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第十二章 「飛翔」


 不測とも言える爾麒の発進は、決して広いとは言えない貨物飛行船の格納庫に、祭りの前日にも似た活気を生んでいる。それは隣接する待機室の薄い壁を抜く程の空気の振動となり、そこで搭乗を待つ遥の耳と肌まで震わせた。空気は躯に容易に伝染し、少年の芯で緊張に変わる。


 搭乗に先立ち、待機室で関原 信雄は言った。

「――いいか、手足だけで操縦しようと思うな。神幹と波長を合わせろ、波長が合えば機導神はずっと滑らかに動く、多少の過ちも修正してくれる。神和では『人神一体』という。馬と同じだよ。心から信じれば機導神も応える。爾麒は特にそうだ」


 一度口に出すのを躊躇い、意を決して遥は言う。

「――大佐は、機導神に乗ったことは?」

 関原は頭を振った。

「――僕には機導神乗りの適性は無かった。今までの言葉は全て圭乃どのの受け売り、つまり君の母上の言葉だ」

「――……」


 唖然とし、そして関原に対する申し訳の無さも加わる。現に寂寥にも似た感情が関原の顔を過るのを遥は見た。

「――爾麒には不思議な能力がひとつある。視界の及ばぬ長距離から迫る相手の素性。そいつを察知するや即座に操縦者の思考に投影するのだ。まるで直感のようだ、と圭乃どのは言っていた。ただ……圭乃どのはその境地に至るのに一年を掛けた。遥君はどれ位かかるかわからないな」

「――爾麒と直接繋がっているわけじゃないのに、それは可能なの?」

「――僕が思うに、爾麒の操縦席は一種の『神域』だ。『神域』はそこに踏み入る者を択ぶ。そして『神域』に択ばれれば其処で望むものは全て叶う。そういうものだと思っている」

「――依代(よりしろ)だね……まるで」

「――そう、爾麒に限らず、機導神は並べて機械仕掛けの依代だ。択ばれた搭乗者の思念を汲み、機導神は動く。そして搭乗者は、地上で彼を送り出した人々の想いを汲み、機導神を飛ばす」


 搭乗者は、地上で彼を送り出した人々の想いを汲み、機導神を飛ばす――関原に言われ、遥は内心で自身の不覚を悔いた。機導神を送り出す人々――それらは爾麒の存在が単なるVRゲームの世界に留まっている限りでは、絶対に出て来ない発想だと思えた。

 では父は、そして関原は、十五年以上前に爾麒に搭乗()った母を送り出したとき、どのような想いを母に託したのだろう?――それを関原に聞き掛けて、遥はやめた。



「――遥君、船を離脱し次第、速やかに西へ飛べ」

 関原は作戦を指示した。始動させた爾麒は速やかに船から切り離され、遥の操縦により一路西を目指す。目指す場所は、唐支北州は瀋河(しんが)飛行場。陸地を見出すまで、遥は爾麒とともに神和海上を孤独な空の旅に臨むことになる。ただし、北州軍の管轄下にある其処への道筋は、搭載無線機と連動した飛行方位指示器に設定した周波数で示されていた。空の旅が順調に進めば迷うことは無い筈だ。


 拡げた神和列島と唐支大陸の地図を背景に、関原の説明は続いた。

「――北州軍には既に事の次第は伝えてある。不安そうだな。安心しろ。北州軍は僕の家も同じだ。君を家族同然に迎えるだろう」

「――……」


 そこまで言って関原はニヤリと笑い、遥は無感動に関原を見返した。爾麒と引き合わせてくれたことには感謝しているが、この男に連行同然に父の許から引き離されたことを思えば、関原に家族扱いされるのは正直不本意であった。遥の表情にそれを察したのか、関原の顔がすぐに平静に戻った。

「――とにかく唐支沿岸部まで辿り着け。北州軍の同志は迎えを寄越すと言っている。運が良ければ君は、北州軍の機導神に守られながら瀋河(しんが)まで何不自由なく行けるだろう」

