第4話
森の外れに一軒の民家があった。外観は山小屋に毛が生えた程度だが、煙突があるところを見ると、暖炉の備えもあるのだろう。
灯りが、見える。
エルサローサの脚力が尋常ではなく、しかも滅茶苦茶に走ってくれたために、現在地が分からない。すぐに民家を発見できたことは、サナ・サーラにとって有り難いことだった。野宿を厭わないエルサローサとは、育ちが違うのだ。いくらエルサローサが側にいるからと言っても、森で一夜を過ごす気にはなれなかった。
それに、サナ・サーラの装いは野宿をするには薄手すぎる。何の準備もせず屋敷を飛び出すことになったので、外套を羽織ることが出来なかった。
夏の終わりとは言え、夜は少し肌寒い。仄かな灯りはサナ・サーラに安堵感をもたらした。
「人前では、あなたは私の従者ということにします。こちらの素性は伏せておきたいので、怪しまれるような言動は出来るだけ避けてください。私を呼ぶときは、『お嬢様』か『サナ様』と呼んでください」
「それ、何ごっこだ?」
何故か、エルサローサは目を輝かせている。まるっきり子供だ。状況を把握していない。
サナ・サーラは小さく溜息を漏らした。
エルサローサを精神的な拠り所とするには少し無理があるような気がした。
「主従ごっこです。私が主で、エルサローサは従者。出来ますか?」
「出来るさ。簡単だ」
「では、今、この瞬間から、あなたは従者です。それらしく振る舞ってみてください」
サナ・サーラが足を止めると、エルサローサも足を止めた。互いに向き合う。
エルサローサの反応を待ち、サナ・サーラは微かに笑みを浮かべた。
期待はしていない。エルサローサの中身は子供なのだ。十六歳のサナ・サーラよりも遥かに。
無邪気、とも思えたエルサローサの表情が変わった。不意に、顔を近付けてくる。
「お嬢様、お茶をお入れしましょうか?」
それまでのエルサローサからは想像できないほどの、典雅な物腰だった。
逆に、サナ・サーラのほうは仰け反った。胸が、高鳴る。
月の魔物だ。ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
「あなた、何処でそんな言葉を」
「こんな風景を、見たような気がする、昔。よく覚えてないな。これじゃだめか?」
「いいえ、それで行きましょう。よろしくね、従者さん」
「おう、じゃなくて、はい、お嬢様」
エルサローサが慇懃に頭を下げた。洗練されている、と言ってもいい物腰だった。
その気になったときだけ、エルサローサは「ちゃんと出来る」のだろうか。不思議な魔物だ。そして、魅せられる。
きっと、月明かりが黒い魔物を魅力的に仕立て上げているのだ。そう思うことにした。
サナ・サーラはエルサローサを後ろに従える形で民家の戸を叩いた。
程なくして戸が開かれ、髭を蓄えた厳つい男が姿を現した。奥にも、人の姿が見える。
「こんな夜更けに何か用かね、お嬢さん」
「ガルナーデンへ向かう途中だったのですが、日が暮れ、森で迷ってしまいました。一晩、泊めていただくわけにはいかないでしょうか?」
男が値踏みするような眼差しを向けてくる。突然の来訪者に訝っているのだろう。
軽装で、旅をしているようには見えない言い訳も、付け加える必要を感じた。
「馬車が崖から落ちてしまい、荷を失ってしまったのです。ですから、手持ちもありませんが……」
我ながら嘘が上手だと思った。これなら、従者と二人きりで森を彷徨っていた理由になるし、宿泊費を要求されることもないだろう。
金目の物と言えば、碧玉で彩られた指環くらいか。小さな耳飾りでも宿代くらいにはなるだろう。
奥から声がした。
「まあ、いいじゃないか、上がってもらえよ、ダーラム。今から町まで歩かせるのは気の毒ってもんだろう」
隙間から奥を覗くと、こざっぱりとした青年が柔らかな表情でこちらを見ていた。彼のほうは髭を蓄えていない。幾らか若そうでもある。
おかしな取り合わせだとサナ・サーラは思った。もしかすると、良くない場所に踏み込んだのかも知れない。例えば老夫婦が暮らしていたなら、サナ・サーラも警戒心を抱いたりはしなかっただろう。
「その格好じゃ冷えるだろう、上がりな」
ダーラムと呼ばれた男が、手招きをした。
山小屋として使っていただけなのか、あまり生活感の感じられない空間だった。
言葉を交わした二人の他に、男がひとり寝ていた。病気なのだろうか、静かな寝息ではなく、苦悶の表情も見て取れる。
暖炉には、火が熾してあった。
「私はサナ・サーラ。こちらは従者のエルサローサです」
「俺はアシュド。そっちの怖い顔をしたオッサンがダーラムだ」
