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第二章 「父ト子」


「……」

 覚醒――長時間の装用から頭部を保護するクッションから空気が抜けていく。それにつれて装置の重量がずしりと顔の上半分に圧し掛かって来る。内面の全周ディスプレイは元より、脳神経に作用する電極、音声と視覚に作用する催眠装置……それらの複合体(コンプレックス)として、装置は頭部に着用したヘルメット型のそれ一個だけで、人の五感全ての仮想現実(VR)世界への没入(フルダイヴ)を可能にする。


「……」

 ゲーミングチェアに委ねたままの身体が、未だ動かなかった。解き放たれた意識は何時しか、ぼんやりとディスプレイ上に浮かんだ文字を見つめていた。装置の装用解除を許可する文字が点滅していた。後頭部がやけに熱い。頭部に緩衝用空気を送り込むコンプレッサーの効果?……否、電源装置のせいかもしれない。

 意識の覚醒が進むにつれて、持ち上げることのできた手がゆっくりと持ちあがり、そしてヘルメットを掴んだ。それでもヘルメットを脱ぐ動きは緩慢だ。思う通りに手と指が動かない。流入する情報量が多ければ、人体―より厳密に言えば脳神経――への負担も大きい、というわけかもしれない。特に空に陸に操縦席にと、あれ程目まぐるしく視点が移動する「世界」では――


「――!」

 ヘルメットを脱ぎ切り、夏秋 遥は息を吐きつつ両目を休める様に瞑った。少年にとってそれは、「創られた世界」から決別して現実に戻るための、必要な手順であった。眼を開けて頭を上げた先で、「撃神完遂」までずっとPCに向き合っていた彼の父 夏秋 樹が、微笑と共に麦茶のペットボトルを差出している。


 ペットボトルを受け取り、現実に馴れ始めた視覚を廻らせた。デスクの傍、スーツケース二個分大の自作PCとファイルサーバーが、グラフィックボード部分から冷却ファンの断末魔の如き爆音を立てていた。同じく父の背後の机の上、三面を占める広角モニターに流れる数値とPC言語の奔流をそのままに、父は息子に微笑を向け続けていた。見守る様に――


「思うんだけどさ。こんなことやってるうちにおれ、死んじゃうんじゃね?」

「現実世界に戻りたくなくなる、って同僚(やつ)もいたな。なにしろ戻るまでがひと苦労だから」

 冷め切ったコーヒーカップを手に、父はからからと笑った。父の言う通り、機器のシャットダウンの過程で味わう気だるさは、遥にとって何度経験したところで慣れることが無かった。人によっては恐怖すら覚えるだろう。


「……で、バグは見つかった?」

「お陰さまで洗い出しは大方終わったよ。あとはデータを東京に送るだけだ」


 モニターを顧みつつ、樹は言った。「ミツルギ戦記」――何時しか切り替わったモニター画面がゲームの表題ロゴを表示している。高度に進展した仮想現実大規模多人数同時参加型オンラインゲーム(VRMMO)技術を応用した、ファンタジー世界を舞台にした戦闘ロボット操縦シミュレーションゲームの、それはゲームテスト作業の一環であった。東京に本社を置く元請けでの最終仕上げ作業が順調に進めば、翌年の夏頃には配布(リリース)が始まる筈だ。


 遥は現時点でこのゲームの唯一のプレイヤーであり、計測可能な各種記録(レコード)の保持者ということになる……ただし、ゲームがリリースされて数十万単位の多人数がゲーム世界に参画するようになったとしても、遥はその中に埋もれることなく強豪プレイヤーの一角として君臨し続ける位の技量はある筈であった。


 だいいち、VR形態ではない初歩的な「操縦テスト」も入れれば、遥は爾麒には8歳の頃から搭乗()っていた。操縦そのものが面白くて、千葉に戻ってからも簡略化した3DモデルをノートPCに落し込んで文字通りにやりこんでいた位だ。駄賃と引き換えにプログラムの作成と修正を手伝ったこともある。それらを考えれば「ミツルギ戦記」は父個人の構想から十年、父子(おやこ)二人三脚で完成まで漕ぎ付けた大作だ。父のミツルギに対する熱意は、傍目から見れば異常にも見えるかもしれない。と息子にすら思えた。



