【表紙:黒色二】
しばらくの間、俺は干し草に埋もれながら状況を頭の中でまとめていた。そこから浮かんだ疑問は二つ。一つは、砂熱海の地揺れ予知についてだった。ペトラの話が本当なら、半年前の水路工事の時点で砂熱海は地揺れを予知していたことになる。だが、技術は多くの分野において陵都の方が上。そこから考えられる最も現実味のある事実とは、砂水が半年以上前に手を結んだということだった。
尋ねてみれば、ペトラから返された答えは肯定だった。三年も前に、砂熱海と水嵐季はごく内密に同盟を取り交わしたらしい。だが、水嵐季人が地揺れを予知したわけではなかった。
「あの地揺れは、人が故意に起こしたものだ。五年前に即位したセレスタイト陛下が、精霊を利用する道を見つけちゃったんだよ。人と精霊はただの隣人だ。影響はし合うけど、それで終わり……のはずだったんだけど」
ペトラの脆く苦い顔を見て、俺は呵責に追われた。元凶が俺たち陵都王家にあることは容易に想像がついた。俺は耐えられずに苦笑を浮かべた。水嵐季王に合わせる顔がないと思った。
すると、俺の顔を見たペトラがさらりと言った。
「あんたに何かができたと思っているなら、大した思い上がりだ。あんたは弱かったんだから」
「……言ってくれるねえ」
「あんたの護衛が最後に言ってたろ、後悔するなって。あれは、あんたが今までしてきた選択すべてに当てはめて欲しくて言った言葉じゃないのか。弱いあんたにしか見えない世界が必ずある。それを軽くあしらって自分の行動を嘆くばかりじゃ、護衛が化けて出てくるぞ」
俺は腕で目を覆って笑った。ガルノならしかねないと思えた。ガルノも、そして妹も、俺の弱さも甘さもそのまま受け止めたうえで、それでも道があると信じていた。そして、おそらくペトラも。何やら救われた気がした。俺のことを気にかけてくれる人間がまだいるのだということに、心底安心した。ペトラは言ってくれた。
「全部自分のせいにすることなんて、ない」
俺がちらりとペトラを見ると、彼は何かをこらえているような顔をしていた。同じ言葉を言ってやりたい人がいることがよくわかった。そしてそれが誰かは、水嵐季王の名を言ったときの彼の顔を思い出してみれば明らかだった。俺はペトラの頭を撫でた。
「そのセリフは、セレスタイト王のためにとっとくべきだな。取り消しとけ」
「……気安く撫でるな」
そう言ってペトラは俺の手から逃げた。俺は笑った。
ここまでの会話で、ペトラと水嵐季王の間柄が近しいことは分かった。それでも、二つ目の疑問を解決するのにはまだ足りなかった。いや、厳密にいうと、問いの答えとペトラの行動が矛盾していた。俺は尋ねた。
「ペトラ、お前は何者なんだ」
「セレスタイト王の愚かな元付き人とでも答えておこうか」
ペトラは視線を下げて言った後、大げさにため息をついた。
「あんたが知りたいのは、僕がどういった立場であんたを助けたのかってことだろ。なんでも遠回しに聞くな、面倒くさいから」
「うわあ、ひどい」
「ちょうどいいだろ」
そこでペトラは言葉を切って、虚空を見つめて目を細めた。
「僕も馬鹿だったからさ、国外追放をくらったんだ。それでも、陛下がこれ以上傷ついていくことには耐えられなかった。きっといつか、陛下はこの作戦に手を貸したことを後悔する。陵都王家を滅ぼしたことに憤る。そう思ったから阻止しようとした。砂熱海が王殺しの罪を水嵐季にかぶせてくれば、それも陛下に追い打ちをかける」
ペティの舞が儚かった理由が、少しわかった気がした。
ここでペトラの方から口を開いてきた。
「あんた、さっきから随分自然に聞いてるけど、精霊のこと、信じてるのか」
「信じてるよ。何せ、妹が見えていたからな」
誰が奇異な目で見ようと、俺だけは信じると決めていた。妹はいつも、何もない空間に向かってにこにこと笑いかけ、いろいろな植物と世話の約束を交わし、オニキスもこっちに来て、と俺を誘った。
俺の即答にペトラは瞠目した。
「水嵐季生まれ以外で精霊が見える人間がいたとはな」
確かに、前例はなかった。みな村八分を恐れて言わないだけなのかもしれないが、それにしたって、ごくごく少数派であることには違いないだろう。
