異変 2
あれから私はどうやって病院を去ったのか、気づけば自分の家のすぐ近くまで来ていた。彼女の母親にちゃんと挨拶をしてきたかどうかが今さらになって気になってきたがもうここまで来ていることだし、また後日に彼女のメッセージにお詫びの一言でも入れておこう。
夢見が悪い、それだけで果たして意識不明になってしまうようなことはあるのだろうか。それにあの勉強会をしていた時に彼女が話していた内容も気になっていた。繰り返し見る悪夢、私はソレを知っているような気がする。なぜだかわからないが言いようのない漠然とした既視感と焦燥感を覚えた私は見知ったはずの景色がいやに恐ろしく感じられて、早く家に帰ろうと足早に歩道を行く。通り過ぎていく景色、視界のすみに茶色いカマキリがゆっくりと歩いていた。
家についてもどこか心ここにあらずな私を見て母は友人が意識不明になりショックを受けていると思ったらしい。いつもは口うるさい母は何も言わずもう寝なさい、と言うだけだった。ショックといえばショックだが、それよりも見舞いに行ってから感じるぞわぞわとしたこの感覚が気持ち悪くて仕方がない。母の言葉通り、寝れば少しはマシになるかもしれないと思い布団に潜り込むが、何故だろう潜り込んだ途端に襲い来る異様な眠気とともに眠ってはならないという妙な警鐘が頭の中で鳴り響く。しかし疲れていたからなのか異様な程強い眠気には抗えなかった。
あれ、今日は見舞いにしか行ってないのに、どうしてそんなに疲れているのだろう?
その疑問を最後に私は重くどんよりとした暗闇へと落ちていった。
息苦しい、自分の喉から聞こえる喘鳴と強く叩かれているかのような鼓動音。それらに背中を押されるように走り続ける。こんなにも必死に走っているのにまるで前に進まない、焦りを募らせる自分を嘲笑うかのように背後のソレはゆっくりとそして驚異的な速さで追いかけてきている。はやくはやくと急かせば急かすほど足はもつれ重く、まるで泥沼の中にいるかのようだった。それでも必死に逃げようと体は動き続ける。
もがき続け息をきらしたその後に背後、自分のすぐ耳元で囁くような音がした。
「いい加減に起きなさい!」
目の前には怒り顔の母が掛布団を持ちながら仁王立ちしている。気づけばもう朝の9時を回っているようだ。ベッドに腰かけ深く息をつき、呼吸を整える。心臓がバクバクと音を立てて忙しなく鼓動ししており、それを落ち着けるように深呼吸を繰り返す。息を整えながら気づいたが、全身にまるで運動をしたあとのような大量の汗をかいている。
嫌な夢を見ていたような、あれは前にもどこかで見た気がする。
起きてからずっと腰かけているままの私にしびれをきらしたのか、母はまた私の部屋に顔をだしてきた。
「そろそろ着替えてご飯食べちゃってよ。いつまでたっても洗い物が片付かないでしょう。」
今日はパートに行く日であったようで、はやくしろとせっついてくる。のろのろとベッドから離れる私を見とめ、ようやく部屋から出ていった。
机に広がったままの課題に手をつけず、ただひたすらに宙を見つめ続けていた。冷房の効いた部屋にいるのに頭だけが妙に熱を持ったかのような感覚だ。
朝起きてからずっと彼女のことと昨夜見た夢について考え続けていた。なんともありえない理解しがたい結論にばかりいきついてしまうが、何故かそれに納得してしまう自分がいる。
そのたびにもう一度思考をし直すが同じことだった。
そう、昨夜見たあの夢は彼女の言っていた悪夢と全く同じものであり、彼女はアレに捕まって殺されてしまったのだろう。そして私はその夢を過去に何度も見てきたのだ。
朧げだがその中に彼女の姿があったような気がしなくもない。
現実味のない話だが、もはやこれ以外に正解はないような気がする。ぬるくなったお茶を一口飲み、それでどうしようかとひとりごつ。
彼女の母親にもう一度は詳しい事情を知っているか確かめに行くべきだろうか。手元で時計を確認すると丁度お昼時のようだ。時間はまだあるが、外は今日も変わらず暑そうなので、出来ることならこの時間帯に外出は控えたいところだ。昨夜の夢見が悪かったせいだろうか、眠気もしてきたような気がするし今日のところは会いに行くのはやめておこう。連日の訪問も迷惑に感じるかもしれないし。