 遥の父、夏秋 樹の現在の肩書はフリーランスの情報技術者だが、その前は日本国内外のエアレースに、競技用航空機の設計技術者として参画している。最速の航空機を作ることを至上命題とした操縦系から構造工学、流体力学、ひいては発動機に跨る広範な設計と解析作業の経験の蓄積が、彼をして本来専門外である筈の情報技術(IT)関連分野への転身を、ごく速やかに果たした要素として無視しえぬところがあるのかもしれない。年齢にして15歳、来年に中学校卒業を控えた息子の遥からすれば、雲の上の様な存在の父親であった。超人にすら見える。


 その樹はいま、北海道は苫小牧市の外れに居を構え、自然を友に独り仕事を請けて生計を立てている。

 息子の遥はといえば、普段は千葉県の祖父母の家から通学し、長期の休みの度に父の許を訪れることにしていた。親子同じ場所に揃って暮らして当然という、型通りな家庭観の持主からすれば、横紙破りを越えて変則的と言わざるを得ない父子関係ではあった。


 父子間に明確な合意があったわけではない。遥が物心付いたときに、樹がそう決めたのである。樹の父母――つまり遥の祖父母――は孫を手元に置くこと自体には好意的だったが、当然息子のこの時の決断には不審を抱いた。孫の成長に良くないのではないか? という不安もあった。それを口に出してもなお、その時の息子の思い詰めたような沈黙を、樹の父母は何か秘めておきたい「想い」の発露と受け取り、それ以上の詮索をすることはなかったのであった……今のところ、樹のこうした「決断」が、彼の息子遥の人格形成に瑕疵(かし)となった様には見えなかった。



 北海道の夏は、その盛りと半ばを越えた。

 正中を越えた太陽の下であっても、頬を撫でる風は涼しさを含み始めていた。まるで秋の迫り来る足音を聞く様な、暑さのだいぶ抜け切った風、それを頬と胸に受けて独りロードバイクを漕ぎ出すのは遥には愉しかった。草原の一点、ログハウスの面する側道をゆっくりと疾走り、北の支笏湖にまで通じる車道に出たところでロードバイクを加速する――車はあまり見えないが、時折複数台のバイクと行き合い、あるいは追い越される。気前のいいバイク乗りの中には行き合う寸前、手を上げて挨拶して来る者もいる。午前中にはメジロかホオジロの囀りすら明瞭に聞くことができた。


 贅沢なまでの(みどり)の拡がりだと遥には思われた。人も建物も自然も「不自然なまでに」密集し、凝縮された関東とは明らかに趣の違う、此処はいわば別天地だ。車道が適度に空いていて、ペースを維持できれば遥の様に男として未成熟な躯であっても容易に支笏湖まで行ける。父の家の周囲はそういう環境だった……父の仕事への協力を除けば、受験勉強もそこそこに、遥はなお夏休みを満喫している。


 汗が(たま)となって頬を伝い、そして同年代の平均に比して発達した背筋を濡らした。ただしロードバイクを走らせている限り、それは不快な感触を与えることは無い。晩夏の風がそれらを打ち消してくれる。


 関東を出て、九州にある全寮制の私立高校に進学する旨を、この夏遥は父に告げていた。所在地が祖母の郷里であるという縁を手掛かりに見付けた学校だった。樹は父として息子の意志に苦い顔はしなかった。むしろ寄宿するという選択に、「自立」への意志が息子にあることを、樹は喜んで見せたものだった。

 ただ……息子を見る父の眼差しの、普段の暖かさとは違う「安堵」があることを遥は察し、それに内心で困惑した。息子が自分の許から遠ざかることへの安堵――それが父の息子に対する隔意だとは思わなかったのは、遡ること去年に彼自身、「心当たり」と言うべき経験をしていたこともある。



