表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/41

序章 「紫苑ノ墓」


 銀灰色の雲海に潜り、その下、漆黒の大地を睥睨して飛行船は水平に復した。


 昼間、地図通りであるなら、飛行船はその左右10里足らずの距離に峻険なる山岳帯を眺めている筈である。絶景の中に、岩肌に住まう犬鷲(いぬわし)の群れる様、或いは(かもしか)の走って昇り降りする様を眺めることも出来たかもしれぬ。低速かつ低空、船の姿勢すら量れぬ漆黒、そこに夜間、森林に起因する(もや)すら立ちこめているとあっては、双胴形の、決して頑健な構造とは言えぬ銀灰色の中型飛行船にとってそこは、あまりに危険な空路であった。


 通例では考えられぬ、双胴配置の中央に設けられた貨物収容区画が、特殊な任務に備えた船であることを地上から見上げる人々に思わせる筈であった。地図を頼りにした空路ではあったが、正規の空路に依らない飛行であった。この国土を四周に亘り取り巻く海、都市圏から離れた辺境を飛ぶに辺りそれは、限られた飛行船にのみ許された飛行でもあった。より具体的に言えば、大神和帝国を統御せる政府機関の所管せる船のことだ。


 決して公開されぬ使命の導くところ、飛行船は夜空を進む。決して公開されぬ使命――人はそれを「特務」と呼ぶ。飛行船は夜空を往く。帝国を守るために必要と判断された、あらゆる役割を負ってその特務を所掌する人々を乗せて――



「――信号を受信。方位0-1-7。返針願います」

 地上から発信された誘導電波を捉えた電測士が告げた。着陸予定地点に陸路で先行した仲間が電波発信機を据え、飛行船に降りるべき位置を報せている。航行に終わりが見えたとは言っても、船橋の男達の表情は戦慄に近い硬直に支配されていた。狭い船橋が、醸し出される空気としての緊張を濃くしていた。この国、大神和帝国本土は、その国土の七割を高低厳緩と多様な山地帯に占められている。凡そ百年前の「衛治維新」以来、国土の開発が進んでもなお未踏の地は多く、何が待ち構えているのかも判らない。そこが帝国本土の東北、陸嶺地方東羽山地の只中であるのならば尚更だ。


 高度を下げつつ飛行船が減速する。急な減速の結果として船体が烈しく震えた。昇降用推進器(プロペラ)のギアが切替る際に生じた衝撃であり、軋みであった。下がる一方の高度計の数値、それを読み上げる船員の声も病人のそれの様に上擦(うわず)っている。伝声管伝いに見張り員の声が、狭い船橋に響く。


「前方に光! 灯りだ! 灯りが見える!……誘導灯です!」

「…………」

 離陸からこの方、五時間近くを船橋の片隅に陣取って動かなかった軍服の気配が、顔を上げた。

 目深に被った軍帽と分厚く巻かれたマフラーの隙間、目覚めた様に丸く見開かれた三白眼が、航路の終わりを告げた。



「お待ちしておりました。大佐」

 随員を背後に連れ、飛行船のタラップを降りた陸軍大佐 関原 信雄を敬礼で迎えた長身を、関原は感情の死んだ眼でまじまじと見つめた。眼光が死んでいるのは性別と年代、社会的地位の高低を問わず、彼と正対する人々が一致して彼に対して抱く印象であった。幽霊のそれを思わせる、階級章は大尉、長身の、大神和帝国総軍の制式軍服冬季常装は分厚い生地を有していたが、それでも左右に膨らんだ胸と括れた腰、そこから士官軍靴の先端まで長く延びる脚線美を隠し通すことはできていない。その様な部下の外観に生気の無い答礼で応じ、関原は次には部下を置いていく様に歩を速めた。長身の凛とした女性の声が、急ぐ軍靴の響きとともに彼の背中を追って来た。


「適切な着陸地点を確保できず、申し訳ありません」

「このような着陸、北州ではよくあったことだ。陸路での進出ご苦労だった」

 老けた外見と凶相を思わせる三白眼に似合わない。若い男の声の響きであった。着陸誘導様に周囲に配されたランプの回収と消火が速やかに始まっていた。一旦追い払われた闇が、再び呼びこまれようとしている一帯で、後に残る光は飛行船の船内から漏れる光と、周囲に展開する兵士の、時折瞬かせる懐中電灯のみでしかない――それらの光から、着陸地点が飛行船に着陸に不適当な、あまりに狭きに過ぎる空間であることを関原は察した……と同時に寒気が背筋を走り、獣の遠吠えが響くのさえ聞こえてきた。飛行船から闇に一歩を下ろした兵士たちが装具と銃器を触れ合わせつつ走り、二人を抜き去って闇へと散った。冷たい風が一度、二人の周りを廻った。


