葉を濁し、関原は(わざ)と顔を困らせた。朱乃の言葉は、機導神としての爾麒の復活に、軍団として一切助力しないことの意志表示であった。しかし圭乃の過去も含め、朱乃の発言はむしろ関原を内心で安堵させた――朱乃(かのじょ)は、夏秋 遥の存在を知らない。むしろ永遠に知らない方がいいだろう……そこに不意に、朱乃の口が開く。「そういえば……」


「は?」

「……先週の寧北の件だが、お前の護衛役の唐支人は何処へ逃げたのだ? 貴公を除けばあれ(・・)一人だけ巧く逃げおおせたと聞く。大したものだな」

「黒蘭でしたら連絡は既に取れております。逃走記をご所望でしたら報告書として小官がすぐに……」

 「逃走記」に、朱乃は関心を示さなかった。


「そう彼女のことだ……彼女を取り逃がした憲兵隊が妙なことを言っているのだ。過日、寧北での作戦行動の際、取り逃がしたのは彼女ひとりではなくふたり(・・・)だと……」

ひとり(・・・)の間違いでは?」

「逃がしたときの詳細は未だ聞いておらぬが、憲兵どもは二人だと言っている」

「そのひとりは、幽霊ですかな……」

「……」

 惚けた関原を前に、朱乃が真顔に戻る。そのまま絨毯敷きの床に投げ出された写真の束を見、関原の表情が固まった。


「拾え。信雄」

 (ひざまづ)き、云われるがまま写真を拾って驚愕する。車に乗せられてホテルに入る少年の横顔、そして遅れてやって来た関原と喫茶店で話す少年を、写真は至近で捉えている。露見したか……と、内心で覚悟する。


「綺麗な子供だ……混血か? 少年を抱く趣味でもあるのか? 貴公」

「……ご勘弁を」慇懃に頭を下げ、肯定した。嘆息が答えであった。

「何処で拾ってきたかは知らぬが、貴公もとうとう焼きが回ってきたな。淫蕩の相手を職場に連れていくとは……」

 言うだけを言い、朱乃は手振りをした。「去れ、此処で貴公と話すことは永遠(とわ)に無い」


 関原は立ち上がり、軍帽を被り直した。数歩退いて敬礼した。


 答礼は、ここでも無かった。




 国軍省一階、正面玄関に面した待合室に関原 信雄が姿を見せたとき、軍服姿の黒蘭は反射的に椅子から立ち上がった。黒蘭の敬礼に答礼も慌ただしく、関原は玄関から共に出る様促した。

「遥君はどうなりましたか?」

「先方で勝手に勘違いしてくれた。朱乃どのは遥君を僕の愛人だと思っている」

「愛人……ですか?」


 さすがに言葉を失う黒蘭に、関原は表情を曇らせた。

「だが遥君の正体はいずれ露見する。朝霧 朱乃も馬鹿じゃないからな。それまでに先に行かないと……」

「しかし大佐の動きはどうして露見したので?」

「帝國ホテルは、朱乃どのの配下に見張られている。いや……朝霧家の配下というべきか……だから帝國ホテルは(まず)いと言ったのだ」

「あの社長の御厚意は、押し付けがましい所もありますからね」

 相槌を打ち、黒蘭は続けた。関原も苦笑した。

「まあ、それだけ圭乃どのと樹に恩義を感じている証拠だ」

「では遥君を移送(うつ)しますか?」

「いずれ移送すが、今ではない。ただ……」

「ただ?」

「遥君には、暫く窮屈な思いをしてもらうことになりそうだな」

 苦笑を浮かべつつ、関原は衛兵の敬礼に答礼した。行きは車だが、帰りは歩く。だが、その歩いて帰る間にも出来ることは数多くある。




「はいフルハウス!」

 テーブルに投げ出したカードの役に、外国人が目を剥いた。舌打ちをした外国人がひとり、投げ出されたカードをまとめて揃え、配り出す。再戦を彼らは求めていた。フルハウスをコールしてラウンドを制した夏秋 遥の場合、今日は所謂「爆ヅキ」だが、そろそろ潮時かもしれないという不安もある。


 しかし――

 配られたカードの、役の悪さに内心で眉を顰めつつ遥は思った。


 おれはいつ、此処を出られる?





