第十四章 「慟哭」
恐怖――対峙してはじめて、それがわかる。
爾麒の操縦席越し。眼前に浮く黒い爾麒が、遥からすれば今となっては自分を殺しに来た影に見えた。捕まればもう破滅――そう思ったとき、自分の逃避を止めた朝霧 朱乃の言葉が、一種の挑発であったことに気付く。
迂闊だと思った。しかし彼女の投げた言葉は聞き捨てならなかった。その結果、遥と爾麒は逃道を喪った。異形の黒い機体、双眸が紅く瞬いて爾麒と遥を無表情に睨んでいる。白い爾麒の双眸もまた、相手に感応する様に蒼い光を湛え始めている――
「――できるか……?」
やれるだろうか……と、遥は呟いた。今となっては遠い日本、「ミツルギ戦記」でAI相手に繰り返した模擬戦闘が思い出された。それ故に相手が爾麒に生写しであるというただ一点にこそ、勝機がある様に遥には思えた。
追い付かれた以上、もはやストレートに北州に辿り着くという選択肢は捨てていた。勝てないまでも斬り合いを繰り返し、相手に「時間切れ」――燃料切れ――が訪れるまで粘る。斬り合いを凌いだ爾麒もまた、関原たちと合流し仕切り直す。言い換えれば、どちらが先に燃料を使い果たして足許の雲海からはるか下の海原に墜ちるか――
『――緊張ているな?……初陣か?』
圧し殺した様な朱乃の声が受話器に聞こえた。彼女の声は嘲笑っていた。遥は反射的に光紀新刀を構え直した。霞の構え――冷や汗が一筋頬を流れた。その態勢すら彼女には見透かされていると思った。刀の切先に、対峙する黒い爾麒が重なる。その黒い爾麒は、抜刀はおろか、微動だにしない――
「――刀を抜いて……もらえませんか?」滑稽な言い方だと思った――呼び掛ける声が、戦慄えた。
『――抜くまでも無く構えているぞ? 樹の息子よ』
「……」
これじゃ寸劇じゃないか!――爾麒に刀を構えさせつつ、遥の胸中に焦燥が湧き始めた。気付けば先刻朱乃に指摘された通り、切先が振れているのがわかった。「ミツルギ戦記」では、遥が構えればAIの爾麒も構えた。
だが現実、遥の眼前にいる機導神は違う。相手も応じるのが当然という観念自体、大きな間違いであったことに、遥は今更ながらに気付く。そして想像できる――隙の見えない、捉え処の無い脱力が、不用意に踏み込んだ敵に繰り出される決着への反撃となること――そのようなことをするAIは遥の知る限り皆無だ。日本で言う武道の達人の様な挙動を、黒い爾麒はしている。
『――成程、どうやったか知らぬがそれなりに馴れている様だ』朱乃の声が、不意に入った。
『――樹の息子、お前は自覚っている筈だ。現在のお前は自分で思っている程強くは無い。お前は爾麒の操縦桿を与る程、強い人間ではない。弱いと呑まれる。今お前が搭乗っている爾麒とはそういう機導神だ。喰われるのだ』
「言うな!……聞きたくない!」
『――お前は何のために、爾麒に搭乗っている?』
「生きるためだ!」
『――生きたくば、いますぐ爾麒から降りろ臆病者!』
「――ッ!?」
愕然とともに憤怒が湧く。怒りは爾麒を疾駆させ刀を抜かせた。押し開いたスロットルの導くまま、爾麒は朱乃に斬り掛かる。電光が落ちる様な速さで、彼我の距離が詰まる
――遥! いけない!
