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日記の束  作者: 紅白
17/26

【表紙:翠銅色】

 彼はよく笑い、よく気が付き、よくぶつかり、よく転ぶ。ある日、少しは変わるだろうかという興味を試そうと、義足を与えてみた。彼は何度も頭を下げて礼を表してきて、興奮冷めやらぬまま立ち上がろうとし、その瞬間例のごとくビタンと床に激突した。一体彼が何につまずいたのか、いまだにわからない。そして結局の話、義足を与える前と後とで転ぶ率が変わったような気がしない。

 こんなにひたすらどんくさい人間に、私はなぜすべてを打ち明けるように話してしまったのか。

 ああ、わかっている。問うまでもない。彼はどんくさいだけの人間ではないのだ。私が勢いに任せて殴りかかろうとしたとき、彼の目は未知の光を宿した。殴られる寸前であったにもかかわらず、私を恐れず、否定せず、かといって優しく微笑んでいるわけでもなく。

 私はその目を見て殴れなくなった。彼が静かに『女たちを連れてきましょうか』と書いてきたが、私はいらぬと叫び散らした。私はあえてついて来るなと言わずに寝所へ向かった。彼は、私がひそかに望んだ通り、そっと追ってきてくれた。私は寝台に横になり、着いてきたのならば琴くらい弾けと命じた。琴弾は従った。深く緩やかな大河のような琴の調べをしばらく聞いていた私は、気づけば考えていたことを口走っていた。

 何もかも思い通りになどなりはしない。女に恋をしたとて、鈴雀の女だというだけで官は総出で大反対。そうかと思えば、政においては、官たちは自らの私利私欲を満たすために動くばかりで、私の意見など難癖と屁理屈で簡単に押し曲げる。そんな朝廷に嫌気がさして、国を泰平に治めよとだけ命じると、煩わしいその場所から逃げ出した。王にあらざる愚かな行為と、それをせずにはいられなかった自分をごまかそうと、贅沢三昧を送り、女と遊びほうけた。それでも罪悪感と劣等感は紛らわしようもなく、少しでも自分に反対されるだけで腹が立つほどに私の自意識は誇大化した。

 こんな話をすれば琴弾は呆れるだろうと、私は卑屈に考えた。だが、琴の音は優しくなるばかりだった。私は耐えられなくなって思わず尋ねた。

「お前はなぜ私を否定しないのだ。どのように世界が見えていれば、そのような音を奏でることができる。お前の目には、私はどう映っているのだ」

 琴弾の手が止まり、琴の音がやんだ。琴弾が顔を上げると、彼の瞳から零れ落ちた雫が月明りを反射させた。琴弾は筆談に使っているノートを取り出して私に手渡してきた。明かりをつけて開いて読めば、それは彼の日記でもあった。

 読むうちに、私の中でよどんでいた何かが少しずつ動き出すのが分かった。読み終えて琴弾を見てみれば、彼は少し気まずそうな顔をしていた。私は言った。

「私は、お前の罪滅ぼしの糧になっているのか」

 滅相もない、とでも言いたげに顔を跳ね上げた琴弾を見て、私は首を振った。

「違う、それを責めているのではない。そうなれていれば嬉しいと、思ったのだ」

 すると、琴弾は再び目を潤ませた。私は琴弾を呼び寄せ、いくらか発育不足の小さな体を、壊れないように抱きしめた。

「私の歳になっても、人は変われるのだろうか。私にはわからない。だが、やってみようと思う。そばにいて、見ていてくれないか」

 琴弾が私の腕の中でうなずくのが分かって、私は言った。

「まずはお前を名前で呼ぶことから始めたい」

 琴弾が私の手のひらに書き示したのは『ルリ』の文字。美しい名前だと思った。


 * * 別ページ * *


 そろそろルリを拾って五年が経つだろうか。先日地揺れがあった。その三日ほど後に、官吏の一人が私を訪ねてきた。

「朗報でございます! わが国の軍が陵都国王、皇太子、皇太子妃、王女を討ち取りました!」

「なんだと!」

 私は叫んで立ち上がった。そばで琴を静かに奏でていたルリも息をのみ、手を止めた。

 私が王城を空けていたせいで、砂熱海が償いようもないほどの罪を犯した。その重みが、まずのしかかってきた。そして次に、陵都の報復に対する恐れが。加えて、水嵐季に我が国とのみ同盟を結ばせたという知らせを受けた時点で動き出していればよかった、という後悔が。感情の波が汗に変わって、全身を流れていくのがわかった。私は息をのみこんだ。

 そこに、ゆったりとした琴の音が重なった。私ははたと顔を上げた。ルリが奏でを再開していた。ルリと目が合った。ルリがほほ笑んだ。それだけでよかった。汗がしんとおさまった。