爾麒(ミツルギ)は未だ発見できないか?」

「……おそらく、在ると思われる場所は抑えております」

「…………?」

 妙な言い方をする、と……関原は傍らの軍服を顧みた。軍服を着た女性、優美な長身の中にも鍛えられた体幹の存在がはっきりと見える。雪の様に白い美形。切れ長の眼に宿した黒く冷たい光が、彼女が今日此処に立つまでに数多くの修羅場を見、生きてきたことを察せられた。ただし上司たる関原にはわかりきったことだ。その後に生じた沈黙に背を押される様に、ふたりは軍靴を響かせて歩いた。


「今日回収できればいいのだが……」

 関原がぽつりと言い、女性は表情をやや怒らせた。日頃感情を表に出さない筈の彼女からして、今後の展開に焦りを覚えていることを察し、関原は後悔した。指揮官が言うべき言葉では無かったと彼は思った。13年に亘り所在不明であった「爾麒(ミツルギ)」の影を追い求めているのは関原たち総軍特務機関だけではない。つまりは――同じ神和人である筈なのに――競合者との衝突すら覚悟しなければならない。「爾麒」の早期発見と回収は、それを避ける意味で組織の至上命題であった。歩を進めるふたりの向かう先で懐中電灯の光が揺れて走り寄る。武装した下士官がひとり、背を糺して敬礼した。年季を重ねた熟練兵の顔には、余裕が見えない。


「ありました! 爾麒です!」

案内(あない)せよ」と、目配せで関原は指示した。下士官に先導させ、冷気の漂う山間の道に入る。車を入れられる程に広いが、獣道という印象の方が先に立つくらいに足許が悪い。何時しか周囲から集まって来た兵士がふたりを囲み、同じ処を目指し始める。歩きにくさから乱れる息が白い、その白が闇夜の各所から生まれている。


 途が狭くなり、頭上を木々が遮り始めた。鬱蒼と拡がる森の壁に、満点の星空が塞がれるのに時間は掛からなかった。獣の気配に怯えた兵が、外に銃を構える気配もまた感じられた。異様に太く、堅い樹を前にして、関原の足が一時止まった。佇まいが尋常ではなく旧い。時の流れが、明らかに止まっていた。その道に小一時間、時を刻んで過ごす。


「……いい霊木だな。未だこのような場所があったのか」

 それだけを言い、関原は古木を見上げた。暫くを霊木との対峙に費やし、そして意を決したように歩きだした。森の深奥、霊木の間を人間のものではない光が漂う。疎らに降り注ぐ霊木の胞子の放つ光、それに引き寄せられる霊木蛍の乱舞――終点が近いと、関原には思われた。浮遊する光の群に冷たい樹木の匂い、そこに名状しがたい匂いが重なる。古めかしい、重い匂いだと思った……そう、匂いが重いのだ。


「この匂いは何だ?」

「紫苑です」

 即答した女に、感銘を抱いた表情を関原は見せなかった。軽く頷きさらに歩を進めた……森が啓け、最初に花畑が広がった。星明りの下で広がる淡い紫の花、それら紫苑が眩しくて、関原の三白眼が細まった。さらに眼差しを上げ、その先に広がる断崖の一点を見出したとき、関原は走りだした。警戒のために花畑に散っていた兵士たちが、何事かと彼らの指揮官を一斉に顧みる。

 断崖の一点、不自然に多い数の兵士に照らし出された先に向かい、母を見出した迷い子の様に大佐の階級を持つ男は駆け寄った。頭を左右に揺らしながら走る、ぎこちない走り。断崖の半ばまでに広がる紫苑に、周囲を守られる様にして背を預ける巨体を前に、関原の疾走は止まった。花畑を見る様に脱力した巨体は草花に侵食され、それが「生きて」いた頃の純白を年季相当に褪せさせてはいた。だがそれも今夜で終わるだろう……そうだ。終わらせるのだ。


「これが……爾麒」女が、声を震わせた。

「降りろ! 軍神に無礼であろうが!」

 関原が滅多に見せない感情の爆発は、そのまま命令となった。任務への義務感か、あるいは興味本位で機体に上がっていた兵士たちがおっかなびっくりに飛び降りて四方に散った。灯りを消す様に関原は命じた。その後には静寂が訪れた。乗り手のいない機導神、眼に光を喪った端正な顔を見上げるのと同時に、三白眼に涙が滲んだ。むしろ滲むからこそ、星明りの下で白が映える。あの白い機導神、その乗り手と共に過ごした過去の情景もまた、脳裏に廻る。出逢いの記憶、戦の記憶……そして別離の記憶――万感の重みに耐えかね、関原は微かに声を震わせた。


「お迎えに上がりました。圭乃(よしの)どの」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