「姫はどんなふうに精霊を見ていた」
ペトラの問いに、俺は肩をすくめた。
「さあ。形については何も言わなかったな。ふわふわーとか、ぽかぽかーとか、そんな風にしか言わなかったけど」
妹の笑う顔、植物を世話する手、駆けまわる小さな体、俺を呼ぶ柔らかい声。そんなことを思い出したばっかりに喉の奥に力を入れねばならない羽目になり、俺はごまかすために頭をかいた。
「お前には、精霊はどんな姿に見えているんだ」
「蝶だよ。光ってる。今もいるよ」
ペトラは右手をそっと前に出し、蝶に羽根休みを促すような仕草をした。
「マキっていう、檜の精なんだけど」
俺はペトラの指に止まっているのであろう蝶に、見えないながらも手を伸ばした。すると、ペトラがめずらしく柔らかい笑顔を見せた。
「今はあんたの額に止まってるよ。気に入った人間がいると、マキはいつもそうするんだ」
俺は額に手を置いた。
「……光栄です」
さて、次の日の昼近くになって、俺たちがどうやって中心街に戻ったかは俺の沽券に非常に大きく関わることだから書かないとして、とりあえず俺たちは無事に鈴雀の天幕に辿り着くことができた。鈴雀の乙女たちは、なけなしの食料を削って炊き出しをしていたが、俺たちが近づくと座長がすぐに気付き、俺たちを天幕に入れてくれた。座長はペトラを抱きしめた後、俺に微笑みかけた。
「やっぱり、あんた様に頼んでおいてよかったよ、ニークス様。いや、ニーナ様かね」
そう笑いながら言った座長は、他の子たちに舞台衣装とそれ用のかつらを出すようにと指示を、いや、まあ、この話はよそう。とにもかくにも、座長は俺の被り物を取ってそれをペトラに乗せ、満足げにうなずいた。
「これでよし。おかえり、ペティ。よく無事だったね」
それに対し、ペティはうつむきがちだった。
「すみません、座長。また、ご迷惑を」
「水臭いねえ。何を謝っているんだよ、あんたって子は」
俺の予想通り歓迎色全開で受け入れてくれた座長は、やはり切り替えも早かった。
「それよりペティ、今後の予定を聞かせておくれ。私たちに何ができる?」
するとペティは、無理を承知でと前置きしつつ、速やかに答えた。
「砂熱海との国境を超えるときに、一座の一員として紛れ込ませてほしいのですが……」
俺たちは砂熱海を経由して水嵐季に入る予定でいた。もちろん、このまま陵都で身を潜めているという選択肢もあったが、それでは事が進展しないし、直接砂熱海で王に直談判など無謀すぎてお話にならない。それで、相当憎まれていることを承知で、水嵐季王に保護と助力を求めるところから始めることになっていた。説得には、王家の相談役をしているペトラの父親が力になってくれるとのことだった。
一度砂熱海を経由するのは、地形に由来するところが大きかった。陵都と水嵐季の国境にはえらくでかくて厳しい山がそびえたっており、おかげで水陵の国境の関は二か所しかない。おそらく、陵都王子が水嵐季に保護を求めることは砂熱海も承知しているだろうから、水嵐季との国境の関は、侵入してきた砂熱海兵に強化される。ならば山を行けばいいではないかと俺は提案したのだが、お前は馬鹿か自然をなめるなとペトラに一蹴されてしまった。こうして、消去法で砂熱海経由となったわけである。
女座長は、食料と物資の確保という名目で砂熱海に急ぎ入ることを了承してくれた。そして、鈴雀の在庫を減らすために、鈴雀の本来の予定通り、次の日までは広場に留まって、衣類や防寒具の寄付と炊き出しを行うことになった。
城下に変化があったのは、その日の正午だった。何やら人通りが多くなったり騒がしくなったりして、女座長が様子を見に行った。しばらくして帰って来た女座長は、真っ先に俺のところに来て、俺の肩を抱いた。
「むごいことだよ」
それで大体察しはついた。俺は明るい声を出して笑った。
「さらし首? それとも磔? 死体は何体あったの、座長?」
「さらし首だ。三人分だよ」
コハルも殺された。
そんな予想通りの事実に、予想以上の圧迫感があった。彼女を守れなかったのだという現実は、あまりに重くて、受け入れ難かった。
「ごめん、ちょっと」
一人にさせてくれ、と続ける前に、俺は泣いていた。俺は座長の腕にすがった。