 整備指揮官が待機所に入室し、爾麒の始動準備が終わったことを告げた。席から立ち上がった遥に、関原は餞別があることを告げた。以前に増して怪訝な表情を隠さない遥の前に、大きな紙袋が置かれる。「開けてみろ」という顔を関原はした。取り出そうとして重いことに気付く。次に皮革製のジャケット?……どころではないことに気付き、遥の表情が喜色に上気する。


「――フライトジャケットだ……」

「――昔、樹が圭乃どのに進呈した上衣だ。以後それが、『軍神』朝霧 圭乃のトレードマークになった」

 大昔のアメリカ空軍仕様のフライトジャケットだと遥は察した。そう言えば父の昔の写真に、アメリカンスタイルのバイクを背景に、これを着た姿で収まるものを見たことがあった。母と出逢うずっと前、大学生の頃の写真だと言っていたっけ――記憶を辿る自身を、関原が神妙に観察していることに気付き、遥は関原に向き直った。

「――着ていい?」

 関原は黙って頷いた。「圭乃どのも含め、君の一族のものだ。餞別というより、返すと言った方が正しいのかもな」




 ジャケットを羽織った遥が待機室から飛び出した瞬間、その場の時間が唐突に停止まった様に、遥には感じられた。

 遥と関原以外には、その場には機導神の整備員と甲板員しかいない。好奇と信仰、あるいは不安……大人たちの注ぐ様々な視線からは恰好だけは超然として、遥は爾麒の下まで歩き、そして操縦席まで登る。近くにいた整備員が登るのに手を貸してくれた。差し出された手を掴み、遥は礼を言った。

 古井戸のそれを思わせる操縦席の底、座席に腰を下ろした遥は、薄暗いスクリーンと計器盤と正対するかたちとなる。関原の言う通りならば、外ではエンジンを始動させる専用装置の接続作業が始まっている筈である。爾麒が眼を開き、スクリーンもまた覚醒する。狭く暗い空間の中で、ジャケットの使い込まれた皮革の重みと匂いが圧し掛かる。それは爾麒の操縦席に収まった今になって、遥の触覚と嗅覚に実感として迫ってきた。

 ふと目を落としたスマートウォッチが、出発時刻が近いことを教えていた。 頸環の様な咽喉式マイクを嵌め、イヤホンを被るのと同時に、発進に備えた外の喧騒が遥の耳朶に反響した。



『――慣性始動機接続よし!』

 外からインコムに通信が入るのと同時に、遥は睨んでいた計器盤から顔を上げた。発動機始動に備えて半身を上げた爾麒の、解放された操縦席からは、足元で手を振って合図を送る整備員の姿が見えた。遥は、再び計器盤に向き直った。後戻りが許されない位置に、今の自分はいる。自分で望んだ途なのだと内心に言い聞かせる。


 向き直るのと同時に延ばした手が、点火開閉器のロータリースイッチに延びた。小さなスイッチの中心に閉―左―右―両の記号が配された独特の装置。基本整備が万全ならば、スイッチオフを示す「閉」以外のどの方向にスイッチを合わせても爾麒の1500馬力液冷発動機は覚醒する。爾麒のみならず、機導神の体内には確実な始動を期して点火装置が左右二基組み込まれている。1500馬力!――現実の爾麒は、ゲームの爾麒よりも発動機出力が高いのだ。それは遥にとってもひとつの感激であった。


「回して下さい!」

 叫ぶや否や、遥は外に手を伸ばして頭上で指を大きく回した。回転計の針がゆっくりと持ち上がり、それは程無くして1000の目盛前後で安定する。迷いなく点火開閉器のレバーを捻った。爾麒の下、胴体に挿し込んだ手動慣性始動機の重いハンドルを必死で回す整備員の労苦を考えれば、逡巡は許されなかった。失敗もまた許されない。