 北寧脱出からまる一週間と三日が過ぎた。


 遥はいま、帝都関京の郊外、帝國ホテルにいる。

 内部の調度だけを見れば、帝國ホテルは世情に疎い遥ですら内心で腰を抜かすほどの豪華さであった。五階建て、帝冠様式の粋と壮麗を極めた帝國ホテルは、外見だけならば巨大過ぎる(やしき)に見え、連れて来られた遥は長旅の疲れも忘れてその城郭の様な威容に圧倒された。宿泊を始めて三日は部屋の居心地の良さ、内装の美しさに圧倒され通しの内に過ぎたが、以降は今後の展望を考える内に日々が過ぎている。



 関原とは、ホテルに入った翌日に合流した。久方ぶりに会った関原の顔は多少やつれた様に見えた。逃避行が余程堪えたのかもしれない。だがその不敵な笑顔は健在だった。「積る話もある。いい店があるんだ」と、ホテルのロビーで会うや否や、関原は地階の喫茶店に遥を誘った。喫茶店のことは知っていた。だが窓から漏れる暗い照明と厳めしい造りの扉が、遥をして入店を躊躇させたのに他ならない。ただのバーなのではないかという疑念もあったためだ。


 だが関原に促されて一歩を踏み入れた瞬間、遥は自身の先入観を後悔した……レコードから流れるジャズの様な音楽と、客席ごとに灯されたランプ、抑えめの冷房と天井扇の組み合わせが、コーヒーの芳香も加わって絶妙な冷気と気だるさの循環を作り出していて、遥はむしろ好感を抱いた。今日から此処で毎日本を読もう、などと考えた位だ。

 

 神和帝国中枢を支配する「枢密院」――首相及び閣僚経験者と軍の元老の合議体――の介入により、反関原勢力の追撃が停止したこと。結果として遥は自由の身となったこと。爾麒は現在、某所で修理作業が進行していること。修理が完了し次第、遥は此処を出て次の行動に移ること……関原の言葉を聞くうち、肝心なことが話されていないことに、遥はすぐに気付いた。


「大佐、聞くけど爾麒は今何処に在るの? そして次の行動って何?」

「それは未だ言えない」

「何故?」

「監視しているやつがいるからなあ!!」


 静寂を破る大声で、関原は叫んだ。寛いでいた客、店員の目が、驚愕を帯びて一斉に遥の席に向かう。次に遥が向き直ったときには、関原は平然として熱いチョコレートを啜っていた。

「……と、いうことだ遥君、帝都はそういう場所だ。此処ですら迂闊なことは言えぬのだ」

「……」

「だが君の命までは獲らぬだろう。少し窮屈だろうが、今は耐えてくれ」

「……街とか行ってもいい?」

「此処にはタクシーも来るし、歩くのが苦にならなければ少し遠いが駅はある。とは言っても……」

「君の知る東京とは違って見るものがあるのか? 東京と違って我らが帝都は実にしょぼい」

「……ひょっとして、東京に行ったことある?」


 関原は頷いた。

「一度な……だが一度見れば十分だ。帝都を龍とすれば、東京はその規模、世界に与える影響ともに龍すら呑み込む混沌のようなものだと思った。そして日本では下層の民も地方の民も、何だかんだ文句を言いながらもその実政府を信じて生きている。僕は……」

「……?」

「神和をその様な国にしたいのだ。此処に来るまでに君も見た筈だ。有りの侭の神和を」

「……」

 長い列車の道中で目の当たりにした乗客、そして地方の農民の様子が遥には思い出された。やはりそうだ……関原は遥に「神和という国」を見せたかったのだ。卓を挟んで対峙する関原は表情を消している。遥自身の表情もまた、強張っている。遥は思わず口走る。「そのための爾麒……」

「今はそれがわかれば、いい」それだけを、関原は言った。


「君に合う御洒落な場所と言えば……そうだな、銀天(ぎんてん)辺りか……先ずはそこで遊んでみたら?」

 遥は頷いた。

「ひょっとして……歌劇団とかあったりする?」

「レビュウを御所望かな? いずれ連れて行こう」

 チョコレートを呑み干し、関原は立ち上がった。「マスター勘定を」去り際に彼は言った。

「玉川 八郎兵衛という御仁が今夜君に会いに来る。君をこのホテルに泊める手配の一切を任されてくれた。礼を言ってやってくれ」

「わかった」

 友達の無理を聞いてやる積りで、遥は快諾したものだ。



 その夜、喫茶店で雑誌を読んでいた遥を呼ぶ声があった。尤も、呼びに来る前に自分の所在はフロントに報せていたから、呼び出しそのものはスムーズに進んだのであった。だが遥が驚いたことには、フロントに立つ長身の、熊の様に恰幅の良いスーツ姿の老人と眼が合うや、老人は丸眼鏡を濡らさんばかりに落涙し、外目も弁えずに遥を抱きしめにかかった。


