第1話
自分が何者なのかも知らない。気付いたら、存在していた。どれくらい存在しているかも覚えていない。ただ、長い時間、存在し続けているように思う。
この状態に飽いたから、長いと感じた。
外で暴れ回っていたときには、長いとは感じなかった。時間とは、そんなものだ。
エルサローサは狭い空間から出ることが出来なかった。
空間と呼べるのだろうか、広さの感覚はない。日の光も、月明かりさえも差し込まないが、闇というわけでもない。何もないだけだ。或いは、感じ取れないだけなのかも知れない。
この何もない場所に、時折、人間が現れる。手を伸ばしても触れられるわけではないが、触れられそうな場所に人間を感じることがあるのだ。向こうも、エルサローサの姿が見えているようでもある。言葉は通じない。エルサローサの言葉は、誰にも届かない。
あるとき、ひとりの少女には言葉が通じたようにも思えたが、向こうの言葉はエルサローサには聞こえなかった。会話は、成り立たない。
なぜだか、同じ人間に会うことは一度もなかった。会いに来てくれないのか、それとも他に理由があるのか、エルサローサには分からなかった。
最後に人間を見てから長い時間が流れた。少なくとも、そう感じた。
ふと、名を呼ばれたような気がした。名があったことすら忘れかけていたが、「エルサローサ」と呼ばれていた時代は、確かにあった。
大きな手で頭を撫でてくれる、年老いた男が、記憶の中にいた。
覚えていることと言えば、その大きな手と、真っ白な頭と、深い皺くらいだろうか。
彼に名を呼ばれることは嫌いではなかったような気がする。だから、エルサローサは自分の名を覚えた。
「……エルサローサ」
気のせいではない。確かに、名を呼ばれた。今。
この世界に放り込まれてから、初めてのことだ。
内なる何かが、躍る。大声で叫びたい衝動に駆られた。
何か、得体の知れないものが込み上げてくる。自分が、自分ではないように感じた。
もう一度、名を呼ばれたい。そう思った。
名を呼べ。呼んでくれ。エルサローサは心の中で念じた。
「エルサローサ!」
今度は、はっきりと聞こえた。凛とした女の声だ。
雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡る。血が、熱い。
エルサローサは堪らず叫んだ。狼の遠吠えのように、訳もなく喉を嗄らした。
そして拳を握りしめ、思い切り突き出した。手応えがあった。
何を砕いたような感触があった。
池に張った氷が割れるかのように、空間に亀裂が走った。
次の瞬間には、エルサローサは有限と認識できる部屋の中に立っていた。
目の前には、若い娘が佇んでいる。恐らくは声の主だ。
強い眼差しに射抜かれ、エルサローサは動けなかった。