【表紙:空色】
先生は代々歴史研究家を務めている家系の出で、先生の講義はいつもおもしろかった。父上も先生を相談役として頼りにしている。でも、最近はそんな先生の講義すら楽しめなくなってきていた。父上は長引く砂陵両国との争いで、日に日に疲れていっている。周りの官たちにも余裕がない。私はあせっていた。早く使い物になる人間にならなければ。あれを学んで、これを学んで、父上を助けて、官をまとめて、国を守って。つぶれそうに思ってもおくびにも出さないで。
すると、先生が今日、突然講義を途中で打ち切った。
「外へ行きましょう。課外授業です」
そう言って先生が向かったのは、王宮のそばにあるヒノキの森だった。正直、乗り気でなかった。こんなことをしているひまは、私にはないのに。
「どこまで行くのだ」
そう尋ねた私の声は、さぞ拒絶の音が強かったろうと思う。だが、先生はいつも通りに笑っていた。
「少し奥まったところになりますが、千五百年以上を生きている木があるのですよ」
先生はどんどん歩いていった。精霊たちがゆるやかに飛び回ったり、互いにほほえみ合ったりしているのがよく見えた。
不謹慎だ。ずるい。
そう思った私は、精霊たちを見ずにすむよう、目線を下げて歩いた。
それでも、その場の空気の色の違いは無視できるものではなかった。先生が歩みを止めた。私は努めて、その木からあふれ出るあたたかさを恨めしく思おうとした。だが、無理だった。恨めしく思う気持ちさえ、その木は認めてくれていた。見上げてみれば、一本のヒノキがしゃんと立っていた。
私は木に吸い寄せられた。幹に触れた。強くて優しい肌触り。私がそこに額をこつんとした瞬間、一人の女性が木の上から降って来た。精霊だった。
「うわあ!」
とっさに叫びながら抱きとめようとした私に、精霊は無邪気で快活な、しかし優しい笑顔を浮かべて抱き付いてきた。それから、私の頭をぽんぽんとたたいた後、私がやったようにこつんと額を突き合わせてきた。あたたかかった。私は彼女の腕の中にいた。何かがあふれてきた。
「……先生、少しだけ、一人になりたい」
こらえたつもりだったが、私の声はふるえていた。けれど、それを聞いた先生はおだやかにうなずいて、もと来た道を少し戻った。
私はもう一度木の幹に触れながら上を見上げた。何かを語りかけられた気がした。その瞬間に、私は幹にもたれこんで声をあげて泣き出していた。精霊はずっと私の頭をなでてくれていた。
涙がおさまったのがどれくらい後だったのか、私にはわからない。泣き止んだ後は、木の根元に腰かけ、のんびりとあたたかさの中にいた。ふとした瞬間、私の横に座っていた精霊自身のことが流れ込んできて、私は彼女に名があることを知った。
「マキ?」
私が確認がてら呼びかけると、精霊は嬉しそうな笑顔でにっこりと笑った。
「また来てもいい、マキ?」
私が言うと、マキはまた額をこつんとした。私は周囲を見た。精霊たちがずっと踊っていた。今度は恨めしいとは思わなかった。
私が元来た道を戻ると、少し先に先生がいた。私は思い切って先生に飛びついてみた。
「先生、連れてきてくれて本当にありがとう!」
先生は少し驚いたみたいだったが、にっこりと笑ってくれた。
「気に入ってくださったなら何よりです」
それから、先生と手をつなぎながら森を出た私は、後ろを振り返った。そこでは、いろいろな姿の精霊たちが愉快に踊っていた。次に私は先生を見上げた。先生には、精霊たちは光に見えている。森はさぞ輝いていることだろう。きっと、蛍の群れでも見ているかのような。そう言ってみると、先生は笑ってうなずいた。
「ええ、それはもう美しいです」
私は、私自身の精霊の見え方を気に入っていたが、先生のような見え方もいいなと思った。
そこで私ははたと思い出した。
「あ、そういえば先生、もうすぐ子どもが生まれるとか言っていなかったか」
「ええ、おそらくあと数日か……もしかしたら今日にも」
「なんだと! そんな時期なのか! こんなところで油を売っている場合ではないではないか! すぐ帰れ、な?」
「あ、いえ、ほら、男親がおろうがおるまいが母子の健康には何の関係もございませんし、何より私は皇太子さまのご様子がしんぱ……」
「何を言っているのだ! 帰らぬなら帰れと命じるぞ! そうだ、一週間かそこら休暇を取らせよう。いや、ひと月、ううん、三月かな。父上に相談してくる、それで良いな」
私は先生の返事を聞く前に王宮まで走っていき、すぐに父上の元に向かった。そして、普段から運動不足の先生がぜーはー言いながら父上の部屋に来る前に、三月の休暇を成立させておいた。先生がお礼をまくし立てようとするのを早く帰れと押し帰し、私は満足してふんぞり返った。そんな私を見て、父上がくすりと笑った。
「そんな元気なお前を見るのは久しぶりだ」
……ああ、なんだ。そうか。簡単なことだったのだ。
私はようやく気付いて、はいと返事をして笑った。
* * 別ページ * *
マキの木の下で、ある少年とよく会うようになっていた。初めて会ったときからというもの、彼は私とマキの間に座っていた。彼には、精霊は光の鱗粉をまとう蝶に見えているらしい。マキがあまりにまぶしくて特大なものだから、初めは驚いたと言って彼は笑った。そうして、彼の顔に少しずつ笑顔が見られるようになって、私とマキも顔を見合わせて笑い合った。こうして救われていたのは、私自身だった。
そういえば、先生のお子さんはどうしているのだろう。おそらくあの少年と同じ年頃のはずだ。明日、お子さんがどんなだか尋ねてみようか。
* * 別ページ * *
父上が戦死なされた。陵都の皇太子に討たれたらしい。昨日は陵都が、今日は砂熱海が、和睦という名の下に不平等極まりない条約を提示してきた。これを受ければ搾取は必至。だが、対抗する国力などどこに残っているというのか。いいや、仮に残っていたとしても、これ以上民の血は流させたくない。争わなければならないくらいなら、仕えて流血を最小限に――などと、こんな青臭いことを考える二十二歳の武勲なき王など、官にも民にも不要だろうか。
不要かもしれない。それでも私はこの条件を呑むつもりだ。広しといえども極度に狭いこの島内で、強国に挟まれたこの水嵐季が生き残る方法は――もっと正確に言えば、水嵐季人が命を落とさずにいられる方法は、これ以外にないように思えてならないから。
私はマキに会いに行った。もうすでに日は沈んでいたが、満月の空の下、マキはいつも通り、木の全長からすれば比較的下のほうの枝に腰かけ、月に向かってたおやかに微笑んでいた。人が話しかけやすい場所にあえているその檜の精に、私は言った。
「水嵐季は争いから手を引く」
すると、マキはするりと枝から降り、私の元へきて、私の頭に手を置いた。私は苦笑した。
「まだ子ども扱い、か。それはそうだろうな、お前はもう千五百年そこにいるのだから。お前から見ると、私たちはどれだけ愚かなのだ」
マキは一度にっこりと笑うと、そっと額を突き合わせてきた。彼女の長い髪が私の頬にかかって、それが風になった。