 予め決めていた折り返しを過ぎたところで、支笏湖までは行かないことを遥は決めた。家への帰路。夕食の支度を始めるのに丁度いい頃合いには着く様にはなっている。料理に関し、父は「お前には普段から苦労を掛けているんだから、手を出さなくてもいい」と言うのだが、一向に上達しない父の料理の腕が、息子をして自然に料理の腕を磨かせ、台所に立たしめていた……帰路も半ば、右手に広がる平原の一点に、遥は吸い込まれる様にして眼差しを流した。目を向けるのには、勇気が要った。


「いないか……」

 呟き、そして遥は安堵した。半壊したコンクリートの構造物の傍に、居ては困る人影を見出さなかったことに、遥は安堵した。大昔、旧日本軍の飛行場だったという広大な空き地、半壊したままの建物は戦闘機を収容するための、いわゆる「掩体壕」であったという。

 幼い頃、そこは父との格好の遊び場だった。その頃の父は超軽量航空機(ULP)を所有していて、時間ができれば幼い遥を乗せてこの元飛行場から飛ばしてくれたものであった。ただしずっと後になって父は単独飛行の際、着陸に失敗してそいつを全損させてしまったのだが……軍人の幽霊が出るという、奇怪な噂が地元で流れ始めたのはちょうどその頃のことであったように遥は記憶していた。夜、誰もいない筈の飛行場の片隅に、旧日本軍の軍服姿が佇んでいる、というのである。


 遥は12歳の冬、買い物に出た苫小牧の町で人伝にその「怪談」を知った。そのとき同行していた父の酷い狼狽ぶりを、息子は生まれて初めて見た。幽霊が怖いのか? と父の意外な一面を見る様な思いだったが、そうではなかったことを翌年の夏に知った。



 記憶を揺り返すのと同時に自然、ロードバイクを漕ぐ脚が止まった。

 「あいつ」と初めて会った夜のことを思い出し、同時に背筋が震える。遥にとって、今となっては真実が、幽霊よりも恐ろしいものの様に思えていた。





 13歳の夏の夜のことであった。


 照明を落とした寝室で、タブレット端末に落したソーシャルゲームをやりこんでいる内に、遥は睡魔に堕ちた。少し目が覚めたとき、同時に来客の気配を感じた。寝室から普段食事をする居間に通じる薄いドア一枚を隔てた先で、父が独り複数人と対峙している……そういう気配だ。

 自分の気配を消し、対峙を伺う様にしたのを遥は覚えている。初めて父のログハウスに滞在したときから毎年、父は息子の生活に関し唯一あるルールを課していた。夜十時を越えたら速やかに寝室に入ること、ただそれだけだ。夜は野犬が多く、時折熊も出るから、というのが父の言い分だった。そこにこの年、新たなルールが加わった――飛行場跡に決して近付かないこと。その理由を、父から教えられることはなかった。


 それでも、父と語らうのと、満天の星空を仰ぐ以外に何の愉しみもない平原の夜に、何の価値があるだろうか?――小学校低学年、高学年の間は、遥もまたそういう考えでいられた。中学に進んだところで、そのルールに窮屈さを覚えるようになって初めて、「あいつ」と父の関わりを遥は知覚したのである。



「――八月は来るなと言っただろう? 今は夏休みだ。ただでさえ人目に触れる」

『――……?』

 浅い眠りの間隙を突くかの様に、居間から漏れ聞こえる父の言葉。それに困惑し、ベッドの中の遥は次の瞬間には耳を欹てる様に構えた。感情の籠らない、あるいは来訪者に対する歓迎の響きが全く含まれない父の言葉、それを向けられた来訪者がどう口を開くのか、淀みの無い興味が頭を(もた)げてきた。


「――ちょっと顔を見に来ただけだ。怖い顔をするなよ」

 若いが落ち着いた風のある、耳触りのいい声であった。そのとき遥は純粋に父の相手に、悪印象を抱かなかった。旧い友人なのだろうか?――だが次の会話で相手の正体が判らなくなった。