「―――! ―――!」

 耳を劈く金切り音!――二度発動機が唸る音がした。暫しの沈黙の後、それは盛大なまでの爆音となって狭い格納庫を震わせた。そのまま格納庫はおろか輸送飛行船ですら破壊してしまうのではないかと思われる程の力に、遥は半ば本気で怯えた。反射的に目を向けたスロットルレバーは「始動」位置から微動だにしていない。知らない内にスロットルを開いてはいないかと、遥は一瞬錯覚したのである。回転計の数値1600、油圧計の数値も安定している。発動機に流れ込む燃料の臭いが、操縦席をも満たして遥を一時咳き込ませた。

 背中で暴れまわる導翅を抑える頃合であった。腿に括り付けた教本を確認しつつ、導翅ピッチレバーを「高」から「最低」に切替えた。それまで烈しく震えて周囲を揺るがしていた導翅が、急に大人しくなるのを背中で実感する。導翅の反応はいい。発動機の回転が1400前後まで落ちる。格納庫内の狂乱が過ぎ、暖気運転と点検に適した安定が生まれる。格納庫の投射準備が完了し次第、爾麒と遥は夜空へ飛び出し、一路北の大陸を目指して飛ぶことになる――


「あ……」

 爾麒の始動を見守る足許の人々、作業服だらけの中に一点、黒蘭の軍服姿を認め、遥は思わず固くなり掛けた表情を綻ばせた。操縦席に注ぐ黒蘭の眼差しが、遥が始動に注力している間、ずっと此方へ向けられていた様に遥には思われた。ごく自然にふたりの目が合い、ふたりは同時に顔を綻ばせた。黒蘭が遥に向かい、腕を持ち上げて親指を立てて見せ、次に眼鏡を下ろす素振りを見せた。搭乗の間際、整備員から防塵用の飛行眼鏡を渡されたのを思い出す。

 遥は半ば慌てて飛行眼鏡を下ろした。ここで遥はふと思う。黒蘭さんは、爾麒の出立にどのような想いを籠めたのだろうか? 再度、インコムに関原の指示が飛んだ。


『――遥君、配電盤のスイッチを入れろ。入れたら報告』

「はい!」

 少し迷いつつ、腿に張り付けた教本も頼りにして配電盤スイッチに指を伸ばす。爾麒の始動と発進は、「ミツルギ戦記」ではまず扱われることの無い爾麒の現実だ。爾麒のみならず、機導神は灯油の様な専用燃料を使うレシプロエンジンで駆動する。それは、第二次世界大戦時の軍用機の発動機を思わせる複雑な外見をしていて、構造の精緻さと整備の困難さは遥の様な少年にも本能的に察せられた。

 この鉄と軽合金の塊から破格の熱量を得て機導神は地上を踏破し、空を翔ぶ。具体的な原理を教わる時間的余裕こそ無かったが、「昆虫の躯に鉄の心臓をぶち込んだ様なものだ」と関原は教えてくれた……確かに、薄い装甲に覆われた爾麒の外見は、導翅という飛翔機能も相俟って昆虫的でもある。



「配電盤、通電しました」

 順調な通電を示す緑ランプの点灯を確認し、遥は告げた。計器類、機内照明、識別灯の制御……さらには機導神の中枢たる魔導生体たる「導幹」と発動機の同調を維持する上でも、機導神の通電は最も重要な要素であった。ただし、爾麒の発動機は特別だ。日本製なのである。遥が生まれるより少し前、父はアメリカでエアレース業界に関わっていた知見を買われて、日本で大戦機の復元プロジェクトに参加することとなった。

 プロジェクトは復元機を飛行させるのに十分な性能を持つ液冷エンジンを数台試作したところで資金難により頓挫したが、ずっと後になって倉庫に眠ったままになっていた試作エンジンを父が関原と共謀の上で買い取り、分解して神和に「密輸出」したのだという。当初は爾麒専用とするためではなく、単に技術上の参考とするためであった。


