Albireo
B5版のコピー用紙が十枚と少し。それらがまとめて綴られている。
表示には恥ずかしいペンネーム。中身は独りよがりで、でも今よりずっと素直な文章。
きっとこの一冊以外はこの世に残ってないもの。
最後のページを開いて微笑んだ。まだ間に合うだろうか。
*
「嶋田ー、もうちょっと顔上げて」
放課後。
理系特進クラスゆえの一時間多い時間割を消化してから遅れて部室にやってきた彼は、勝手知ったるとばかりにそう言い放って自分の指定席に座った。椅子の上で足を組んで座るその姿は非常に行儀が悪い。が、聞き入れるわけもないので相変わらず彼の言われるがままにする。三年も経つと慣れるものである。
諦める、ということなのかもしれないけれど。
鬱憤を晴らすように黙々とスケッチブックに向かい続ける彼にため息をついて、手元に意識を集中させた。卒業まで残りわずか。せめて夏の前に一冊でも個人誌を出そうと思ってからというもの、受験勉強の息抜きがてら少しずつ書き溜めてきた。出来るだけ八月中に出したかったのだが、やはりそう上手くいくものでもない。
「おい、おーい。出来たよ、見て見て」
いつの間にか隣に来ていた彼に驚くこともせず、差し出されたページを受け取った。白と黒だけで描かれたそれに目を落とす。
「やっぱり美化とかしてくれないよね、浅野はさ」
紙面のシャーペンを走らせる少女が私であることは明白だが、あまり素直に喜べない。現実そのままに描く彼の画力は流石であるが、とりわけ美形でもない自分を見るのはなんとも複雑である。なまじそっくりに描かれているのが性質が悪い。
「俺はね、嘘を描くのは好きじゃないんだ」
あはは、と調子外れの独特な笑い方で紙を取り上げながら「あ、でも」と続け、古びた窓を開けた。
「嶋田が書く嘘は好きだよ」
――だから挿絵は任せとけ。描けるから。
そう少し照れくさそうに笑う彼に、楽しみにしてる、と目を逸らしつつ告げる。
三年間なんとなく一緒に過ごしてきた絵を描く彼に、個人誌の挿絵を頼むのは自然な流れであった。私が初めて依頼した時にすごく嬉しそうに頷いていたことを思い出しながら、外を眺める彼を見つめる。
君の描く「本当」は私も好きだよと、心の中で呟いた。
*
「うっわー、なんだか意外に甘酸っぱいですね」
だいぶ失礼な言い方をしたインタビュアーに苦笑する。顔なじみであるからこその反応。そのため特に気にはしないが。
「あ、ちなみにその個人誌ってどんなものを書いたんですか?」
思わず渋い顔になったのは許して欲しい。その時代のことを語るにはいささか恥ずかしい年齢である。
「確か、高校生同士の恋愛の話です。卒業で分かれてしまうとか、そんな在り来りなやつ」
そう濁した私を見て何も言わずニヤつき始めた目の前の彼女に溜息をつく。伊達にプロではないか、と向き合うように続けた。あるいは女性ゆえの目敏さや興味か。
「卒業前に主人公の女の子がピアスをつけ始めるんだ」
続けて「小説の話ね」なんて前置きをつける。
「その頃にはもうお互いに別れるんだろうなとかは感じてて、でも言い出せなくて。卒業式が終わって日も暮れて。星が空に見え始めたような時間でね。顔を合わせたのにそのまま何も言わずに立ち去ろうとした彼に、主人公が片方だけの空色のピアスを差し出すんだ。自分は橙色の、対になるピアスをしててさ」
そこまで言って、思わず微笑みを落とす。
「で、こう言うんだ。『これを受け取ってもらえないか。もし次どこかで会えた時に、君がこれを着けていたら、もう一度声をかけもていいか』……なんてね。そこで物語は終わる。そしてその個人誌にさっき話した高校時代の腐れ縁の男の子に挿絵を描いてもらったんだ」
最後まで黙って読んでいた彼は、顔を上げた時にものすごく嬉しそうな顔をした。
「先生、今回の新作って初めての恋愛ものですよね。テーマは再会。そして表紙も初めてイラストレーターの方を指名して……」
言いながら私の右の耳元を指す彼女。そこには当然のように小さなトパーズを配する、橙色のピアスが揺れていた。
だからそこまで言われたらと、私は静かに両手を挙げた。
*
カビたような本の匂いに、西日しか入らない小さな教室。
今日、私はここを出ていく。
最初で最後の個人誌は何人かの友人と先生が「寂しくなるなぁ」と笑いながら持って行ってくれた。
たった三年間。書いていた私と描いていた君。少しの未練と決意は伝わったのだろうか。
『耳元の連星』
そう書かれた本の最後のページには、ほっそりとした指でつままれた白黒で描かれた空色のピアスを受け取る、ごつごつとした掌が描かれていた。
お読み頂き、ありがとうございました。