アシュドと名乗った青年が、笑みを浮かべた。警戒心を溶かしてしまう、人懐っこい笑みだった。
「一晩、御厄介になります」
言って、サナ・サーラはエルサローサを見遣る。
無口な従者を演じてくれているのだろうか、あまりに無反応で、何を考えているか分からない。
「御覧のとおりの何もない家だ。振る舞えるとしたら、水と、酒と、暖くらいだ。眠りたければ、隅っこのほうで勝手に寝てくれ。布団などという上等なものはないが、俺の上着くらいだったら貸してもいい」
このアシュドという男は、親切ではあっても、必要以上の世話は焼かないようだ。
使用人に傅かれ、蝶よ花よと育てられたサナ・サーラにとっては、拍子抜けとさえ思える対応だった。しかし、こういうものかも知れない。自分が、今まで恵まれすぎていただけなのだ。
人の親切を当てにしてはいけない。そう思うことにした。
「血の匂いがする」
エルサローサが耳許で囁いた。他の二人には聞き取れないほどの声だったと思う。
そして、サナ・サーラも気付いた。エルサローサが警戒を解いていなかったことに。
エルサローサは、サナ・サーラが思っている以上に用心深い性格なのかも知れない。それとも、本能的に何かを感じ取っているのだろうか。
サナ・サーラは、寝かされている男を見遣った。
「失礼ですが、あの方は御病気なのでしょうか?」
病気ではなく、怪我をしているのではないかと思った。もし、怪我だとすれば、起き上がれないほどの大怪我なのかも知れない。
「気にしないでくれ。昨日、怪我をしたんだ」
アシュドの顔が、少し曇ったように見えた。
何か、違和感があるように思えた。
「お医者様には見せたのでしょうか?」
この問いに対して、アシュドは薄い笑みを浮かべた。
その笑みが否定している。医者に見せたか否かではなく、問い、そのものを。
「お嬢さん、余計なことに首を突っ込まなくていい」
ダーラムが、横から口を挟んだ。
確かに、その通りだと思った。
今のサナ・サーラは、しつこく詮索されたら少し困ることになる。だったら、余計なことには首を突っ込まないことだ。
「ごめんなさい。でも」
サナ・サーラは、何かをしたい、という気持ちになった。
出来ることなら、ある。サナ・サーラは魔術師だ。癒し手として多くの命を救ってきた父の跡を、ゆくゆくは自分が継ぐのだろう、と考えていた。
我ら魔術師は万人のしもべでなければならない、という父の言葉が思い出された。癒しの魔術以外は使おうとしない父だった。そんな父を、サナ・サーラは誇らしく思う。
親の生き様を見て、誇らしく思えることは、きっと素晴らしいことなのだ。だから、サナ・サーラも、父のように生きたかった。
たとえ苦境に立たされたとしても、魔術の使い道を誤らないような、そんな生き方をしたかった。
それが、今ではないのか?
「私に、あの方を診させてください。少しくらいの怪我なら、治せるかも知れません」
「サナ・サーラ、と言ったな。あんた、何者だ?」
アシュドの顔が真剣な色を帯びた。ダーラムのほうは訝っている様子だ。
「私は魔術師です。まだ半人前ですが」
「魔術のことはよく知らないが、あんたのような若い娘が習得できるようなものなのか? 魔術師を名乗る人間の多くは偽物だ、と俺は思っている。そう簡単に怪我が治るものなら、医者なんて商売は成り立たない。魔術が失敗して、治りませんでした、と言われても、俺には分からん。そして俺は、魔術で怪我が治ったところを見たことがない」
アシュドの言い分は尤もだ。確かに、今のサナ・サーラには説得力がない。
自らの素性を伏せたまま、人の信頼を得ようとすることが、そもそも間違っているのかも知れない。しかし、今のサナ・サーラには、素性を明かす勇気までは持てなかった。ファーラン卿が差し向けてくるかも知れない追っ手の影が、どうしても気になるのだ。
こんなときでも保身を優先してしまう自分が、つまらない人間に思えた。父とは比べ物にならない、矮小な存在だ。
「そのうち腐るな、あの男」
寡黙な従者を演じていたはずのエルサローサが、男たちにも聞こえる声で、言った。
「なんだと?」
ダーラムの目つきが変わる。
「俺は鼻が利くんでな、匂いで分かる。放っておくと、長くは保たないぞ」
突き放したような物言いだが、サナ・サーラには助け船に思えた。エルサローサには、サナ・サーラの複雑な心境が伝わっているのかも知れない。そうであって欲しいという思いもあった。
アシュドとダーラムが顔を見合わせ、頷く。沈黙は、短かった。
「いいだろう、完全に信用したわけじゃないが、あんたに委ねてみる。期待は、そう、半分くらいだ」