 その「曰く付き」エンジンが、今の爾麒には()ち込まれている。


「――オリジナルの発動機は我々が回収したときにはすでに腐っていたからな。樹が持ち込んだ発動機は、いわば代用だ」

 発進前、アクセスパネルを開けた状態の爾麒を前に、関原は遥にそう教えた。神和側からすれば、日本製の材料や部品の精度があまりに良過ぎて、構造以外却って参考にならなかったのが、発動機をほぼ未使用のままで保管する助けになったのは皮肉なものだ。とも関原は言った。その構造でも、以後の機導神用発動機の設計に少なからぬ影響を与えたのだという……フリーランスの陰で、異世界の人間とこのような取引をしていた事実からして、父が敢えて自分を遠ざけた理由も、息子の遥には今となってはよくわかる。


『――よし、飛行方位指示器のスイッチを入れろ』

「はい!」

 事前の説明では目的地たる瀋河からは電波を発する手筈を整えてある。飛行方位指示器はその電波を受信し、発信源たる瀋河飛行場への方向を指示す。飛行に必要な周波数の設定は整備員によってすでに済ませてある。操縦者たる遥は、「机上の計算」に従えば、指示計の指す方位通りに爾麒を飛行させればよい……トグルスイッチを入れるや、ランプの点滅が始まり、方位指示計が忙しげに回転する。やがて点滅が一定の間隔で落ち着き、指示計の矢印もまた、一方向を指示したままで安定した。瀋河飛行場の方向だと思われた。


「飛行方位指示器、応答よし!」

『――これより発進作業に移行する。送受信を無線機に切替えろ』

 眼下、整備員が爾麒より引き抜いたインカム用配線の回収を始めている。同じく別の整備員が、インカム送受話機を切る様ハンドサインを送ってきた。了解のサインを送り、送受話をインカムから機上無線機に切替える。と同時に、昔のテレビの砂嵐を思わせる烈しい空電音が耳を苛んで来る……それが徐々に和らぎ、インカムと違い、だいぶ明瞭さの落ちた関原の声が聞こえて来た。


『――これより爾麒を飛行船(フネ)より投射する。投射後の手順は説明したな』

「――覚えてる。メモもした」


 ニーパッドに挟みこんだメモに、遥は目を落とした。

『――ならばよし。そう難しく考えることは無い。我々と君とで北州に着く順番が変わるだけだ。寧北のときと同じだよ。我々は君を逃がし、我々も巧く逃げて君に追い付く』

『――今度も上手く行く』言い添えて、関原は通信を切った。格納庫上、キャットウォークに立った甲板員が遥に黒板を掲げて見せた――『切リ離シ方五分前』


「了解!」口に出し、親指を立てる。直後にブザーが鳴り、眼下の整備員が、潮が引く様に格納庫から離れて消えた。照明が白熱から赤色に転じる。背後で扉が開く気配がした。凄まじい音を立てて外の気流が雪崩れ込む。黒蘭さんの言う通り、飛行眼鏡を下ろしておいて良かったと思う。

 眼前の信号灯が緑から黄色に転じた。じんわりと左右の操縦桿を握る手に力が籠る。手袋の中で汗もまた滲む。『切リ離シ方三分前』――強風に耐えて黒板を掲げる甲板員の腰に、手摺に繋いだ安全帯が巻かれているのが見える――『切リ離シ方一分前』


 もうすぐだ……唇を噛み、操縦桿を握る指を解す様に動かした。眼が微かに痛い……発動機が生む不燃ガスが操縦席にも回って来て、それで目に沁みる。それも投射までの我慢。


「……っ!」

 信号が黄色から赤へと移った。何かが外れる様な烈しい音を立てて、展張された重量傘が開く。それに引っ張られて爾麒と遥は後ろ向きに外界へと滑り出る。開放された操縦席に入りこむ暴風の中で、飛行船の放つ識別灯が勢いよく離れて行くのが見えた。調整された爆薬が背部の牽引索を吹き飛ばし、浮力を失った爾麒が沈むのを遥は体感した。




 沈む?――否、墜落(おち)る!