「――実は……爾麒を見つけたんだ」

「――爾麒……だって?」


 爾麒を……見つけた? 男の言っている意味を、遥は計りかねた。ゲーム会社の人かな?……とすればこの時間の来訪は非常識が過ぎないか?……疑念を抱く間は、次の父の言葉で失われた。

「――圭乃は? 圭乃は見付けたのか」

「――場所を特定しただけだ。圭乃どのの生死は判らない」


「――圭……乃?」

 母の名前だ。ただし自分が物心つく前に死んだと、父から聞かされている。居間と父の仕事部屋の隅、写真立ての中で父と共に赤ん坊の遥を挟んで微笑む女性の顔を遥は思い返した。美しい女性だ。息子から見てもそうで、祖父母も父の知人も認めるところだった。長い癖毛と和風の瓜実顔、形のいい大きな口のコントラストが、二重の流し眼も相まってエキゾチックな印象をも与える。スタイルも良かった。贔屓目にも女優と言い張って通じると、遺された息子には思えた。


 遥自身、時折父にお前は母親似だな、とからかい半分に言われることもある。家に残る母の面影と言えばあとひとつ、時折父に、飯の食い方が母に似ている、と苦笑半分に言われるところだろうか? 並べた料理を気まぐれに突いては箸を迷わせ、荒らす様に口に運んでいく様が在りし日の母に似ている、と言われるのだ。ガサツとも言えるが、それを笑って許してもらえる愛嬌の持主、良く言えば飾らない、天真爛漫な性格の持主とも言えまいか? おそらく父は、母のそういうところを愛したのだ……と、遥は父のことをそう考えている。



 男達の会話は続き、ベッドの遥からは完全に睡魔が消えた。

「――回収の手配はいま整えている。それこそ慎重に慎重を期して、ね。何しろわが神和は、君が出奔してからもなお内に多くの相克を抱えている。君だって知らないわけではないだろう?」

「――軍部の他に枢密院に神祇院、内務省……あと朱乃(あけの)もそうだな」

「――そう、妹君の方が厄介だな。あの分だと未だに君と圭乃どのを許していない」

「――……」

 父が押し黙るのを遥は察した。死んだ母に肉親? それも妹がいる? いわば自分の叔母……果たしてどんな(ひと)なのだろう?

「――君が一度(ひとたび)神和に戻り、妹君と話し合った方が事は進むのではないか?」

「――そこまでか……」

 父が項垂れているであろうことは、口調から察せられた。だが空気と話題を換える積りだったのかもしれないか、その後の相手の言葉は父と、そして遥の意表を抉った。



「――ところで樹、ご子息はご壮健かな?」

「――……!」


『……!?』

 自分のことを言われ、反射的にベッドから跳び起きそうになる。


「――……息子は此処にはいない。だいいち此処には来るなと言ってある」と、樹は言った。父は嘘を付いた。

「――その言い方だと、去年の話、聞いてくれないようだな」

「――当然だろう。息子を大佐、あんたに預けることはできない。何より、外国に行かせるのとはわけが違う」

「――外国ではない。圭乃どのの許に返すのだ」

「――神和……あの国で生きるよりも、日本にいる方が息子の人生にはずっとマシだろうに」

「――だが、神和には爾麒がある」男の言葉は気だるいが、確固とした意志の所在を察せられた。

「――あれの役目はもう終わっただろう。それに、遥ではなくとも搭乗()る人間なら他に……」

「――いないよ。いないんだ樹。いないから、神和は護れぬ。希望の光になり得ぬ。だから搭乗る人間が要る。圭乃どのの血を引くご子息ならば――」

「――もうよせ関原(せきわら)!」



 息子の遥にすら見せたことの無い、それは怒気であった。それ以前に遥は混乱した。神和って、大神和帝国のことか? それに爾麒ってどういうことだ? コンピューターの作る仮想現実の世界にしか無い筈のあれ(・・)が、この世の何処かに実在しているってことなのか? そして死んだ母は、爾麒とどう関わっている?――混乱の内に、外では興ざめと辞去の気配が漂い始めていた。玄関先が慌ただしくなり始めるのを伺い、遥はそっとベッドから這い降りた。分厚いカーテンの隙間、意を決して外を覗く。星明りの下、外に佇み沈黙を守る複数の人影に、遥は思わず息を呑んだ。男は独りではなく、数を引き連れていたのだ……! 要するに、家は囲まれていた。