「俺が一緒に城下に連れ出していれば……」
「あんたのせいなんかじゃない、絶対だ!」
叫んだのはペティだった。ペティはどこか恐れたような顔をしていた。ペティの唇が震えていたように見えたのは、恐らく俺の視界がにじんでいたせいではない。ペティは続けた。
「あんたのせいなんかじゃない。だけど、砂熱海のせいでも水嵐季のせいでもない。誰が悪かったかなんて、善人が誰かを探すのと同じくらい無意味だ。探すべきは原因だけ。僕らの通った道をなぞってくれるな、馬鹿王子」
僕らの通った道とは何なのか。そう思考したのが、案外よかったのかもしれない。俺は、前日彼が「同じ轍を踏む」なんて言い方をしたのを思い出した。
何かがストンと、落ち着くべきところに落ち着いた。おかげで、ガルノを失った時のようなことにはならずに済んだ。何かが吹っ切れた気がした。ひとしきり悲しんだら、前を向こうと思えた。
翌日、親父の首を引っ提げた砂熱海軍と入れ替わりになるように、俺たちは広場を出て行った。幌馬車に揺られながら、地揺れの被害の大きい故国から砂熱海を目指し、二週間もすれば国境に着いた。検問の兵は座長から事情を聞くと、俺も含めた団員全員を一人ひとり見て確かめた。だが、何かを問いかけられることもなく、俺たちは無事に国境の検問を突破した。そのときは心底ほっとしたのだが、国境を越えてしばらくのところで座長が放ったお言葉はいただけない。
「ニーナ様、やっぱりいい女だねえ。不審にも思われなかったよ」
是が非でもいただくわけにはいかない。
次に鈴雀が天幕を張ったところで、俺とペティは鈴雀と別れることになった。物資補給の名目で入国した以上、彼女たちはそれが終わり次第陵都に戻らなければならないからだ。そして、鈴雀から切り離されての女の二人旅はいろいろな意味で逆に危ないため、俺はようやくひらひらで重たい衣装から解放された。
女座長は俺に言った。
「案外ちゃっかりしてるあんただから大丈夫だと思うけど、気を付けるんだよ」
そして、次に彼女はペトラをそっと抱きしめた。
「今度こそお別れだ。元気でね」
こうして、俺たちは二人旅を始めた。砂熱海の人たちは、俺たちを普通の旅人として扱うばかりだった。思えば、王族の俺ですら水嵐季王の顔も砂熱海王の顔も知らなかったから、当然といえば当然だった。それでも、念のため目立たないようにしてはいたのだが、一度だけ、とある一悶着を収めるために出て行ったことがあった。往来でふざけていた若衆が、故意とも思われるような仕草で通りすがりの青年にぶつかったのである。ペティのかつらを思い出させる黒髪の青年――砂熱海は島内三国で唯一男性にも髪を伸ばす習慣がある――は、片足が義足で、左目も負傷しており、口元もマスクのようなもので覆っていた。ぶつかられたことで体の均衡を保てなくなったその青年は、手に持っていた卵のかごごと、ぶつかってきた男にもたれかかるようにして転んだ。俺とペトラは、休憩所に腰かけてその様子を見ていた。ペトラが先に読んで俺に言った。
「気持ちはわかるが、出て行くなよ」
「仕方がないなあ。でも、あいつらが手をあげたら行くからな」
そして出て行くことになった。男は、高価な服が卵まみれになったと怒鳴り散らした。使用人服を着た片目の青年は、慌てて懐からハンカチを取り出して汚れを除こうとしたが、男はそんなもので間に合うものかと青年の膝を踏みつけた。青年は手を合わせて頭を下げていた。青年は口がきけなかった。それがわかった男は、にやりと笑い、詫びを口にしろと言い放った。青年にはどうしようもなく、それがわかっていた男は面白そうに青年を殴り倒し、彼の喉から胸にかけてを足で踏みつけた。俺は立ち上がった。ペトラのあきらめたようなため息が聞こえた気がしたが、無視した。俺はできつつあった人だかりをかき分けて、その男の脚をこんこんと叩いた。
「おどけなさいよ、この脚。痛い目見ることになるよ」
「やってみろよ」
男とその取り巻きが俺に下品な笑みを向けた。
「いや、俺が見せるとは言ってない」
言って、俺は男の服をじっくりと見た。
「やっぱりね。おたく、これいくらで買ったの。高かったなら、ぼったくられてるよ」