 私は一度深呼吸をして座ってから、官吏に向いた。

「王子の名がなかったようだが」

「逃亡中でございます。全力で探しておりますゆえ、じきに見つかるかと」

「捕らえたならば、決して傷つけずに私の元へ連れてこい。陵都王族の遺体は、さぞ丁重に葬ったであろうな」

「そ、それは、その」

「陵都国民の怒りをあおるな。地揺れの被害があるのならば率先して支援せよ。陵都国民の砂熱海に歯向かう気力をくじかせておけ、良いな」

 私が官の好む言い方をすると、官はなるほどと言い、私に従った。

 三年前は、私は官と渡り合えるほど強くはなかった。だから、ルリと何度も話し合って、時を待とうと決めた。さて、その時とは、今なのか。私がルリを見やると、ルリは再び笑みを浮かべ、小さく、しかし力強くうなずいた。私は官に向かい、はっきりと告げた。

「一度宮に戻る」

 別に、そんなに大仰な自信があったわけではない。それでも、これ以上彼らの好きにさせておくわけにはいかないと思った。

 こうして、私は何十年と足を踏み入れていなかった王宮に帰還した。もちろん、ルリをはじめ、それまでの愚かな私を許し、今でも仕えてくれている使用人たちも連れて。


 * * 別ページ * *


 私は何度も議会を開いた。初めはやはり、緊張などという言葉では済まされぬほど固くなった。だが、帰って落ち込むたびに、ルリの琴が迎えてくれた。カルサイトも、なんだかんだと世話を焼いてくれた。報いたいと思った。そうして、やっとこさ毎日議会に出るうちに、やがて緊張が疲労に変わった。その原因は探るまでもなく、私と官吏との考え方の隔たりだった。

 官吏の多くは、金銭欲と権力欲から政治を切り離していない。はっきりそうとは決して言わないが、支配地域から富が得られるのですと宣っている。これでは、どれだけ私が陵都を支配するなと言っても誰も動きはしない。そうなればまた、憤慨した陵都が戦を起こす――そんな将来が目に浮かぶ。初めは、官吏たちにはそんな予測もつかないのかと思っていた。しかし、違った。官吏たちは、その戦こそを金儲けの格好の場として見ていた。私は確信した。彼らに、戦をやめる気などない。

 二週間は我慢した。だが、ついに私は琴弾くルリに向かって愚痴をこぼした。そして、喋りだすとなかなか止まらず、やがてルリに対する官吏の態度にまでも言及してしまった。彼らは、布の下を覗けば世にもおぞましい姿があるだとか、触れれば膿の毒がうつるから近づくなとか、あれでよく人前に出られるものだとか、根拠皆無の言葉を並べ立てていくのだ。私がひとしきり話通して息をつくと、ルリは琴から手を離し、『そうですねえ』と他人事のように笑った後、こう書いた。

『よろしければ僕を、明日の朝議に招いてくださいませんか』


 * * 別ページ * *


 官吏たちの餌食にもなり得ることを承知の上でルリの願いを叶えてやると、やはり官たちはざわついた。

「神聖な議会にこのような下賤な者をお入れになるとは、陛下はこの国を滅ぼすおつもりですか!」

 などと言ったのは、あろうことか宰相だった。民のための宰相にこのような偏見持ちが就いているとは、議会はこの国を滅ぼすつもりか。勘弁してくれ。

 私が市民の傍聴にも意味はあろうと言ってなだめると、官たちはしぶしぶ収まった。好機と嫌悪の目にさらされたルリは、それをはねつけるようにしゃんと背筋を伸ばしていた。美しかった。

 その後、連日の通り、陵都をさらに攻めて完全支配とするか否かで議論が紛糾していった。また明日へ持ち越しか、と私が思った瞬間、ルリが静かに手を挙げた。官たちの目が一斉にルリへと注がれた。ルリのそばに控えていたカルサイトが、ルリの書いた文字を読み上げた。

『発言をお許しいただけますか』

「なっ、傍聴と言っておったではないか! お前のようなものが口を挟める場ではない!」

「宰相、控えろ。ルリ、どうした」

 私が宰相を制すると、ルリは黙ったまま宰相を見つめた。そのまっすぐな視線に耐えられなくなったのか、宰相がなんだと怒鳴りつけると、ルリは静かに書いた。

『確かに僕は、あなた方のような高貴な生まれではありません。僕は商家に生まれました。ですから、商人の感覚で申し上げます』

 そして、ルリは目と口元の布を取り払い始めた。議会内がざわついた。見ようによっては確かにおぞましい顔が、そこにはあった。汚らわしいものを見せるなと、怒号が飛んだ。それでもルリはそれを隠そうとはせず、さらに上半身の服を脱いだ。内臓を取り出した跡があった。片足の服もまくり上げた。義足が現れた。ルリは書いた。

『これは、戦争により自殺に追い込まれた娘に恋をした男の、底知れない寂しさと愛情が生みだしたものです。戦は確かに金を回し、技術を生みます。けれど、釣りは死体で払ってくるのですよ』

 ルリの姿に天上人たちが絶句しているのをよそに、ルリは服や布を元に戻し、続けた。

『反対に平和は、人を回し、文化を生み、釣りは金で払ってきます。どちらが得か、僕は考えるまでもないと思うのですけれど』

 このルリの言葉が、動かぬ泥沼に波紋を広げる一石となった。それまで宰相たちに抑えられてきていた少数派の者たちが、私とルリに賛同を示し始めた。

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