 導翅ピッチレバーを「高」まで押し開き、スロットルレバーを「全開」まで押した瞬間、爾麒が一瞬浮いた様に遥は体感した。操縦席を圧する程の爆音――圧倒的に加速し、上昇する爾麒。


「うそっ!?」

 狼狽し、そして興奮する。仮想現実(VR)とは違う。何もかも違うと思い知らされる程の加速と風圧。暴風を胸に受けてそれらを感じる内に、爾麒は忽ち下層雲の高みまで駆け昇った。フットバーを踏んで爾麒を左旋回に入れた。ほぼ同時に、ゲームで付いた癖に従うまま左の導翅ピッチを落とす――瞬間的に夜景が一変し、それは鋭い左旋回の体感となって遥を驚かせた。


「……」

 放心状態のまま旋回速度を緩め、遥は気を落ち着かせようと努めた。心臓が破れんばかりに高鳴っていた。瞬間移動にも似た急旋回は仮想現実(VR)通り、否それ以上だ。眼下、それもすぐ近くに悠然と航行する飛行船の影を見出し、遥は再び驚いた――飛行船が鈍足(おそ)過ぎるのか? それとも、爾麒が駿足(はや)過ぎるのか? スロットル開度を緩めて遥は下方、飛行船を目指して飛んだ。緩降下、だが加速が付いた爾麒は忽ち飛行船に追い付き、そして追い抜き様に遥は爾麒を、飛行船の周りで旋回させた。


『――その調子だ遥君! まるで圭乃どのに生写しではないか!』

 関原の声が弾んでいる。よく観察すれば、飛行場の頂点に(しつら)えられた見張り台が灯っているのが見える。夜空を背景に飛ぶ爾麒を眺めるに、そこは絶好の特等席と言える。関原の背後で歓声が上がるのも、微かではあるが遥には聞こえた。


「こちら爾麒……ええっと、エンジン異常なし。燃料計異常なし……電圧異常なし……ええっと、これからどうすればいいんだっけ?」

『――遥君、君の慌てる気持はよくわかる。僕の言うことを聞け……方位指示器に従い、北州まで真っ直ぐに飛ぶんだ。高度4000まで昇ったらスロットルは正常に戻せ。あとは機体を水平に戻し、指示計に示す針路通りに爾麒を飛ばすんだ。それ以外は考えるな。遥君、復唱しろ』

「高度4000まで昇って、機体を水平に。それからスロットルを正常にして北州まで真っ直ぐに飛びます!」

『――そうだ。爾麒を無事に飛ばすことだけを考えろ。向こうでは同志がジンワホテルに部屋を取ってあるそうだ。向こうの最高級ホテルだよ。爾麒で北州旅行をする感覚で行け。肩の力を抜くんだ』

 関原の声が、遥には優しく聞こえた。旅行――そうだ、これまでロードバイクで散々にやった房総半島や九十九里浜の旅、奥秩父の山越えと同じだ。旅行だと思えばいいのだ。



「大佐、黒蘭さんと替ってもらえますか?」

『――いいぞ』

 空電音が耳を打った。その内に爾麒は上昇を終え、上層雲の上を滑る様に水平に転じた。呼吸がし辛いのが、空気が薄いせいだと思ったとき、遥は風防を閉めた――抵抗が消え、頭部の角ふたつから導翅が延びる。爾麒がさらに加速する。背部に通された集合排気管から噴き出す青白い炎が、流星の如き余韻を以て夜空を斬った。


『――遥君?……遥君?』

「黒蘭さんですか? 此処までおれを送り届けて下さり、有難うございました。御恩は忘れません」

『――ばか!』

 叱咤が遥の耳を打つ。

『――北州でまた会えるから。二度と会えない様なこと言わないで! 縁起でもない!』

「そ……そうですね。会えますよ」あまりの剣幕に、遥は気圧される――そこまでムキにならずともよいのに……

『――遥君? 戦いは避けて。私たちを援けようなどと思わないで。追手は私たちで何とかするから――』

「はい……!」

 黒蘭の言葉に応答するのに、胸を締め付ける程の真剣さが遥には必要だった。正直爾麒に追い縋る敵など、いまの遥には思いもつかなかった。それでも光紀軍刀という「兵装」が遥の爾麒には備わっている。勿論自衛を想定した装備である。装備と言えばもうひとつ、いまの遥は機導神操縦者として必須の、耐圧機密服を着用していない。一度着用について関原に聞いてはみたが、「必要無い」という関原の一言でそれは片付いたのだ。



