【表紙:紺青色】
杖の支給だけを受けて病院を出れば、商家の旦那が薬で捕まったと噂が立っていた。当然、僕の今の見目のことも。
『片目と口に布当てて、片方の脚は膝下なし』
僕は後ろ指を指されながら街道の入り口付近に行った。そこにはすでに路上生活者が数人いた。僕は隅に行って座った。みんなうつむいたままで僕に注意など向けなかったし、僕のすぐあとに一人のおじさんが怪我だらけで転がり帰ってきたときもそうだった。そのおじさんは腕の傷口に布を巻いていたけれど、その布はどう見ても分厚すぎていて、結びもゆるく、止血に役立っているようには到底見えなかった。僕がそちらへ行ってその腕に向かって手を伸ばすと、おじさんは僕に、どうやら罵詈雑言を浴びせたらしい。でも、傷をどうしたものかと考えていて聞いていなかった僕は、問答無用でおじさんのほっぺをつまんで黙らせ、適当に巻かれていた布を取り払って僕自身の服の袖を割いた。それで傷口を巻きなおすと、礼をして僕は隅っこに帰った。
その日、収益はなかった。次の日は皆無ではなかったものの、買えて水二杯と、残りいくら残るだろうかといったところ。柔らかい食べ物が買えるだけの金が貯まるまでは、当分水か、いいとこミルクでしのぐかと息をついたとき、おじさんがやって来て言った。
「とりあえず何か買って食え。夜にその金盗まれるぞ」
『お気遣いありがとうございます。でも、舌と歯がないので、食べられるものが買えそうになくて。お水だけ買ってきます』
僕の書いた答えに、おじさんは一瞬驚いた顔をしたけれど、その後言ってくれた。
「ミルク一杯と小さめのイモ一個買ってこい。鍋と水と火はあるから、スープでも作ってやる」
とんでもない好待遇の話に、僕は感謝を込めて頭を下げたが、あまりにも勢いよく深く下げすぎたせいで、しゃがんでいたおじさんの膝頭におでこを激突させてしまった。僕が謝ろうとわたわたと頭を上げると、ちょうど僕の額の様子を探ろうとかざされていたおじさんの手があって、僕は自ら平手打ちを食らいに行く形になった。僕がおでこと後頭部をさすった後に手を合わせて謝ると、あんなにずっとしかめ面だったおじさんが、くすりと笑っていた。
言われたものを市場で買い、僕はおじさんと一緒にご飯を食べた。おじさんは言った。
「昨日はすまなかったな。ひどいことをだいぶ言ったろう。理不尽にいびられて、少しむしゃくしゃしていたんだ」
謝ってもらってなんだったが、僕はそれを聞いていなかったわけで。
『大丈夫ですよ。傷の方に気を取られて、何一つ聞いていませんでしたから』
「なっ! せっかく柄でもないこと言ったのによ! 俺の詫びを返せ!」
そうして僕らはもみ合って、砂まみれになりながら大声で笑った。
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傍から見て、そこまであからさまにわかるほど落ち込んでいたつもりはなかったのだけれど、おじさんが今日、こんな言葉をかけてくれた。
「俺もここまで落ちたからな、そりゃあ初めは自分も他人も責めたさ。だが、誰かを責めたところで何も変わりゃしねえ。俺あ気付いたさ、愚かだった俺が悪かったんじゃない、俺の愚かさが原因だったんだってな。あんたも、つまんねえことで誰彼責めんなよ。原因見つけて、それを正していけばいいだけだ。罰も制裁も、解決にゃ直結しねえんだからよ」
おとなしく言うことを聞いていれば、優しい父さんが帰ってくると思っていた。だまって暴力を受け入れていることを、どこかで偉いと思っていた。孤独なんてものともしないと、女中さんたちに笑ってみせていた。でも、どうやらそういうことじゃなかったらしいとわかって、そんな間違いだらけの自分を罰したいと思って。だけど、それも無意味らしい。
思わず、どうしたらいいのかな、なんて漠然とした疑問をおじさんに投げかけてしまった。でも、おじさんから返された答えは、それこそ僕が期待していたよりもずっと漠然としていた。
「もうちょい、自分の純粋な思いに気づいてやりな」
そうしておじさんは、そこそこ乱暴に僕の頭を掻き回して笑った。わしゃわしゃと音がした。僕は、おじさんのこの撫でているつもりの不器用な行為がすごく好きだ。
――自分の純粋な思い。
おじさんが僕の頭から手をどけたから、僕はその手を掴んで頭の上に戻してみた。するとおじさんは、おじさん独特の苦笑いみたいな笑顔を浮かべて、撫で時間を延長してくれた。
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鈴雀一座が僕らのすぐ横に舞台を出した。音楽の癒しのおこぼれにあずかれただけではなく、鈴雀が集客してくれたおかげでいつもより多い金銭が手に入った。それだけでもありがたかったのに、舞台が終わって人波が引いたころ、鈴雀の女座長さんがやってきて、僕ら一人一人に収益の一部をくれた。最後に来たのが僕のところで、僕は思いきって尋ねた。
『お金はいりません。代わりに、少しだけ琴を貸していただけませんか』
いぶかしげに僕の顔を見た女座長さんは、一瞬驚いた表情で固まった後に、ごまかすような笑みを浮かべた。