「――!?」脳内に反響した声が、遥をして爾麒を止めた。同時に眼前、やはり閃雷の如く煌いた刃が下から上を飛んで遥の網膜を灼いた。飛ぶ――それ以外に形容しようの無い逆袈裟の刃が、爾麒が踏み込む筈であった空間を斬った。声が無ければ、爾麒は不用意に朱乃の間合いに踏み込んだ瞬間、股から左肩に掛けて寸断されていたことだろう。
「母さん!?」
叫ぶや否や、遥は突き出され、斬りかかれた数合を回避し、刀で受けた。三撃目を受けるや距離を詰め鍔競り合う。蕃神のそれとは違う膂力と迫力を、辛うじて抑え込む。抑え込んだ鼻先。それでも抑えきれずに震える操縦席。気圧される遥を、神和號の紅い眼光が爛々と睨む。簡単に間合いに入られたという衝撃を、遥は必死で圧し殺す。
『――刃を立てるな……痛いではないか』
朱乃に嘲弄われるのと同時に、鍔競り合う刀、その拵えの既視感に遥は思い当る。それが驚愕を伴う確信に変わるのに、時間は掛からなかった。
「まさか……備柳虎舟!」
『――そうだ。圭乃のものだ。そしてこれで私はお前を斬る』
「近くでよく見れば、顔が小皺だらけだなオバサンっ!」
『――っ!?』
遥は神和號を蹴り飛ばした。反動を使い爾麒を朱乃から引き剥がす。彼我の間合いが離れ、遥は光紀新刀を構え直した――睨む遥か先、神和號は構えない。脱力――これから始まる全てに備えた、上級者の構えだ。自分が挑まれるのではなく、挑む立場であるのを遥は思い知らされる。
何時しか張られた緊張の糸は、恐怖と焦燥によりぶち切られる。
『――口が減らないのは、圭乃に生写しであるな』
「爾麒……参る!」
遥は朱乃に斬りかかった――攻撃を止めたら、この対戦は敗北ける! 斬る間際、霞の構えが八相に転じる。迎え撃つ朱乃の切先から刀身が、遥の刀身と克ち合って火花を生んだ。
遥が衝突を予期した瞬間、神和號が上昇した。上昇から前転、翻った刀が爾麒の頭を薙ぐ――それを間一髪で振り返って受ける。そこからは斬り、突き、受けの連撃が重なる。攻守を繰り返すうち、朱乃のいずれも自分より疾く、重いことに遥は気付く。勝って逃げるという選択肢が、溶ける様に消えていく。
『――それが「突き」か?……それが「掃い」か?』
反撃を受ける遥の胸に、朱乃の言葉が刺さる。
『――無様なものだ! お前の母はその様なものではなかった。やはりお前は爾麒から降りるべきだった! この神和に来るべきではなかった!』
「そうやって母さんも斬ったのか貴方はっ!」
言い返すや否や、横移動から斬りかかる。朱乃は後退し、転じて突き出された切先が爾麒の頭部を掠めた。間一髪!――回避しきれず風防に穴が開く。生物のそれを思わせる膜状のスクリーンが生む視界、斬撃で生じた破孔に、現実の神和號の機影が重なった。
赤い眼に見据えられて遥は震える。冷気が流れ込みスクリーン越し故に生じていた虚勢の勇気に亀裂が入る。黒い悪魔を直に見、ともすれば気概が崩れそうになるのを、少年の精神は必死に踏み止まる。仕切り直すべく距離を置こうと図る。逃げられなかった――朱乃が距離を詰め、再度の鍔競りを遥に強いる。神和號の双眸の緋が、一層光を増した。獣の眼だと思えた。
『――それは樹の服か……?』
「……?」
朱乃の神和號が、爾麒ではなく、破孔から覗く操縦席の自分を捉えているのを遥は察した。否、遥自身ではなくフライトジャケットを。
「……母さんのだ」自然、冷静に声が出た。神和號の鍔競る力が増すのを、操縦桿越しに感じた。それは爾麒の動きを止めようと万力の様に圧し掛かる。