「――正直言っていまの爾麒は飛べるだけの状態に戻した、未調整も同然の状態だ。蕃神と遭遇しようが黒竜会が追って来ようが応戦など考えるな」

「――……」

「――遥君、爾麒を無傷で北州まで飛ばすことに専念するのだ。飛ばすだけならば、耐圧服は要らない。だいいち……」

「――……」

「――君に機導神の戦技の心得は無いだろう?」

「――それは……」

 言い掛けて、遥は黙ったものだ。


 現状、こうして爾麒を飛ばしているだけでも現実と仮想現実との格差(ギャップ)は開き続けていた。だが爾麒に馴れ始めているという実感もまた生まれ始めていた。実感が現実との格差にキャッチアップするのに時間こそ掛かるが、何時かは――決意と共に、針路計の針が計器の中心点に重なるのを見る。操縦桿を微調整して姿勢を戻す――針がぶれないように飛行を続ければ、理論上爾麒は目指す場所へと辿り着く。


「黒蘭さん、大佐、先に行きます。北州で会いましょう!」

『――……オウ! 待っていろ!』

 関原の声が背中を押した。目指す前方を向き掛けた遥の耳に、烈しい雑音が流れ込む――

『――こちら旅客船「きんせい号」……恐らく能都半島西方空域を航行中……蕃神群と思しき影に追尾されている……このままでは追い付かれる!……誰か救援を頼む!』

「……」

 耳を疑い、遥は放心した。放心が逡巡へと変わった。共通回線に紛れ込んできた緊急通信に接するのと同時に、目がニーボードに張り付けた地図に向かう。とっくに追い越した母船の地点との位置関係を思えば、引き返せば間に合うかもしれない。


 遥は戸惑った――間に合う――何が間に合う?

『――「きんせい」……救援を求む! 偏西風で速度が上がらない!……救援を!……』

『――遥君、聞こえるか? 爾麒、応答せよ!』

「聞こえてる」

 応答するのと同時に、関原の声を望んでいたことに遥は気付く。


『――蕃神が現れた。神和海上空……軍の通信を傍受した限りでは数は決して多くない。だが今の爾麒では戦えない……逃げの一手あるのみだ』

「……」

 針路指示計の針が左右にぶれた。遥の沈黙を了解と受け取ったのか、関原の言葉は続いた。時折混じる空電が、今ほど鬱陶しく感じられたことは無かった。


「大佐、こんなとき、朝霧軍神(かあさん)ならどうしたと思う?」

『――妙なことを考えてはいかんぞ……遥君、君は圭乃どのではない』

 遥は深呼吸をした。冷気が肺に入り込み、そして脳髄をも冷やす。

『――馬鹿なことを考えるな! これは命令だ!……命令に従え!』

「そうさ……おれは朝霧軍神(かあさん)じゃない……」針路指示計の針が、さらに烈しく揺れる。

『――遥君?』

「おれは大佐、あなたや母さんの様な軍人じゃない!」

 声を荒げる。意を決した操縦桿が左右、荒々しく動く。

『――遥君! やめろ!』

「くっ……!」

 加速に抗い、耐えて爾麒は針路を左に外れた。

 青白い軌道が曲がる。旋回を終えて加速した爾麒の軌道が、飛行船の遥か頭上を過って東へ奔る。彗星の様に――




『――爾麒、上空を東へ通過!』

 見張り台から見上げた東、青白い彗星が軌道を曳いて遠ざかる。夜間でありながら、否むしろそれだからこそ爾麒の飛翔は美しく映えた。関原 信雄はと言えば、夏秋 遥を制止する口を止め、遠ざかる爾麒を恋人に去られた女の様に見送るだけだ。もはや止められない。あの少年の母親が、まさにそうであった。


「大佐……?」

「まさしく圭乃どのの子だ……誰も見捨てられないのだ」

 傍らの黒蘭の呼び掛けは、関原には聞こえなかった。




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