第12話
目覚めたとき、サナ・サーラは、まだ夢を見ているのだと思った。目の前に、母の姿があったからだ。目が合うと、母は優しい笑顔を見せた。
ファーラン卿の手当てをしたことまでは覚えている。その先は、どうも記憶が曖昧だった。どうやら、また倒れてしまったらしい。力を使いすぎたのだろうが、なんとも情けない話だ。
「ここは?」
サナ・サーラは、横になったまま辺りを見回した。
黒檀だろうか。如何にも母が好みそうな机だと思った。
天幕付きの寝台は、そう言えば、久しぶりだった。
エルサローサが断りもなく姿を消すことは絶対にないと信じていても、目覚めたとき側にいてくれないと、少し不安になる。しかし、そんな不安さえも母の笑顔が拭い去ってくれた。
「私の部屋ですよ。安心なさい」
お母様だ。本当に、お母様だ。声も、匂いも、笑顔も、何もかも。
安心しすぎて、サナ・サーラは少し涙ぐんだ。
これほどの安らぎは、いつ以来だろうか。ずいぶん前だったような気がする。なんでもない幸せがいつまでも続くと信じて疑わなかった、あの頃の記憶が、温かさと痛みを伴って瞬く。父の死が、小さな棘となって胸の奥で疼いた。母が悲しみに暮れている間は、あまり感じることがなかった痛みだ。感じることを拒否していたようにも思う。
父は、死んでしまったのだ。やっと、実感が湧いてきたのかも知れない。今なら、父の死を素直に悲しむことが出来るような気がした。
ずっと、事件の真相ばかりを追い続けていた。それは、悲しみを紛らわす、ひとつの方法でもあったのだろう。
母の笑顔を見たら、もう悲しみを紛らわす必要はないのだと思えた。
とは言え、真相を知りたいという思いが消えてしまったわけではない。
そうだ、ファーラン卿は無事だろうか?
「ファーラン卿は?」
「真っ先に訊きたいことはそれですか?」
母が微苦笑した。ふんわりとした優しい顔だ。
「だって」
「無事です。サナのおかげで。もう、とっくに起き上がって、サナより元気なくらい」
「そう。良かった」
「あなたは、人の心配ばかりするのね。そういうところは、あの人に似たのかしら?」
「お母様は、今でもお父様のことを愛していらっしゃる?」
「ええ、勿論よ」
「じゃあ、どうしてファーラン卿と再婚したの?」
「あの人を亡くして本当につらかった。だから、つい手紙を書いてしまったの。そうしたら、ラース……いえ、ファーラン卿は、昔のように優しい言葉を投げ掛けてくれた。まるで、時が戻ったかのように感じたわ」
母の、生き生きとした笑顔を見て、サナ・サーラは大変な思い違いをしていたことに気付いた。
母とファーラン卿は旧知の仲で、しかも、互いを尊重し合うほどの間柄だった?
しかし、結婚後は互いを遠ざけてしまったのだろう。だから、サナ・サーラは、母の貞淑を信じて疑わなかった。いや、今でも信じている。もし、サナ・サーラが、もっと早く二人の関係について尋ねていたとしても、母は誤魔化すことなく答えてくれただろう。
ちょっと待って! サナ・サーラは、ひとつの疑問に突き当たった。
母の言うことが正しいとしたら、ファーラン卿がサナ・サーラを殺そうとするはずがない。父を殺した犯人も、ファーラン卿ではない、ということになってくる。少しでも疑わしければ、母が再婚することなど絶対にないだろうから。
遠慮がちに、扉を叩く音がした。そこに現れた人物を見て、サナ・サーラは驚きの声を上げた。
「グリール卿!」
ここがファーラン卿の屋敷だとすれば、なぜグリール卿がいるのだろう? よく似た別の人物、というわけでもなさそうだ。
「心配したぞ、サナ」
グリール卿は、どことなく落ち着きを欠いている様子だ。
「どうなさったのですか、グリール卿。私が、ちょっと倒れたくらいで」
「いや、此度のことで、その、なんというか、サナに謝らなければならないことがある」
まだ何か、悪い知らせでもあるのだろうか。
「伺います」
サナ・サーラは、上体を起こし、グリール卿を見据えた。
「はっきり言おう。兄が死んだ原因は、私にあると言ってもいい」
グリール卿が、父の死に関わっているというのだろうか? 悪い知らせだ。
母の再婚相手であるファーラン卿が、父の死に関わっていなかったことは喜ばしい。しかし、今度はグリール卿が。
サナ・サーラは、溜息をついた。
「兄を殺した人物は、ナシャハという使い魔だ。知っているかも知れないが、ナシャハは祖父の使い魔だった。そのナシャハが、ザッセム卿という男に命ぜられるまま兄を殺してしまったのだ」
「それがどうして叔父上の責任になるのですか?」
ナシャハが曾祖父の使い魔なら、それを監督する責務はカルヴァーラス家の当主にある。つまりは、父の責務だ。今後は、サナ・サーラが責務を負うことになる。
祖父は、エルサローサを封印するために命を賭した。父は、ナシャハに殺された。それが、カルヴァーラス家の宿業なのだろう。
「ナシャハを封じてあった箱は、我が屋敷に保管されていた。それが、盗まれたのだよ。すぐに探させたが、見つからなかった。不名誉だと思い、兄にも知らせなかった。その矢先、兄が殺された。私が、いち早く兄に知らせていれば、或いは」
そこまで言うと、グリール卿は唇を噛んだ。
母は、既に話を聞かされていたのか、落ち着いた様子で耳を傾けている。
母が取り乱さなくて良かった、という思いがサナ・サーラには大きかった。今更、グリール卿を責める気もなかった。むしろ、責任を感じているグリール卿が気の毒にさえ思えた。
「叔父上が私たちに対して不誠実だったとは思っていません。いつも、良くしてくださいました。それが自責の念からだったとしても、私は叔父上に感謝しています。それに、大切な人を亡くした思いは叔父上も一緒……ではないのですか?」
「サナ、おまえは本当に優しい子だ。サナが私の娘なら、どんなに誇らしいか。いや、マリスタと結婚してくれれば、それも叶う」
「それはお断りします」
サナ・サーラは、にっこりと微笑んだ。