『――私に寄越せ』
「いやだ!」
『――探していたのだ。私はそれが欲しい……!』イヤホン越しに、どす黒い感情の発露が遥の背筋を撫でた。女の情念だと思った。
「父さんが何故こいつを母さんに託したか!……足りない頭で考えろって!」
『黙れ!……黙れ下郎!』
「このわからず屋っ!」
怒気に任せて、遥はスロットルを押し開いた。激突!――腕力に任せて刀を撥ね上げる。突き出された斬先を刀身を立てて逸らす。パワーを得、優位を取ろうとして自然、スロットルが開く。数合を重ねる内に徐々に上がる高度に、遥は気付かない。そこにも爾麒と神和號の間に差が生じる。優位は神和號のものだ。出力と過給器の段数の差が、上昇の速度となって両者の差を開く。それに付き合っていては、爾麒は圧し斬られるだろう。
「――ッ!」
過給器の切替ではなく、降下を遥は択んだ。背面からの降下加速――
『――逃げるな逃げるな! 詰むだけであるぞ!』
「ひ……!?」
上方からの突き――それは槍のように疾く、機銃のように途切れがない。うち数合が刺突を受ける爾麒の肩を、胴を、そして頭を掠めて裂く。スクリーン越しに火花が散るのを見る。ともすれば発狂しそうになるのを、遥は踏み留まり寸分の差で回避し続ける。発狂の崖を乗り越えた先に忍耐の時間が始まり、そして過ぎる。
「――ッ!」
機導神とは、こんな剣捌きができるものなのか?――発狂を踏み止まった先に生まれた余裕のうちに、遥は思った。回を重ねる突きが空を抉るのみとなり、やがて爾麒は刀でそれを受け流す。そこに、反撃を伺う余裕も生まれる。微かにだが、爾麒の反応が鈍くなっていることを体感する。導翅を傷つけたか?――
「こいつ……!」
忌々しさを唇から漏らし、朱乃も気付く――爾麒の操縦者の適応が速いこと、爾麒の駿足が翳っていることに。気付いた後の判断に、迷いはなかった。そして……燃料残も心細い。
「――!?」
朱乃が退いた――神和號が離れた――と遥には思えた。
離脱の頃合とも思え、そこに弛緩が生じた。
その遥が心中に作った間隙を、朱乃は見逃さない。
開く間合い――操縦桿を後退に入れかけた瞬間、何時しか霞に構えた神和號の刃が迫る。閃光の様に突っ込んで来る紅い双眸、それこそが、遥が最後に直面した全てであった。逃げる望みはその瞬間に棄てた。
「しまった!」察するのと同時に、スロットルを「前進」に押し開く。
逆襲が成功する望みは棄てていた。それでも遥が下段から二撃目を突き上げるより神速く。再度間合いを詰めた神和號の突きが爾麒の胴を抉り、貫いた。爾麒の刀もまた、神和號の頭頂を捉えて振り降りた――
星明りの下、銀雲の荒野の上で双影が縺れ、そして重なる。
「……!?」
『――……?』
振り下ろされた刃が、神和號の頭を僅かに抉って停まる。困惑――寸止めの様に刃が動かない。それ以上操縦桿に力を籠めようにも、爾麒の腕は動かなかった。
「……?」
遥は振り返った。背中に異様な振動を感じる。不整脈の様に一定しないエンジンの回転に、計器を見て初めて気付く。後背のエンジンが乱調に陥ったのだと直感した。正面、爾麒の腹に刃を突き立てた神和號の姿に気付くまで、遥には自身に何が起こったのかを量りかねていた。濃いオイルの臭いと眼と喉を苛む白煙の侵入が、操縦席では同時に始まっていた。
『――終わりだ。脱出しろ』
「……!?」
