序章 「騎亜ノ夢」
小さな商店街の、その規模に対して余りに不釣り合いな程に圧倒的な歓喜と狂騒が、少女の周囲でグルグルと巡っている。
「――――っ!」
見下ろせば、人の波がその狭い通りに生まれていた。一変した空気に圧倒され、ともすれば目が回りそうになり、少女は寸でのところで踵に力を入れて踏み止まる。気を取り直した瞬間、自分がいま、木箱の上に立って――否、立たされて――いて、押し寄せる群衆に仰がれる存在になってしまっていることを、少女は否が応にも自覚させられる。
買い物客と物見遊山の散歩者、あるいは偶々居合わせた通行人……帝都関京市を形作る関央十七区の西の端、この小さな八洋子銀天街の、年季の入った狭いアーケード街を歩く人々個々の性格こそ違えど、少女の瞳に入る誰もが、木箱の上の女学生に対し笑顔と、祝福と畏敬の眼差しとを等しく向けていた。
今となっては、七の戸惑いと三の喜びとを以て、セイラー服姿の少女は歓声を上げる人々を睥睨する形となった。そこに朗報を知り、駆け付けてきた人々で、群衆は尚も膨れ続けている。その中には見知った人の顔もまた目立ち始めている。学校の同級生。後輩たち。商店街の顔見知りの人々……
「簗吹 騎亜君、ばんざああーい!!」
少女の立つ木箱のすぐ傍で、紋付袴に山高帽という、正装した白髭の老人が少女の名を呼び、手を挙げて声を張り上げた。家具屋のご隠居にして町内会長の正装した姿を見るのは、新年の挨拶回りの様に年に二、三度の改まった場でしかなかった。それも、急な椿事に接しおっとり刀で駆け付けてきたと判る位、彼の着付けには綻びが見て取れた。
町内会長が万歳を宣唱した直後、彼に続いて群衆による、万雷が落ちるに似た万歳の唱和が狭い商店街のアーケードまでを揺るがす。まるで大人の出征祝いにも似た空気の高揚、それを簗吹 騎亜は全身で感じ、同時に実感がその小さな胸を震わせた。
『簗吹 騎亜君万歳! 大神和帝國万歳!』
合格った……合格っちゃった……!
「――簗吹 騎亜 右ノ者 関央総軍幼年学校 機導神科ニ入校ヲ認ム。〇月〇日 午前10:00分迄ニ着校スベシ 帝國機導神軍団総監 機導神軍中将 朝霧 朱乃」
時間にして正午の少し前に、郵便という形で少女に訪れた運命――総軍幼年学校入試試験の合否結果――は、筆記試験と適性検査の合格通知に同封する形で、帝国総軍の顕官の名による辞令を齢十四歳の少女に齎すこととなった。運命は、その到来を家内でささやかに祝う積りであった少女をして商店街の真ん中に引き摺り出し、商店街開闢以来の慶事として祝福することを以て少女の努力に報いたのである。
万世一系にして至聖なる皇主陛下の忠勇無比なる護りにして、その御稜威を帝国の四方と征路の末端にまで知らしめる尖兵たる帝國軍機導神。その乗り手たる機導神操縦者を養成する幼年学校機導神科への入校許可は、未だ中等女学校のいち生徒でしかなかった簗吹 騎亜が、厳重な考査と検査を突破し、栄誉あるその一員に加えられることを示していた。それも、薬種問屋の四人姉妹の末っ子たる彼女が生まれ育った八洋子銀天街で、初めての合格者が当の騎亜なのであった。
十五年前の第三次蕃神侵寇の記憶の冷めざる今、街の住民たちは少女の運命に歓喜し、熱狂した。帝都の最果ての街、帝都の内外の誰からも顧みられない様な小さな町から、救国の英雄がいきなり出たようなものだ。
「……!」
ボンッ!――マグネシウムの爆ぜる音と光が、熱量に圧倒され呆然としかけた少女の意識を現実に引き戻した。切られたシャッターの伴うフラッシュが、まるで砲列のように群衆の各所から瞬いている。明日の新聞――下手をすれば今日の夕刊――には、八百屋の大将が設えてくれた蜜柑の木箱に立つ自分の姿が、下町の英雄としてデカデカと地方新聞の一面を飾っているかもしれない。
不意に心細くなる。円らな瞳が思わず、群衆の中から誰かを探る。求める人はすぐに見出せた。群衆の隅に在って、町内会長と同じく、いつの間にか駆け付けていた割烹着姿の報国婦人会の祝福を受ける母 珠の姿――娘の視線に気付いたのか、騎亜を仰いだ母の目は、微笑とともに毅然としていた。何時もの通りの、面に決して弱音を見せない母であった。目が合う。握り拳を見せ、母は娘の奮起を促している。『ノアちゃん、しっかり!』――心の声も、また聞こえた。
「お母さん……!」
娘から、不意に笑顔が零れた。
「――――?」
笑うのと同時に、それが夢であることを騎亜は悟った。果たして目を開ければ、自分は寝台から真白いモルタルの天井を見上げている。恋しい我が家の、木板張りの天井ではなかった。
少女の端正な顔から、笑顔は既に退いていた。夢の情景からはや二年目、今の自分は自ら望んで総軍幼年学校にいる。今日もまた、規律と訓練に満ちた一日が始まる。大神和帝國の魔導工学の粋を結集した「人型邀撃兵器」機導神。択ばれて生徒となった少年少女を、一刻も早く機導神の操縦者とし、護国の任に就かしめんがために設定された規律と訓練に満ちた日々――遥々県境をまたいで幼年学校の正門を潜った他の同期と比べて、隅っことは言え「辛うじて」帝都出身の自分はまだ恵まれている。寝起きながらそれを思い、少女の顔は美少年と思わせる位、謹厳実直な軍学校生徒の顔に変貌っていく。
枕元に置いた腕時計の針は、起床時間たる0615まであと一分を切っていた。過日、休暇外出時の過ちを再び繰り返さない様、発条は何度も確認する様になって久しいから、時刻の把握には問題ない筈だ。
その過日――帝都の軍振会館、「軍神」朝霧 圭乃像の前で人生を交差させたひとつの面影。それが羞恥とともに少女の脳裏を過った途端、端正な顔が砂糖菓子が崩れるように歪んでいく――
「……カシュウ……ハルカ……」
うろ覚え。恐らくはその面影の名前を、少女は思わず呟いた。それを誰かに見られたくなくて、少女は紅潮した顔に布団を被った。この部屋にはたった独りしかいない筈なのに。機導神科の特権、個室で起居する身である筈なのに――
気がつけば、何時の間にか拡声器に通電する音が聞こえる。
弓の弦を張るのにも似た間を置いたその後、幼年学校の一日の始まりを告げる起床ラッパが鳴る。