「……」

 まず、人影の異様な(なり)に遥は眼を見張った。はじめは作業服を着ているのかと思った。見るうち、一般の作業服に比して分厚い生地、袴の様に膨らんだズボンの股と腿、そして胴を締めるサスペンダーとベルトが、彼らの服装が工事現場や工場で働くそれではないことを、遥に想起させた。かと言って彼らの服装に見覚えがないわけではない……このような服装の男達を、遥は何処かで――否、何かで――見たことがあるのだ。


「うそ……!」

 彼らの服装が軍人のそれ、しかも歴史の教科書や資料で見た旧日本軍の兵士の服装そっくりであることに気付き、遥は思わず仰け反った。自分たちの家の周りだけ、時代が遡航したかのような感覚にすら、少年は襲われた。軍事オタク、あるいはコスプレ愛好者の集団かとも思われたが、その割には顔立ちが老けて見え、そして引き締まっている。千葉の友人と時折遊びに行く新宿歌舞伎町の暴力団や反グレとは明らかに趣の違う、生死の掛かった遣り取りを、それも幾度も経てきた顔だと少年には思えた。本物の兵士とは、ああいう人間を言うのではないか?


 父に促される様にして玄関から出た男もまた、軍服姿であった。背丈は父よりも低い。遥の前では背中しか見えないその男が、周囲の兵士に一斉に敬礼を向けられている。彼らの中からひとりの人影が進み出たとき、星明りの下で浮かび上がったその容姿に、遥はさらに驚愕した。


「女だ……」

 女性で、それに美しかった。写真の中の母 圭乃の美貌が健康的な、陽性な人格に基づく類のそれであるならば、眼前にいる長身で長髪、切れ長の眼に青白い頬の彼女は、この世のものならぬ陰がありながらも、むしろそれ故に息を呑むような美貌を、夜空の下で際立たせている様に思えた。

 アジア系に見えながら、日本人離れした容姿と顔立ち。正直母よりも美人に見えた。月明かりの下でひっそりと咲く希少な花を思わせる美女、その女性もまた、軍服姿だ……背を糺した彼女の敬礼を、あの男は正面から受けて答礼している。敬礼が止み、男はその女と二三言、言葉を交わした、そして傍らの樹に向き直る。


「――ここで言うまいかと思っていたが、朝霧に嗅ぎ付けられた気配がある。決断は今の内にしておけ」

 寝室までは距離があったが、はっきりとそう聞こえた。気色ばんだ樹が彼に何かを言うのと同時に、言葉をかき消す様に車のスターターキーが回る音がした。

 女が手を上げ、周囲に散った軍服たちに乗車を命じた様に見えた。直後、機械の様な走りで軍服が集まり、それまで闇に控えていた車に分乗を始めた。自衛隊駐屯地のイベントで見たことのあるのと同じ、秩序だった兵士の撤収に、彼らの動きはよく似ていた。兵士の姿が闇に消え、彼らを追う様にゆっくりと道端に出る樹と男、そして女の後姿。その中で男の歩みが少し遅れる――


「――……」

『――っ!?』

 いけない! と思った時には、不意に家を顧みた男と眼を合わせた実感がした。ギョロリとした半白眼、その眼光が寝室の位置を捉えて微かに笑ったように見えた。反射的に尻もちを突いて窓から離れたが、好奇心の赴くがまま窓辺に長居したことを、遥は心底後悔した。尻もちから起き上がれず、呆然とする遥を他所に、男はもう家を顧みることなく歩を刻み、そして夜に消えた。




