【表紙:紺青色】
きょう、おかあさんが『死んで』しまったようです。おとうさんがぼくを、やさしくだっこしてくれました。ぼくは、それがとてもうれしかったです。だけど、おとうさんは、ないていました。おとうさんは「だいじょうぶだよ、おとうさんがいるから」といいました。でも、ぼくには、おとうさんがなぜこんなことをいったのか、よくわかりませんでした。
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お父さんはすごくよくはたらいている。しがない呼び売りだったのに、こんなに大きなお店を持つまでになって、お得意さんもいて、じゅうぎょう員さんもたくさんいる。砂熱海の中では少し陵都寄りの地方ではあるけれども、その中で名のあるお店になりつつあるのは、子どものぼくが見ていてもわかった。
でも、お父さんはいつもつかれた顔をしている。会える時間は少ないけれど、顔を合わせられたときは必ず言うようにしていた。『はたらきすぎないでね』
……本当にお父さんはつかれているんだ。そうでなきゃ、今日みたいなことが起こるはずがないもの。
今日はぼくの十才のたん生日。久しぶりにお父さんと一緒に夕飯を食べることができたから、ぼくはいつもどおりに言った。
「お父さん、はたらきすぎてない? 大丈夫? たまには休んでね」
ぼくが言ったしゅんかん、お父さんは夕食がならんでいた机を力いっぱいたたき、いすをけとばしながら立ち上がり、ぼくをつかんで床にたたきつけた。お父さんの顔は真っ赤だった。お父さんは、ぼくに馬乗りになって言った。
「お前のためにはたらいているんだ! 顔を合わせれば休めとしか言わないこの口が! 少しはうれしがろうとは思わんのか!」
にぎられたこぶしが見えた。それがふり上げられるのが見えた。それから、お父さんのはっとした顔が見えた。お父さんはあわてた様子でぼくからおりて、ぼくをだき起した。
「大丈夫だったか。けがはないか。すまない、こんなことをするつもりはなかった。お前は悪くない。気を使ってくれるやさしい子だ。……そうだ、明日は一日休もう。いっしょに出かけようか。どこか行きたい場所はあるか。たん生日なんだ、どこでもいいぞ」
こわいお父さんがいなくなった安心さと、やさしいお父さんがもどってきたうれしさで、ぼくの目からは勝手に涙が出てきていた。ぼくはお父さんにだきついて言った。
「お父さんがいっしょなら、どこだっていい」
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この二年間、ずっと父さんは適度に休んでいた。働き方をいそがしい方にかたむけたことなんて、ついぞなかった。それなのに、突然羽振りがよくなった。初めは父さんの機嫌もよくて、僕も一緒にお祝いしたりもしたけれど、すぐに父さんは荒れ始めた。お店は、今までの人が次々といなくなって、新しい面々が現れた。家では、あれ以来見ることのなかった恐い父さんの芽が見え始めて、ある日ついに芽吹いた。
夜中、家のどこかで大きな物音と甲高い悲鳴が聞こえた。とび起きて駆けつけてみれば、父さんが寝室で女中頭さんを叩きつけていた。僕が女中頭さんをかばうように間に入ると、父さんは叫んだ。
「お前まで私を責めるのか!」
矛先は完全に僕に向いた。父さんは僕をけり続けた。女中頭さんがやめてくださいと泣きながら叫んでいるのが聞こえた。
肩で息をしていた父さんが止まった。それから、大きな足音だけを立てて、無言で家の外へ出て行った。体を起こして女中頭さんに何があったのか尋ねると、彼女は言った。
「途中でお起きになった旦那様が水をご所望になられて、わたくし取りに行ったのです。しかし、水をくんでこちらに来る途中、暗闇に足を取られてこぼしてしまい……、くみ直してお部屋にうかがったときには、遅いとたいそうご立腹の状態でした」
父さんが帰って来たのは三日後の朝だった。それまでどこにいたのか、一度聞いただけでは答えてもらえず、重ねて問いかけると、しつこいとなぐられてしまった。しかし、その殴打は長くは続かず、すぐに父さんは書斎へ行き、そのままこもってしまった。
昼食の時間になっても、父さんは書斎から出てこなかった。僕はご飯を持って部屋をたずねた。だけど、話しかけるなと返されて、僕は部屋の前にご飯を置いて立ち去った。夕食の時間になって見に行ったときまで、それは手つかずのままだった。
「……父さん?」
扉越しに呼びかけると、ようやく扉が開いた――けれど、その向こうに立っていた父さんの顔は、泣きはらされ、やつれ、目が落ちくぼみ、そして怒りと憎しみに狂っていた。恐怖に顔が引きつるのを、僕は愚かにも止められなかった。そんな僕の顔を見た父さんは顔をゆがめて、僕の首をつかんで書斎の中に引っぱり入れた。
このとき父さんが放った罵声を、事細かに書く必要なんてないだろう。父さんは、本当は繊細で傷つきやすくて優しい、ただそれだけの人だから。あのときは恐くて泣きわめいてしまったけれど、本当はそれだけだって、僕は知っている。父さんはひとしきり僕をなぐり終えると、書斎の中にあった鍵付きのクローゼットの中に僕を入れ、外から鍵を閉めた。出してと叫びながら扉をたたいても、外から返事はなかった。出してもらえたのは深夜で、出してくれたのは女中頭さんだった。聞けば、父さんが眠りに落ちるまで出すなと言われていたそうだ。
父さんは僕が琴を弾くことも禁じた。僕にできることといえば、父さんを見て体がこわばるのと顔が引きつるのとを直すことくらい。でも、これがなかなかうまくいっていない。