勝ちを確信した朱乃の声は、遥には聞こえていなかった。導翅はなお動いて爾麒に浮力を与えていたが、姿勢の維持はもはや叶わなかった。振り下ろしたままの光紀新刀を取り落とし、糸の切れた人形の様に爾麒は墜落る。引き抜かれた刃の痕から燃料が漏れ、墜落る爾麒から真白い霧を噴出した。加重に囚われつつ、燃圧計の針が目に見えて下がり始めているのを遥は察した。
「ああっまずい!」
導翅が動いている故か、墜落は緩慢に始まった。エンジンに損傷を受けて、出力が低下した状況は仮想現実で幾度か経験している。まだ生きている視界が、上下左右に目まぐるしく換わる雲海と夜空を映し出して少年の三半規管を苛んだ。
姿勢回復の方法は? 脱出するべきか?――重力の剛腕で座席に押し付けられつつ、遥の思考もまた廻る。その間も培われた本能が遥をしてフットバーを踏ませ、爾麒はその姿勢だけは糸の切れた凧から急降下する隼に転じた。姿勢回復は成功したが、頭からの降下は、凄まじい加速を生んだ。海原の漆黒が近付く気配がする。嫌な気配だ。
エンジンと導翅の接続を解除し、滑空に転じる。危険だが、こうすればさらに加速が付くことを遥は知っていた。気が付けば飛行方位指示器が動いていない。無線も沈黙を守ったままだ。配電盤に目を落とし、ランプの幾つかが消えかかっているのに気付く。電力供給も傷付いたか――自ずと眼が向いた方位計。ゆっくりとフットバーを踏み、操縦桿を僅かに倒し、遥は爾麒を望む方位に滑空させた。神和海ならば、南へ行けば何時かは陸地に辿り着くだろう……
「ゴホッゲホッ!?」
遥は咳き込んだ。充満するガスの臭いが、呼吸に困難を来すほど濃くなっている……そう思ったとき、遥は風防を開けた。風圧でガスが退き、背後から黄色い光が無数、白煙を曳いて追い縋る。数弾は爾麒を追い越し、海原にまで達した。
「……っ!?」
機銃で撃たれていると察し、遥は操縦桿を倒した。爾麒には付いていないが、「ミツルギ戦記」では量産型の機導神には固定武装として胴体に機銃が付いている。朱乃もそのくちなのかもしれない。
横転から回避機動に入った爾麒が震える。失速の兆候だと遥は察した。導翅とエンジンの接続を回復しようとレバーを引く――手応えが無いことに、遥の顔から血色が退いた。操作を繰り返しつつ、速度を稼ぐために降下する。黒々とした海原の拡がりが目に見えて拡がり、弾幕が更に追い縋る。
「うあっ!」
数弾が操縦席の周囲を掠めて火花を生んだ。うち二三発は命中ったかもしれない。今となっては追跡して来る朱乃よりも、導翅を捨てた自身の迂闊さが呪わしい。
燃圧も下がっている。反射的に手動燃料注入スイッチにも手が延びる。それに加えて動かない導翅、忙しい操縦系――手が三本……いや五本は欲しいと思う。仮想現実でも経験したことの無い、最悪の実戦体験だ。追い縋る弾丸が、更に何処かに当たった。エンジン出力がぐんと落ち始める――戦慄。
「それでもっ!」
もはや重いグライダーと化した爾麒に、翼を取り戻すべく遥は接続レバーを引き続ける。手応え――次の操作で導翅が唸るのを体感するのと、風防を開け放った操縦席の周囲に弾着したうち一発が、外板を貫いて操縦席に飛び込み、計器盤を壊したのと同時だった。配線が弾けて燃える。同じく弾けた破片が全身にぶつかって砕ける。遥の意識もまた衝撃と混乱のなかで消えた。
『――遥?』
「……」
『――遥?』
「……?」
背後から、誰かに抱かれている。
