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ひより~新月のかぐや姫~




 学校を出て、駅まで走って約五分。一駅跨いで、電車を降りる。

 そこからまた徒歩三分で付近の花屋。オレンジガーベラのアレンジメントを買ってから、大学病院に到着する。  受け付けを済ませて、エレベーターで六階まで昇る。左側の病室を五つ進むと、目的地にたどり着く。

 戸を開くと、十五日前とは正反対の光景が広がっている。

「やあ。今日も、いい見舞い日和だね」

 この病室には、患者はたった一人しかいない。

 大きなベッドに寝ていて、医療機器につながれていて、この挨拶に返事ができない。

 心電計を見ると、呼吸は正常。顔色も悪くなく、今日も彼女の容態は安定している。けれど、僕の中の不安はまだ拭われることはない。

 彼女を蝕む病は、平安時代から確認されているというふざけた奇病だ。症例の神秘さから、現代では『かぐや姫症候群』とも呼ばれている。

 僕は、このお伽噺が一番嫌いだ。

「今日からさ、学園祭の準備が始まってさ。学校中のみんな、凄く張りきってたよ。早く病気治して、最後の学園祭くらい一緒に回ろうよ」

 オレンジガーベラのアレンジメントを床頭台に置いて、ベット横の椅子に座る。それからは、他愛もない話をしてばかり。聞き手は誰もいない。なぜなら、彼女の心は、満月に拐われてしまっているのだから。

「ここに来るときに、駅前の紅葉が舞ってたよ。季節は全然違うけど、初めて会ったときのことを思い出したよ。小六の春だったっけ。あの時から、きみは······」



 ◆



 僕、富山岳彦とやまたけひこは、ひどく冷めた人間だった。

 よく同級生の男子数人にいじめられているのだが、今日もまた、中身を散らかされて空っぽになったランドセルを、サッカーボールみたいに蹴り飛ばされていた。 普通なら、やめてやめてと騒ぎ立てるが、僕の場合はただじっと見ているだけだ。 逆らったところで、勝てないのは分かっているし。僕自身にも全く害が無いわけではなかったけれど、変な話、馬鹿らしくて反応するのが面倒くさくなっていた。

 親に余計な心配をかけないために、人知れず河川敷の橋の下でランドセルの汚れを落とす毎日。

 作業が終わって戻ると、「今日は、いい洗濯日和?」と、突然どこからか声がした。

「誰?」

 辺りを見回すが、誰もいない。

「いや、かくれんぼ日和だったかな?」

 上から声がした。見ると、坂の上から腕を組み仁王立ちで僕を見下ろす女の子の姿があった。歳は僕と同じくらいだろうか。茶髪のサイドテールで、黄色と白の横縞模様のシャツにオーバーオールを履いた、いかにもおてんばそうな雰囲気の子だった。

「きみは、誰?」

 訊ねると、女の子は「とぉッ!」と声を出して飛び上がり、コロコロと前転して降りてきた。 着地すると、体操選手みたいに手を大きく広げてしゅっと立ち上がり、川に落ちそうになるまで迫ってきた。

「こういうのってさ、自分から名乗るのが筋なんじゃないの?」

「へ?」

「ハッハッハー! 聞いて驚くがいい、少年! 私は、名乗るほどのものではなーい! じゃーねー!」

 そう言って、女の子は颯爽と坂を登って走り去ってしまった。

 結局、なんだったんだろうか。あの情緒不安定な子は。同年代にしてはかなりくせが強かったが、どうせ忘れるだろう。当時はその程度の認識だった。


 時が経って、中学に上がっても僕の立ち位置はなにも変わらずで。ボール役がランドセルから、セカンドバッグになったくらいしか大した変化はなかった。あの女の子のことも忘れて、相も変わらずグレーライフを送っていた。

