君の音に捧げる言葉(うた)
「雨が降る」
君の固かった表情が少し和らぐ。いつものことだから、次に発するであろう言葉はわかっていた。
「屋根のある場所に行こうか」
先に僕がそう言うと、君は目を見開いてから頷いた。嬉しそうに綻んだその顔は僕の大好きな笑顔だった。手を差し出せば、恥ずかしそうに手を取ってくれる。
音をたてて屋根に落ちる雨。僕は黙ってその音を聴く。
きっと、君はこの瞬間もこの音を『曲』に変えている。僕はそれが終わるまで隣で待つ。そうすれば、そのうち君の音が聴けるとわかっているから。
数分経った。
雨の音を遮る君の声。綺麗な歌声。僕はそれが昔から大好きだった。
絶対音感で、建物の床が軋む音さえも美しい音に変えてしまう君。僕はたくさんの音を君を通して聴く。
「いい『曲』だね」
君は少し苦しそうな表情で俯いた。
遠山和音、小学生の頃から「天才作曲家」の肩書きを持ち、世間の注目の的。
僕の幼馴染であり、大好きな人。
「私が作ったんじゃないの」
和音はずっとそう言っていた。その言葉を信じる大人は誰もいなかった。
和音が泣きながら僕の元に来たことは何度もあった。そのとき僕は、慰めの言葉一つもかけられなかった。それどころか、知らぬふりをした。
情けない。大好きな人も守れない。幼い僕にはそんな簡単なこともできなかった。
寺澤楽。僕の名前。その名前は中学生になってから和音に呼ばれることはなくなった。理由はわかってる。
「楽は知ってるでしょ? 知ってるのに、なんで、なんで……」
黒くて長いその髪が揺れて、僕の視界に入る。そのたびに思い出すのは和音との最後の会話。そのときの涙。
僕がその涙やいつもの笑顔も何もかも、たくさんの和音を見れる未来をあのとき全て手放した。
だから、和音のことは全部忘れよう。近くにいても和音を視界に入れないように、和音の視界に入らないように。
そう思ってから何ヶ月も経った。
でも、僕は和音と生まれたときからずっと一緒だった。だから、いつまでも思い出は消えない。和音の涙、笑顔、仕草、その全てが目に焼き付いている。和音の声、歌は僕の耳を離れない。
そして、雨。雨の日は必ずと言ってもいいほど和音と一緒にいた。
僕が和音を迎えに行くことも、和音から僕の元に来ることもあった。和音の歌を僕が聴きたかったから。そして、和音自身は僕に雨の奏でる音を聴かせたかったから。めちゃくちゃな音でも、和音が歌えば全て心地良い歌だったから。
でも、その全てが、和音の意志とは関係なく、世に出ていた。和音のものとして。
休み時間の教室の端の席で雨の降る窓の外を眺めながら、僕はため息をつく。
「ねえ、なんで曲作らないの? スランプかなんか?」
その言葉に教室が一瞬静まり返る。そして、ひそひそ話があちこちから聞こえてくる。
見れば、和音の席の前に見知らぬ女の子が立っていた。どうやらその子が転校生らしいことは近くでひそひそと話すクラスメイトたちの会話からわかった。
和音は俯いて黙っている。和音は短い期間でたくさんの曲を作ったことになっていた。でも、ここ最近は音沙汰がないと、ネットでぽつぽつと話題になっていた。スランプか、という見出しのネットニュースもあった。でも、真相はきっと、和音が曲を出すことを拒んでいるのだろう。
「どうせ、ヤラセとかだったんじゃないの? あんなに曲作れるわけないじゃん」
誰かが、言った。
和音はきっと傷ついているだろう。僕はそれをわかった上で、教室から逃げるように出る。
「助けなきゃ」
そんなことはわかってる。でも、どうやって?
