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第九章 「私娼窟ニテ」


 停車駅を七つ程経たところで、ふたりは降りた。


 シスターの後に続いて遥は歩く。ふと足元を見れば路地で引っ掛けたのかジーンズが破れ、膝下から脛に掛けて血が滲んでいるのに気付く。シスターに指摘されるまで、遥はそのことに気付かなかったことになる。普通ならすぐに気付くのに――痛みも、今更のように滲み出す。

 同じく周囲を見回せば、ビルの影が消え、平屋の居並びが目立つようになっている。まるで地方の駅前にある小さな歓楽街を思わせる家屋や商店、小屋の犇めく通り、今しがた助けたシスターの導きに従うまま、遥はとぼとぼと歩く。銀天、浅月はおろかそれらを包括する帝都の中心からだいぶ離れてしまったのではないかと、遥は半ば本気で心配した。ふと目に入った標識はだいぶ塗装が剥がれて錆も入っている。「忘ノ塚(わすれのつか)」――標識に書かれた地名はそう読めた。


「……?」

 店とも住居とも判らぬ小振りな二階建てが並ぶ――というより密集する路地に、シスターは足を踏み入れた。「居酒屋」「小料理屋」と看板こそ控え目に出してはいるものの、周囲に仄かに漂う雰囲気と色香の匂いからして、外見通りの店とは到底思えなかった。ふと、千葉のクラスメイトに、家が歓楽街のスナック店という女子がいたことが思い出された。彼女の家が所在する栄町の一帯と此処の、その雰囲気が遥の脳裏で自ずと重なった。


 そのうち一軒――ふと視線を廻らせた入口で、和装姿の女が(たたず)んでこちらを伺っているのに遥は気付く。美人だが歳は若くは無いと思った。だが年季に裏打ちされた化粧の巧さがそれを十分以上に補っている。そういう美しさだった。

 遥と目を合わせた途端、美人の口紅の、鮮やかな朱が微かに微笑った……色目を使われたと思い、頭を擡げた羞恥が思わず目を伏せさせる――ああ、「そういう仕事」の(ひと)なのだと少年なりに理解する……つまりは、「そういう店」ばかりが此処一帯には集まっている?――そう思った途端に、新たな疑念が生まれる。風俗街?……遊郭?……いやいや、もっと文学的な名称があった筈だが、いまの遥にはそれを思い出せないまま、困惑のみが募る。



「あの……?」

「……?」

 呼び掛けると、シスターの足が止まった。少年を顧みた瞳からは、険しさは失われている。

「何処まで、歩くんですか?」

「もうすぐですよ? あの角を左に曲がって……」

「あ……」

 目の高さの及ぶ範囲にずっと見惚れていたのは迂闊であった。見上げれば、下町と並木の犇めく路地の向こう、頭二つ分ほど図抜けて高い天蓋(ドーム)が見えた。教会だ……と遥は思った。

 立ち止まって天蓋を眺める遥を再び顧みて、シスターが首を傾げた。怪訝な視線に気付き、遥は慌てて後を追う――角を曲がり再び出た通りに面した場所、「忘ノ塚天主堂」という木製の表札が掲げられた門で、シスターの足が止まった。彼女に気付いた故か、門番らしき老人が、裏の小屋からノソノソとした歩みで進み出た。猿の様に背の低い、痩せたというより枯れた、という表現が似合う体躯の老人であった。「おかえりなさい」ポツリとシスターに言い、老人は遥に向き直った。「入信希望ですかな?」


「怪我の手当てですよ弥梧郎(やごろう)さん、診療所……混んでるかしら?」

 シスターに言われ、「ああ……」と言いたげに老人は口を開けた。「だいぶ()いてるんじゃないかのう……」言いつつ、細い皺に覆われた眼が遥を頭から爪先まで伺う。空虚な目の光には、敵か味方か観察されている様な気分がした。


「……何処かで会いましたかな?」

「え?……あ、いや!」

 唐突に問われて困惑する遥を、シスターが手招きした。彼女は診療所へと続く小路へと誘った。横切る形となった礼拝堂の、開け放たれた扉から覗く内部に人影は見えなかった。礼拝の時間ではないからかもしれない。


