第7話
グリール卿は父の弟に当たる。サナ・サーラから見れば、叔父だ。そのグリール卿を訪ね、サナ・サーラはガルナーデンまでやって来たのだった。
全く知らない仲でもない。父の葬儀でも顔は合わせている。その折には、援助を惜しまない、とも言ってくれた。ただ、息子のマリスタとサナ・サーラを結婚させたいという意向を覗かせていたので、それについてだけは、いい顔が出来なかった。
結婚など、今のサナ・サーラには考えられないことだった。
別に、マリスタに不満があるというわけではない。知らない男と結婚させられるくらいなら、マリスタで手を打ってもいい、という気持ちはある。ただ、結婚というものに対する現実感が今はまだ持てないのだ。
最近は、父の死について考えることが多かった。カルヴァーラス家の当主として、今後のことも考えていかなければならない。そして、父の死に関与していると思われる、ファーラン卿の動向が気懸かりだった。
屋敷を襲撃した男たちは、恐らくファーラン卿の手の者だろう。そこまで強硬な手段に訴えるほど、サナ・サーラが目障りなのだ。ならば、一度や二度の失敗で諦めるとは思えない。いずれ居場所を突き止め、再び身柄を拘束しようとするかも知れない。
その辺りのことを、グリール卿にも話してみた。グリール卿にも類火が及ぶようなことになったら、申し訳ないでは済まされない。
すると、グリール卿には笑い飛ばされた。そういう心配は大人がするものだ、と言われた。
父が死んでから、サナ・サーラは大人として振る舞わなければならなかった。葬儀の手配も、サナ・サーラがやったのだ。カルヴァーラス家の当主として、最初の仕事だと思った。周りも、サナ・サーラを大人だと認めていた。母は、泣いてばかりだった。だから、母を慰める役目もサナ・サーラにはあった。
総てが、両肩にのし掛かってきたような気分になった。大人とは、こういうものだと思った。重たい物を背負って、生きていかなければならないのだと思った。あらゆる決断を、自分ひとりで下さなければならないのだと思った。
それなのに、グリール卿は、ひとことで何もかも打ち消してしまったのだ。
サナ・サーラは唖然とした。しかし、じんわりと心の中で広がっていくものを感じていると、不思議と悪い気はしなかった。
グリール卿の前では大人のように振る舞わなくてもいいのかも知れない。そう思うと、気が楽になった。
顔は、父と少し似ている。精悍で、黙っていると厳めしい印象を受けるが、笑うと大らかな印象に変わった。
声は、もっと似ている。グリール卿と話していると、父を思い出してしまう。遠くで呼ばれたら、父に呼ばれたものだと思ってしまうほどだ。
その息子マリスタはと言うと、何処か頼りない。年は、サナ・サーラと変わらないはずだった。しかし、子供っぽく見える。弟がいたら、こんな感じなのだろうか、と思う。
まだ幼かった頃には一緒に遊んだこともあった。その頃の印象が強く残っていて、ちっとも成長していないように感じられてしまうのだ。
外見だけならば、変わった。サナ・サーラより背が高くなった。それでも、エルサローサよりは随分と低い。
「なあ、ガルナーデンは久しぶりだろ? 俺が案内してやろうか?」
屋敷の庭を散歩していたら、マリスタが話し掛けてきた。
喋り方は子供の頃のままだ、と思った。
エルサローサは、落ち着いた表情を見せている。時折、この虫は不味そうだな、と妙なことを口走る程度だ。昨夜は様子が違っていて、どうしたものかと思ったが、環境の変化に戸惑っていたのかも知れない。
「そうね、でも、その前にやっておきたいことがあるの」
ガルナーデンに着いたときから考えていたことだ。
サナ・サーラの頭には、常に追っ手のことがあった。いつも、何処かで見張られているような気がして、落ち着かなかった。たぶん、気のせいだ。まだ、追い付かれていないはずだ。そう思おうとしても、不安は拭い去れなかった。だから、やれることをやる。サナ・サーラは、追っ手の目を眩ませるために、姿を変えることにした。