「あなた様が!……あなた様が圭乃様と樹殿の忘れ形見で御座いますかあーっ!!」

「うわぁっ!!」

 老人のそれとは思えぬ満身の力で抱きしめられ、一瞬遥の息が止まった。と同時に老人は声を上げて泣いた。日本でも戦前にはよくいたという、激情型の人間なのだろうか?……戸惑いの内に思案が廻る。気が付けば抱く腕が緩み、言葉を発する余裕もまた生まれた。


「ち、父は生きてます! 母は!……まだ判らないけど!」

「それはよかった! 関原大佐から貴方様のことを聞かされたときには! 今こそ報恩の(とき)来たらんと思いこの玉川 八郎兵衛、こうして微力ながら馳せ参じた次第っ!」

 そう言い、老人は更にオイオイと泣いた。最初はまるで泣き喚く赤ん坊に接したかのように戸惑い、遥は玉川老人をロビーに誘った。


「まあ積る話もあるでしょうから、ひとまずあちらで……」

「とんでもない! とんでもないですぞ遥殿!」

「ひっ!?」

 凄まじい剣幕で声を上げられ、遥は肝をビクつかせた。ステッキを振り上げ、玉川老人はホテルの正面玄関を指した。

「車を回してあります。我が家へ参りましょう! 此処にいるよりもずっと安全ですぞ!」

「ちょちょっと! 何言ってるんですか!?」

 遥の手を強引に取り、玉川老人は遥を引き摺りに掛かった。踏ん張って耐えつつ、遥も声を張り上げる。

「だいたい貴方は誰なんですか!? 名前は聞いてるし、宿の手配をしてくれたことには感謝してる! でもおれは貴方の名前以外の何も知らない! そんな人間に従うわけにはいかない!」

「……っ!」


 遥を掴む手が、緩んだ。

「これはご無礼を。わたくし、玉川 八郎兵衛と申す者、帝都にて(ささや)かながら会社を経営しております。恩義ある夏秋 樹殿のご子息たる遥殿生存の報に接し、矢も盾も堪らず参上致しました。ご無礼の段、重ねてご容赦の程……」



 玉川 八郎兵衛 帝都に本社を置く玉川電機工業株式会社の社長であり、その配下に在る複数のグループ企業も総攬する立場にある。特に機導神の開発と製造を担う玉川機導神株式会社は、国営の機導神工廠と朝霧重工といった二大勢力に次ぐ設備規模と、前二者に並ぶ技術力を有し、特に第二次、三次といった過去二度の蕃神侵寇によりその生産技術は熟成され、かつ事業規模も飛躍的な拡大を見たのであった――「ささやかどころじゃない……」と、話を聞いた遥は絶句する。


「……我ら玉川財閥の今日の隆盛あるは、ご尊父 夏秋 樹殿の尽力あってこそ。それ故に、私は御父上と圭乃様の忘れ形見たる遥殿の来訪を、一日千秋の思いで待ち続けておりました」

「父が……貴方に協力を?」


 玉川社長は頷いた。彼は関原と同じく、父が日本の人間であることを知っていた。彼の話によれば、「異世界」神和に渡った父が貢献をしたのは、機導神の根幹たる可動部分「神幹」の生産技術の改善と、神幹の稼働に必要な熱量を与える発動機の性能向上に関してであったという。こうした父の貢献の結果として、神和では新参の民間企業たる玉川機導神は、有力な機導神と専用発動機の有力メーカーとしてこの分野に躍り出ることとなったというのであった。


「爾麒……圭乃様が搭乗(おの)りになった爾麒もまた、朝霧家に見捨てられ打ち棄てられた状態であったところを樹殿の手により蘇り、圭乃様の抜群の操縦技量により神和の救世主となったのでございます」

「爾麒が……!?」


 玉川社長の言に依れば、神和には古来より、皇主を守護するために特注された依代(よりしろ)たる「導神」を継承する家系が少数存在したという、爾麒もまた朝霧家が代々継承した導神の一体であった。

