【表紙:紺青色】
ディオ様はどんどん変わっていった。そしてやっぱり、優しい御方だった。かこっていた女たちは次の仕事を斡旋してやってから解雇、各地に何十とあった豪華な別荘はすべて孤児や浮浪者のための施設として破格で売り、それで得た金銭で、そこらの民家とさして変わらぬ簡素な家を最低限の数だけ購入。使用人に対しては希望辞職を募って聞き入れ、それでも残った使用人の顔と名前をすべて覚え、自ら買い物や調理をするようにもなった。もちろん、すべてが順調にいったわけではないし、うまくいかないことで何度も苦しんでおられたけれど、ディオ様は現状でできる身の丈に合ったことをしっかりと把握し、少しずつ前に進むことを忘れなかった。
ディオ様がふと、遠い目をして言った。
「お前を拾う少し前に逃亡したあの護衛はどうなっただろうか。生きていてくれと思うのは、傲慢かな」
僕は首を横に振った。僕も生きていてほしいと思っていた。護衛さんには申し訳ないけれど、護衛さん自身のためではなく、ディオ様のために。
* * 別ページ * *
陵都王族滅亡の危機を聞き、ダイオプテース陛下は一度王宮に戻った。そして陛下はわずか二十日足らずで、少数派の意見を持つ官たちを味方につけ、それを少しずつ増やした。けれど、宰相さんを含めた一部の朝廷有力者たちの渋りはしぶとかった。陛下は、停戦に向かって動き出すことを大筋で認めさせるため、豪商や地方有力者を味方につけようと、自ら彼らを訪ねることにした。
その一番初めの土地に選んだのは、陵都寄りの地方。そこをめぐるための宿泊地として選んだ陛下の質素な別邸は、僕の生家のすぐそばにあった。僕は陛下の予定の合間を見計らって頼んだ。
『行きたいところがあるのですが、構いませんか。五分ほどで戻ります』
「十分後に発つ。それまでに戻っておいで」
そうして僕が見た生家は、すでに別の商店になっていた。けれど、建て替えられていたわけではなく、違うのは看板だけ。店構えが大きく変わっていなかったことで懐かしさと切なさが襲ってきて、僕はそこに立ち尽くした。
そこに、土を蹴り上げて走る激しい足音が聞こえてきた。僕がそちらの方を向いた瞬間、足音の主が僕を押し倒した。驚く間もなく、その男の人が僕の肩をつかんで叫んだ。
「ルリ!」
父さんだった。僕が驚きで何もできない間に、父さんは言った。
「大丈夫だったか。けがはないか。すまない、こんなことをするつもりはなかった」
父さんがそう言っている間に、新たな足音。僕が父さんの肩の奥をのぞいた瞬間、治安管理人が剣を振り下ろすのが見えた。僕は悲鳴をこらえられなかった。管理人の刃が父さんを斬り、父さんは力なく僕に覆いかぶさった。父さんの背に手を回すと濡れていた。それなのに、父さんは微笑みを浮かべながら、優しい声音で言った。
「大丈夫だよ、お父さんがいるから」
僕は涙もこらえられなかった。
治安管理人が僕に大丈夫かと言って駆け寄って来て、父さんを僕から引きはがした。僕は父さんに手を伸ばした。治安管理人がまさかと言ったところで、陛下が現れた。滅多なことでは時間の約束を破らない僕が遅れたから、探しに来てくれたのだろう。
何があったのかと問う陛下に対し、泣く以外に何もできなかった僕に代わって、治安管理人さんが説明してくれた。
「禁止薬物の売買と使用とで終身刑の判決が下された男なのですが、その判決を聞いた瞬間逃げ出しまして、道行く人々を押し倒しては、わけのわからぬことを口走っていたのです。幻覚症状と記憶障害が著しく、息子や使用人への過度の虐待も認められていたことで、万一の場合の殺害許可が出たのですが、もしかしてその子は……」
すると、陛下が静かに言ってくれた。
「その男、手厚く葬ってやってくれ。そしてできれば、この子を立ち会わせてやってほしい」
僕が慌てて首を振りながら陛下の顔を見上げると、陛下は僕の頭に手を置いた。
「行っておいで。今日の残りはカルサイトと二人で回るから」
こうして僕は父さんの最後を見送ることができた。
道行く人みんなに同じようにしていたのなら、通りで父さんが僕を押し倒したのは、父さんが僕を認識したからではなくただの偶然だったのだろう。僕はそれを悲しいとは思わない。それよりも、息子を認識できなくなってしまった後でさえ、ルリのことをあんなに思ってくれていたということが、僕には嬉しくてたまらなかった。陛下が帰って来てもまだ僕の涙が止まっていなかったのは、悲しかったからじゃない、嬉しかったからだ。陛下がたいそう心配したから、僕はその誤解を解いた。すると、陛下は淡く微笑みながら言ってくれた。
「明日、オムレツでも作ってやろう」
陛下は僕の好物をよく知っていた。陛下は僕を撫でてくれた。
「みんなの分も一緒に作るから、卵を明日買ってきてくれ。足や目が不自由なこともあるし、本当は他の使用人に行ってもらいたいところだが、お前は自分で行きたがる人間だからな」
父さん、僕は今、あなたにも負けないほどの愛情をくれる人のそばにいます。とても幸せです。今までたくさんの愛情をありがとう。安心して眠ってください。
