第3話
駆けることは心地よかった。
久しぶりの大地と、風だ。
疲れ果てるまで走り続けたい気分だった。
外は、最高だ。
さっきまで、人間どもを殺したくて仕方なかったが、もう、どうでも良くなった。
月光が降り注ぐ仄明るい大地を、蹴る。これが最高なのだ。
あまりに気持ちよくて、少女を抱きかかえていることすら忘れかけていた。
エルサローサは、何処を目指すわけでもなく走り続けた。何処を、どう走ったのかも覚えていない。さすがに疲れを感じるようになって、速度を落とした。それから少し走って、立ち止まった。
「もう、降ろしてくださいませんか? 追っ手は来ないようです」
言われるままに、少女を降ろした。
透き通るような金色の髪が月明かりを受けて輝いている。
綺麗だと思った。
エルサローサには、人間たちが言うところの「美人」が判断できない。自分が美しいと感じるものとは何やら食い違っているようなのだ。
エルサローサが美しいと感じるもの、それは、我が子を抱いて微笑む母親であったり、死を賭して立ち向かってくる強者であったりもする。何か明確な基準があるわけではない。美しいという言葉が適切なら、エルサローサは「瞬間」にそれを感じるのだ。
エルサローサが男たちを殺そうと考えたとき、それを遮った少女は、紛れもなく美しかった。だから、少女の願いを聞き入れた。
「俺は役に立ったか?」
「それはもう。あの方たちを殺さずに、私を逃がしてくださいました。その、何というか、少し乱暴な方だと聞かされていたので、私の言うことなど聞いてくれないかも知れない、と思っていました。けれど、私にはあなたしか頼れなくて……」
「名を聞いてやる。俺は物覚えが悪いが、おまえの名前は覚えてやる。俺の名を、呼んでくれたからな」
「サナ・サーラ・カルヴァーラス。サナ、と呼んでください」
「それは助かる。長いのは苦手だ。サナ、呼びやすいな。気に入ったぞ」
うん、気に入った。
エルサローサは、心の中で何度も繰り返してみた。サナ、悪くない響きだ。
「ありがとうございます。あなたのことはエルサローサとお呼びして宜しいんですよね?」
「それでいい。昔、そう呼んでくれた人がいた」
顔も、はっきりとは覚えていない。遠い昔の話だ。名も、忘れてしまった。
ただ、エルサローサと呼ばれると、何やら懐かしい気分になる。それは決して悪い気分ではなかった。
「それで、これからのことですが、本当に、私に力を貸してくださるのでしょうか?」
「サナは、そうして欲しいんだろう? だったら、そうする」
「私は、あなたに無理な要求をするかも知れません。私は命を狙われるでしょうが、私は人を殺したくない。だから、もし、あなたが簡単に人を殺せるような力を持っていたとしても、その力を抑えていただきたいのです。それでも、力を貸してくださいますか?」
「殺さなければ……腕の一本や二本へし折るのはいいのか?」
「命に別状がなければ、それくらいなら」
「出来るかどうか分からんけど、やってみる。上手く出来たら頭を撫でてくれるか? あいつみたいに」
古い記憶が駆け抜けた。大きな手が見える。エルサローサの頭をすっぽりと覆ってしまうほど大きな手だ。「あいつ」のことはよく覚えていないが、山のような大男だったに違いない。
それに比べてサナは小さい。サナはエルサローサより顔ひとつ分も背が低い。
それなのに、「あいつ」とサナが重なって見えた。ほんの一瞬、そんな感じがした。
サナが手を伸ばす。小さいサナの、小さな手が、エルサローサの頭に触れた。
「こう、ですか?」
サナが、頭を撫でてくれた。「あいつ」とは全く違う手だけど、何故だか同じだと思った。
この少女を守ろう。そんな気分になった。