「やーやー、少年!」

「え?」

 校門を通ろうとしたところ、頭の片隅にこびりついたあの声が。

「今日は、いいイジメられ日和?」

 この口調を耳にするのは、生まれて十二年と数ヶ月の中では三度目になる。

 坂の上の次は、校門横の桜の上からか。

 あの日とは違い、着ているのは学校指定のセーラー服だったが、明るい茶髪のサイドテールをしていたことと、会ってから一年も経っていないから、すぐに思い出した。

 一年前の僕、結局忘れられなかったよ。

「まさか、きみも同じところに通ってたなんてね」「うんうん。まさに、いい再会日和って感じだね」

 屈んで、両手に頬杖をつけて、彼女は笑顔でどこか嬉しそうに僕を見ていた。

「それで、名乗るほどのものではないさん。この、冴えない目立たないいじめられっ子少年になんか用ですか?」 

 ぶっちゃけ、無視してもよかったのだが、僕と彼女とでは高低差があって、首を向けた際にかなり危ういものが目に入ってしまった。

 いち早く気づいたのは幸いで、咄嗟にスカートからサイドテールに目を集中させる。

 ついこの間まで小学生だったのに、黒ってどんなセンスだよ。通りかかったのが純情健全な僕でよかったな。

「用は無いよ。ただ声をかけただけ」

「帰る」

「あ、ちょっと待って!」

 用も無いのに止められる筋合いはない。取り敢えず、とっとと帰って、飯食って、風呂入って、ガリ勉して、寝よう。

「ゴラー! 待てや少年!!」

 後ろから全力疾走で追いかけてくる奇人を振り切って······と思ったが、運動に弱いこの身ではすぐに追いつかれてしまった。タックルされ、その拍子に転んで僕捕獲と。

 肺と横っ腹が痛い。

「なんで逃げんの? 今日は鬼ごっこ日和じゃなかった筈なのに!」

 ぜぇぜぇと息を荒くしていながらも、名乗るほどでもないさんの快活さは削げていなかった。僕の背中を這いずって、起き上がれないようにしてきた。

 今さっきの爆走で、起き上がる体力はもう僕には無いのだが。

「きみこそ、用も無いのに呼び止めないでよ。迷惑でしょ。普通に」

「なんだよ! 用が無くても構ってくれたっていいじゃんか!」

「じゃあ、なんで僕なんだよ」

「それは······」

 そして彼女は黙ってしまった。

「答えられないということは、誰でもよかったってことだよね? 迷惑すぎるから、そこどいて!」

 体力が戻り、隙をみて起き上がる。そのまま去ろうとしたら、後ろから「いたた」と彼女の小声が耳に入って振り返った。彼女は膝を擦りむいていた。

 突然僕が起き上がったから、対応しきれずに路面に不時着して、ってところかな。

 自業自得と言いたいが、女子に怪我をさせたとあっては流石に心が痛む。彼女も彼女だが、僕も少し意地悪が過ぎたかもしれない。

「ほら」

 僕は彼女に背を向けて、腰を下ろした。

「なんのつもり?」

「膝がそれじゃ痛むでしょ? 特別無料で貸してあげる」

 見えなかったが、うーんと彼女の考え込む声が聞こえて、背中に不意な重量感が乗り掛かる。

「進め、少年! 今日は風のように日和だ!」

 訳の分からない合図に応じて、僕は歩きだした。

 誰かに背中をあげるのは始めてだったのだが、不思議と悪い気はしなかった。

 つーか、いい加減に名前くらい教えろよ。おふざけでも、名乗るほどのものではないさんって呼ぶの長いから面倒くさいんだよ。

「僕の名前は、富山岳彦。莫大な“富„に、“山岳„の“彦„」

 試しに名乗ってみると、僕の念が届いたのか、おとなしくしていた彼女は呟いた。

「ひよりだよ。天根陽和あまねひより。“天„に“根„づいた、“和„やかな太“陽„だよ」

 こんな性格だから、どんなぶっ飛んだ名前かと思ったら、案外可愛らしかった。

 天根陽和さん、か······うん。何度思い浮かべても、妙にキュンとしてくる。

 それに比べて僕は、富山岳彦。字面を見ればいかつそうなのに、自分でも呆れるほど名前負けしてる。

「悔しいな」

 ポロっと出た弱音。聞かれたと思って、羞恥心から咄嗟に口をつぐんだが、天根さんは僕の背中をベッドと間違えているようで、ぐっすりと寝息を立てていやがった。 家に帰ってからも、これ以上無いくらいに面倒事の連続だった。

 まず混乱していた両親に事情を説明して、天根さんに軽い治療を施した後で、彼女の自宅に連絡した。彼女の両親にも感謝と謝罪をされながら説明したが、天根さんの「こいつに口説かれた」という一言でまたややこしくなった。なんとか弁明して場は収まり、この日を境に、富山家と天根家は親しくなって、僕と彼女の距離も近くなってしまった。


 どうやら、天根さんは僕のことを友達か何かだと思っているようだ。

「おっはよー、岳彦! いい登校日和だね! 一緒に行こ!」

 家を出れば、天根さんが玄関前にて手を振って迎えてくるわ。

「へーい、岳彦! いいフリスビー日和だね! 一緒に遊ぼ!」

 昼休みになれば、わざわざ教室まで駆け込んで外に引っ張り出されるわ。

「よーっス、岳彦! いい下校日和だね! 一緒に帰ろ!」

 さらには昇降口で出待ちと。メジャーを巻き戻すばりに、一気に距離が縮んでいた。

 休日でも僕の家にまで遊びに来て、毎日毎日、気づいたときには天根さんが傍にいるようになっていた。

 こんな僕といて何が楽しいんだか、さっぱり分からない。ちょろちょろと素早く動いている様は、まるでネズミみたいだ。

 中学校生活が始まって半月、僕が接した同級生は天根さんだけだ。他に遊ぶ友達はいないのか?

 よくよく考えたら、天根さんが僕以外の人と一緒にいるところを見たことがない。ただ見ていないだけならまだしも、休み時間に毎回教室を跨いで会いに来るのはさすがにおかしい。

 この疑問を晴らすために、下校の話題として天根さんに訊ねようと思ったのだが、迂闊に動いたのが仇となった。

 因縁というには煩わしく、宿敵と呼ぶには安っぽく、天敵と思うには至らない。

 天根さんばかりに構ってたからほぼほぼ忘れてたけど、僕にはもう一人、というより対応が面倒くさい輩達がいたのを忘れていた。

「お前、最近付き合いわりぃじゃねーか。あ?」

 小学生からお世話させてもらっているいじめっ子集団。これを率いている太っちょの名前、なんていったっけ? 

 他人の名前を覚えるのは苦手な方だけど、こいつらには本当にまるで興味無かったからな。そもそも、なんで僕はこいつらにつっかかられているんだ? 謎だ。

「おい、聞いてんのか、富山!」

 ボーッとしててなにも聞いてなかった。

「そんなことより、僕は人を待っているんだ。用ならここで、手短に済ませてよね?」

「知るか、来いよ」

 腕を捕まれて、そのまま校舎の裏に連れてこられた。

 ごめん、天根さん。少し遅れそうだ。

「富山。お前、最近女子とつるんでるんだってな?」

 天根さんのことかな? 彼女以外に関わりのある女子はいないし、そもそも同性の友達すらいない。

「それがどうかした?」

「中学に上がったからっていい気になるなよ? お前は俺らのおもちゃに変わりないんだ。忘れてねーよな?」

 そんなこと、忘れる以前にそう認識した覚えすら無い。はちゃめちゃ言いやがって。

「なあ、あの女子を紹介しろよ。そうすりゃ、今回は一人ずつから一発で許してやるぜ。痛いのはやだろ?」

「たーちゃん、ヒドイぜ。こいつがいじられ慣れてんの知ってて提案するなんて」

「いいじゃねーか。富山だって、いつもより少なくて済むんだから、優しい方だろ」

 おいおい、勝手に他人の満足度を計るなよ。

 早く天根さんに会って話したいのに、仕方がない。日を改めるか。

 太っちょが先行し、拳を握って振りかぶった。

 馬鹿の一つ覚えな構えにも見慣れて、どうすれば対処できるかはもう分析済みだけど。この数じゃ、太っちょをやっても意味は無さそうだな。

 そう思って、溜め息をついたとき、太っちょの上から天根さんが踏みつける形で落ちてきた。鈍い悲鳴をあげて、太っちょは動かなくなった。

「お前ら、岳彦になにしようとしてんの?」

 足元に気絶した太っちょがいるまま、天根さんはいじめっ子集団を睨んだ。僕から見たら彼女の背中しか見えなかったが、男子生徒の怯えようから、かなり威圧されているようだった。

 集団のトップが、体型の劣る女子に容易くのされたんだ。正直、僕も久しぶりにビビった。

「次、岳彦に近づいたら、あなた達全員、こいつみたいにカーペットにしてやるからね!」

「ご、ごめんなさい! すいませんでしたー!!」

 太っちょを抱えて、いじめっ子集団はそそくさと撤退した。深呼吸してから振り返った彼女の顔は、無邪気で晴れやかな笑顔だった。

「だいじょーぶ?」

「う、うん······」

 今だけはいじめっ子集団に同情するよ。

「ん? どうかした?」

「いや。僕が言うのもなんだけど、きみってスイッチの切り替え早いな、って思って。っていうか、どっから出てきたん?」

「あそこ」

 天根さんが指差す方向に目を向けると、窓があった。

「あそこって、あの窓から?」

「そう!」

「ちなみに、あの窓の部屋って」

「トイレだけど?」

 御愁傷様です、太っちょくん。

 ん? そうなると、天根さんは······。

「上履きのまま、来ちゃったの?」

「そうだね。あいつらが岳彦のことを呼んでたから、いてもたってもいられず」

「だからって無茶苦茶が過ぎるだろ。ったく、なに考えてんだか」

「なに言ってんの? それより、早く帰るよ。あんまり遅いと、先生に注意されるよ」

 そう言った矢先に、天根さんは指導室に呼び出された。予想するに、彼女の突飛な行動を目撃した女子の誰かが告げ口したのだろう。

 自業自得と言いたいが、こればっかりは僕にも責任はある。そんな罪悪感がはたらいたのか、下校の途中に、僕は天根さんに謝った。

「ごめん」

「どうしたの、急に?」

「いや、なんか僕のせいで天根さんに迷惑をかけちゃったみたいで······その······」

 こういう場面には慣れてないから、言葉が喉に詰まる。

「いいよ。そんなことしなくて」

「え?」

「そうしたいと思ったのは私の意思だし、あんたが謝る必要は無いんだよ。こんなのは、パーっと笑い話にしちゃえばいいんだから」

 とことん明るいな。僕はそういう天根さんが羨ましいよ。それでもって、ズルい。

「それよりさ。なんで逃げなかったの?」

 突きつけられた疑問。僕はその答えを、すぐに言えなかった。

「あんたならさ、あんな状況になる前にどうにかできたでしょ。なのに、なんでなにもしようとしなかったの?」 いざ聞かれると答えに迷うな。特に理由は無い気もするが、あの時はなんだかいつもと違った感じがした。