髪を切り、男物の服を着る。それだけでも印象は変わるだろう。
もしかしたら思い過ごしかも知れないし、姿を変えても意味がないかも知れない。それでも、少しばかりの安心感は得られるはずだ。ガルナーデンに着くまで、ずっと人の目を気にしてきたから、疲れてしまったのだ。
髪は、屋敷に出入りしている理髪師に切って貰った。服は、マリスタが着ていたお古を貰った。マリスタの下に弟がいるわけではないので、お古は総てサナ・サーラの物、ということになった。グリール卿などは、むしろ喜んでくれた。ただ、髪を切るときだけは、思い直すよう、しつこいくらい何度も言われた。勿論、サナ・サーラは取り合わなかった。
いざ男装してみて気付いたことは、胸が小さくて良かった、という身も蓋もない事実だった。これでも、少しは気にしていたのだ、幾らか発育の悪い胸のことを。女として、魅力に欠けるような気がしていたから。
しかし、髪を切ると、そんなことすら割り切れた自分がいた。
頭が軽くなって、身も心も軽くなったような気がした。不思議だった。そんなことで気持ちまでも変わってしまうものなのだろうか。
髪を切り、男物の服を着たサナ・サーラを見ても、エルサローサは何も言わなかった。そういうことには興味がない様子だった。鈍感なのか、大らかなのか、よく分からない部分がある。
逆に、マリスタは妙に馴れ馴れしくなった。
「これで、男同士で遊べるよなあ、サナ」
後ろから、抱き付いてきた。犬が、じゃれつくような感じがした。
それを見咎めたのはエルサローサだった。
「離れろ、おまえ。サナに気安く触るな」
本気で、怒っているようだった。
最初のうち、エルサローサはマリスタを完全に無視していた。まるで眼中にない、という様子で、石ころでも見ているような感じさえした。しかし、サナ・サーラが絡むと話は別なようだった。
「この俺に向かって、おまえ呼ばわりとは、何様のつもりだ? 従者の分際でサナだと? サナ様と言え。俺のことはマリスタ殿だ」
「うるさい。サナから離れろ」
「俺に命令するな。父がおまえも客人として遇するから、俺も認めた。だが、礼節を弁えないなら、この屋敷に置くわけにはいかん。たとえサナの意向であっても、だ。俺は、最低限のことしか言っていない」
こういうときのマリスタは、エルサローサより遥かに大人だった。殺気立つエルサローサに臆している様子もない。無鉄砲なだけなのかも知れないが、肝は据わっているようだった。
サナ・サーラは、少し力の抜けたマリスタの腕から、するりと逃れた。
「エルサローサ、あなたが退きなさい。ここでは、私の従者として振る舞わなければなりません。マリスタの言うことも聞いてください。間違っても、マリスタに暴力を振るってはなりません。分かってくれますか、エルサローサ」
「分からん」
まるで、駄々っ子の物言いだった。ふてくされていることが見て取れる。
「マリスタは私の大切な従弟です。私たちがお世話になっている方の御子息でもあるのですよ? 私が大切にしている人を、エルサローサは大切に扱えないのですか?」
「そんなこと言ったって、そいつ」
珍しく、エルサローサが口ごもった。その理由も、なんとなくだが察せられた。
「マリスタ殿、です。私のことはサナで構いません。でも、この家の人たちに対しては、乱暴な言葉遣いをしてはいけません。それが出来ないなら、一緒に寝ることは出来ません」
「嫌だ。サナと一緒がいい」
「なら、マリスタ殿とグリール卿、この二人だけでも名前を覚えて、敬称で呼べるようにしてください」
「マリスタ殿、グリール卿、マリスタ殿、グリール卿。これでいいか?」
「上出来です」
サナ・サーラは手を伸ばし、エルサローサの頭を撫でた。何やら、犬を躾ているような気分になったが、エルサローサは喜んでいるようなので、深くは考えないことにした。
隣では、マリスタが珍妙なものでも見ているような顔をしている。日差しが暖かな午後だった。