「なんだと! 絹の一級品だぜ」
「まあ、地はね。だけど刺繍は木綿糸だし、フリンジも質が悪すぎる。金はこれメッキでしょ。裁縫も随分大雑把。ほらここ、ほつれてる。それに比べて――」
俺は青年の服に視線を移した。
「こっちは使用人の服にも関わらず仕立てがいいね。それに、見た? さっきこの子が取り出したハンカチ。あの光沢はおそらく絹だ。この子はそんなものを支給してもらえるほど家主に気に入ってもらえていて、そんなものを使用人に支給できるほど家主は金持ちってわけだ。それをまあ足蹴にしちゃって。どんな仕返しされても知らないよ」
「へ、屁理屈ばかりを」
言った男だったが、何やらよくわからない文句を並べ立てると、さっさとどこかへ行ってしまった。
俺は青年を抱き起した。青年の荒い呼吸と咳はなかなか収まらなかった。ペトラがこちらに駆け寄ってきて、青年に尋ねた。
「胸、患ってるの?」
すると、青年は人差し指と親指で小さな隙間を作って見せた。俺は青年の腕を肩に担いだ。
「家はどこ? 送ってくよ」
そうして辿り着いたのは、予想していたよりもはるかに質素な邸宅だった。だが、他の使用人の服を見ても上等なものばかりだったから、恐らく家より人を大切にする主人だったのだろう。使用人の帰りの一報を聞きつけてやって来た主人は四十半ばくらい。彼は俺たちに、ひとまずといったふうに一言礼を言ってくれ、その後すぐに青年に駆け寄った。
「ルリ、大丈夫か。横になるか」
汗を浮かべていた青年がうなずくと、他の使用人たちが彼を運ぼうとやって来た。青年はその場を去る前に懐から紺青のノートを取り出して、主人に向かって何かを書いた。主人が、気にしなくていいから早く休めと言っても、青年は続けて筆を走らせ、それを俺たちに見せた。
『助けていただいてありがとうございました』
そうして、ようやく青年が休む気になって下がると、主人は俺たちを家の中に招いた。彼がただの金持ちならともかく、上流の人間だった場合は俺の顔を知っている可能性があったから遠慮したのだが、断りきれなかった。主人は俺たちから大来での事の大筋を聞くと、再び礼を言ってくれた。
「感謝申し上げる。あの子は片方の肺を失っている。助けに入っていただけなかったら、随分苦しかったろうと思う」
そして、俺たちが旅人であること見て悟ったのだろう、主人は足しにしてくれと、水やら保存食やらを大盤振る舞いしてくれた。周囲を見ると、使用人たちは柔らかい表情で働いていた。いい主人であることがすぐにわかった。
それでも長居は危険として、俺たちは早々にお暇した。その去り際、ペトラが主人に尋ねた。
「あの使用人の方、もしかして、琴を弾かれます?」
主人の返答には、若干困惑の色があった。
「ああ、琴弾として雇っているが……、なぜおわかりになられた」
「『片目と口に布当てて、片方の脚は膝下なし』。戦盛りとはいえ、一致する方はそうそうおられないと思いましたので。僕、鈴雀の座長と知り合いなのですが、琴弾殿にお伝えください。座長が身を案じておりました、と」
とまあ、身分がばれる危険があったのはこのときくらいで、その後は順調に進み、一ヶ月の旅の末に国境手前の宿場町までたどり着いた。そこは、最も海側にある関のそばだった。ペトラと風の精を通じてやり取りしているペトラの父親によれば、陵都から一番遠いせいで砂熱海の警戒が他より低いとのことだった。宿の部屋で、俺は尋ねた。
「どうやって国境の検問を突破する気だ。鈴雀の蓑はもうない」
すると、いつも通りの素っ気ない返事が返ってきた。
「王宮じゃ、父さんの味方は多くてね。ちょっと根回しすれば検問の兵にも願いが通る。明日、門が閉まる直前、門の水嵐季側でちょっとした騒ぎを起こしてもらう。砂熱海兵が気を取られる時間は短いだろうけれど、その間に横の柵を登れ」
それなりに危険度のある内容をかなりさらっと言われて、俺は自然と挑戦的な口調で返事をしていた。
「へえ、ここまできて強行突破か。一体どんな豪勢な騒ぎを起こしてくださるのやら」
だが、ペトラは俺の挑戦をいとも軽く跳ね返してきた。
「聞いて驚け、花火大会だ」
……驚いた。