和音は僕と口も聞きたくないかもしれない。
和音は僕の顔すら見たくないかもしれない。
でも、ここで助ければまた元の関係になれるかもしれない。昔の僕がした知らぬふりしたことを帳消しにできるかもしれない。そんな厚かましい考えが浮かんでくる。
教室の中に戻る。
僕は和音の元へと向かう。
「ねえ、なんで?」
そう言って、まだ和音を問い詰める子の声を遮って、僕は。
「遠山さん、先生が遠山さん呼んできてくれって言ってたんだけど、今大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
和音は、目に不安と希望の入り混じった色を浮かべていた。それでも、僕の言葉に乗ってくれた。
「ごめん、和音」
「ううん、助けてくれたんでしょ?」
苦しそうに和音は笑う。
僕の謝罪は和音にはうまく伝わらない。大事なところを省いてしまった自分を恨む。そして、訂正することもできずに、ただ頷いた僕は本当に臆病だ。
あれからしばらくして、和音とは少し話すようになった。昔みたいにとは言えないけれど。
言いたいことは未だに言葉にできていない。
でも、そのおかげで良い方法を思いついた。
昔は和音と喧嘩して、翌日に持ち越してしまうことがあった。朝、謝りに行こうと家を出ると、ポストから紙がはみ出ている。それを取り出してみれば、いつも楽譜だった。その楽譜は暗号になっていて、読み解けば「ごめん」というメッセージがわかる。それで、僕も謝りに行って、仲直りだった。
暗号。それはイギリス式の音階、つまり「ドレミ」をドイツ式の音階、つまりアルファベットに直して読み解いていくものだった。初めてそれを見たときは困惑した。「がくへ」と書かれた楽譜が投函されているのだ。
両親と首を傾げながら和音のところに謝りに行けば、和音が読み解き方を教えてくれた。和音が「わたしがかんがえたあんごう」と胸を張っていたのを思い出す。
僕はとにかく、その和音が考えた暗号を使って、楽譜を作る。小さい頃からやっていたものだ。英語の勉強だってしている今は簡単に作れた。
楽譜を持って和音の家の前まで来たものの、少し恥ずかしくなってきた僕は、Uターンして別の友達の家に向かった。もう1人の幼馴染の家に。
「いらっしゃい」
古江響は笑顔で僕を迎えてくれた。
響は僕と和音より一つ年上だったから、幼馴染ではあるけれど、少し距離があった。それでも、昔から僕のことをよく知っているからだろう。悩んでいることがすぐわかったようだった。
「謝りたいんだろ〜? あれ使えばいいじゃん」
響は「ほら、楽譜の」と言って、引き出しから例の暗号の楽譜を一枚取り出す。
「もうとっくにそれはやったよ。あとは渡すだけ」
楽譜を見せれば響は笑った。
「許してもらえるといいな」
「いつ渡すかが問題なんだけど……なんか恥ずかしくて渡せなくてさ」
「そんなの……今度和音の誕生日じゃん。そのときに渡せよ」
和音の誕生日はそういえば1週間後だった。
「そんなめでたい日に、嫌なこと思い出させたら……」
「お前、そんなこと言ってたら一生渡せないだろ」
響が僕を小突く。確かにそうだ。
「うん、誕生日に、渡すよ。絶対に」
「おう!」
響が眩しい笑顔で笑った。
和音は今、きちんと自作の曲を書くんだと意気込んでいた。僕はそれを見守っていた。
「和音、もう少しで誕生日だね」
和音は楽譜を書くために動かしていた手を止めて、僕の方を見る。覚えてるなんて思ってなかったんだろう。笑顔で頷くと、和音は言った。
「プレゼント、期待してるね」
和音は悪戯っぽく笑って、また作業に戻った。
なんだか、昔に戻ったみたいで思わず笑ってしまった。和音がなんで笑ってるのと顔を赤くした。
「もう、明日か……」
「怖気付いた?」
「別に?」
「嘘つくなよ〜」
家に遊びに来ていた響が笑いながら僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「お前らがまた仲良くなってから、俺の方もまた和音と仲良くなってきたよ」
響は嬉しそうに笑う。昔の響は和音の絶対音感のことは知らなかった。だから、無自覚に傷つけたことを後悔してる、そう言った。
「俺も謝るからさ、お前も安心して謝れよ」
「一緒に謝る?」
「やだね」
響は首を振る。
「お前の楽譜の意味無くなるだろ」
「まあ、そうだけど……」
「だからだめだ。じゃ、また明日」
響はそのままさっさと帰っていった。
「よし、今日だ」
思い切り自分の頬を叩いて気合いを入れてから家を出る。
ずっと伝えたかった言葉を伝えるために。
「誕生日おめでとう。和音」
「おめでとう〜!」
僕は楽譜とハンカチの入ったプレゼントの箱を渡す。響は花束を渡す。
「カンパニュラって花だけど、気に入った?」
「うん……!」
和音は目を輝かせて頷く。そして、僕からのを見て、開け始める。そしてハンカチを見て……楽譜を見る。
「これって……」
「あ〜……和音が昔よくやってたやつ、思い出して」
和音はすぐに解読を始めた。和音にかかればすぐだったようで顔をあげる。そして、そのときにカンパニュラの花束にあるメッセージカードが目についたようで目を見開いた。
涙を目に溜めて、僕ら2人に抱きつく。僕らも思わず泣いてしまった。泣きながら、きちんと言葉で想いを伝えた。
メッセージカードには「カンパニュラの花言葉は『後悔』。あのとき、気づいて、助けられなくてごめん」と書かれていた。
僕の楽譜には「知ってたのに、助けられなくてごめん。これからはずっと、和音のそばにいて、助けるよ」と書いた。
僕はあのあと告白した。
そして、和音は「天才作曲家・寺澤和音」として、大人になった今は「自分の曲」を世に出している。