【表紙:白色】
今日、変わった少女と出会った。僕は、生家近くのヒノキの山を登って、ふもとを見下ろせる斜面のところに行った。そこにあったのは、うっそうとした森の木々の間で独り、誰に見てもらえるでもなくひっそりと咲く山桜だった。
「もろともに」
僕がそう言って桜の小枝を手折ったとき、彼女が現れた。
「あんた、それ折ったの!」
それが彼女の第一声。小さい体で仁王立ち。やや吊り目の彼女の顔の剣幕はすさまじく、僕は思わずどもりながら肯定した。
「は、はい、そうです。お、折りました」
「折ったなら折ったで、ちゃんと責任取りなさいよ!」
「ええっ? せ、責任? えっと、はい、家でちゃんと花瓶に生けて飾ります」
「それで良し」
僕は許しがもらえて大きく息を吐いた。それでも、十四、五歳ほどに見えた小さな少女は僕をじとっと見ていて、僕は気圧されながら尋ねた。
「ま、まだ何か……?」
「わたしだけの特等席だったの、そこ」
ふと見れば、彼女の手には桜色の手帳。僕は言った。
「写生か何か?」
「そんな風流なこと、誰がするもんですか」
「え、えっと、じゃあ、その手帳は?」
「……ただの日記よ」
ずっと強い口調で即答していた彼女が初めてためらいを見せたことで、僕はその日記に興味をひかれた。でも、見せろと言うわけにもいかないから、とりあえず当たり障りのないことを言ったと思う。
「かわいい色だね、君の日記」
「わたしの日記じゃないわ」
「はい?」
僕は首をひねったが、彼女はむすっとした表情のまま視線をそらしてしまった。でもまあ、彼女の日記じゃないのなら――
「ちょっと中身読んでもいい?」
「ばか言ってんじゃないわよ」
断られてしまった。僕は頭をかきながら、会話を試みた。
「じゃあ、君の日記帳は何色?」
「アカ色」
「バラの色だね。君にぴったりだ」
「はあ? わたしはただの奉公に出された下働きの娘よ。そんな艶やかな花の、どのあたりがわたしに合うっていうの」
「とげのあるあたりが」
「なんですって!」
彼女が叫んだ。僕はだんだんおもしろくなってきて笑った。
「そうじゃないなら、そうだな、恋する少女の唇の色かな」
今度は、彼女は驚いたような顔をした後、何も言い返さずに少し頬に朱を散らしながらそっぽを向いた。かわいらしかった。
僕は彼女に尋ねた。
「君、名前は?」
「小枝」
「本当に? 僕は青葉っていうんだ」
すると、彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
「あんたと同一存在なんてまっぴらごめんだわ(*1)」
「……『ただの下働き』って言った割には、随分教養があるね」
僕が驚いていると、彼女は面倒くさそうに言った。
「私がお仕えしている人が読書好きで、しかも私には、身の回りの世話なんてせずにただそばにいろ、とか言うのよ。暇で暇で仕方がないから、私も一緒に本を読んでいるの。その中には平家物語もあるし謡曲もあるし、百人一首もある」
「……もろともに、ね(*2)。聞こえてたのか」
「あの一言がなければ、問答無用でぶっ飛ばすところだったわ」
「君はそんなことしないよ。でも、そんなにこの山桜が好きなんだね?」
「……私にとっても、私を知る唯一の花だったんだもの」
――僕らはどうやら、同じ穴にはまっていたらしい。
僕は尋ねた。
「小枝は、どこの家に仕えているの?」
「そこの宝石商」
「ああ、知ってる。うちも商家だから、何度か取引していたはずだ。もしかして、一人娘さんの使用人?」
「だったはずなのだけど、さっきも言った通り、今は読書仲間」
「そうか。娘さんが読書好きとは知らなかったな。知恵遅れだって聞いていたのだけど、それならこれはただの噂かな」
彼女はすぐには答えず、少し考えてから言った。
「いら立ってビスクドールを割ってしまったとして、あんたならどうする? ビスクドールは顔も含めて粉々よ」
「直せ……ないよね。僕らにビスクドールは」
「彼女は、自分で割った人形を自分で抱いて泣いて謝って、欠けた部分に優しく包帯を巻いていったわ。確かに、腹が立ったから人形に八当たるっていうのは、あまりに子どもっぽくて知恵遅れのようにも見えるかもしれない。でも、それだけじゃないの。本当は優しい人なのよ。読み書きが好きだって知っただけで、使用人に桜色の手帳を十冊ごっそりくれるくらいにね」
僕もかつてはそのように人を見ていた。戦争をしている相手国のことでさえも。その見方を真っ向から否定されて、独りでぽつんと立っているような気にさせられた。そんな自分と山桜が重なって見えたから、その花に一緒にいてほしくて、枝先を手折った。
すると、おもむろに彼女が言いだした。
「あんたの日記は何色なの」
「白色」
「また縁起の悪い色を使ってるわね。墓場の白菊の色じゃないのよ」
「ねえ、ちょっとひどくない? もうちょっとなんかあるよね?」
「あら、墓場の白百合の方がよかった? それとも死装束かしら?」