そこまで考えが及んだところで、昼寝でもするかと座っていたラグの上に寝転がる。横になるとやはり眠たかったのか、うとうとと次第に瞼がおりそのまま意識がぷつりと切れた。
落ちる。
体が宙に投げ出され頭から落下しているかのような感覚に、命の危機だと感じているのか心臓がきゅっと収縮しているかのようだ。ブランコに乗っているときのような体が重力に引っ張られるあの何とも言えない不快感。
そこでふと気づいてしまった。おかしい。下に下に落ちていると感じているのに、何故何も感じないのだろう。体が空を切る感触も耳元で聞こえるはずの風の音も。何も感じない。
本当に落ちているのだろうか。私はその事実を確かめるべくそっと目を開きそして。
ここはどこだろうか。ふと気づくと知らない場所にいた、なんてなんともおとぎ話チックなことまさか実際に自分で体験することになるとは思いもよらなかった。
あたりを見まわしてみるとどうやら多くの人がいるらしい。ざわざわと話し声や囁き声が聞こえてくる。
「あの、すみません。」
「あの、ここがどこか教えてくれませんか。」
知らない場所にいると気づいてからどれだけの人に声をかけただろうか。依然としてこの場所がどこだかわからずにいる。何故か皆声をかけるとひどく驚いたような顔をする。なかには周囲をきょろきょろと落ち着きなく見渡し誰かが動くたびに怯える人までいるのだ。
ここはまともな人はいないのか?それか話だけでもできたらいいのだが。
そうは思っても中々収穫が得られない。ほんとにここはどこだろう。見る限り室内であるとは思うのだが。
人から情報が得られないならなんとか自力で状況を把握しようと考えている最中であった。
くぐもった誰かの声が聞こえ一拍の後、悲鳴が響きわたり蜘蛛の子を散らすかのように逃げはじめ、何が起きているのか理解する前にほとんど反射のように私もその場から逃げた。
とにかく、逃げなければ。隠れなければ。
その考えに突き動かされるようにがむしゃらに走り、何かの陰に数人の人影を見た。その陰にいる一対の目とあい、その瞬間陰から伸びた腕に捕まれ抵抗する間もなく引きずり込まれ口をふさがれる。
突然の出来事に驚き叫び声をあげようとすると、口をふさぐ手と腕を掴む手にぎゅうと力がこめられた。そのことにさらに暴れようと振りほどきかけたその時、大きく見開かれた目が見えた。陰の中から見えたあの目だった。それは私ではなくその後方、先ほどまで私がいたであろう場所を見やっている。拘束している手が小さく震えていることに気づき、そおっと後ろを振り向いた。
私の後ろにもまだ走っている人がいたのだろう。数人が青ざめた顔色で走っている。どうしたのだろう、そう思う暇もなくそのうちの一人が飛沫をあげながら倒れこんでしまった。それに足をとられたのかもう一人が転ぶ。助けてくれ、置いていかないでくれと泣きながら先を走りぬけて行く人達に乞うが見向きもされない。その転げたままの人にゆらゆらと女性が近寄ってくる。頭をガンガンと鈍器で殴られているかのように警鐘がなる。まるでこれから起こることが分かっているかのように自然と息を殺し、岩になったのではないかというほどに身を固くする。
女性はゆっくりと近づきそして、耳をつんざくような絶叫、恐ろしい怨嗟の声があたり一面に蔓延した。
それが終わり、女性はまたゆっくりと更に奥へと動き始めた。おそらくその先でもまたあの音が響き渡るのであろうことは容易に想像できてしまった。
しばらくはこの陰にいる誰もが動くことも話すこともできなかった。まさしく静寂がその場を支配していた。
私が自分の口や腕から手が離れていることに気づいたのは、どれ程経ってからだろうか。私は漸くまともに会話の出来る人に出会うことができた。
「あれは、なに。」
誰ともなく呟いた言葉に私は何故だかその答えを知っているような気がした。
かつて何度も見た気がする。既視感の正体。そう、あれはまさに。
「鬼だ。」