 よく言い表せないが、ムカついたのだろうか。いや、今聞かれているのは対処しなかった理由だ。こんなの問いの答えではない。

「どうでもいいでしょ。別に」

「別によくはないでしょ。一応、あんたのことなんだから」

「なら尚更別にだよ。天根さんには関係ない」

「ある」

「ない」

「ある!」

「ないって」

「あるってば! このバカ!」

「バッ!? なんで僕がバカ呼ばわりされなきゃならないんだよ!  わけわかんねぇ!」

 ムカついて振り切ろうとした瞬間、手を強く握られた。振り向くと、天根さんは目に涙を浮かべていた。

 頬が赤くなるまで膨らませて、むー、と唸なりながら僕を見つめていた。

 ヤバい。これはヤバいやつだ。

「なに、泣いてんの?」

「泣いてない! 泣いてなんかー!」

 そう言いながら、天根さんは力強く涙を拭っていた。

 アカン。アカンアカンアカンアカン、アカンてこれは!

 とりあえず、河川敷に移動して天根さんが泣き止むのを待つことにした。余計なことを言うと、また罵声を浴びせながら泣くかもしれなかったから、なにもせずただ隣でそっとしていることしかできなかった。もどかしい。泣かせたのも僕だから、どうなんだろうか。

「落ち着いた?」

「······うん」

 天根さんの目元と鼻が赤くなっていた。

 どうしよう。かける言葉が見つからない。謝ったら、また何か拗らせそうだし、どこまでも扱いが面倒くさい。

「それでさ」

「············」

 これから来る天根さんの問いかけに、僕は思わず身構えた。

「なんで、あんな奴らについて行ったんだよ。嫌なら、嫌って言えばいいじゃんか」

 泣いた余韻か、天根さんの声は震えていた。

 どう答えようかと考えていたのだが、言い訳をしようとしているみたいでアホらしくなった。

「僕がこんな性格になったのは、多分、死んだじーちゃんの影響かもね」

「え······?」

「死んだのは小4のとき。それまで、交流はあまり無かったんだけど、死ぬ一日前に、じーちゃんのとこにお見舞いに行ったときにさ。言われたんだよ」

「なんて?」

「『オメーはいつも暗ぇ面してんな。生きるのが辛いか? これから死ぬってぇ奴に、そんな面見せるたぁいい度胸だ。そんなお前に、いいことを教えてやる』」

 思わず、口が震えた。これから先のことを言うのを、拒むかのようだった。

 まるで鎖で繋いでいるようなこの言葉を、僕は噛みつくようにして強く歯を食い縛ってから続けた。

「『面倒になったら、流れに身を任せろ。威風堂々としてりゃあよ、どんなに辛ぇ人生も、死ぬときくらいは楽にならぁ』ってさ。僕は最初、この言葉の意味がわからなかった」

 じーちゃんとの交流はそう多くない。幼少はまだ人見知りが激しかったようで、積極的に他人と接しようとは思わなかったからだろう。

 会うようになったのは、入院したときからで、それでも会話するのは大体両親とだけ。僕は片隅でじっとしていた。

 死ぬ前日に初めて、じーちゃんが僕にこの言葉をくれた。

「全然、意味がわからなかったんだ。わからないままこの言葉に従っていたら、こんなんなってた。意味を履き違えているのはわかってた。でも、これ以外の意味がどうしてもわからなかったんだよ。どんなに辛い思いをしても、じーちゃんの言葉にすがるとさ、周りのことがどうでもよくなるんだ。どうでもよくなったらさ、次には全部が全部灰色に見えて、もうどうしようとも思わなくなった。そんな感じかな」

 僕は話し終えた。なんてことない下らない話。

 いじめも、テストも、今日の夕飯のことも。何一つに衝動が起きない。ただ遺言に従って、のろのろとグレーライフを送ってきて、全然適当に生きている。ただそれだけだが、自分で言ってても明確にわかる。