 しかし時代を経るごとに導神が戦乱や家系の断絶で喪われ、そこから長じて衛治維新を経て天照、光紀と世が移り、最初の蕃神侵冠後に導神家が朝霧家一家になるに至り、爾麒もまたその役割を終えたとして「封印」――という名目の廃棄――の憂き目をみることとなったのだという……後に樹の修復作業により「導神」から「機導神」となった爾麒が、八重樫 圭乃(・・・ ・・)の操縦により二次三次の蕃神侵寇を戦い抜いたのは、神和では人口に広く膾炙するところだ。


「八重樫 圭乃?……朝霧って……朝霧 朱乃の?」

「そうです。圭乃様と朝霧総監閣下はその実、母の違う姉妹なのでございます。遥殿のお母様……つまり圭乃様は、朝霧家の前当主が何と言いますか、妾に産ませた女子(じょし)でございまして……」

「……」


 そうか……八重樫ってのは母方の名字なのか――写真から僅かに伺えた父と朱乃の確執の正体が、遥の少年の感性には、おぼろげながらわかって来た様に思われた。その感情の機微を察してか、玉川社長の話は続いた。


「これも申し上げるに大変心苦しいことなのですが、樹殿と圭乃様は、誰の目から見ても仲睦まじい恋人同士でございました。同じく樹殿をお慕い申し上げていた若き日の朱乃閣下は、互いの出自の差もあり、その様に嫉妬の心を抱くこととなったので御座います」


 「第二次蕃神侵寇」終息の後、救国の英雄として顕彰された一方、圭乃は世間の好奇の目に晒された。好奇の目は時を過ぎれば謂れ無き中傷の素にも変わる。そこには庶子たる圭乃の栄達を警戒する朝霧本家の手が回っていたことも否定できない。圭乃は病を得、蕃神侵寇を撥ね退けた心身の疲労も癒えぬまま、世間から姿を消した……というのが大半の神和人の認識である。父 樹もまた、当時の軍内部の権力闘争に巻き込まれて命を狙われるに至った結果、社長自身の勧めもあって神和を離れたのだとも、玉川社長は言った。


「……それは遡ること十六年も前の事でございました。つまり……」

「……父さんは母さんを連れて日本に逃げて、おれが生まれた」

「左様です」玉川社長は頷いた。

「だからこそ私には貴方のことが心配でならんのです。圭乃様と樹殿共に不在のいま、朱乃閣下の恨みは遥殿お一人に向かうことでしょう。同時に貴方の存在が、今の朝霧家の家運に陰りを落とすことになると考えるやもしれません。遥殿にはそこを考えて慎重に行動してほしい……思い詰めた女子(おなご)は、怖いですぞ」

「あのう……話を変える様で恐縮ですが、ひょっとして爾麒はいま……」

「わが社が秘密の場所に、責任を持って与っております」


 場所と計画に関しては軽々しく口に出すな、と関原に厳命されていると玉川社長は言った。喫茶店での関原の振る舞いが思い出され、反射的に遥は周囲を見回した――奇跡的なことに、夜のロビーには自分たち以外に誰もいない。

「なにか?」

「おれも関原大佐に、何処で聞かれているかわからないから油断するなと言われているので」

「やはり……泊るには善き場所と思い此処を択んだのが裏目に出ましたかな」

「いえ、此処は好いところです。満足しています。ご厚意有難うございます」

 恐縮する遥に、社長は微笑んで応じた。

「そう言って頂ければ嬉しゅう御座います」


 その上で玉川社長は、再度家に来た方がいいと遥に勧めた。身の振り方は、事がすべて終わってから考えたいと遥は言い、その夜ふたりは別れた。




 ――それから一週間余りが過ぎた。

 カードを引き、あるいは交換しつつ、遥はこのあとを考えている。ゲームのことではない。帝國ホテル(ここ)を出てからの身の振り方を、である。近い将来、自分は爾麒と引き会わされる。そのあとどうなるのか?……否、どうするのか?


 母は、遥の想像した以上に爾麒と神和(このくに)の運命に深く関わっていた。関わり過ぎたが故に、今となっては彼女の消息を知る手掛かりは微塵も存在しない。玉川社長の言が正しければ、母 圭乃は「第二次蕃神侵寇」――二度目の蕃神襲来――の後に父 樹と結ばれて遥を生み、後に祖国神和に戻って三度目の蕃神侵寇を戦ったのだ。母は、何故折角手に入れた家族を捨てたのか? 母は、何故神和に戻ったのか?――今となってはまだ見ぬ爾麒のみが、答えを遥に教えてくれるのかもしれなかった。


