第8話
一瞬、花の妖精でも現れたのかと思った。その少女は、数多の美辞麗句でさえ色褪せる、形容しがたい異彩を放っていた。それが、記憶の中のサナ・サーラと繋がるには、些か時間を要することとなった。
何年ぶりだろうか、マリスタは従姉のサナ・サーラと再会した。
本当に綺麗になった。心の中では何度も繰り返した。
凛と張り詰めた空気を纏うサナ・サーラに、マリスタは感嘆を禁じ得なかった。
しばらく見ない間に、サナ・サーラはすっかり大人になってしまったようだ。それでも、マリスタを見たサナ・サーラは真っ先に、お久しぶりね、と言ってくれた。ちゃんと、覚えていてくれたのだ。
学業が忙しくて、コンルー卿の葬儀には出席できなかった。それが却って良かったのかも知れない。落ち込んでいるサナ・サーラに、掛ける言葉なんか思い付かなかった。
首府で暮らしているはずのサナ・サーラが、たったひとりの従者を伴って不意に現れた理由を、マリスタは訊けなかった。訊けば、もしかしたらコンルー卿の死についても蒸し返すことになるかも知れないからだ。何か、よほどの事情があるのだろう。
しかし、それ以上に、マリスタには気になることがあった。
サナ・サーラが、美しい髪を切ってしまったのだ。それによってサナ・サーラの魅力が損なわれるわけではないが、マリスタなどは勿体ないという気がしてくる。
女の子の考えていることは本当に分からない。何が不満で、自慢の髪を切らなければならないのか。しかも、マリスタのお古を着せられて、まるで男の子のような姿になっている。
そんなサナ・サーラを見て、マリスタは、ひとつの恋が終わったかのような気分に襲われた。
花の妖精とは、実に短い付き合いだった。
なんとなく、遠い目をしてみた。したことはないが、失恋したときには、そうしてみようと思った。
別にいいのだ。サナ・サーラが恋の相手になってくれるわけではないし、マリスタにもそのつもりはなかった。
ただ、久しぶりに再開した少女が、あまりにも美しく成長していたから、ちょっと戸惑ってしまった。最初から男っぽい姿で現れてくれたら、接し方も違っていただろう。
いや、今からでも遅くはない。また、サナ・サーラとは仲良くできるはずだ。
取り敢えず、サナ・サーラを街に連れ出すことにした。二人で並んで歩くと、背中に張り付くような感じで長身の男が付いてくる。サナ・サーラの従者だというエルサローサだ。
最初から、おかしな雰囲気を持った奴だとは思っていた。普通の従者とは何かが違う。しかし、サナ・サーラには従順だ。単に、頭が弱いだけなのかも知れない。そんなエルサローサを憐れんで、サナ・サーラは従者にしたのだろうか。
マリスタがサナ・サーラに抱き付いたりすると、異常な反応を示す。エルサローサにとってサナ・サーラは、聖域のようなものなのだろう。何か、損得ではない部分で動いているように見える。
それにしても、だ。エルサローサという奴は、記憶力も悪いらしい。先程、いがみ合ったばかりだというのに、屋敷を出ると、もう豹変していた。
「マリスタ殿、あれはなんだ?」
「噴水だよ。見たことないのか?」
「マリスタ殿、あれはなんだ?」
「大道芸だ。芸を披露することで、観客からお金を貰う」
「マリスタ殿、あれはなんだ?」
「ただの看板だ。商売の内容が分かるようになっている」
こんな調子で、エルサローサは行く先々で物を訊いてくる。本当はサナ・サーラを楽しませようと思ったのに、誰よりも楽しんでいるのは、頭の悪い従者だ。
それを見て、サナ・サーラも笑っていた。エルサローサが楽しそうにしていることは、サナ・サーラにとっても楽しいことのようだった。
なら、いいか。
「マリスタ殿、あれはなんだ?」
「ただの喧嘩。いや、あれは死人が出るかも」
見れば、数人の男たちが殴り合っている。どうせ、つまらない理由で始めた喧嘩だろう。世の中には、つまらない争いが多すぎる。
ひとりで街を散策していても、諍いを見ることは珍しくなかった。表通りは賑わっていても、ちょっと裏へ回れば物騒な街だ。
だからマリスタは、出歩くときには常に佩剣することにしていた。
そう言えば、エルサローサは剣を持っていない。サナ・サーラを守る従者なのに、丸腰だ。体術でも使うのだろうか。身のこなしは、ただ者ではないと感じるが。
「サナ、行こう。関わらないほうがいい」
サナ・サーラを促し、マリスタは歩き出した。しかし、サナ・サーラは動き出さない。マリスタは立ち止まって、振り返った。事の成り行きを心配そうに見つめているサナ・サーラの横顔があった。エルサローサも、サナ・サーラに従っている。
マリスタは大袈裟な身振りで、呆れていることを示したが、サナ・サーラの目には入っていないようだった。
「エルサローサ、あれを止められますか? なるべく怪我人を出さないように」
サナ・サーラが言った。面倒な争いに巻き込まれないようにする、という考えは持ち合わせていないようだ。
いくらなんでも、お人好しだろう、サナ。マリスタは心の中で呟いた。
他人の不幸までも背負って生きるつもりなのか。そんなふうに何もかも背負っていたら、身が保たない。
「身が保たないよ、サナ」
風で掻き消され、サナ・サーラの耳には届かなかったようだ。
「あれくらい弱そうな連中なら、問題ない。一瞬で終わるから、待ってな、サナ」
言うと、エルサローサは跳び上がった。軽く地面を蹴っただけだったように見えたが、人の頭上を遙かに越え、なんとも軽やかに舞い降りた。喧嘩の真っ直中に。
何が起こったのか、マリスタには分からなかった。両手を左右に突き出した格好のエルサローサだけが立っている。その周りには、男たちが倒れていた。
速すぎて、本当に何も見えなかった。
エルサローサが振り向いた。
「これでいいか?」
「上出来です」
歩み寄ったサナ・サーラが最初にしたことは、エルサローサの頭を撫でることだった。そして、サナ・サーラは倒れている男の前で膝を折った。手荒な真似をしたことについて謝った上で、何があったのかを訊いている様子だ。
男たちも、わけが分からなかっただろう。自分たちの身に何が起こったのか理解できないから、怒りようがないのだ。ましてや、サナ・サーラの心配顔を間近で見せられたら、怒りも吹き飛ぶというものだ。
マリスタは、その一部始終を遠くから眺めていることしか出来なかった。それが少し悔しくもあった。
「小さいな、俺は」
その呟きが風に掻き消されることを望んだ。
せめて、立派な騎士になろう。素手でも戦えるくらい強くなって、自分ひとりでも喧嘩の仲裁に入れるようになろう。
言えば、馬鹿にされるかも知れない小さな目標だが、マリスタは初めて、具体的な目標が見えたような気がした。