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一般向けのエッセイ

キム・ギドクの「サマリア」

 

 キム・ギドクに「サマリア」という映画があってギドク作品の中では一番好きだ。ギドク作品の中で一番の傑作というわけではないと思うが、好き嫌いで言えば一番好きだ。ギドク作品は、性と暴力を過剰に描いたものが多いのだが、「サマリア」はそういう描写が最低限で、叙情性もあるので、キム・ギドク見たいけどアク強そう…という人にもお勧めである。


 ストーリーは、仲良し女子高生の一人が援助交際する所から始まる。援助交際している女の子は何故、援交しているかはわからない。ただ、彼女に心の空白があるのはなんとなくわかり、それを埋める為か、その空虚から逃れる為か、そういう事をしている。この子は作品の序盤であっさり死んでしまう。残されたもう一人の女の子の方が、死んだ子の後を追うように援助交際を始める。そうして前の子が援交した相手と関係を持って、相手にお金を返していく。(お金は前の子から預かっていた) こう書くと不思議なストーリーだ。


 その後は、女子高生と父との話になる。父は偶然、娘が援助交際しているのを目撃し、腹が立つのだが、娘に言い出せない。やり場のない怒りを父親は、援助交際した男の方に向ける。遂には殺人まで犯す。


 その後、親子二人(父と娘二人の家族)は贖罪の旅のように母の墓参りをする。そこでは田舎の美しい自然がクローズアップされていて、人の業や罪がその中に溶かされていくように描かれていく。とはいえ、業や罪がそのまま許されるという事はない。父親は自ら呼んだ刑事の手で捕まる。娘は捕まった父親を追って走り出すが追いつけない。話はそこで終わる。


 最初に重要でない事から片付けると、「韓国社会って日本とよく似ているな」と自分などは思った。ネット保守に怒られるかもしれないが、女子高生のJK感というか、いかにも「普通の女子高生」のイメージが大抵日本と同じである。


 また、主人公の一人である「良いお父さん」である父親も、日本の「お父さん」のイメージと大体一致する。ラブホテルの駐車場のビラビラした変なのまで一緒で、まあ、よく似ているなあと思った。ラストに出てくる自然、自然に人間が包まれて癒やされていくというのもアジア的というか、日本人ならなんとなく感得できる部分に思う。


 そういうわけで、韓国映画と言いつつ、感覚的にはすんなりわかるような出来になっていると思う。自分は現代の映画監督ではレフンとキム・ギドクの二人に影響を受けたのだが、レフンの「プッシャー」なんかは良い作品だが、文化的な差を感じた。そういう意味ではキム・ギドクの方がわかりやすい。最も、どちらにせよ現代社会を扱っているので、唯物論・快楽主義・拝金主義といった所がいずれ問題になるので、文化的な差と言いつつも大した差ではないと思っている。実際には差がない世界になったので小さな差で大騒ぎするようになっただけと思う。


 作品の核の部分について話すと、キム・ギドクという人は根っこにキリスト教的な「贖罪」の考え方がある。このキリスト教性は作品にわかりやすく記号として配置されているのだが、表面的なものはどうでもよく、根本的なキリスト教世界観がどうなのだというのが問題になるだろう。

 

 まず、最初に援助交際している女子高生がいて、これは序盤で死ぬのだが、何故彼女が援助交際しているのか、何故彼女がそんな事をしているのに笑みを絶やさないのか、それは作品内では説明されない。村上春樹なんかがわざと謎を説明しないのは、その点を空虚にして意味ありげに見せて読者に想像させるというエンタメ的戦略なのだと思うのだが、キム・ギドクの場合はそれではないと思う。

 

 キム・ギドクにおいては、「人間はそういうものだ」と乾いた視線が感じられる。つまり、そもそも人が常識的に生きており、そこから逸脱して法を犯すのではなく、そもそも法を犯したり、犯しうる、そのような存在として自然の中に投げ出されているのが人間だという認識で、女子高生が援助交際している理由が示されないのはそもそも、援助交際をしているのが異常で、正常でありさえすればしなくて済むという思考ではなく、人間は前提としてそのような狂気、涜神、悪といったものに彩られている。ギドク作品において人間は最初から世界の中に投げ出されている。

 

 「悪い男」ではヤクザが道すがら女子大生を好きになり、いきなり路上で強引にキスするのだが、この「好き」は(途中で一応説明が入るが)実質的には理由のない、意味を持たない衝動であって、そこで「好き」になるに際して因果関係を辿れないような情熱が其処にあると想定されている。自分はそのように考えたい。

 

 同様に「サマリア」という作品も『いきなり』始まる。考えてみれば、人間というのは理由があって必然があって発生するのではない。まず、自我がある。自己があって、それを反省的に眺めた時に過去の因果系列が浮かび上がってくるが、過去を眺める己は、いきなりそのようなものとして自分自身に現れる。僕という人間の傾向ーー例えば、数学よりも文学が好きとか、女ではなく男であるとかいった様々な事柄はいきなり僕に与えられるのであって、それを意思して決定したわけではない。にも関わらず、意思で選んだわけではない存在を人は自己として生きざるを得ないわけである。