「やっぱり······バカじゃん······」

 口に出したのは僕ではない。隣にいる天根さんだった。

「あんたの考え方、そのじーちゃんの遺言の意味がわからないどころか、完全にクソの考え方だよ!」

「クソ!? 今度はクソか!」

「クソだよ! クソ! クソクソクソクソクソクソクゥーソォー!!」

 早口に、次々に罵声を浴びせられた。しかも、さっきよりもかなり下品な単語で、駄々をこねるように天根さんは喚いた。

「うるさいな! 大体、なんで天根さんが割り込んでくんだよ!? そっちの方が謎じゃん!」

「うるさいのはそっちだよ! なんだよ全部灰色に見えてって! はぁ? なに全部悟ったような言い方してんだよ! ふざけてんの!?」

「ふ、ふざけてねーよ! 僕はただじーちゃんの遺言を考えて」

「考えてそれか!」

「それのなにが悪い!」

「悪い事しか起きてないじゃんか!」

 天根さんの言葉がかなり刺さってくる。これ以上言い合いを続けてたら、余計に僕自身が惨めになる。

 僕は天根さんに問いかけた。

「じゃあ、どうすればよかったんだよ」

 天根さんは答えた。

「そんなの、私に言われたわけじゃないんだなら、わかるわけないでしょ」

 ほら、他人に頼るのなんて愚の骨頂じゃないか。予想通りの返事だ。

「でも、そんなにわからないんだったらさ······」

 その瞬間、いきなり通り過ぎた強風がうるさくて聞こえなかった。

「ごめん、もう一回言ってくれない?」

「······帰る」

「え? ちょ、ちょっと?」

 急に立ち上がった天根さんは、河川敷の坂をそそくさと上がっていった。追いかけようと彼女の手を掴んだら、振りほどかれてしまい、その拍子にバランスを崩して転げ落ちた。

 起き上がったときには、天根さんはとっくにいなくなっていて、追う機会を失った。直接家を訪ねる手もあったのだが、未経験の重石が乗っかかって動かなかった。

 その日の蟠りは、以降も僕らの間に有り続けた。天根さんは休み時間になっても来ず、登下校も別々にするようになって、話すことはなくなった。

 中学二年、僕と天根さんは同じクラスになった。溝はまだまだ深いままだ。

 他の男子や女子、ましてや教師とも明るく話している彼女を見ていると、なんだかムカムカしてくる。やっぱり、僕は彼女にとって遊び相手の一人に過ぎなかったわけだ。

 なんだろう、ポイ捨てされたオモチャの気分だ。辛いというよりも、悔しい。

 別にどうだっていい。いつかのグレーライフが戻ってきただけなんだから、今さらどう思われようがどうでもいい。

 そう思う傍ら、僕の目には、天根さんが接した相手はなぜだか心から笑っているようには見えなかった。多くが愛想笑いか、本人が離れたところで嫌そうな顔をしていた。

 そして、昼休みには天根さんの姿が見えないことに気がついた。最初は気のせいだと思っていたが、トイレから出た際に偶然にも女子達の会話を盗み聞きしてしまった。

「あの天根ってやつ、授業が終わる度に声をかけてきて、鬱陶しいんだよね」

「わかる。ろくな用も無いくせになにしに来てんだか」

「あいつ、見た感じボッチみたいだったから友達ほしいんじゃないの?」

「だったらもう少し態度ってもんをね?」

 キャハハハハ、と彼女らの嘲笑が耳を擦ってきて、無性に殴りたくなった。それは壁に向けて落ち着かせ、僕はすぐに学校中を走り回った。先生の注意も、他の生徒の視線も無視して、心当たりのある場所を手当たり次第に天根さんを探し回った。

 だが、いなかった。天根さんの姿は、どこにも見られなかった。

 体育館、校舎の裏、校門前の並木。彼女の姿がどこにもない。

「ったく、どこに行ったんだよ。あのバカは······」

 昼休みが終わるまで五分を切った。諦めて校舎に戻ろうと思ったその瞬間、僕の頭の中に差し込まれたように、何かがハッとなった。

「バカは、僕もだったね」

 学校の敷地を囲うフェンスには、致命的な欠陥があった。体育館の裏手に隠すようにしてあり、昔誰かに切られたのか、そこにだけ中学生一人分が通れる程の穴がある。これを見つけたのも天根さんだった。

 チャイムが鳴ったときには、既に僕は学校の敷地から出ていた。義務感の破綻を感じることなく、天根さんのもとへ走り出す。 改めて考えてみれば盲点、いや、戻りたくなかったんだと思う。あそこに行けば、分かり合えるのではないかと期待する反面、どうしようもない一線を越えてしまうのではないかと大袈裟に怖がってもいた。どちらにしろ、動かなかった僕が一番悪いんだ。

 横腹がズキズキするまで急いだ先は河川敷。川にかかった橋の下は、僕の灰色を拭う洗濯場だった。

「見っけ」

「······」

 天根さんは踞っていた。小さく丸まって、まるで身を潜めるネズミみたいに。

「天根さん」

 彼女からの返事はない。

「あーまーねーさん?」

 何度呼んでも、彼女はこちらを見向きもしない。

「あ······」

 これじゃ、ダメだな。

「いいかくれんぼ日和? 名乗るほどでもないさん」

「······!?」

 やっと動いた。

 やり直そう。あの時の邂逅から。

「僕は富山岳彦。見ての通り、どうしようもない冴えないいじめられっ子だ。今日も奴らにオモチャにされたランドセルを、きれいに洗ってるんだ」

「············」

「なんでこんなんになったかっていうと、死んだじーちゃんに引っかけ問題をくらって、大いに間違えたからなんだ。自分一人、無事に何気無く過ごしていれば、苦楽の半端なく、普通に、安らかに死ねるんじゃないかってさ。でも、思い返してみたら、すんげぇー退屈だったんだ。退屈で退屈で仕方がなくて、まともに考えられなくなってた。これじゃあ、いつまで経っても楽しいどころか苦しいままだ。だからさ······一緒に手伝ってくれないかな? 頼れるの、きみしかいないわけだからさ」

 彼女の前に立って、僕は手を差し伸べた。

「僕の灰色でしかない人生を、きみに彩ってほしいんだ」

 言い切った。すると、彼女の体は小さく震えだした。そして、顔を上げたときの顔は、

「ばぁー!」

 なぜか舌を出して笑っていた。

「······へ?」

「アハハハハハハ!! 今さらなにを言ってんの! ほんと、あんたってブァッカじゃないの! アハハハハハハ!!!」

 さらに抱腹絶倒し、羞恥心と怒りがこみ上げてきた。こんなに人を殴りたいと思ったことはない。

「アハハハ! 怒った怒った! ほんとバカみたい! でも、思い返してみたら、すんげぇー退屈だったんだ。退 はぎゃっ!!」

 退屈で退屈で仕方がなくて、まともに考えられなくなって 結局、我慢ができなかった。

「メチャクチャ心配したってのにこれかよ。ああ、授業サボっちまったし、さっきまでの気合いと体力を返せよ」

「いやだ」

「あ?」

「せっかく見つけてくれたのに、返すの勿体ないじゃん? なんなら、このまま学校が終わるまで一緒にいてよ、岳彦」

 生まれてこの方十四年、女子にいけない遊びに誘われるとは。中々、悪くない背徳感だ。


 その後、学校に戻ると、親も呼び出されて担任及び生活指導の先生にこっぴどく叱られた。それから、生まれて初めて補習を受けた。

 他が言うほど息が詰まったかと聞かれれば、不思議とそうではなかった。



 ◆



 あれから僕達は、同じ高校へと進学した。

 それに当たって、陽和に対する周囲の反応が変わった。みんな彼女に見とれている。僕の目から見ても、輝いているように写った。

 僕の母曰く、化粧を始めたらしい。どうやら高校生ともなると、若気の魔術というものが強くなるようだ。陽和の顔がまともに見れない。

 こいつ、こんなに可愛かったっけ? 出るとこ出てて、引っ込むところは引っ込んで、中学の頃とはうってかわって、まるで女子じゃねーか。いや、もとから女子なんだけど······って、なにを僕は妙なことを!?

「どうかしたの? 岳彦」

 急に顔を近づけてくるのは困る。変な声をあげそうになった。

「顔赤いよ? もしかして風邪日和?」

「いいや。岳彦くんは今日もバリバリ健康日和だよ」

「そう。ならよかった」

 ああ、いい笑顔。歯がきれい。

 せめて電車の中では話さないでほしい。ただでさえ人が多いから、陽和に集中しているのに。余計に一言一言に緊張してしまう。

 外面は確かに美人だ。しかし、中身はあまり変わっていない。初めて会った子供の頃のままだ。それはそれでいいのだが、果たしてこの先このままでいいのかな。

「よう、富山。まーた朝っぱらから疲れてんな?」

「うるせー、佐貫さぬき。あんな幼馴染みがいたら、無理でも疲労困憊になるよ」

 高校生になってからできた友達第2号の佐貫達矢(さぬきたつや)。チャラチャラしていて、人付き合いがよくて誰にも分け隔てなく接している、俗に言う陽キャだ。天根陽和の男版とも言っていい。

 彼の隣の席になったわけで、よく話すようになった。

「ひひひ、体力が足んねんだよ。俺だったら、あんな幼馴染みがいたら毎日ハッピーだぜ」

 確かに、佐貫の性格なら陽和との相性はいいかもしれない。

「なんなら、すぐにコクっちゃう」

「あ゛あ゛ッ?!」

「悪かった、悪かった。冗談だから、んなムキになんなって」

「フン! 別に怒ってないし」

 つか、なんで僕が怒らなきゃならないんだよ。陽和が誰かに告られてもいいだろ。そこは個人の自由なんだから。

「ってか、つい昨日攻めてみたんだけど、ダメだったし」

 ······は???

