【表紙:茶色のまだら模様】
今日、うれしいことがあった。皇太子さまが、じゃなくて、セレスがこう言ったんだ。
「一つ頼みがある。セレスと呼んでくれないか。そして私も、君をペトラと呼びたい」
天青石と珪化木。ぼくらは仲良く石同士。ぼくは大きくうなずいて、何度もセレスと呼びながら、セレスの周りを走り回った。セレスはにっこりと笑って、ぼくを見てくれていた。
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セレスの父君が亡くなった。セレスは僕と父さんを王宮に呼び、砂陵提示の不平等条約を呑んで和睦を結ぶことを決めたと言った。僕らはその決断を変えさせようとは思わなかった。毎日のように戦没者の合同埋葬地に足を運び、手を合わせる人に向かって、一体誰がまだ戦えと言える?
そうして、和平交渉が成立したのが昨日。今日は久しぶりにセレスに会えた。セレスは自室前の中庭にいた。少し疲れているようだったが、それよりも戦が終わった安堵感のほうが勝っているように見えた。セレスが手を伸ばすと、草木や風なんかの精霊が集まって来た。精霊たちを見てにっこりと笑い、セレスはそのまま穏やかに言った。
「ペトラ、ずっとそばにいておくれね」
僕は少し照れくさくなりながらも、うなずくしかなかった。
「離れたくても離れられないよ。僕も、その精霊たちみたいに、セレスに引き寄せられた存在なんだもん」
僕の言葉に、セレスの笑みが深まった。
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最近セレスの元気がなかった。精霊がセレスのように見えている人は、それ以外の人よりも敏感に精霊を感じる。だから、国中から悲鳴が聞こえていたんだ。陵都による度重なるガス採掘と工場設立、砂熱海による過剰な水利用と伐採。そして、陵都が爆弾を使って山肌を大幅に削り取って、セレスは倒れた。父さんから知らせを受けて、僕はセレスの部屋に駆け込んだ。
「大丈夫、セレス? ゆっくり休んで」
すると、セレスが苦笑を浮かべた。
「それは難しいかな。聞こえる? 今もみんな寂しそうに散っていっている」
セレスの苦笑がどんどん苦くなって、歪んで、ついにセレスは涙をこぼした。僕がセレスの手を握ると、セレスはそれを固く握り返してきて、額に当て、泣きながら言った。
「たった二年で、こんな……。私は間違っていたのか。人民の命を守るために精霊を売ったのか」
「……セレスのせいなんかじゃない。絶対だ」
「だが、私だけが防げる立場にいたのだ。そして、そうやって守ろうとした民たちも、ひどい労働と安い賃金に苦しんでいる。私は何のために何をした。これでは戦っていた方が、よほど……」
セレスはそれ以上言えなかった。あとの言葉は嗚咽となって消えた。
だけど、ひとしきり泣いたセレスは、また柔らかい声で言った。
「なあ、ペトラ、私は砂陵の者たちがどのような世界を見ているのか知りたい。そうすれば、うまい折衷案が見つかるかもしれない。話し合いの場を設けようと思うのだが、どう思う?」
今度は僕が耐えられなくなってセレスに抱き付いて泣いた。セレスが微笑みながら僕の頭を撫でつつ、どうしたのだと優しい声で言ってくれたけれど、僕には答えられなかった。
セレスの父君の時代、砂陵両国はこちらがどれだけ会談を申し込んでも受けなかった。だけどセレスは、再び理解の場を設けようとしている。ここまで追い詰められているのに、セレスは相手を憎みもせずに前に進もうとしている。なんて切なくてやるせない話だ。僕はふと、祖先が遺した宝の地図と宝物を思い出した。こういうこと、なのだろうか。こんなことで、いいのだろうか。
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話し合いに応じたのは砂熱海だけ。その砂熱海も、やって来たのは王の名代。そしてその大使は、その場に同席した父さんによれば、秘密裏の同盟を求めてきたらしい。ようは、陵都との和平を裏切れということだ。
「ただで、とは申しません。もしもこの話に応じていただける場合は、現在までに砂熱海が買い入れた水嵐季領土内の山を一括返還いたします。そして二度と購入いたしません」
金に困り持ち山を売る水嵐季人と、その山を買い取り、切り開き、水と木を売る砂熱海商人。国の対策が一歩遅れただけで、国内の山はほとんど砂熱海人の手に渡り、セレスが国として何を求めようと、砂熱海は商人が商売でやっていることなので何もできないの一点張りだった。それが変わる条件に、さしものセレスも即答はできなかったらしい。それでもセレスは陵都に配慮し、丁重に断った。爆発音が聞こえたのは、ちょうどそのときだったという。それから、檜の森のそばにあった陵都の実験場が爆発した旨がセレスに知らされたのが、その三十分ほど後だったとか。
