【表紙:こげ茶と白のまだら模様】
精霊を利用して世の理の真を突きとめた末に、真理さえあれば精霊は不必要と言う。あとは自分たちでやっていけると、おごった水嵐季人は多くを作り出し、多くを治す。人は長い寿命を手に入れ、人口が増え、水嵐季は他国へ手を伸ばす。陵都の豊かな土地を、砂熱海の溢れる富を。目の色を変えて、他にこちらの理を強要し、力を振りかざす。精霊より輝かしいものを前に、人々は精霊を見ることを忘れ、見る素質を持たぬ子どもを成す。
自然が宝だとも、精霊が宝だとも私は言わない。ただ、生ける者はすべて異なる眼を持って同じ世にいるのだということを、精霊と自然を通じて無意識に感じ取れる感性こそが、水嵐季人の素朴な宝だったのだと、私は思う。これを、金銀財宝をもたらすまばゆい宝だと認識した瞬間に、水嵐季は精霊との共存関係をやめたのだ。
それが寂しいからと、マキはあえて最先端の治療を受けなかった。少しずつ穏やかに衰弱していくマキは、いつも通りの無邪気で優しい笑顔を浮かべた。
「私の命を贄にして、人々の記憶からまばゆい記憶を消したいの」
そんな大それたことはするべきではないと私は反対したが、何度も話し合って相談した末に決行を許した。だって、それは命尽きる寸前のマキの、最後の望みだったから。彼女はきらきらと目を輝かせながら、幼子のように言った。
「ねえペトラ。わたしね、憧れている風景があるの。あたたかくて、無邪気で、気まぐれに飛び交うばかりの精霊たちと、貧しくとも弱くとも微笑み湛えることを忘れない民たちが、穏やかな陽だまりの中でなごみ合う風景、あるいは激しい嵐を身を寄せ合いながら耐え忍ぶ風景よ。そこには真木も、そしてあなたもいるの。ねえ、どう、すてきでしょう?」
私は別荘の地下のからくり部屋に、科学書や医術書など、精霊利用から得られた知識とそれの応用に関する書物を集めさせた。もれと重複がないように注意を払い、その作業が終わった後、私はマキの元へ行った。マキは、自分の真木の下で死ぬことを望んだ。私がマキを脆弱な森へとこっそり連れて行くと、マキは言った。
「真木の命を続けさせるのに差し障りがなくて、私の命を吸い取るのに十分な枝を切り取って」
私がためらっていると、マキと同じ姿の真木の精が一本の枝を指さした。真木の精霊もマキの願いを叶えるつもりだった。私は唇を噛んで枝を切った。マキに差し出すと、マキはその枝を愛おしそうに撫でた。
「あなたたちを利用するつもりじゃないの。これはただのお願いよ。でも、叶えてくれたら、わたしとっても嬉しいわ」
次にマキは私を見つめた。
「ねえペトラ、あなたは精霊が見える人の中でも、彼らとの繋がりが一段と強いわね。あなたが一緒にお願いしてくれたら百人力だわ」
私は、自分からも一緒に願おうと誓った。彼女は嬉しそうにうなずいた後、しばらく私の顔を見てから言った。
「悲しむ必要なんてどこにもないわ、ペトラ。わたしはずうっと、この木にいる。この子はマキなのよ。ね、全く寂しくないでしょう?」
「……うん、そうだね」
「うそ。精霊さんの力を借りなくたってねえ、わたしにはあなたのこと、ぜーんぶわかるのよ」
そう言った彼女は笑っていた。
「寂しがってくれてありがとう、ペトラ。でも、ひとしきり悲しんだら、笑ってね。ここで見ているからね。約束よ」
その笑顔を浮かべたまま、彼女は自らの胸に真木の枝を突き刺した。
私はひたすら祈った。祈るしかなかった。どうか、精霊たちよ、彼女の素朴な願いを叶えてやってくれ。彼女の命を無駄にしないでくれ。お前たちが良いと思った形で構わないから、彼女の願いを叶えてくれ。
精霊たちが飛び交った。世界と人々が眠りに着いた。暗い時間がずっと続いた。一日か二日か一週間か、私にはわからなかった。そこに時間の観念は存在しなかったから。暗闇の中、私はずっとマキを抱いていた。涙は出なかった。
ふとした瞬間に眠りに落ちたようで、あたたかく明るい日差しを感じて目を開けた。その瞬間に真木の木から一人の女性が降ってきた。マキだった。
「うわあ!」
とっさに叫びながら抱きとめようとした私に、マキは無邪気で快活な、しかし優しい笑顔を浮かべて抱き付いてきた。それから、私の頭をぽんぽんとたたいた後、いつもやっていたようにこつんと額を突き合わせてきた。あたたかかった。私は彼女の腕の中にいた。何かがあふれてきた。
足元にあったはずの人間のマキの体は、土となっていた。私は木の幹に触れながら上を見上げた。何かを語りかけられた気がした。その瞬間に、私は幹にもたれこんで声をあげて泣き出していた。マキはずっと私の頭を撫でてくれていた。
涙がおさまったのがどれくらい後だったのか、私にはわからない。泣き止んだ後は、木の根元に腰かけ、のんびりとあたたかさの中にいた。それを充分に堪能すると、私は立ち上がった。
「新しい出発だ。国を見てくるよ。また来てもいいよね、マキ?」
私が笑いかけながら言うと、マキはまた額をこつんとした。
国では、高すぎる建造物と頑丈すぎる建造物が立ち並びすぎていたのが、跡形もなくなっていた。日差しが直接、あるいは木々の隙間から当たるようになり、暑さも寒さも風もある程度しか遮られなくなった。別荘の地下にやった書物と、民たちの素朴な暮らしや考え方を記したもの以外はすべて灰になった。人々は技術も医術も忘れた代わりに、精霊を思い出していた。今まで治せていた病気や怪我で死ぬ者が続出する中、水嵐季は他国を攻める理由を持たなくなった。兵器は一つ残らずなくなっていた。
おとなしい気性の水嵐季人では、技術を失ったのでは砂熱海の強者にはもう勝てまい。精霊など見えずとも人の力のみで真理を追う陵都の技術にも、今からではもう追いつけまい。おそらく水嵐季はこれから衰弱の一途をたどる。私の判断が正しかったのかどうか、私にはわからない。だが、マキが憧れた風景の種がそこにはあった。勝つだの追いつくだの、そんなものにはなんら興味を示さなかったマキの、子どもっぽい無邪気な夢だ。
さあ、この日記も地下へしまいこもう。果たしてこの書物群は、掘り起こすに値する素晴らしい偉功なのか、それとも歴史の闇という反面教師なのか。どちらの見方もあって然り。私は、私の判断やそれ以前の歴史に対して、正誤の判断も善悪の判断も求めはしない。ただ、別荘と地下は、地下の価値が分かる者の手にいずれ渡り、その者が私たちの歴史を活かしてくれる――そう導いてくれる何かがあると、私は信じていたい。