「やってみます」
サナ・サーラは、まず男の容態を診ることにした。
自分の手に負えない怪我ではないことを、祈った。
血が滲む包帯を取り除くと、左の肩口から鳩尾にまで及ぶ、刃物の傷が姿を現した。
間違いない。斬られたのだ。
父の手伝いもして、怪我人を見ることは慣れている。骨が露出するような酷い怪我であっても、サナ・サーラは目を逸らさずに手当てできる。しかし、その怪我を治せるかどうかは別だ。
それでも、やるしかなかった。
「綺麗な水を用意してください。新鮮な、水を」
「瓶の水じゃだめか?」
言われて、瓶を覗いてみた。
サナ・サーラは、首を横に振った。
癒しの魔術を使うためには、生きた水が必要になる。新鮮であるほど、癒しの効果は高い。
瓶の水は、綺麗だが、汲んでから時間が経っているようだ。だいぶ生気が薄れている。
「これと同じ水で構わないので、今すぐ汲んできてください」
「おいおい、こんな夜中に山ん中を歩けって言うのか?」
すかさず、ダーラムが異を唱えた。呆れたような表情で、身振りも大袈裟だ。
「時間がありません、今すぐ、お願いします。もし、難しいのなら、エルサローサを案内してください。危険な場所には、エルサローサが行きます」
サナ・サーラには、エルサローサなら大丈夫だろう、という確信めいたものがあった。会って間もない魔物を、何故だか信頼することが出来た。
「分からないな。あんたは従者を危険な目に遭わせて平気なのか?」
「俺に危険なんか、ない」
アシュドの問いには、エルサローサが答えた。
「いいから、俺を案内しろ。いや、方角と距離さえ教えてくれたら、俺の鼻が嗅ぎ当てる。ただし、その間、サナお嬢様に何かあったら、おまえたちを皆殺しにする。俺の鼻から逃げることは不可能だと思え」
「エルサローサ」
サナ・サーラは目でエルサローサを制した。
本物の従者なら、それくらいの発言をするかも知れない。しかし、救おうとしている人間を“皆殺し”とは、本末転倒だ。
エルサローサは簡単に人を殺そうとする。そして、サナ・サーラが止めなければ、簡単に殺してしまうだろう。特定の人間に対しては忠実でも、それ以外には優しくない、そういう魔物だ。
サナ・サーラが注文した水は、誰もが驚くような早さで、もたらされた。サナ・サーラ自身も、エルサローサの脚力を理解していなかった。速い、とは思っていたが、やはり尋常ではない。何か、特別な力を行使しているのだろう。
アシュドとダーラムの驚きようも、また尋常ではなかった。
「期待しても、いいか?」
「出来る限りのことは、します」
エルサローサが戻ってくるまでに、男の身体を洗っておくことは出来た。傷の周辺は念入りに洗った。
汲んできたばかりの水を平たい器に移し替えれば、準備は調う。
サナ・サーラは水に触れてみた。生気に満ち溢れた水だ。
これなら使える。そう思った。
父ならば、大気からでも生気を集めることは可能だろう。しかし、未熟なサナ・サーラは、新鮮な水に頼らなければならない。まだ、充分な魔力を錬れないからだ。
サナ・サーラは右手を水に浸した。力強い波動が伝わってくる。生きる力、そのものだ。
濡れた手を、傷口に当てた。生気を、流し込む。こうして、傷を塞ぐと共に、人間の持つ生きる力を引き出してやるのだ。
生きようとする思いが、病も怪我も治すことになる。魔術師は、その手伝いをするだけだ。決して万能ではない。万能ではないことを、思い知らされた。
父の手伝いをしていると、人に死に立ち会うこともある。魔術では救えない病や怪我も、確かにあるのだ。
サナ・サーラは、まだ苦しんでいる男に、水を飲ませた。綺麗な水には浄化作用がある。身体の中を洗い流してくれるのだ。
また手を濡らし、片方は傷口に、片方は額に当てた。傷口も、額も、熱を持っている。熱が下がれば、容態も落ち着くだろう。
「いつまで続くんだ?」
アシュドが、背後から声を掛けてきた。
「分かりません。朝まで掛かるかも知れませんから、お二方はお休みください。私は未熟で、時間が掛かってしまうのです」
サナ・サーラは唇を噛んだ。父のように出来ないことが悔しかった。
「いや、邪魔でなければ起きていよう」
誰も眠らなかった。
アシュドとダーラムは、小声で語り合っている。どうやら、昔の話に花を咲かせているようだ。
エルサローサは何も喋らなかった。
サナ・サーラの看病は明け方まで続いた。
いつの間にか、男の寝息が静かなものへと変わっていた。熱も、下がっていた。
魔術が成功したのだとサナ・サーラは思った。
その安堵感がサナ・サーラの意識を遠ざけた。