「佐貫、昨日、陽和に告白したのか?」彼は即答した。

「ああ、したよ。バッサリ断られたけどな」

 陽和にしては意外だ。あれだけ人懐っこい性格なのに。しかも、陽キャを相手に。

「なんでも、既に意中の相手がいるんだとよ。他にも、剣道部の石上先輩に書道部の倉持先輩、俺を入れて六人くらい告った奴がいたらしいんだが、全部玉砕って話だ。相手は相当に手強いぜ?」

 他人に興味の無い僕だが、佐貫が出した名前はどれも聞き覚えがあった。全員、部活のエースや優等生だ。嫌でも覚える。

「お前も、行っとくなら今のうちだぜ。そのうち、誰かに取られちまうかもしんねんだから、イタッ!?」

 とりあえず、佐貫の頭を殴って黙らせる。

 彼の話を聞いて、胸騒ぎがするのはなぜだろう。陽和をどうこうする権利なんて僕には無いし、ましてや相応しくない。ただの友達として、傍にいただけだ。その点、佐貫や他の男子には尊敬に値する部分はあるけど。これを恋心と呼ぶには、いささか浅い気がする。

「なんにしたって、いつまでも不完全燃焼だとキツいぞ? 初恋の相手を取られた俺が言うんだ」

「それ、よく胸を張って言えるね」

 佐貫の言葉が妙に刺さる。かなり深いところまで。


 授業が始まっても、この気持ちの抑えは効かなかった。スルースキルの高さが売りの僕が、なぜかたった一人の女子に釘付けになっている。

 どういうことだ。そう問いたいが相手がいない。だから、確かめることにした。

 もし、この気持ちが間違った幻想でないのなら、僕の彼女を見る目が曇ることはない。それでいいと思った。

「どうしたの? 急に呼び出して。しかも、こんな手紙でさ。いかがわしぃ〜」

 口元を手紙で隠しながら、陽和が言う。

「うるせー」

 僕は陽和の下駄箱に一通の手紙を仕込んだ。それにはこう記した。

『学校の裏の公園に来い。富山』

 我ながら、中々にとんだチャレンジだ。

 あとは、口に出す。簡単だ。なにせ、日常的にいつもしている行為。その一端だ。

「ぼっ······」

 ――――あれ?

「ぼ?」

「ぼ、ぼぉ······」

 つ、詰まった? 声が詰まった?! なんで?!

「はあ、つまらないことやってないで、早く帰るよ」

 そう言って背中を向けようとする陽和の手を、咄嗟に掴んで引き止めた。

「待ってください!」

「なっ、本当になんなの?」

 陽和は戸惑っていたが、僕も同じだった。

 思っていたよりもハードルが高かった。緊張を飛び越えて、思考が停止しそうだ。

「そ、その、なんと言いますか······」

 言葉が浮かばない。頭の中が真っ暗だ。どうすれば引っ張り出せる。喋るのってどうやったっけ? 伝えるのってどうしてたっけ? あれ? こんなに難しかったっけ? 落ち着け、岳彦! とりあえず深呼吸をしよう。困ったときには深呼吸に限る。

「ひ、陽和、ぼ、ぼぼぼ、僕とつ、ちゅきあってくだひゃい!」

「············」

 ――――噛んだ。噛んで······しまった······。

 男として情けなさすぎる。顔を上げられない。陽和は今、どんな顔をしてるんだろうか。絶対に腑抜けだと思ってるよな。

 もうやめよう。

 自殺願望が芽生える前に、陽和を解放しようとした瞬間、鞄が地面に落ちたのが見えた。

 見てみると、陽和は額に手を当てて怠そうにしていた。

「陽和、大丈夫?」

「うぅ······ごめん、岳彦。ちょっと、ヤバい······かも······」

 そう言って、陽和は膝から崩れ落ちた。何が起こったのか理解が及ばず、ただ陽和の手を握って、ただ呆然として、苦しんでいる彼女を見ていることしかできなかった。

 それから先の記憶は曖昧で、気づいたときには、彼女を自宅まで送っていた。天根母からお辞儀をされ、その日はとぼとぼと家に帰った。


 翌日、玄関を出た先に陽和の姿が無かった。また寝坊したのかと、駅とは逆方向にある彼女の家に向かったが、違和感を感じた。

 人気を感じない。

 やけにシーンとしていた。天根家で扱っている車は、陽和の父親しか使っていないから一台だけ。だから、車庫ががらんとしていても不思議ではない。

 確信に至ったのは、インターホンを鳴らしたとき。押したらすぐ後に、陽和からの返事が大音量で流れてくる筈なのに。返ってくるのは、ピンポーンという寂しい家の呻き声。

 静寂に戻ると、今度はポケットからスマホの着信音が鳴り響いた。

「はい」

 何気なく応じる。

《もしもし、岳彦くんか?》

 相手の声は、天根父だった。

《すまない。立て込んでいて連絡が遅れた。君は今、家の前にいるんだろう?》

「はい」

《なら、学校には先に行っていてくれ。陽和は明日の午後まで休むから》

「すみません、おじさん」

 休むって、あの陽和が?

「陽和、どうかしたんですか?」

《駅の近くに大きい病院があるよね? 放課後そこに来てくれ》

 そう言われて、電話は切れた。

 陽和が欠席。自分で風邪を引いたこともないと言っていた、あの陽和が?

 昨日のこともあって、不安が過る。

 言われた通り、放課後に駅の近くにある大学病院へと向かった。フロントには天根父がいて、陽和がいる病室へと案内される。

 震える手で横扉を引くと、陽和と天根母が楽しそうに話をしている和やかな光景があった。

「お、岳彦! 来てくれたの?」

「ひ、陽和?! 大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ほら、私はこの通り快調日和ぃ〜!」

 想像していた絵面より程遠く、彼女は元気そうだった。腕を軽く揺らして、陽和は笑顔で息災を伝えた。

「陽和、本当に、大丈夫なの?」

 頭が追い付かなくてもう一度問うと、彼女は一瞬唇を内側に畳んで、医師に告げられた検査結果を口にした。

「ただの貧血だって! てへっ」

「······は? ひん、けつ? マジですか?」

「すまない、岳彦くん。この子ときたら、驚かせたいと言って聞かず」

 天根父がそう述べて、天根母も続く形で深くお辞儀をして謝ってきた。

 成る程、合点がいった。

「別にいいですよ。もう慣れっこなんで」

「本当に申し訳ない。君に無用な心配をさせた。さぞ不安だっただろう」

「あはぁ······」

 いや、むしろいい。重い病気じゃなさそうだし、一先ずは安心して良さそうなのがわかった。

「一応、症状の経過を見るために、ちょっと入院しないといけないんだ。うちの騒ぎに付き合わせて、ホントにごめんね」

 と、謝罪しているような陽和の頭を天根父が掴み、強引に深々と下げさせた。

 いつかの一家初対面のデジャブを感じて笑いそうになったが、ギリギリ持ちこたえた。

 天根父の話だと、今朝方二階から物音がして、行ってみれば陽和が倒れているのを見つけて、急遽大学病院に運んだそうだ。検査の結果も、ただの貧血と見なされて、一家は安堵した。