 朝になっても、父が起き出した気配が無かった。とは言っても、遥ですらその夜は全く眠れていなかった。眠ってしまったら、これまでの平穏な日常が崩壊してしまうのではないか? その恐怖を脳裏で持て余すうち、少年は朝の早い頃合いに浅い眠りに身を委ね、そしてゆっくりと目を開けた。ベッドから動かないまま、視線を動かして見た置時計は、時刻が朝の八時を回っていることを示していた。寝坊したかと思ったが、実際にはそれ程眠れていない。もう少し眠ろうとして、家が妙なまでに静かなことに気付く。


「――っ!」

 おかしい、と思うのと同時に遥は起き出した。慌てて寝室を出た先で、居間のソファーに行儀悪く突っ伏したまま眠る父の姿を見出した時、遥は心から安堵した。テーブルの上と下の絨毯に、潰れた発泡酒の空き缶が幾つも転がっていた。頻繁にあることではないが、時折父はこういうことをする。ひとり飲みで勝手に酔い潰れるのである。


 寝顔を覗き、父が暫く起きそうにないことを確信したところで、遥は玄関を潜った。眩しい朝陽をもろに浴びる位置だった。勿論、庭には子供ひとりすら居ない。片隅に停めてあるスバルのステーションワゴンもまた、昨夜の異変を経てもなお、変わらずその車体を(とど)めている。父子の生活は、傍目から見れば普通に守られているように思えた。


 あいつら何処へ行ったのだろう?――芝生に一歩を踏み出し、そして正門まで歩く。そこで乱雑に踏み締められた芝生を見出し、遥はそのまま外へと出てみた。この家以外、周囲には小屋ひとつない草原。朝の冷気が優しく少年を出迎えた。と同時に、飛行場の幽霊騒ぎが思い返された。

「日本兵の幽霊とか言ってたな……」

 


 寝起きで空腹は感じていたが、それよりも好奇心と不安が勝った。それらに突き動かされ、少年は朝の車道でロードバイクを走らせる。

 「幽霊たち」が還るとすれば、飛行場(あそこ)しかないのではないか?――その直感が、遥に朝のツーリングを決心させた。それでもバイクを漕ぐうち、自嘲に似た感情が込み上げてきた。これではまるで、小学校の図書館に置いてあるジュヴナイル小説の様な展開だ……と。


 小説の中では自分はまあ……多分、諍いごとに巻き込まれた主人公なのだろう。悪役は……やはりあの男、昨夜父と話をしていた軍人なのだろうか? だがあの尋常ならざる風貌と切れ者然とした態度に、善人……と言うより常人の片鱗を抱くことはできなかった。そんな人間と、息子が預かり知らない処で父が付き合っている? さらには母とも関わりがある? だいいち――


「――あいつら! 日本人なのかよ」

 遥は苛立たしげに呟いた。あんなやつら、この広い北海道と雖も外を歩いていたら一撃で他人の目を惹くだろう。とすれば、何処かを根城に昼間は潜んでいる、あるいは軍服を脱いで一般人の振りをしているのかもしれない。バイクを漕いで遮るものの無い車道を走っている内に、妄想は際限なく膨らんでいく。

 誰に通報すればいいんだ? 警察か? 自衛隊か?――ロードバイクは意識せずに目指す側道に入り、そして遥は目指す場所を見出した。飛行場の終端に滑り込む。遥はロードバイクを棄てるように寝かせる。同時に父の言い付けが脳裏を過る――遥は意を決し、単に土を踏み固めただけの滑走路に足を踏み入れた。


「……」

 滑走路を挟んだ向かい――幼い頃に目の当たりにした、あの潰れた掩体壕と正対する位置であった。

 幼い頃は延々と拡がるかのように思えた飛行場が、今となっては普通の飛行機を飛ばすのには余りに手狭であると判る。「建設途中で終戦になって放棄された」という、昔聞いた地元の老人の言葉も信憑性が増す。格納庫とも見紛う掩体壕の入口は、半壊した現在であってもなお黒い口をぽっかりと開けていた。怪物の口を思わせる入口に向かい、遥は意を決し歩き始める。