初めて爾麒に乗り込んだ時にも抱いた感覚。今となっては感覚ではなく実感であった。混濁に抗いつつ眼を開けようとした遥を、耳元の声が制した。
『――遥、脱出しなさい。もうすぐ海岸よ。朱乃ももう追い付けない』
「……」
朱乃の気配が、消えていることに思い当る。背後の声に誘われるがまま、手探りでベルトの位置を掴む。座席クッション代わりに収まった落下傘と遥を繋ぐベルトだ。
それにしても熱い……操縦席全体が窯に入れられている様な熱気。そこに金属の灼ける不快な臭いも加わる。眼を開けようと試みる――片方しか開かない。頭からの流血が染み込んでもう片方を塞いでいた。完全に開いた眼に影が映る。もはや完全に死んだ前方スクリーンに映った自分を背後から抱く蒼い影に、遥は息を呑んだ。
『――遥!』
「……」
蒼い女の影を、傷付いた身を忘れて遥は呆然と見詰めた。長い髪の女性が蒼い光を纏って少年を抱く。恐ろしいとは思えなかった。何処かで見た女性の光、それが今日に至るまで、自分が無意識の内に追い掛けて来た女性の姿であることに気付き、遥は驚愕した。
「――爾麒は? 爾麒はどうなるの?」
『――貴方さえ生きていれば、それでいい……!』
「……」
『――遥……はやく脱出を』
前方、月明りの下でぎらつく海原の先に黒い影が立ち憚るのを見る。雲の影かと思ったが上空に雲は無い。紛れも無い海岸線だと察した。頭を抱く蒼い手に、遥の手が延びた――触れる、と気付いた時には迷いなくそれを握っていた。
「母さん、掴まって!」
『――……』光は、応えない。
爾麒が陸地に迫る。
片目で見据える前方が、砂丘であることに気付く。
『――遥!』
「いける! いけるぞ!」
パタン!……と、エンジンが止まった。
星と闇と強風と、沈黙以外の何物も存在しない世界。
ふたたび滑空――躍動を止め、拡がったままの導翅を頼りに、遥と爾麒は陸地を目指す。
高度が下がる。
気流の動きに遥が耳を澄ます内に、爾麒は海と陸の境を越える。不意に下から突き上げられ、遥は大破した計器盤に頭を突っ込ませる寸前でベルトに止められた。爾麒が海浜を抉って滑り込む。振動と軋みが、傷付いた遥の躯には烈しく堪えた。
波の音が、遠くに聞こえた。
白煙を曳きながら冷えていく銃口を向けた先で、蒼い光が遠ざかる。
連装機銃を内蔵した右腕を蒼い光に向けつつ、神和號の速度が徐々に落ちる。不意の加速、それも破格の加速を前にしては、神和號の全速を以てしても追従は叶わない。そこに残燃料警告灯の点灯が全てを決した。満身創痍の爾麒。だがそれが最後に発揮した加速は、機体固有の力ではないことを機上の朝霧 朱乃は知っていた。爾麒が陸地に辿り着く確証は無い。かと言って今の神和號に、爾麒の末路を見届ける余力も無かった。
「何故だ……」
朱乃は呟いた。あの少年は、おそらくは爾麒の乗り手であった誰かの思念、過去に爾麒に魅入られた乗り手を召喚したのだ。召喚を以て爾麒はその真価を発揮するという。過去に、爾麒は朱乃を拒絶した。代々爾麒を守ってきた朝霧家の祖霊に拒絶されたも同じであった。機導神乗りとしての適性を。朱乃は幼少時から十分に備えていた。しかし爾麒に対してそれは無意味に過ぎたのだ。
若き日の自分はそれが悔しくて、機導神乗りとして自己を律し、研鑽を続けて来たのではなかったか?――あの少年に、誰が手を貸した?
「圭乃か……!」
あの少年の背後に過る影を思い、再び呟く……ではあっても、容易く召喚を成せたというのか? あの少年が?