 この日は話だけを聞いて帰った。だが、その後の二週間が経っても、陽和の姿を見ない日が続いた。

「天根さん、大丈夫かな?」

「あ、ああ······」

「入院してるんだろ? あれから見舞いに行ってないのか?」

「行ってない。『恥ずかしいから来なくていいよ。心配だけしてろ』って言われた」

「なんだそれ」

 佐貫は僕の方を向き直って言った。

「ないわー」

「は?」

「いや、お前一度も行ってないって、バカか?」

「だって、僕が行っても力にならないし。それに、来なくていいって言ったのは陽和本人だ。あんまりしつこいと悪いでしょ」

 そう答えると、佐貫は歯軋りさせてから怒り心頭な様子で返してきた。

「こういうのはしつこいくらいが丁度いいんだよ! 行かなくて損するよりも、待たせて損させる方が最悪だろうが!」

 そんなくさいことを言われても。

「まるで、今にも陽和が死にそうな発言だな。第一、陽和は貧血だっただけで、それくらいで死ぬとは思えな―――」

「うるせー! つべこべ言わずに行かんかい!!」

 机に乗り出す勢いの佐貫に気圧されて、渋々、下校中に大学病院へと赴いた。

 よくよく考えたら、貧血で二週間も病院生活をするものなのか? そんな疑問も浮かんでいたし、他に違和感も残っていた。

 陽和の用があると受付の人に言うと、なにやら顔が少し青ざめていて、視線を下げていた。声も震えていた気がしたが、特に詮索することなく病室に入ると、異様な光景が広がっていた。

「ひ······より······??」

 陽和がベッドに寝ていた。だが、口には呼吸器を付け、腕からは点滴に繋がる管が伸びていて、以前に来たときには見なかった心電図が彼女の心拍数を計っていた。

「なん······だよ······」

 二週間前まで、陽和は笑顔が絶えない少女だった。はしゃいでいて、元気な姿を見せていてくれた。なのに、今の彼女はまるで真逆だった。

 明るい茶髪も、潤った肌も、騒がしい唇も、陽和は何もかも変わっていない筈なのに、静かに横になっている。まるで、おとぎ話の一場面を見ているような光景を前に、僕はただただ立ち尽くしていた。

「そ、そうか。おいおい、驚かせるなよ。こんな大掛かりな機械まで用意してさ、流石に病院に迷惑だろ」

 なんで動かないんだ? 起きてるんだろ?

「まったく、なんで誰も注意しないんだか。もしかして、懲りずにやってんの? だとしたら、出禁になるからもうやめときなよ」

 なんで何も言わない。いい加減にしろよ。

「ほら、片付けるの手伝うから。なんなら、一緒に謝るから。さっさと······」

 わかっている。でも、信じられない。

「さっさと······起きろよ······」

 彼女の肉体から、天根陽和の心がいなくなっていた。



 ◆



 鬱屈として、僕の体は陽和を前にして動かなかった。呆けていると、仕事帰りに立ち寄ったのだろう天根父が来ていた。

「岳彦くん······」

 囁くように僕の名を呼び、隣に座った。

「その、連絡しようかどうか迷ったんだが、どう話せばいいのか、わからなくて······すまない」

「なんで、あなたが謝るんですか? おじさん達の方が、部外者の僕よりもっと辛い筈ですから、そんなこと言わなくてもいいんですよ」

 じーちゃんの葬式に行ったことがあるが、なんの感情の揺れ動きも無かった。誰かに対して、ここまで悲しむのは陽和が初めてだ。

「医師の話だと、陽和の病気は―――」

 天根父は、医師からされた説明を話してくれた。

 『月瞑げつめい病』。月の満ち欠けに応じて、意識状態が変化する奇病。

 これが、陽和を蝕む病の症状だった。

 その症例は、新月だと意識は清明でなんの障害もないのだが、満月になるとその逆。段々と意識が薄れていき、体さえも動かせなくなっていく。ついには、死体と変わらなくなるのだそうだ。

「なんですか? そのふざけた病気は」

「私も、最初は信じがたいと憤慨したよ。だが、日に日に陽和は弱っていってね。今日がその満月なんだよ。そしたら、こんなことに」

 夕焼けの傍らに浮かぶ月は、確かに満ちていた。そういう奇病なのは、本当のようだ。

「おばさんは?」

 天根母の心境を訊いた。あの人は陽和とは真逆の性格で、無口で少しネガティブな空気を漂わせていたから、どう思っているのか心配だ。

「妻も、最初聞いたときには同様に怒っていた。だが、実際に目の当たりにしたら、今の君よりひどい状態だよ。失神して、今度は鬱になりかけている」

 やっぱり。耐えられなかったのか。

 僕も、かなり危ういラインだよ。これが悪夢なら、とっとと覚めてほしい。

「まさか、君が来てくれるとは思わなかったよ。連絡してなかったとはいえ、娘のことをずっと待っていたのかい?」

「そうですね。彼女の口から、『恥ずかしい』なんてらしくない単語が出たのが気になって。さすがに、待たせ過ぎてしまいましたけど」

「そうか。それでも、嬉しいよ。陽和も喜んでいるさ。また来てくれたまえ」

 僕の肩に手を当ててそう言い、天根父は病室を出ていった。

 夜が更けても、僕の腰は上がらず不動のまま。そこに、見回っていた看護婦が来た。

「あのう、もう少しで面会時間が」

「······すみません。すぐ帰りますので」

 まだいたい。そんな気がした。 今一度陽和に振り向いて、僕の想いはようやく固まった。

 それからは、毎日通うように心掛けた。

 今日あった出来事、友達との雑談を話して、彼女の心の居所を確かめる。

 下弦までの五日間は、明確なリアクションは無いものの、日に日に指や眉などの部位が微々ながらに動いて、陽和はここにいるという意思が感じられた。

 半月ともなると、ベッドからは抜けられないが、会話が可能になった。口調は片言気味ながらも、生き返ったような陽和の気色(きしょく)豊かさは、春の訪れのようで温かくかつ喧しい。だけど、それだけで次の日が楽しみになる。 そして、新月。この日に訪れると、風に吹かれる彼女の姿を最初に見る。