「昔、一座にとある琴弾の娘がいたんだが、坊やとその子の目があまりにそっくりなものだからびっくりしちまったよ。どこかの呼び売りと恋仲になって脱退したんだが、その子ったら、自分の代わりにと言って使っていた琴を置いて行ってね。持ってきてあげるから、ちょいとお待ち」
そうして僕はその琴を弾いた。母さんの遺した音が指から腕から耳から伝わって、その快さの中でたゆたっているうちに、気づけば曲は最後の一音。その余韻を耳の奥で転がして、ふと顔を上げると、目の前にはたくさんの人がいた。その多くが、僕のところにお金を置いて行ってくれた。人の波が去ってから、座長さんは言った。
「この琴、このまま使っとくれ」
僕は首を振ろうと思って慌てて顔を上げ、そのまま勢い余って後ろにひっくり返りそうになった。座長さんは大笑いしたけれど、次第にその笑みに切なさが宿った。
「本当にあの子とそっくりだよ。誰よりも優しくて誰よりも手先が器用なくせに、誰よりもどんくさかった。持ち前の天然ボケが、それはもう思わぬことを引き起こして、おかしいのなんのって」
そよ、と座長さんの目元が凪いだ。
「前ここに来たときと今とで、ここにいる人たちの雰囲気がまるで違う。だけど、他に変わったところと言えば、あんたが加わっていることくらいなのさ」
そう言って座長さんは僕を抱きしめてくれた。
「何があったかは聞かないよ。ただ、あの子の心残りを少しだけでも減らしてあげたいんだ。どうかこの琴、生活の足しにしておくれ」
こうして僕は、毎日琴を弾いて食いぶちを稼ぐようになった。そして、自分が食べて余る分はおじさんやみんなにわけて、僕らは一つの家族になったように暮らしている。
* * 別ページ * *
変わることなく僕があの場所で琴を弾き終えると、ひときわ上質な服をまとった男の人が僕に一言こう言った。
「その琴とともに私の下へ来い」
僕は一年を共に過ごした人たちを振り返った。みんな大きくうなずいて、僕の背を押してくれた。僕はその男の人の手を取った。
立派な馬車、立派な邸宅、上流の方だろうかと思ってついて行ったけれど、ずっと口を閉ざしていた彼がようやく自宅で言ったことは、僕が予想もしていなかったことだった。
「私は国王だ。まあ、信じなくても良いがな。私の命じるままに動け。それ以上のこともそれ以下のことも許さぬ。私のことはディオと呼ぶように。――さあ、弾け」
僕はディオ様のお顔を見つめた。一瞬、父さんが重なって見えた。僕は、父さんが聴こうとしなかった琴をディオ様の前で弾いた。ディオ様は黙って聴いていた。
しばらくすると、部屋に一人の男の人――カルサイト、と他の人から呼ばれていた気がする――が駆け込んできて、深く頭を下げた。彼の、今日も見つけることができませんでしたという言葉を聞くや否や、ディオ様は立ち上がり、カルサイトさんを殴って蹴った。僕はやめろと言われなかったから琴を弾き続けた。ディオ様は長い間、聞き覚えのある暴言を叫びたて、見覚えのある行為を続け、見覚えのある雰囲気をまとってその部屋を出て行った。ついて来いと言われなかったから、僕はその部屋から出ず、倒れていたカルサイトさんのそばへ行き、そっと彼の体に触れた。ほてっていた。彼はぶっきらぼうに大丈夫だと言って、息をつきながら体を起こして座った。僕は書いて見せた。
『何があったのですか』
「なんだ、新入りか」
彼はそこでようやく僕を認識したようで、やや面倒そうに言った。
「三日前、この街に砂嵐があってな。そのときに逃げ出した護衛を見つけてこいと言われている」
『そうでしたか。では、ディオ様が今どこにおられるか、わかりますか』
「今はこの邸の一番隅の自室だろう。念のため言っておくが、行かない方が身のためだぞ」
僕は一度うなずくと、お礼を書いた。そして立ち上がろうとしたのだけれど、どうやらカルサイトさんの服の裾を踏んでいたらしく、派手に滑って転んだ。心配一割り驚き一割呆れ八割くらいで大丈夫かと言ってくれるカルサイトさんに苦笑を返し、僕は今度こそ立ちあがって琴を持って、カルサイトさんの忠告を無視してディオ様を追いかけた。ついて来るなとも言われていなかったし、何より僕はディオ様の近くにいたかったから。
隅の部屋の前まで行くと、僕は何もしないまま廊下に座った。扉を開けてもらおうとは思っていなかった。ただ、ディオ様がもうすぐそこにいるのだと感じられれば、それでよかった。琴は弾かなかった。弾くべき時ではないと、静寂が糸を張っていた。
――やがて、押し殺した嗚咽が一瞬だけ聞こえた。僕は扉を振り返った。空耳とは思えなかった。扉の奥にいるはずのディオ様の様子が、まざまざと、ありありと、想像を超えた鮮明さで脳裏に浮かんだ。僕の思考は、容易に父さんにまでつながった。
きっと父さんも、ああやって一人で泣いていたんだ。誰もかれも恐れさせて近づけず、ばれないように、あえて一人で泣いて。ねえ、そうなんでしょう。寂しかったよね。苦しかったよね。でもね、僕も同じだったんだよ。だって、父さんが一人になるほど、僕も一人になったんだもの。
ぐっと喉まで熱が上がってきた。僕は一度こらえようとした。でも、やめた。僕は泣きたかった。だから、泣いた。