「少年、お前の番だぞ?」

「……おっと」

 手札を一枚捨てて、親のストックから慎重に一枚を貰う――ツーペア。いいかも……と思った遥に続けて手札を交換した外国人がこれ見よがしに喉を鳴らした。ツキが逃げたと察した……案の定、遥のツーペアではフラッシュには及ばない。仕切り直しが始まるのと、外国人がひとり、遊戯室に入って来るのと同時であった。それを察して遥は席を立った。

「戻ってきたようだ。交替するよ」

 髭面の外国人がテーブルに歩いてきた。先刻、所用で彼がゲームを離れた穴を、偶然近くで独りスヌーカーを突いていた遥が誘われた形だった。

「少年、どうだった? 巻き上げてやったか?」

「全然」

 頭を振って離れようとする遥を、親の外国人が呼び止めた。

「数合わせに付き合ってくれてありがとよ。これ、お駄賃だ」

 親は紙幣を一枚、遥に握らせた。神和における最高額の紙幣だ。「お前は筋がいい。また来いよ」


 この異世界も世界である以上、神和の他に国があるのは当然で、カードの手合わせをした外国人は商用で神和に来ているのだと遥に言った。だが彼らにとって主要な商談の場は、神和ではなく海を隔てた「唐支」という大陸で、遥からしても其処は今のところ、「転移」以後すぐに生死を共にすることとなった黒蘭(ヘイラン)の故国、という認識でしか無かった。


 現状、唐支は神和とその他列強諸国の進出により、その沿岸部こそは辛うじて文明国の体裁を保ってはいるものの、そこからさらに内陸に踏み入れば、政府の統制を離れた独立勢力たる軍閥と、土着化した蕃神の跋扈する「暗黒の地」であることも、遥は外国人の話から知った。だがそれこそが、「手つかずの宝の山」という、彼らの唐支に於ける商機を抱かせる効果を(もたら)しているようで――翳したスマートウォッチが、夕方の六時近くを指していた。と同時に、空腹もまた込上げるように襲ってきた。


 食事は、一貫してホテル併設の食堂でとっている。

「帝國ホテルの飯は美味いぞ」と、関原が言っていただけはあった。実際、所謂洋食を中心にメニューは豊富にある。遥は飲めないが酒等のドリンク類もまた充実している。

 ただし、市中の水準に比して値段が総じて高いのは、図書室の官報類で神和国内の物価推移を調べてみればすぐに判った。本来富裕層を相手にした高級ホテルなのだから、それも已む無しなのかもしれない。これが日本なら、夏秋家の経済水準で帝國ホテルの様な場所で飲み食いを続けたら遠からず破産するだろう……つまり自分はいま、余りに身分不相応な場所にいて、それだけ「大事」に扱われている。気味が悪くさえも思える。


 ルーシ風サラダ、ポテトグラタン、カツライス、コールドビーフ……そして炭酸水を遥は頼んだ。ポーカーでの臨時収入もあり「奮発」をした積りだった。特に賽の目切りにした野菜とハムに特製のマヨネーズソースを和えたルーシ風サラダは、遥にはお気に入りの料理だ。絶妙に甘酸っぱいマヨネーズソースが、野菜を食べ易くしているのがいい。ビーツとピクルスの食感が、そこに絶妙のアクセントを加えている(オリヴィエサラダに似ていると遥は思った)。炭酸水は、日本にいた時たまに嗜んでいたノンアルコールビールの代用……の積りであった。


 盛装した客が時折、嬉々として夕食に取り掛かる遥に好奇の、あるいは訝しげな視線を向ける。今日に始まったことではなかった。都内では見たことの無いパーカーとジーンズ姿の少年が独り、市井の労働者の月収に相当する額の料理を独占しているのである。傍目から見れば奇妙な光景であることは否定できなかった。地方、あるいは大陸や南洋の神和人街から帝都見物に出てきた何処かの成金、あるいは何処か田舎の大地主のばか息子――この食堂で遥に対する周囲の見方は大体これらの肩書で一致している。そう思われたとて、何の痛痒(つうよう)も感じない遥ではあったが……



「――御覧、あの子かっこいいわね」

「――ほんとね。隣の席に付けないかな」

 食堂に入った、やはり盛装した少女がふたり、遠席の遥を指して嬌声を立てた。両親と思しき洋装姿の男女が、小声で娘たちの不作法を窘める。食堂を利用するのは何も宿泊客だけではない。食堂はそれ自体一個の独立したレストランであり、舌の肥えた帝都の富裕層も外から頻繁に訪れる。そうした人々と食堂の調度の創り出す「空気」からは、遥は明らかに超然として浮いている。