「今日はいい見舞い日和?」

 いつもの口癖から始まり、気を抜くと嬉しさで涙を流しそうになる。

「なになに、泣いちゃうの?」

「泣かねーよ!」

 そんな趣味はないのに、からかわれるのが楽しい。

「今日は外に行こーよ」

「いいの? 医者の許可は?」

「ふっふっふ、とってあるよ!」

 ドヤ顔でサムズアップしていたが、やはり陽和はやらかした。

 誰にも気づかれずに脱走して、街を歩き回った。菓子を奢らされ、公園で散々遊んで、帰ると二人共怒られる。

 こんなことがありながらも、陽和はニコニコが止まらなかった。

「いやー、遊んだ遊んだ」

「巻き込まれた被害者がここにいるんだけど?」

「あはは、ごめんごめん」

 他人事と思いやがって。いつものことだけど。

「そう言えば、今日は新月だったね」

 陽和は外を見ながらそう言った。その表情は、どこか儚げだった。

「どうかした?」

 野暮だとわかりながらも、僕は訊ねた。

「病気のこと、お医者さんから聞いた。今日みたいに月が隠れてないと、岳彦と外で遊べないんだよね」

 少し陽和の表情が暗かった。

「らしくないよ。そんなの、とっとと治して退院すればいいじゃん。いつまでも待ってるからさ」 

「······ありがとう」

 そう言ったときの彼女は笑顔だったが、いつものとは違うように見えた。穏やかで、柔らかで、綺麗な笑みだった。

 その日からは、下り坂。

 新しくなった月が満ちてくると、陽和は遠退いていった。上弦を境に、日に日にベッドから出られなくなっていって、声も聞けなくなって、冷たくなっていった。

 闇夜を照らすあの満月を、今の今まで、これほど嫌な存在だと思ったことはない。他人にとっては光を恵んでくれるが、陽和を拐っていってしまう。 確かにかぐや姫だ。だからこそ、余計に憎たらしい。

「それでも、私は嫌だなんて思ったことはないよ」

 いつかの陽和はそう言っていたが、僕はそうはいかなかった。彼女が彼女でなくなる数日は、胸を抉られている感じがするんだ。

「でも、月見ができないのはちょっと損かな。お餅とか食べれないし、満足に和の風流を楽しめない」

 呑気にも程がある。少しは自分の身を案じてほしい。なんでこいつは、こんなにも清々しく前向きに考えられるんだよ。

 そういうところなんだよな。鬱陶しいのに、陽和を許せているのは。だからこそ、いつまでも彼女にはいつまでも彼女らしくあってほしかった。天根陽和という少女が、続いてほしかった。

 そんな僕の理想に反して、現実はさらに乱暴になった。高校二年になっても、陽和は退院することはなく、未だに月に囚われ続ける毎日を送っていた。

 そして僕も、数日はなんとか耐えて、数週間はまだ我慢できた。数ヶ月ともなると、慣れてきていた。一年以上も経つと、自分でもわかるくらいにおかしくなっていった。

 彼女が静かに眠っているときでも、僕は突きつけられた現実から背けないように向き合って、変わらない日常を贈ろうとしていた。だが、いつの間にか人形相手に喋っている感覚だ。

 虚しい。馬鹿馬鹿しい。何をふざけているんだ。胸の内で真っ黒な泥水が渦を巻いている。

 前までに抱いていたものは、それにすっかり埋まってしまった。掘り返したら、どうしようもなくなりそうで怖い。

 気づけばまた、目の前が灰色に戻っていた。いや、もっと酷い。

 モノクロだ。

 木枯らしが吹く十一月上旬。珍しく、天根母がいた。ここで会うのは初めてだ。

「こんにちわ」

 挨拶をすると、天根母は深くお辞儀をして返した。 今日は満月が浮かぶ。陽和は機械の手を借りて、ぐっすりと寝ている。

 天根父とは何度か会ったことはあるが、天根母は初めてな気がする。陽和に話をしたかったが、親がいると色々と気まずい。そう思い、病室を出ようとした僕を、天根母は呼び止めた。

「岳彦くん、ちょっといい?」

 声を聞くのはいつ以来だったか。天根母は無口で暗い印象だ。声を発しているところは、あまり見たことがなかった。

 僕の母曰く、少しシャイだけどお菓子作りが上手で、暇な時によく教えてもらっているのだとか。

 二人きりで話すのは初めてだ。だからか、少し緊張する。

 場所を、陽和のいる病室の近くの自販機前に移して、天根母は頭を下げた。

「まずは、いつも娘と仲良くしてくれて、ありがとう」

「どうしたんですか? 急に改まって」

 それよりも、僕は天根母が心配だった。以前、天根父が話していたことを想起していたからだ。

 見ていると、一層影が濃くなった印象がある。

「あのね、たださ、その、申し訳ないなって、思って······」

 肩に垂れた黒髪を指で巻き取りながら、天根母はそう言った。

「申し訳ない? ああ。別にいいんですよ。これは僕が好きでやってるんで。それより、僕はあなたが心配だ。おじさんから聞いてますよ。その、おばさんが······」

「わかってる。でも大丈夫だよ。岳彦くんのお陰で、少しは立ち直れたから」

 今の天根母の謝礼には、疑問符が上がった。僕が何かしたのだろうか。

「岳彦くん、陽和があんな風になっても、毎日毎日、寄り添ってくれた。私は岳彦くんのそういうところに励まされたの。親として、本当に情けないことを······」

「そんなことありませんよ。陽和だって、喜んでくれてると思いますよ」

 声を震わせ、その場にへたりこむ天根母に寄り添う。

 部外者の僕が言えることはもう無い。天根母がどんな思いでいたのかなんて、計り知れない。

 比べて僕は、ただ陽和のいない日常から脱却したかっただけだ。現実を受け入れていると自覚している。だけど、本当はまだ怖いんだ。本心は、来たくなかった。 それなのに、天根母は僕をいい人間として捉えてくれていた。親子揃って、どれだけ純粋なんだよ。

「ありがとう。岳彦くんみたいな子が、陽和の友達になってくれて、本当に嬉しい。でも、だからこそ、ごめんなさい······」

 また謝られた。

 なぜそこまで、胸を押さえて苦しそうに謝罪するのか。

 次の一言で、全てわかった。

「陽和は、もう······家には、帰ってこないの」

 この話の先からは記憶が曖昧で、気づくといつの間にか天根母は帰っていて、僕は陽和の病室に戻っていた。 満月が登って、街の夜景が目に入ったが、この場景を綺麗とは少しも思えなかった。

 しばらくすると、看護師が体調チェックをしに訪れた。

「すみません、少し離れてください」

 看護師の指示に従い、入り口付近に立つ。天根母の泣く姿を思い返して、恐る恐る訊ねた。

「彼女の病気って、治せますか?」

 看護師は静かに作業をするだけで、答えてはくれなかった。しかし、出るときに横切った際、「お気の毒に」と囁いた。

「なんだよそれ」

 陽和はこれを知っているのだろうか。知っていたとしても、彼女はめげずに向き合って······いや、違う。安心させたかったんだ。変わらない元気な姿を見せて、悟らさせないために気を遣っていたんだ。

「ひでぇ」

 どこまでもふざけた奴。どこまでも鬱陶しい奴。それでいて、とても輝いている奴。僕は、そんな彼女に惹かれた。

 天根陽和によって彩られたものが霞み、滲み、滲む、滲んでいく。










 ············いやだ!