突沸した怒りが、落涙を呼んだ。眼を瞑り、朱乃は俯いた。
「何故、わたしではなかったのだ……!」
波のざわめきが聞こえる。遠くは無い。
波打ち際を支配する海と潮風の流れ、それらが醸す音を聞きながら、遥は眼を開けた。気化したオイルと燃料の臭いが濃いことに気付く。それ以外は静寂と漆黒に狭い操縦席は支配されている。
「……」
意識を取り戻そうと頭を振り、遥はどうしようもなく頭が重く痛いことを自覚した。操縦席から這い出ようとして、足を滑らせて失敗する。床がオイル塗れで、靴はおろかズボンまで酷く汚れていることにこのとき初めて気付く。
それでも吹き込む潮風が、徐々に操縦席からオイルの臭いを消していく。覗き込んだ眼下は砂浜だ。操縦席から地上はそれほど高くは無い……というより、爾麒の半身が砂に埋まっているのだと遥は察した。
足を操縦席から出すことに決めた。操縦席からぶら下がり、意を決して手を離す。尻餅が結末であった。地面の砂浜が柔らか過ぎ、着地と同時に足を取られたのだ。
外に出てもなお周囲に漂う燃料の臭いが、遥をして炎上を懸念させ、爾麒から距離を置かせた。たどたどしい、だが短い退避行の先で、不意に遥の足許から力が抜け、少年はその場にへたり込む。自ずと上がった目線が、何時しか曇天が退いた満天の星空を背景に、爾麒の輪郭を捉えた。輪郭が、廃墟のそれと重なった。
「……」
淋しい――遥にはただそう思えた。ここまで大破していては、爾麒の再起は不可能だろう。関原の忠告に背き、朝霧 朱乃に挑んだ結果として、遥はこの世界に存在する意義を失った。母との繋がりもまた断たれた。関原の言葉に従うべきだったというより、母のことをもっと知るためにも、自分は爾麒を守って逃げに徹するべきであったのだ……そうだ、矮小な自尊心に囚われ、勝てもしない戦いを択んだ結果、自分は爾麒を守れなかった。遥にはそう思われてならなかった。
おれ、何てことを――両脚を抱えて、遥は俯いた。爾麒に合わせる顔が無い。ひいては母に関わる資格すら、今となっては失ってしまった様にも思えた。絶望する少年の伏せた横顔を、砂丘の高みから烈しい光が、それも不意打ちの様に照らす――
「――っ!?」
物理的に圧された様に、遥は眼と頭を庇った。とっさにそれをさせる位に大きく、強い光であった。懐中電灯の類では無かった。砂丘の裏に無数の気配が蠢く。気配は雪崩の様に遥と爾麒の周囲に駆け降り、そして取り囲む。
銃や装具の擦れる音から、それらが兵士であることを遥は頭を伏せつつ察した。探照灯を背景にした兵士の展開の後、おそらくは無線通信機を介した指揮官の報告が聞こえる。
「――02より指揮所へ。機導神と操縦者を確保。おくれ」
『――指揮所より02、機導神と操縦者の状態を伝え。おくれ』
「――機導神は大破……文字通りの全損かと思われます。操縦者は生きている模様……ハッ、生命に別条はない様子です。おくれ」
気配が迫る。それは屈強な兵士ふたりの姿となって有無を言わさずに遥の両脇を掴んで立たせた。一方で、登山用リュックの様に巨大な無線機を背負った通信兵に寄り添う様に、送受話器を構えた指揮官の報告は続いていた。むしろ現場の保全と爾麒の回収――あるいは隠蔽――の手配で、彼らの働きは愈々これから、という体であるのかもしれない。
恐る々々顔を上げた遥と、士官の目が合った。だがそれも一瞬、顎をしゃくって兵士に遥の連行を命じ、士官は再び送受話器に向き直る。兵士はただ、息遣いだけを遥に聞かせる以外は完全な沈黙を貫き、遥を引き摺る様に連れていく……再び恐る々々背後を顧みた遥の見上げた先、彼はそこに人影を見たように思われた。もはや蟻に集られる昆虫の死骸の様に兵士に囲まれる爾麒、その歪んだ頭部の傍に立ち、少年の前途を見送る女性の影――
「かあ……さん?」
影に呼び掛けるのと同時に、足が止まる。その後には込み上げて来た感情の奔流が襲ってきた。
「母さん!? 母さん!」
抑えられた腕を解こうと踠き、そして暴れつつ遥は叫んだ。「静かにしろ!」兵士が怒鳴る。今の遥には聞こえなかった。
その名を呼ぶ内に、霞の様に遥の眼前から消え往く母の影――むしろ呼べば呼ぶほど影は遠ざかる。一度振り解いた遥の腕を、兵士の剛腕が再び、荒々しく掴み上げた。強引に前を向かされ、同時に引き摺られつつ、それでも遥は歯を食いしばり、声も上げずに肩を震わせて泣く。
今はただ、報われぬ慟哭のみが、少年にとっての生還の代償であった。
来週掲載分で、第1シーズン終了となります