 診療所は外目では礼拝堂に比して決して狭くは無い様に思えたが、足を踏み入れた待合室は狭かった。それ以上に犇めく患者の生む喧騒が遥を内心で圧倒した。患者は一様に粗末な身形をし、碌に風呂にも入っていない様に思える程体臭を()せ返らせている。そこに子供の嬌声と咳をする音が幾重にも響く。「シスター!」「シスター薫子(かおるこ)だ!」子供がシスターに嬉しげに声を掛けた。シスターが微笑を浮かべ手を上げて応じる。

 そうか、薫子というのか――と同時に、彼女が連れる遥にも子供たちの視線が集中した。好奇というより疑念の籠った眼、あるいは警戒を持った眼が視線となって一斉に遥に注いだ。戸惑う中で、自分を見つめる子供たちの中に遥は違和感を覚えた。違和感はすぐに晴れた……子供たちの中に、獣の様な耳を生やした者が混じっている! 驚き、反射的に仰け反った遥を、シスターの怪訝に満ちた瞳が受け止めた。


「異民……見るの初めて?」

「あ……あっハイ!」

 怪訝な表情を浮かべつつもシスターは頷いた。ふたりの前で獣耳の子供の手を、やはり獣耳の女性が引いて玄関に向かう。診療の終わった異民の母子だ。母親が子供の顔にスカーフを巻いて隠し、彼女もまたそうした。受付で薬を貰い、玄関を出る母子の後姿を見送りつつ、シスターが淋しげに言った。

「……ああやって顔を隠さないと、心無い人に意地悪されるの」

「……」

「こっちよ」呆然とする遥の手を、シスターの手が握って引いた。「診療室」という名札の掛かった部屋の、子供が上半身を裸にして老医師の診察を受ける傍らで、シスターによる手当てが始まり、それはすぐに終わった。


「あの……薫子……さん?」

「……?」

 腰掛けた診療ベッドから遥は呼び掛け、シスターは消毒した傷から顔を上げた。上目遣いに顔を覗かれ、遥は不意に羞恥を覚えた。近くで目にすれば、修道衣も相まって息を呑むかのような彼女の美しさがよくわかる。年の頃は……二十代前半くらいか? その若い外見にしては態度もやけに落ち付いて見えた。


「いや……子供たちがそう呼んでいたので……」

「シスターでいいですよ。そういえば……」

 湿布を貼り、ずり上げたジーンズの袖を下ろしつつシスターは続けた。「……浅月に、行かれるんでしたね?」

「はい……」

「浅月は少年ギャングが多いから気を付けてね。殉國党の様なお坊ちゃんたちと違って、彼らはすぐに光りものを抜いて来るから」

「あのう……彼ら、殉國社に行進するって言ってましたけど……それ、何ですか?」

「知らないの? 殉國社を」

「すみません……」

「……」

 謝る遥を、クスリとシスターは微笑(わら)った。「妙なその服……異国から来たの?」

「……そんな感じです」

天主教(わたしたち)の信仰とは違うけど、神和(このくに)では戦争で死んだ人の魂は、みな殉國社に行くことになってるの。国に殉じた人の魂を祀る場所よ」

「ああ……」

 遥には、合点がいった。要するに日本で言う靖国神社だ。だが日本ではとっくに失われた戦死者を顕彰する精神が、この神和ではああいう形で未だ生きている……否、殉國党の振る舞いを見れば利用されているというべきだろうか? 不意にシスターの眼が遥の更に上に向かい、そこで彼女の瞳が細まった。


「でも……あの人の魂も殉國社(あそこ)に囚われてるとは、私にはどうしても思えない」

「あのひと……?」

 自然、遥の視線もシスターの方向に向き、そこで遥は眼を僅かに見開いた。声も出し掛けた――診療室の壁に架けられた写真を目にして。額縁に嵌められた白黒の世界で、ハッチを開け放たれた爾麒の操縦席に収まって笑う少女と、後ろから彼女を抱く朝霧 圭乃の笑顔……母の名を出す代わりに、思わず別の名前を口走る。


「爾麒……!」

「そう、爾麒よ」

 シスターは頷くように言った。少女は幼い時分の彼女で、縁あって「軍神」朝霧 圭乃と知り合い、爾麒の操縦席に導かれたのだと彼女は言った。「遊びで座らせてもらっただけよ」と、はにかむ様にシスターは微笑(わら)った。


「みんなは圭乃さんのことを『英雄』だの『軍神』だのと言うけど、わたしにはごく普通の、誰にも分け隔てなく優しいお姉さんにしか見えなかった……」

 爾麒は、この聖堂と忘ノ塚の街をも、蕃神から守ったのだともシスターは言った。文字通り八面六臂の活躍。銀天で聞いた少女の記憶と同じく、最果ての貧民街から住民が生き延びる途を、白刃を揮って切り拓いた爾麒。しかし――