「とりあえずその辺のくくりから離れません?」
僕がうなだれると、小枝は唐突に手に持っていた桜色の手帳を僕に差し出した。
「読めば」
「え、いいの?」
「嫌ならいいわよ」
「あーっ、読みます読みます! だから片づけないで!」
そうして桜色の手帳を開けば、七五調の導入の後に、日記帳の表紙の色とともに記されたとある国の王子の日記が現れた。僕が読み終わったのを見て、小枝が言った。
「わたしのじゃなかったでしょ」
「うん、でも、小枝が書いたんだよね?」
「文句でもあるの」
「何一つございません」
それから僕は、これから先も彼女と会う口実を作ろうと頭をひねり、ついに言った。
「この続き、僕に書かせて。交換日記だ」
「はあ?」
彼女は頭のおかしい人間を見る目で僕を見てきたが、僕は負けじと言った。
「ほら、僕の日記帳が縁起悪いならさ、小枝の艶やかさをちょうだいよ。白とアカと混ぜたら桜色でしょ」
「そういう問題じゃ……」
「だめ?」
僕が尋ねると、小枝はまた顔を少し赤くしてそっぽを向いた。
「……いいわよ」
「ありがとう! あ、でも、小枝が書きたい内容はあんまり変えたくないから、これから書こうとしている日記がどんなだか、聞いてもいい? それに沿って続きを書いてくる」
こうして、僕は小枝から日記の大筋を聞いて桜色の手帳をもらいうけた。次に会うのは二週間後。場所は今日と同じ場所。僕の手元には桜色の手帳。僕の目の前には桜の小枝。さて、この小枝の素直な夢を、どんなふうに描こうか。彼女が見た宝石たち、彼女が出会った女旅芸人、彼女が記録を読んだ関東大震災、彼女が生まれたときに植えられたヒノキ、彼女が見つめた壊れたビスクドール、彼女の故郷の海辺の関所、そこで上げられる祭りの花火、彼女が知った外国と自国の文化、それらが入り乱れた無邪気な夢を。
* * 別ページ * *
ついに僕の元にも来た、真っ赤な紙切れ。ありがたいことに、出征前の今日は小枝と会う日に当たっていた。僕が赤紙のことを伝えると、彼女は言った。
「私に手紙なんて送らないでね。いらないから」
「え?」
僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「ちょ、ちょっと待って、小枝。それは僕としても寂しすぎるのだけど」
「ちゃんと日記をちょうだい。それ以外受け取らないわ。絶対よ。交換日記なんでしょ。あんたから言い出したのよ。勝手に終わらせるなんて許さないわ」
彼女の声は震えていた。
僕は彼女を抱きしめようと、彼女の肩に手を伸ばした。小枝はいつも通りにうざったそうに払いのけてきたけれど、僕が粘って最後に強引に引き寄せると、小枝が自分から僕の背に手を回してきた。
「覚悟しておきなさい。あんたが死んだって、墓前に白菊なんて供えてやらないから」
「うーん、じゃあ、山桜の小枝をお願いしようかな」
「春にしか墓参りに行くなって言うわけね」
「えー、それは寂しいな。夏はせっかくだから、僕の名前通り、青葉が茂る小枝がほしいな。秋は、山桜の代わりに秋の桜をお願いしよう。冬は、青葉が芽吹く前の小枝をください」
「そこは、僕は死なないから大丈夫だよって言うところでしょ!」
「それは儚い約束だから、僕にはできないよ」
僕が言うと、小枝の肩が震えた。僕が何かを言う前に、小枝は言った。
「泣いてない。泣いてなんかいないわ。寂しくとも悲しくともないもの。ただ、とんでもなく悔しいの。悔しいだけよ」
小枝の最後の声が上ずった。僕は小枝を抱く腕に力を入れた。小枝はしばらく僕から離れなかった。僕も放したくなかった。
随分経ってから小枝が顔を上げた。ちょっと目は赤かったけれど、僕の大好きないつものかわいい小枝だった。僕は小枝の額と自分の額を突き合わせた。
「僕は、小枝の夢が好きだ。小枝の目に映る世界が好きだ。だから、これからも一緒にいるよ。僕は青葉。きらめくのは夏。だけどずっとそこにいる。忘れないでね」
乾燥させた山桜の小枝は、今も日記を書く僕の目の前に。初めはポケットに忍ばせて軍まで持って行こうと思っていたけれど、小枝に戦争は見せたくなかったからやめた。それでも小枝には僕のそばにいてほしいから、そうだな、このまま僕の日記にでもはさんでおこう。
ねえ、小枝。君は僕に日記の内容を語ったとき、これはただの夢だと言ったね。こんなできすぎた甘い話、あるわけないって。でも、だからこそ夢見ることに価値があるように僕は思う。誰が否定したって、僕だけは肯定する。だって、僕は君の素朴な瞳がとっても好きだから。
願わくは、僕の大好きな君の瞳が幸せの色を見られますように。
もろともに散りゆくなかれ花小枝 君よりほかに貴きものなし
(*1) 平安時代の武将、平敦盛の愛笛「小枝」にはいくつか二つ名があり、うち一つが「青葉」
(*2) 百人一首の中の一首。「もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」前大僧正行尊。