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卵を買いに行ったら、その帰りにたちの悪い人たちにつかまってしまった。けれど、僕と同じような年頃の旅人さんが助けに入ってくれて、口だけで場を治めてくれた。本当はちゃんとお礼を言いたかったのだけれど、踏みつけられた場所が悪くて休んでいる間に、旅人さんたちは行ってしまった。陛下によれば、早く出発したそうにしていたとのことだ。
陛下は旅人さんたちを見送ってから僕の床の横に来てくれた。僕が、卵本当にごめんなさいと書くと、それはさっきも聞いたと言われた。陛下のオムレツが食べられなくなって残念ですと書くと、お前は本当に食べるのが好きだなと笑われた。そして、旅人さんのうち、女の子みたいにかわいい年下の旅人さんの方が鈴雀の女座長さんと知り合いだったらしく、座長さんが僕の身を案じていたということを知らせてくれた。ありがたいことだ。僕も、琴をくれた感謝をもう一度伝えたいのだけれど。
そして陛下は、少し奮発気味にお礼をしてしまったよと、肩をすくめながらも嬉しそうに言った。僕はそのお顔を見て思った。最近いささか過保護気味になってきたとはいえ、陛下は僕を助けてくれたお礼なんてことに民の血税を使ったりしない。陛下はきっと、血を流さずにおいてくれたことと、それが可能だと示してくれたことに感謝したのじゃないだろうか。
* * 別ページ * *
幸か不幸か、陵都の王子様の生存体も死体も見つかっていなかった。まともな肖像画もないまま兵や官が血眼になって探している中、僕らが先に彼の居所を掴むことになるとは思ってもみなかった。
僕らは地方から少しずつ賛同者を集め、一ヶ月弱で王都まで戻ってきた。最後に王都の商会から賛同の署名を受け取り、王宮に帰る前に喫茶店で一服していたところで、以前の旅人さんたちと再会して相席を頼まれた。旅人さんの人数は二人増えていて、かわいい旅人さんのお友達さんとお父さんらしい。
旅人さんたちが頼んだお菓子が出て来て、他愛もない話をしながら半分ほどがなくなったとき、かわいい旅人さんと目があった。厳密には、旅人さんが僕の額を見ていた。かわいい旅人さんのお友達さんとお父さんも僕の額を見て、そのあと陛下の額も見つめた。僕と陛下が首をかしげて顔を見合わせると、彼らがうなずき合い、かわいい旅人さんが言い出した。
「あの、あなた方は、王城に行かれることはあるのですか」
「まあ、たまにはな。それがどうかなされたか」
陛下のこの問い返しが、思いもよらぬ答えを引き出した。かわいい旅人さんは言った。
「単刀直入に申し上げます。水嵐季王が陵都王子の保護を申し出るため、王子とともに直々に砂熱海まで参っております。あなた方のお話通りなら、砂熱海王は水嵐季王と陵都王子の申し出を受け入れてくださるでしょう。僕らはあなた方を信じます。水嵐季王と陵都王子が謁見を望んでいると、国王陛下に言伝願えませんか」
「待て」
陛下がまっすぐな目をする旅人さんを斜から見返した。
「先日砂熱海の官僚が水嵐季に問い合わせたようだが、王子の身柄の行方など知らぬと返答を受けたと聞く」
「陵都王子を保護してからすぐに陛下は砂熱海に向かわれましたから、お問い合わせ時に王子の身柄が砂熱海のどこにあったかなど、水嵐季の官僚には知り得ないことです」
「ほう、うまい口実を作られたものだ。砂熱海を裏切ろうというようにも見えるが」
「いいえ。水嵐季王は砂熱海の外交官を警戒しておられるだけです。先ほど申し上げた通り、砂熱海王とは面談を強く望んでおります。……まったく、自分で砂熱海に行って王と会わねば気が済まぬの一点張りだったのですよ。気性がおとなしいくせに頑固なんですから」
確かに、外交大臣さんは宰相さんの一派。水嵐季王様の判断は、僕らからしても納得のいくものではあった。
陛下は質問を続けた。
「陵都を攻めた水嵐季王が王子を保護するに転じた理由は」
「戦に過ちありと気づいたため」
「剣客と聞く陵都王子は、本当に復讐ではなく保護を求めるために砂熱海にいらしたのか」
「王子は馬鹿なので、復讐するということ自体考えつきません」
「あなた方を信じるに足る証拠は」
「何も。僕たちを見てもらうほかありません」
彼の言葉は、しゃんと伸ばされた背筋から放たれていた。その目には強い光が宿っていた。陛下は目を細め、そして言った。
「わかった、伝えておこう。明日の朝、王宮に行かれるといい。謁見の場を必ず成立させておくと約束しよう。初めは、陵都王子、水嵐季王であることは伏せ、私の知人としてお通しする」
「身分明かした瞬間に首はね……とかないですよね」
かつて僕を助けてくれた旅人さんの言葉に対し、陛下は言いきった。
「ない」
その後僕らは別れて、僕と陛下は他の使用人たちとともに王宮に戻った。陛下は官たちに明日の朝議に知人を招くと知らせると自室に戻った。僕が琴を弾きながらちらりと陛下のお顔をうかがうと、陛下はどこか嬉しそうなお顔をしていた。僕は曲を弾き終えると尋ねた。
『彼らを信頼なさったのですか』
「いいや。裏切られてもそれは本望――そう言い切れる相手だと思っただけだよ」