「ポテグラが無いだって!? 何たってそんなことになってんの!?」

「申し訳ございません。材料を切らしておりまして……シーフードグラタンなら出せるのですが」

「ぼくが魚介類ダメだって君も知ってるだろ!? どうすんのよ!?」

「……?」

 音程が外れた甲高い怒声が響いて、遥のみならず客数名の注意を引いた。男が一人、低頭するフロアマネージャーに気炎を上げている。長身で、かつ太っている。サスペンダーで胸近くまでずり上げた洋服ズボンのウエストが道化(ピエロ)のそれのようにも見え、ポマードで潰れた髪に、丸眼鏡をした丸顔を怒らせる様は、妙齢の男性というよりも聞かん気の強い子供の振る舞いを見る者に思わせた。まるでお笑い芸人の様な格好の男だ。怒っているのだろうが、怒る様ですら見る者に笑いを誘ってしまう。


 憤懣をフロアマネージャーに一通りぶつけた後、諦めたのか大男は踵を返してこちらに歩いてくる。大男は独りではなく、連れと思しき背広姿がひとり、家臣の様に後ろから付き従う様に歩いていた。「浪速屋がいいかな……森長グリルも捨てがたいんだよなァ……」などと呟く声も聞こえた。



「あ……」

「……?」

 足を止めた大男と、不意の気配に顔を上げた遥の目が合った。それも一瞬、次には男が物欲しげにテーブルの一点を見つめていることに気付く。ついさっきに給仕されたばかりのポテトグラタンが、人を拒絶する様に深皿の中で煮立っていた。

「それ、食べる?」

「おじさん、これ冷ましてる途中だからね。未だボコボコ言ってるでしょ」

「あぁー……」

 遥の声は、届いていない様に見えた。まるで欲しい玩具をショーケース越しに眺める幼児の様に、大男は遥の傍に立って、ポテトグラタンを凝視している。追い付いて来た背広の男が一瞥で事の次第を察したのか、作り笑いもそのままに遥に話しかけた。


「あのー……申し訳ありませんが、そのポテトグラタン……座長に譲っていただけませんか?」

「ハア?」

 (ほう)けた様な遥の顔に、拝む様な男の顔が追い縋る。気が付けば、周りの客も静かに遥たちの遣り取りを伺っている――自然、不貞腐れた様な顔になる。

「……おっさん、これやるから何かおれに奢れよ」

「……!」

 物欲しげな無表情が、歓喜の肖像と化した。女のそれと違って気持ち悪いことこの上ない。更に図々しいことには、相席を強いてきた。皿が熱いから、持って行けないのはわかるのだが……



「ビーフアラモードで御座いまぁーす」

 ウェイターの手で、見るからにこってりとした肉料理の皿がテーブルに置かれた。牛肉と野菜にブイヨンスープが掛かる。遥がそれに見とれる頃には、丸眼鏡の男は口をはふはふ言わせつつ、ポテトグラタンの過半を食べ終えていた。その男のテーブルにはポタージュスープとハムライスが並んでいる。あとはロールキャベツとケーキとフルーツが来る筈だ……そう、この男、デザートまで頼んでいる。


「これこれ、ぼくの奢りだよ。お勧めのメニューだ」

「ほーん……」

「さあ食べて食べて」

 勧められるまま、遥が肉にフォークを延ばすのと同時に、男のフォークも同じ皿に延びる。唖然とする遥に、男は悪びれもせずに言った。

「これ、グラタンより高価(たか)いからさ、二人で食べようよ」

「……」

 確かに、高価(たか)いだけあって牛肉は柔らかくて美味しい。傍らで慎ましくカレーライスをかき込んでいる背広の男に、遥はコールドビーフを勧めた。大仰なことに、男は涙を流してコールドビーフを頬張った。大男が連合いの彼に何の配慮も払っていないことに、遥は内心で苛立った。それを遥が口に出すより早く、少しずつ減っている遥の皿を見た彼が言った。