 僕はワガママになった。

 できる限り彼女の傍を離れないために、高校卒業後すぐに一人暮らしをすることにして、病院の近くにあるビデオレンタル店でバイトも始めた。小太りな店長は支配者面で、僕との相性は最悪だ。

 毎日毎日、飽きもせずに不満をぶつけるように新人の僕に無理な仕事を押し付けてくる。

「あの豚店長、いつかぜってー弱味握ってクビにさせたる」

「おう! しちゃえ、しちゃえ! そんな分からず屋は世間のクズだ!」

 変わらず陽和は笑ってくれる。

 愚痴を言えば、一緒に陰口を叩いてくれる。苛ついたら、一緒に拳を突き上げてくれる。

 陽和の内情を知ってから、僕は泣くのをやめた。彼女の前では、病のことを忘れるくらいに下らない若者となって、少しでも安心させようと徹底するために。

 逃げたいと何度も思った。挫けそうにもなった。見ていられなかった。辛かった。そんな数多の弱音の中でも一番嫌だったのは、それで終わりたくなかったことだ。一分一秒でも、彼女の傍にいたい。ほんのひとときの取り溢しもなく、天根陽和との時間を過ごしたかった。時には高校時代の友人を連れてはわいわい話して、同じく入院している老若男女とも接する。

 春には桜の花吹雪、夏には祭りの花火、秋には紅葉と銀杏、冬は銀世界。四季折々の場景に紛れて、いつかのように二人で病院を抜け出して遊び回った。子供の頃を思い出すように、笑って、はしゃいで、ふざけて、怒られて、やめられずにまた抜け出してを繰り返す。

 忘れようのない思い出を、次々に増やしていった。 陽和は満足げにしていたが、僕はそうでもなかった。 なにより、僕には未練がある。まだ、彼女からの返事を貰っていない。いや、そもそも始まってもいないか。



 ◆



 深く呼吸をして動悸を抑え、病室に入る。

「陽和」

 上弦が覗く静かな夏の夜、僕は彼女の名を懐からそっと取り出すように呼んだ。

「なに? 岳彦」

 呼び声に応えて、陽和は僕の顔を見た。

「高校の時、覚えてる? 入院する前に、手紙で呼び出して、それで」

「ああ、『ぼくとちゅきあってくだひゃい!』ってやつでしょ?」

「なんでおちょぼ口で間抜けた低い声で再現するの。今、滅茶苦茶シリアスな空気で話してんのに」 そして、やっぱり聞かれてた。「アハハ、ごめんごめん。あまりにも岳彦が面白くて、忘れらんないよ。しかし、あれはマジでウケたわ。グヒヒヒヒ」

 笑い声を必死に押さえて悶える陽和を見て、僕の中の決心が少し揺らいだ。

 このままでいれば、余計にお互い苦しむことはないのしんてい くびきではないか。そう心底の軛が囁いた。

「にしても、今考えたら、岳彦もかなりの物好きだよね。こんな私と一緒にいたがるなんて」

「急に何を言ってるんだよ」

「だってさ、私って変な女じゃん? うるさいし、見た目詐欺の性格だし、腹黒いし、あんまし周りからいい風に思われてない。こんな私と一緒にいたがるなんてさ。やっぱり、岳彦って相当変人だよね」

 震えている。彼女の重ねた手が、小さく怯えているように。それを見て、僕の中の何かが吹っ切れた。

「もしかして、岳彦って私のことが好きなの?」

「うん」

 即答だった。自分でも驚くほど、考える間もなく口にした。

 陽和もキョトンとしていて、暫しの間が空いた。

「ほ、本気?」

「本気だよ」

 陽和は動揺していた。

「ウソ。正直、最初に会った時に声をかけたのは、ただの暇潰しだったんだけどなー。いじめられてるのは、見てすぐにわかったよ。だからって同情はしてないし、本当に退屈しのぎにちょっかいを出しただけ。だから、あんたの気持ちなんかこれっぽっちも······」

「わかってる」

 僕は陽和の言葉を遮り、そっと手を握った。

「わかってるよ。きみが嘘下手なの」

「え?」

「それだけじゃない。元気で、大人しくいられなくて、つまらないのが嫌いで、やんちゃで、寂しがり屋で、甘えたがりで、バカで、正直で、優しいってのは。前からずっと、わかってたよ」

「岳彦? ふざけないでよ。私は、あんたに······」

 彼女の目には涙が浮かんでいた。

 陽和、ごめんね。僕だって、譲りたくないんだ。

「曇天の下の灰色じゃない、きみの彩る綺麗な世界がい

い。きみに隣にいてほしい。いつまでも、一緒にいたい」涙を堪えて、はっきりと口を動かす。でないと、終わらない。

「きみが好きだ。僕と付き合ってください」

 あの日に遡って、一番かけたかった言葉をやっと伝えられた。緊張はしていない。心底の軛は崩れ落ち、僕はようやくやってのけたんだ。

「いいの? 私は、もう······」

「僕も、いい加減はしたくない。聞こえなかったのなら、何度だって言うよ。きみが好きだ。だからずっと一緒にいたい」

 彼女の目からは涙が溢れていた。拭いながら、バカ、バカと僕に罵詈雑言を浴びせてくる。でも、陽和は怒っても、悲しんでもいなかった。

「バカ······あんたの方が、バカじゃん······」

 そっと抱きしめて、今の今まで溜め込んでいた陽和の全てを受け止める。

 涙に溺れた目を閉じると、彼女は僕を離さないように腕に力を込めた。そして、僕たちは奥深くまで沈んでいった。

 最後に感じたのは、彼女から流れ込んでくる熱と、この言葉だけだった。

「どんだけ待たせんだよ。······バカ」



 ◆



 翌年の9月21日、天根陽和は死んだ。

 享年21歳。

 死因は『月瞑病』による衰弱死。

 彼女の遺体は死してもなお美しく、まさにかぐや姫のようだった。

 葬式で、初対面の親類縁者、その他知人が多く集まる中、喪主を務めた陽和の両親から直々に友人代表として挨拶を頼まれた。

 僕は、僕だけが知っている天根陽和の生涯や思い出、そして彼女に抱いていた好意も包み隠すこと無く全て語った。

 辺りから啜り泣く声が聞こえて、改めて天根陽和がどれだけ愛されていたのかがわかる。

 数年経った今でも、僕は彼女の誕生日にお供え物を持って会いに行っている。

 悲しいけれど、僕は涙を流さなかった。墓の下で眠る彼女に声が届かなくても、隣にいる気がするから。彼女の前では、笑顔を忘れないようにしている。

「今日も、いい日和だな」

 不思議とその日の天気は毎年、晴々とした曇り無き快晴であることが多い。


 青空に、我が物顔で燦々と。今日も輝る日は、これよきひより。

 いつかそっちに行けたなら、彼は彼女を呼び続ける。あの晴々とした声が、応えてくれるまで。







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