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ここは治安管理部管轄の病院。父さんは捕まった。家の中は捜査と差し押さえで、今は慌ただしいようだけれど、いずれ空っぽになるだろう。今まで一緒にいてくれていた女中頭さんも僕が帰し、僕に残されているのは、欠損だらけの自分の体とこのノートだけ。
あの日、酔いつぶれた父さんは、知らない男の人二人に抱えられて帰って来た。夜も十一時を回っていた。女中さんたちが父さんを寝室に運ぶ横で、女中頭さんと僕は二人を招き入れようとしたが、うちの一人が言った。
「我々がお邪魔するのではありません。あなたに来ていただきます」
手を差し出された僕が事情を尋ねると、男の人は懐から一枚の紙を取り出した。
「先ほどこちらの主より同意を得ました。こちらの通り――」
「お待ちください」
僕はさえぎった。
「それは父を酔わせて書かせたものですか」
「酔われる前に口頭ですでに決まっていたことですよ。確かにまあ、サインをいただいたときは少々酔っておられたかもしれませんが、お父上の筆跡に間違いないはずです」
渡された書類に僕が目を通している間に、彼は言った。
「お父上は負債を抱えておりましてね。私どもはその大部分を肩代わりする代わりに、あなたの体の一部をいただくことになっているのですよ」
女中頭さんの口の端から、力のない悲鳴が漏れた。書類は、僕の毛髪、片目、全歯、片肺、片腎臓を即納するという事項に、父さんが同意したものだった。男の人は言った。
「もし即納いただけない場合は現金をお支払いください。ただし、色はつけていただきますよ。こちらは『即納』を信頼して随分多めに肩代わりした挙句、それを裏切られるわけですから」
これに対して、女中頭さんは声を上げてくれたわけだけど……
「なんて無法なことを! 治安管理部に知らせ――」
「だめ」
僕は彼女を止めた。一連のことが治安管理部に漏れたら、父さんが苦しむとわかっていたから。
「誰にも知らせずにいてください。父さんをお願いします」
そうして僕は彼らについて行った。この後の凶行を書く気はない。何日かして彼らに抱きかかえられて家に帰ると、ぼやけた視界の中で女中頭さんの青ざめた顔が見えた。彼女は僕を部屋に連れて行ってくれて、ちょうど夕食時ですから粥でもお持ちしますと言って出て行ったけれど、次にやって来たのは酒に酔った上に太刀を帯びた父さんだった。女中頭さんは、父さんを止めようとして足元にすがりつきながら蹴飛ばされていた。
この後、僕は結果として舌先と左足を失った。父さんはどうやら、商人の息子たるこの舌であの契約を反故にすることを望んでいたらしいが、そんなこともできぬ舌など不要ということで、小柄を取り出してしまった。その後に飛び散った鮮血と肉片を見て、女中頭さんがすさまじい悲鳴を上げ、それで気分を害した父さんが今度は太刀を抜刀して彼女に襲いかかった。彼女はよけた拍子に頭を打って気絶した。父さんが彼女に向かって刃を振り下ろす格好を取った。彼女は僕の足元。起き上がる気力も体力もない僕ができたことは、彼女を足でかばうことだけ。父さんの太刀は、僕の左足に深く突き刺さった。
薄れていく意識の中で最後に聞いたのは、僕の部屋の前で止まるあわただしい足音と、そのうちの一人が発した声。
「治安管理部です。禁止薬物売買および使用の嫌疑がかかっております。ご神妙になさいませ」
そして次に目が開いたときには、この病院にいた。横には、頭に包帯を巻いた女中頭さん。彼女は、僕が尋ねる前に話してくれた。僕の左足は切除する以外になかったこと。父さんにかけられていた疑いは事実であったこと。僕が帰ることができる家はないこと。喋れなくなった僕が筆談できるように、このノートを引き取っておいてくれたこと。そして彼女は最後に言った。
「本当に、助けてくださってありがとうございました。坊ちゃん、ここを出た後は、よろしければ我が家へおいでくださいまし」
僕はその申し出に対して、首を横に振って答えた。彼女は、夫が戦で負傷して働けない中、五人の子どもを養っている。職を失っただけでも痛手であろうに、僕まで転がり込むわけにはいかない。僕がそう書くと、彼女は食い下がった。それでも僕は拒んだ。ではどうするおつもりですかと問われ、路上生活でもしますと書いて笑って見せた。彼女が泣いて僕に抱き付いてきた。
彼女が落ち着くと、僕はペンを執った。
『早く帰って、無事な姿を旦那さんとお子さんに見せてあげてください。早く次の働き口が見つかるよう願っています』
そして、毎日見舞いに来ると言い張る彼女の決意を数分かけて変えさせ、家に帰して今に至る。
こうして、僕は父さんの衝動から突然解放された。嬉しくともなんともない、二年越しの静寂。これからどうやって……、どうやって、生きていこう。
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事実確認として、治安管理人が僕に父さんの行動のいろいろを尋ねてきた。それがあまりにも的確だったから、僕が思わずどこで調べたのかと聞くと、治安管理人は父さんがつけていた日記だと答えた。僕は続けて書いた。
『必要なら監視をお付けになっても構いませんから、その日記を読ませてください』
二日後、物腰の柔らかい文書館の管理人さんが、父さんの日記を持ってきてくれた。読んでわかった。僕は、ちっとも父さんのことをわかっていなかった。僕は大馬鹿だ。
ごめんなさい、父さん。こんな馬鹿な息子で。そりゃあ、殴りたくもなったよね。本当に、ごめんなさい。