「君みたいな食べ方する人、昔にもいたなあ……朝霧軍神というんだけど」

「……!?」

 はっとして、フォークで(つつ)いていたカツライスから遥は顔を上げた。丸眼鏡の分厚いレンズが光って、男の訝しむ様な眼差しを遮っていた。

「あれ? 何となく軍神に似てるな……君、ひょっとして軍神の親戚?」

「あっいや……!」

「だよねえ? まさか軍神の子供とかじゃないよねえ? だったら大スキャンダルだよ! 何てったって、軍神は純潔の身のまま命を御国に捧げたんだから」


 自分で吐いた冗談に男は笑った。遥はと言えば、笑えない。

「あ、朝霧圭乃とご飯食べたことあるんですか?」

「うん、彼女さ、一応朝霧家ってことになってるけど、実は先代朝霧侯爵の妾腹(めかけばら)で育ちは卑しい(ほう)だったからさ、それが飯の食い方にも出てるわけよ。まあ、ぼくもこれで華族の端くれだから、あまり他人(ひと)のこと言えないけどねえ」


 太鼓腹を揺すり、男はまた笑った。あけすけな物言いと傍若無人な態度が鼻に付くが、根は悪い人ではないのだろう……ウェイターがロールキャベツを運んできた。とっくにグラタンを平らげた男が喉を鳴らす。湯気を上げるロールキャベツにナイフを立てつつ彼は聞いた。


「ところで君、どんな風の吹き回しで此処にいるの? 確か先週もいたよね? マカロニトマトソース食べてたでしょ? 少年(こども)のくせに渋い注文するから、君のこと気になってたんだよ」

「……田舎から出て来て、大佐の紹介で此処に入れてもらったんです」

「大佐? 誰なのよ? 軍の佐官級ならぼくも何人か知ってるけど……知ってる人かな?」

「関原大佐……関原 信雄大佐」

「えっ!? 関原大佐と知り合いなの? 北州事変の英雄と?」

「……っ!」


 遥の方が、絶句した。胡散臭い外見のあれ(・・)も……英雄? 肉の脂とトマトソースに汚れた口をナプキンで拭い、男は続けた。

「すごいなあ……ぼくの兄が亜州空輸に勤めてるんだけど、あの人には足向けて寝られないって言ってたよ。さもありなん。神和人が血と汗で(あがな)った北州の地を、暴戻な唐支人から守った英雄だからね大佐は。まああの頃は昇進したての少佐だったかな……むしろそれだからこそ凄い人なんだけど」

「……」


 「暴戻な唐支人」と、黒蘭の影が遥の脳裏で重なった。そうなった以上、この男と食卓を共にする意味を遥は見出せなかった。この場にいては、自分を守ってくれた黒蘭に対する裏切りになると、遥は思った。この辺り、遥の「少年」の部分が前に出たと言うべきかもしれない。


「あのう……割り勘でいいですか?」

 席を立ちつつ、遥は言った。「あれっ!? もう食べないの?」と、素っ頓狂な声を上げる男の声は聞いていなかった。勘定を済ませにフロアマネージャーの許に向かう。好奇の目も、再び遥に集中する。それが今では、言いようもなく煩わしい。


 もう此処で飯は食えないな――ふとそんなことを、遥は考えた……と同時に、ホテルの外の世界への関心が、胸中に興ってきた。


 明日、無理をして帝都の真ん中まで出てみようか?――そのようなことも、遥は考えた。





 浴室から出た朝霧 朱乃のガウン姿が応接間に現れたとき、背広姿の探偵はその神和人離れしたボディラインに驚くのと同時に、目もまた奪われた。


 ガウン姿でありながら、それが一目ではっきりと判る程に絞り込まれた女の躯……でありながら豊かな胸と腰もまた、薄いガウン生地の下に絶妙の肉付きを誇示している。貴種として磨き上げられた女の躯、あるいは武人として鍛え上げられた女の躯だと、老年に差し掛かった探偵は思った。


 彼女のあられもない姿を前に、大抵の男はむしろ欲情を覚える以前に尻ごみするかもしれない。齢三十の半ばに達しようかと思われる女の肉体とは思えなかった。夜半過ぎに帝都の高級住宅地「陵府」に所在する洋館に帰宅した朝霧 朱乃は、多忙な日程の只中に在ってもなお、その躯に活力を宿し続けている様に見えた。


「まずは写真を」

 応接間のソファー深々と腰を下ろし、それだけを朝霧 朱乃は言った。狭いガラステーブルを挟んで対峙する探偵の鼻を、香水と石鹸、風呂上がりの女の匂いが合さって擽った。そこに湿った髪の匂いも重なる……それらを仕事への義務感で無視し、探偵は封筒から取り出した写真を数枚、ガラステーブルに広げた。