「――あれ以来、蕃神は一掃されてしまったけど爾麒も圭乃さんも姿を消してしまった。圭乃さんにも生きるべき未来はあっただろうに……」

「母……いや圭乃軍神は死んでいない、と?」

「……死んだことにした方が、都合がいいって人たちが沢山いたのよ。わたしはそう思ってる」


 過去を噛み締める様にシスターは言った。子供たちが三人、息せき切って診療室に駆け込んできた。

「ここは診療室ですよ! そんなに汚れた体ではいけないわ!」

「シスター薫子大変だ。警察が聖堂の周りにいっぱいいるよ」

「まあ……!」

「殉國党かな……でも早くないか?」遥も、とうに肝が据わり始めている。子供のひとりが遥を指差したのはそのときだった。

「あっ! 警察が捜していたお兄ちゃんだ!」

「……!?」

 遥とシスターは顔を見合わせた。「お巡りさん、お兄ちゃんの写真持ってたよ」

 気が付けば、診療室に居合わせた医師と患者たちが此方の様子を伺っていた。それが遥を内心で焦らせた。「おれは何もしていない」と言いたくとも、今となっては殺人と窃盗以外に思い当ることは数多ある。


「あなた……名前は?」

 シスターが聞いた。潔白を訴える代わりに、遥は名乗った。

「遥……夏秋 遥」

「――っ!?」名前を告げた直後、シスターの貌から表情が消えた。目まぐるしく写真の圭乃と遥の貌を見比べる。それを続けるうち、シスターの瞳からやがて、涙の粒が滲み出すのを遥は間近に見た。

「そういえば似ている……あなた、夏秋 樹さんの息子さんですね……そして圭乃さんは貴方の……」

「……」

 答える代りに、遥は頷いた。滲む涙が、白皙の頬を零れて床に落ちた。不意に延びた白い手が遥の手を包み、そして胸が幼い弟に接したかのように抱く。

天主(でうす)様……奇跡をお示し下さり感謝します。貴方に巡り会った奇跡を――」

「でも……」


 現在(いま)が感動の出会いというシチュエーションではないことぐらい、遥の様な少年でも理解(わか)る。その内心を察したかのようにシスターが頷いた。

「貴方が此処に来たのは天主(でうす)様のお導きです。だから私は天主様の(しもべ)として貴方のことを守ります。だから安心して――」

 語を継ぎ、シスターは聞いた。「――でも、貴方は何故、帝都(ここ)に来たのですか?」

「連れて来られたんです。関原って男に」

「関原?……まさか関原 信雄少佐(・・)のこと?」

「今は大佐です」

 困惑――ここでも、あの男は自分に付いて回る。

「知ってるんですか?……あの男のこと」

「関原大佐は、わたしの亡き父 雅樂守(うたもり) 秋房(ときふさ) のかつての部下です。わたしの名は、雅樂守 薫子といいます」

 関原の名を語る薫子の口調には、名状しがたい複雑な感情の交差が見えた。




 帝都中央 宮衛特別区――


 帝都の治安を一手に与る帝都警察本部は、治安行政を管轄する内務省に隣接する形で建ち、構内に所在する通称「貴賓室」では、本部付幹部による報告が始まっている。


「……現在対象は銀天より逃走、周辺区域に潜伏しているものと思われます」

「銀天で確保したのではないのか?」

 報告を受ける「来賓」に代わる形で声を上げたのは、総軍憲兵隊の士官であった。職掌の重複故に競争関係にある警察と憲兵隊であるが、今次の捜査活動に於いては憲兵隊に主導権がある。それが報告を行う警察幹部には甚だ不本意であることは、隠し様が無い苦渋からもよく判る。だがこれは内務省も同意の上の事であって、その上に憲兵隊を動かす者と内務省の担当部局を与る者――これら両名が同じ家名に連なる者であれば、この際反駁など許されるものではなかった。


「それが……対象は銀天にて行軍中の幼年学校生徒と衝突し、生徒に怪我を負わせた模様でして……我々が急行したときにはもう……」

「幼年学校? まさか殉國党か?」

「はい……!」

 冷や汗を拭いつつ、スーツ姿の幹部は頷いた。丸眼鏡のレンズ越しに広がる視界の先、軍服姿の貴賓は安楽椅子に背から足までを預け、窓際に在ってつまらなそうに空を仰いでいる。朝方の晴天から一変した曇天、不穏なまでに分厚い雲が、帝都一帯に到達しつつある。窓から見下ろせる官庁街の往来に目を向けたまま、機導神軍団総監 朝霧 朱乃は言った。