「……?」

 雑草が繁茂する滑走路の中程まで歩いたときであった。格納庫の奥が薄らと見える位置にまで進み、遥はその足を止めた。人影が、遥を待つように佇んでいる。そのまま遥は動かず、少年は影と対峙した。恐怖よりも困惑が、少年に歩くことを許さなかった。暫しの静寂を破り、遥は掩体壕に進み出た。暗がりに馴れた少年の眼が、昨夜に見た軍人の姿を見出した。昨夜の様に怖い、とは思えなかった。


「夜、目を合わせたときにすぐ此処に来ると思っていた」

「あなたは、誰ですか?」

 話し掛けられ、そして疑問で応える。再び静寂が生まれて流れる。それに耐えきれず、遥は再び聞いた。

「あなたは、誰なんですか?」

「逃げないのか。母上と同じだな。恐怖よりも好奇心が先に出る」


 母のことを持ち出され、動揺しまいと身構える。それを察したのか、日の差す位置にまで、影が進み出る。幽鬼の類ではない、普通の人間であるように見える。日本軍の様な軍服姿の中肉の男、背丈は遥とほぼ同じ。総じて無表情だが、軍帽の下から覗く半白眼が、昨夜と同じく笑っている様に遥には見えた。



「僕の名は関原 信雄。君の名を教えてくれないか?」

「遥……夏秋 遥」

「ふむ……良い名だ。君の父上は最後まで、君の名を教えてくれなかった」

「母は、死んでいないんですか?」

「……」

 自分の問いが、眼前の軍人に戸惑いを与えた様に遥には見えた。何度か口を開き掛け、そして関原は言った。

「死んでいない。生きている」

「……!?」

 反射的に顔を上げた先、決意を固めた半白眼が睨んでいる。

「ただ、君の想像する『生きている』とは違うかもしれない」

「何ですか? それ」

「僕と来れば、わかる」

 背後の掩体壕を、関原は指差した。少し意味を量りかねた後、遥はまさか……と思う。


「……まさか、異世界とか?」

「我々も君が住むこの世界を、異世界と呼んでいる。あるいは神外(かがい)の地、とも……」

 関原は少し笑った。遥はと言えば、驚嘆するしかない。嘘を言っている様には見えなかった。

「何故、この世界に来たの?」

「発端は話せば長いが、云わば技術と情報の交流だ。君の父上は神和に対し多大な貢献をしてくれている。特に機導神については……」

「……!」

 「機導神」という言葉が、昨夜の記憶とも相まって遥の注意を更に喚起する。

「爾麒は、本当に在るの?」

 関原は頷いた。

「爾麒……それこそが、真に君が求める答、君が神和に還る意味になるだろう」

「……」

 そこまで対話が進み、そして止まった。眼前の軍人に対する猜疑が、少年に沈黙を択ばせた。

「まだ時期ではないな」そう言い、関原は徐々に後退りした。遥もまた彼を追わなかった。


「いずれは君の父上と、三人で話をしよう」

「待てっ!」

 呪縛から離れた様に後を追おうとする遥を、静かに上がった手が止めた。「追うな」と無言で突き放され、掩体の隅の階段を地下へと降りていく関原を、遥は半ば呆然として見送った。掩体壕には地下倉庫がある。ただし崩落の危険ありと言うことで兼ねてより停止線が張られていた筈だ。それを思い出して躊躇い、意を決して後を追った時にはすでに関原の気配は消えていた。



 消えた。何処へ?――周囲を見回しつつ元来た途を辿る。

 上階、見回す様に見上げた内壁の一点で、殴り書きされた文字を前に、遥は眼を大きく見開いた。


爾麒(ミツルギ)コソガ 君ガ宿命(サダメ)



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