第13話
廊下が騒がしかった。扉を隔てていても、二人の話し声が聞こえてくる。声の主は、エルサローサと、恐らくナシャハだろう。
ナシャハがアーレンセン家の屋敷内を歩き回っていることに、サナ・サーラは驚いた。よくファーラン卿が許したものだ。ナシャハが屋敷に踏みとどまっていることも、奇妙に思えた。
グリール卿は何かと忙しいようで、長居することなく出て行った。途中でナシャハとも擦れ違ったのだろうか。そうだとしたら、複雑な心境だったに違いない。ナシャハのほうは、グリール卿を知りもしないだろうが。
サナ・サーラは、なんとなく母の顔を見遣った。穏やかな微笑みが、そこにはあった。
「サナには俺ひとりで充分だ」
エルサローサの声だ。
「俺より弱い奴が偉そうなことを言うな」
「さっきは俺が勝ったじゃないか」
「おまえがしつこいから、いい加減めんどくさくなったんだ」
もう、扉の前だろうか。
「負け惜しみを言うな」
「誰が負け惜しみだ。実際、俺のほうが沢山勝ってるだろう」
「俺は、サナに人を殺すな、と言われてるからな。いつも、殺さないように手加減している」
「俺が手加減していないとでも?」
扉が、ゆっくりと開かれた。その間にも、二人の話し声が途絶えることはなかった。
「手加減が苦手だと言ったこと、覚えてるぜ」
「ほう、ちょっとは頭を使えるんだな。いいぜ、今度は俺の実力を少しだけ見せてやろう」
二人が、歩み寄ってくる。申し合わせたかのように、肩を並べて。
「なら俺は、鼻糞くらい本気を出してやろう」
「ほら、俺の言ったとおり、目を覚ましていただろう」
「おまえに言われる前から俺は気付いていたぜ」
サナ・サーラの前に立っても、二人は話をやめようとはしなかった。放っておくと、いつまでも話が続きそうだったので、仕方なく水を差す。
「お二人さん、もう宜しいかしら?」
サナ・サーラは、改めて二人を見比べた。
背は、同じくらい。瞳と髪の色は、共に黒。ナシャハのほうが少し大人びて見える程度で、雰囲気は似通っている。黙って立っていれば騎士かと見まがう秀麗さだ。
「ナシャハ、と言いましたね」
「その通りでございます、我が主よ」
ナシャハが慇懃に頭を下げた。悪戯っぽい笑みも垣間見えた。
「本気で、私に仕えるつもりなのですか?」
「そうしたいと俺は思っている」
今度は、真摯な眼差しだ。
「なぜ?」
「分からん。なんとなく、我が主になる人だと感じた」
「私が、あなたの所業を許すと思っているのですか?」
「そこまでは考えなかった。俺は、許されないのか?」
不遜な物言いではなかった。ナシャハは困惑している。それがサナ・サーラには見て取れた。
だから、もう責められなかった。責める気も、本当はなかった。
「これからは、行動を起こす前に考えてください」
「何を?」
「あなたが及ぼす影響を、です。あなたは、私などより遙かに強い力を持っています。もし、間違った使い方をしても、止めてくれる人はいません」
「間違った使い方とは?」
「それは、私が教えるようなことではありません。あなた自身が気付かなければならないことです」
「よく分からんが、我が主の言うことは間違っていない気がする。ならば、我が主に従うまで」
ナシャハが膝を折って、頭を垂れた。
もしエルサローサと同じなら、と思い、サナ・サーラはナシャハの頭に手を置いてみた。微動だにしないところを見ると、受け入れられたのだろうか。少し、撫でてみた。
すると、エルサローサまでが膝を折った。
「俺も!」
撫でて欲しいのだ。尻尾を振って駆け寄ってくる仔犬を想像してしまった。
「おまえは関係ないだろう」
ナシャハが、エルサローサを押しのけた。
「関係ある。いいことをすると、サナが撫でてくれる。俺は、いつもサナの言い付けを守っている。だが、おまえは何もしていない。頭を撫でて貰うのは、俺だ」
エルサローサは最初、マリスタがサナ・サーラに近付くことを嫌がった。ナシャハに対しても同じなのだろう。これくらいの対抗心ならば、可愛らしいものだ。
「エルサローサ、ナシャハと仲良くできますか?」
「できる」
サナ・サーラの問いにエルサローサが即答した。
「ナシャハも、エルサローサと仲良くできますか?」
「我が主の仰せならば」
ナシャハも、迷いのない目をサナ・サーラに向けた。
「上出来です」
サナ・サーラは、寝台から降りると、右手でエルサローサの頭を、左手でナシャハの頭を撫でた。