「いやしくも軍学校の生徒多数で民間人の少年ひとりを、袋叩きはおろか捕えることすら叶わなかったのか?」

 口調に含まれた呆れと嫌みが、警察幹部よりもむしろ配下の憲兵士官を困惑させた。

「そのようです……なお顔面に負傷した生徒で御座いますが……」

幹部が数度言い掛けたところで口ごもった。「どうしたのだ?」と憲兵士官が詰め寄る様に迫る。

「負傷……いやお怪我をされたのはその……元老 閑清院 允望公の御子息、允且様でございまして……」

「なに!」

 絶句し、士官は窓際の朱乃を見遣った。報告された事実を一人で受け止めるには、彼の場合軍人としての職権も人間としての胆力の両方も及ばなかったのである。しかし軽い溜息が、彼の上司の唯一の反応であった。狼狽の色は微塵も見えなかった。期待した助け舟の充てが外れ、狼狽は結局彼ひとりが引き受けることとなった。

「そ……それで対象は何処へ行ったのだ?」と士官。

「未だ……定かならず」恐縮し、幹部は答えた。


「其処にいるというだけでくだらぬ騒ぎを巻き起こす……まさしく圭乃の子であるな」

「はっ?」

 憲兵士官が怪訝な顔をした。朱乃の呟きが聞こえなかったのである。

「……修道女と逃げたと聞いたが、近くに逃げ込むに手頃な天主教の(やしろ)でもあったかな?」

「銀天の近傍ですと、大きなものだけでもふたつ御座います」

「何処だ?」と憲兵士官。

「香炉町と……あと距離がありますが忘ノ塚です。何れの近辺でも管轄署員による聞き込みが続けられている筈です」

「憲兵隊を向かわせますか?」

憲兵士官が朱乃に聞いた。それを手で制し、朱乃は幹部を顧みる。

「警察本部には無理を言って助力を乞うている。確保までは貴公らに委ねるのが筋であろうな」

「ははっ……!」

幹部が低頭した。不服そうな表情を隠さず、憲兵士官が言った。

「それで閣下……閑清院公には何と……」

「それは兄上に任す」

 実兄にして朝霧侯爵家現当主 朝霧 舜亮の名を出し、朱乃は安楽椅子から長い脚を下ろし、腰を上げた。

「長居し過ぎたようだ……閑清院公の件、貴公らより内務副大臣(わが兄)にも伝えて頂ければ有り難い」

「承りまして御座います」

 幹部が再び低頭した。士官が恭しく朱乃の肩に外套を掛ける。出立が迫っていた。警察幹部に先導されて貴賓室を出た朱乃を、憲兵隊の連絡士官数名が待っていた。彼らの背後に控える高級士官に一瞬、怪訝の視線を送る。彼の胸を飾る金飾紐(モール)は、彼が総軍参謀本部の所属である証だ……開口一番、朱乃は憲兵士官に聞いた。


「関原 信雄はどうしている?」

「参謀本部にて残務整理中です。ご命令通り監視は継続しております」

「らしくないな。奴らしくない」

 朱乃は頭を振った。「あれはいずれ動き出す。監視を怠るな」意を受けた憲兵が退がり、参謀士官が進み出て敬礼した。

「閣下、総軍電波部からの至急電です」

 渡された紙片を一読した朱乃の無表情が、一瞬険しさを宿した。

「気象班は何と言っている?」

「現状では判断材料に乏しく、それ故に結論を保留している様です」


 傍らに控えていた副官を呼んだ。機導神軍団総監部宛に、政令市近傍に展開する機導神部隊の警戒待機令打電を命じた。命を受けた副官が警察幹部と共に通信室へ走り去るのを見届け、朱乃は廊下の窓、空を覆う雲の灰色を見上げた。事情を説明したところで、機導神の待機に関し大仰だと苦言する閣僚や老将もいるだろう。だが予期し得る彼らの非難を嘲笑うかの様に曇天は渦巻き、あるいは一方向に速度を増し流れ始めている。そこに遠雷も重なれば――


「夏秋 遥どころではなくなるか……」

 天を睨む。細くした瞳が、忌々しさを増して(きら)めいた。



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