「そりゃまた随分風流な騒ぎですね……」
一人で完敗気分に浸っていく俺に、ペトラは事務事項をこなすが如くに語った。
「もしあんたに注意が向きそうになったら、僕も砂熱海側で兵に話しかけて気を引く。身軽なあんたなら柵も越えられるはずだ。越えた先に僕の父さんがいるから、あとは父さんに従え」
「ちょっと待て、お前は一緒に来ないのか」
俺が驚いて言うと、ペトラはあからさまに呆れ顔を浮かべた。
「僕は国外追放者だって言っただろ」
そう言い放つペトラの目元に、わざとらしい呆れでは隠しきれない別の感情が見えた気がした。俺はずっと思っていたことをついに口にした。
「それ、どこまで妥当な判断だったんだ。俺には、お前がそこまでの罪を犯したようには思えない。一度帰って、王に会ったら――」
「だめだ! 僕はまだ帰らない!」
ペトラは叫んで俺をさえぎった。
「これ以上陛下を傷つけるわけにはいかないんだ。わかってくれ」
ペトラの目にまた儚さが宿った。その切なさに俺は何も言えなくなった。ペトラはその目で俺をまっすぐ見つめてきた。
「あんたも大事なものを失った。あんたなら陛下に寄り添える。自分から一人になろうとする気持ちが、あんたになら少しはわかるはずだ。この通り、頼むから、陛下を助けてくれ」
ペトラは俺に向かって頭を下げた。俺は慌てて顔を上げさせようとしたが、ペトラは俺がうんと言うまで上げなかった。だから、というわけでは決してない。俺は、俺の意志として言った。
「わかったよ、ペトラ。わかったから――泣くな」
翌日、薄暮に合わせて俺たちは関に向かった。俺はペトラと別れ、身を隠しながら検問の柵のそばに伏せた。太陽が沈んだ。門の水嵐季側が陽気に賑やかになり始めた。砂熱海兵が水嵐季側を訝しげに覗いた。爆音が響いた。俺が柵に手をかけたと同時に、紺色の空に花火が咲いた。砂熱海兵がそちらに気を取られているうちに、俺は自分の背丈の三倍はある柵をよじ登り、水嵐季に入った。
俺は警戒して身を低くしつつ、柵から少しずつ遠ざかった。しばらくすると人がいて、声をかけられた。
「ペトラの父です。オニキス様ですか」
俺はそこでようやく身を起こし、ペトラの父に手を差し出した。
「はい。ご助力感謝いたします」
「こちらこそ、復讐を考えずにいてくださったこと、感謝をしてもしきれません」
ペトラの父は柔らかい顔をして俺の手を握り返した。俺は言われて初めて気が付いた。そういえば、やり返そうなどとは頭をかすめもしなかった。これではただの馬鹿ですかねと俺が頭をかくと、ペトラの父はそっと頭を横に振った。
「かつてのセレスタイト王とよく似ていらっしゃる」
俺は彼に対し、苦笑だけを返すことにした。一応俺のことを丁重にもてなそうとしてくれているペトラの親御様を相手に、息子さんが「セレスタイト陛下の方があんたより百倍頭が良くて百倍優雅で百倍優しい」とかまくし立てていたことを、まさか正直にそっくりそのまま伝えるわけにもいかなかった。
そして俺はペトラの家に招かれた。随分と古そうだったが、手入れの行き届いた品の良い邸宅だった。そこでおいしい夕食をごちそうになり、質の良い寝具で一晩を過ごし、素晴らしい朝食をいただくと、俺はペトラの父に連れられて王宮に向かった。あんまり堂々と真正面から行くものだから、さすがに俺は色々と心配になった。
「だ、大丈夫なんですか」
「初めは陵都王子であることは伏せ、私の知人としてお通しします」
「身分明かした瞬間に首はね……とかないですよね」
すると、彼は穏やかに笑った。
「捕らわれこそすれ、即殺害はないでしょう。そうなる前に、私がお止めいたします。三年前は息子一人に罪をかぶせてしまいましたからね。同じことはさせませんよ」
彼は俺を王宮内のとある一室に入れ、陛下を呼んでくると言って一度部屋を去った。数分後、二人分の足音がして扉が開いた。俺は深く頭を下げた。水嵐季王が抑揚のない声で顔を上げろと言い、俺がその通りにすれば、ひどく冷たい視線と目が合った。俺は息を止めずにはいられなかった。ペトラやペトラの父がそれほど慕う理由がどこにも見当たらず、ただただその端正な顔立ちに恐れを感じるばかりだった。