 長い、しなやかな指先で写真の一枚々々を拾い上げ、丹念に、かつ眉を顰めて朱乃は見た。その間、沈黙と静寂の内に(やしき)の時間は過ぎた。ホテルのロビーで老人と話し込む少年の横顔、遊戯室で外国人とカードに興じる少年の無表情(ポーカーフェイス)、食堂で大人数名と美食に興じる少年の揺れ動く表情――


 先週……否、それよりさらに前から「跳ね上がり」の関原 信雄と行動を共にしているこの少年、本来は尾行対象から切る筈だったこの少年、それでも写真の中の佇まいに、記憶の深奥を擽る煩わしさを抱かずにおれなかった少年――老探偵が持ち込んだ写真の全てが、この少年を中心とした全てを捉えている。朱乃からすればそれらは、少年の正体を見極めるには絶好の構図であった。


 探偵はと言えば、都内でも滅多に見ない美形だから、女の琴線に触れたのかとさえ、彼は勘繰ってしまっている。それが所謂「下衆の浅慮(かんぐり)」であることを彼が思い知らされるのに、あまり時間は掛からなかった。


「申し添えることはあるか?」

「……一枚目、先夜ホテルを訪問した玉川社長との会話の様子ですが、ホテルに潜伏させた密偵が気になることを聞いております」

「……?」

 眼差しを鋭くして探偵を凝視し、朱乃は発言を促した。

「申し上げます……社長は少年にこう言ったそうで御座います……あなたが、圭乃と樹の忘れ形見か?……と」


「……!?」

 眼前の朝霧 朱乃が、表情を凍らせた様に老探偵には思われた。束にした写真を慌てて手繰る様に何度も、先刻より近くに寄せて凝視する。まるでこの趣味のいい応接間に、彼女独りしかいないかのような振る舞いであった。


「不覚だ……言われてみれば、似ている」

「は……?」

「こちらのことだ。もう帰ってよい」

「少年の監視は、継続なさいますか?」

「無論だ」

 探偵がソファーから立ちあがり、低頭して部屋を出た。



「……」

 食事の仕方が、その少年は母親に似ていた。

 彼女は目前に並んだ料理に外聞も弁えず、気ままに箸を付ける。食い散らかす、といった方が近い。

 そして顔立ちがその大元で母親に似ていた。そこに加えて感情を発露させたときに見せる父親の片鱗――それらの(ピース)が繋がって少年の正体を連想させるのに、朝霧 朱乃は現実には探偵の言葉を必要とした。


 いや……無意識の中では朱乃は、探偵に報告されるまでもなく少年の正体を察していたのかもしれなかった。それをおそらくは――彼女の女としての本能に近い部分が――認めたくなくて、朱乃は写真を食い入るように何度も見返した筈だ。

 探偵が去り、それが崩れ去ったあと、朱乃ははじめて酒の力に縋った……ウイスキーを注いだショットグラスを立て続けに三杯、朱乃は飲み干した。


 取り残された様に佇む応接間で、アルコールに上気し掛けた朱乃の意識は、それでも思考を続けている――関原は、この少年(こども)を何処から連れてきたのだ? だいいち圭乃はいつ、この子を産んだのだ?――過去から結論を引き出すのに、時間は掛からなかった。


「十六年前か……」

 記憶から答えを探し出し、朱乃は呟いた。あの「第二次蕃神侵寇」終息後、用済み同然に軍を追われた姉、朝霧 圭乃はその後三年余りその消息を絶った。夏秋 樹とはその時に別れたものと朱乃は思っていた。朱乃が軍人としての責務ではなく、女としての打算の赴くまま、軍から逃走を図った樹の行方を捜すことに傾注した結果、却って圭乃の動静は等閑となってしまった……結論を言えば、ふたりは別れたわけではなかったのだ。姉 圭乃はただ、世間の好奇の目と嫉妬から身を隠しただけではなかったのだ。


 身から出た錆か……四杯目、掌中の琥珀が半分ほど減っていたショットグラスがまた空になる。それを凝視し、突き付けられた真実から目を逸らそうともがく。もがいた先で、彼女は怒りに縋った。


「私を(たばか)ったな……下郎」

 圭乃に関原……思い返すだに憎らしい彼らは、等しく自分を騙し(おお)せた。彼らを下衆と均しく見下し、遠ざけた積りが、自分の方が等閑にされたという怒りが突沸する。振り投げられたショットグラスが、落雷の如くキャビネットのガラスを粉砕したのは、その直後であった。


 朱乃はただ、唇を噛み結んで砕けたガラスを睨んでいる。




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