 

 「サマリア」という作品でも、物語を発生させる原因は、根拠のない衝動である。理性は根拠を求めるが、理性そのものは根拠というような論理とは違うところから生まれて存在し、根拠というものについて思いを巡らすようになる。考えてみれば人間の存在は不可解だ。女子高生が援助交際するのは、なにか社会的問題があってそうするというより、そうであるという状況からスタートする。一般多数派は自分達を数で正常と思いなしているにすぎない。彼らの罪は罪を罪と自覚しないところにあるが、罪を自覚するものは自己を自覚する。生きる事は自己認識であるとすると、人はなぜだかわからずそうなった己を見て始めて真の己になるのである。

 

 「サマリア」のストーリーは滑らかに進む。援助交際していた女子高生は自殺し、残った方が真似るように援助交際をする。父親はそんな娘を知ってしまうが、娘には言えない。父は衝動のまま相手の男を殺す。

 

 「ご都合主義」という言葉があるが、キム・ギドクという人はストーリーの進め方が強引なので、ご都合主義と言えばご都合主義に分類されるかもしれない。父親が、娘が援助交際しているのを偶然発見するのだが、この偶然はいかにもわざとらしい。ところが、この偶然を作品構成上の雑さと非難する人はいても、「ご都合主義」と本気で非難する人はいないと思う。なぜかと言えば、キム・ギドクはそもそも目指しているものがエンタメとは違うからだ。

 

 世のご都合主義的ドラマは、主体の欲求に都合の良い展開を作るための偶然の連鎖である。エンタメ作品は多くそうして構成されている。「君の名は。」は、偶然の連鎖が自分を主人公と思い込んだ男女の恋愛を作るためにうまく織られている。主人公の男女は凡庸な人間だが、彼らの主体性によって特別になるのではなく、彼らのまわりの世界がへりくだる事によって特別なものになる。これは世の多くの人が望んでいる現象だろうから、こういう物語は織られ、拡散し続けていくだろう。

 

 キム・ギドクは構成上、ストーリーの進め方が強引なのだが、それを気にさせない。というのは、キム・ギドクは主体に取って都合の良い空間を作るためにそういう操作をしているわけではないからだ。「レッド・ファミリー」という映画で、自分の家族を見殺しにするか、相手の家族を殺すかの二択が迫られる場面があるが、この場面への持っていき方はかなり強引であるにも関わらず、キム・ギドクが表現しようとしているものが人生の複雑さや矛盾、人間の醜さであるので、見ている方はそこまで気にならないだろう。


 目的が手段の強引さを気にさせない。なぜなら、ギドクが表そうとしている核の部分についてはどれほど酷薄でも真実と言わざるを得ないのであって、そのための道筋が雑でもさほど問題にならない。

 

 「サマリア」においても、そこで表そうとしているのは女子高生の援助交際というスキャンダラスな話題というより、人間の「業」であり、人間がそもそも悪を成す存在だという感覚だ。「サマリア」のストーリーは流れるように進み、全ては必然であるように進む。


 すべてが必然であるのは、そこに明白に「運命」というものが自覚されているからであって、運命は人間を彼岸に連れて行く。父親は娘の援助交際相手を殴って殺す。この殺害は意志というよりは、運命のように描かれており、最後に捕まる所まですべては連鎖として存在する。

 

 作品のラストでは、山と川の美しい自然に包まれて、罪や業というものが融和されていくように見える。これは東洋的な感覚に見える。父親は自ら呼んだ刑事の手で捕まる。そこに後悔はなく、反省もなく、自分の運命を受け入れる姿があるのみだ。必然、という言葉を使うなら、最初に女子高生が援助交際をするのも必然であり、その後に友人がそれを真似るのも必然。すべては必然の連鎖に囚われていて、それが人間の業であり避けられない宿命として描かれていく。

 

 人間も自然の一部であると、それは川のように緩やかに流れていき、そこに自由があるように見えるが自由はなく、大きな流れから逃れられない。最後のロングショットのように、個の意識や行為も必然の流れとしてキム・ギドクには見えている。ここには人間の悲しい運命があって、それを見つめる目だけが優しい。


 この作品において我々は作品内部においては救われない。ただ、それらすべてを見つめる作品外の、語られえない位相、その視点にのみよって救われる。しかしそれは古代から続く偉大な物語作品に共通する宿命ではないだろうか。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 〉主人公の男女は凡庸な人間だが、彼らの主体性によって特別になるのではなく、彼らのまわりの世界がへりくだる事によって特別なものになる それが人々の望みと一致しているから流行る。 なるほどと思…
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