僕はそのとき、すぐに現場に行った。大きな爆発は大きな火を産み、火は森を遊び場にして駆け回った。消火できる規模ではなく、風向きも悪かった。火が進んだ方向は、あの千五百年の大樹がある方向だった。成す術なんて、ちっぽけな僕には何一つなかった。
不幸中の幸いで、その後すぐに雨が降り出した。それが近年稀にみる豪雨だったことで、どこか別のところで洪水とがけ崩れが起こった代わりに、こちらは山火事が収まった。とはいえ、それも三日後の話だったが。
見に行かなくたってわかっていたけれど、それでも僕は今日、マキのところへ行った。案の定、そこには根元付近で折れて倒れた巨大な木炭があった。大きな光る蝶はどこにもいなかった。柔らかな木漏れ日も、湿った土のにおいも、どこにもなかった。惨状が思考を追いやって僕が呆然としていたとき、背後でか細い声がした。
「……マキ?」
僕は振り返った。セレスがいた。セレスが、そろりそろりとマキの木の方へやって来て、その根元で力なく膝を折り、ぼそりと言った。
「ペトラ……、マキがいない」
僕は何も言えなかった。ただセレスを抱きしめることしかできなかった。セレスは続けた。
「うそだ。マキがいなくなるなんて、うそだ」
セレスの顔が歪んだ。セレスは一度大きな叫び声をあげると、何度もマキの名を呼びながら泣いた。泣いて、泣いて、それでもセレスの涙は枯れなかった。セレスは木炭が散らばった土を握りしめて言った。
「陵都の実験場さえ、なければ」
その声の高さと質が、いつものセレスのものと違った気がした。今思えば、それは正しかった。
「ペトラ、私は砂熱海とのみ同盟を組む」
僕が耳を疑った一方で、セレスは低い声で続けた。
「陵都人は爆発の可能性があることを知っていた。だからこそ、本国ではなくこちらに施設を建てたそうだ。陵都はわが身かわいさにこちらを犠牲にして、よりによって森のそばに建設した。そして、それを認可したのも突き詰めれば私だ。私は責任を取らなければならないし、取らせなければならない。――砂熱海と結んで陵都を攻める。失わねばわからぬ者たちならば、奪わねばなるまい」
「セレス! だめだよ、そんなのセレスらしくない!」
叫んだ僕だったが、セレスの顔を見て思わず身震いを覚えた。セレスの顔には、今まで他の誰の顔にも見ことのない深い憎悪が現れていた。
「たわごとを。私らしさの意味とは何だ。それで私は何をどれだけ失った」
そのとき、ほんの小さな――モンシロチョウと同じかそれ以下くらいの光る蝶が、地面の木炭をかき分けて出てきた。おぼつかない飛び方のまま、その精霊はセレスの周りを飛んだ。跳ねまわるような軽快さ、底なしのこのあたたかさ。僕は確信した。悟るや否や叫んでいた。
「セレス、マキがいる! 見て! マキが!」
僕は、セレスがマキを見れば元に戻ると思っていた。でも、セレスは僕がマキを認識しているところを見ても何ら表情を変えず、数秒後、僕を見て表情を変えた。僕はその顔を見て言葉も声も失った。セレスは冷ややかな目をして、侮蔑を露わにしていた。セレスはひどく低い声で言った。
「私を止めるための嘘だったとしても、たちが悪すぎる。私を怒らせたいのか」
セレスには、マキが見えていなかった。
打ち砕かれそうになるのを必死でこらえて、僕は頭を振って言った。
「違う! 本当にマキはいるんだ! お願い、信じて!」
「どこにいるというのだ。私には見えない。何かが見えているなら、それはお前の妄想だ」
セレスが吐き捨てた言葉に、僕は息をのんだ。
「セレス!」
「人は皆違う形で精霊を認識する。それは、精霊に対する自分のイメージをその見た目に投影するからだ。だからこそ、何に宿る精霊にどんな姿を望むかは自由――極端に言えば、精霊がそこにいると思えばいることにできるのだ。人形や武器などの人工物に精霊を見出す者がいるようにな。認識が先か精霊の存在が先かは、断定できないところがある」
「それは、そうだけど、でも……」
「私は違う! 私は精霊自身が外見に望む姿を感じ取り、それをそのまま見ることができる。そのように知覚できる人間は五百年に一人いるかいないかの割合だと聞くがな」
「それでも、認識しようと思わないと知覚はできないでしょう! マキの存在を疑わないで、セレス! 本当にいるから!」
僕が叫んだ分、セレスも叫び返してきた。
「本当にいるなら私には見えている! となれば、マキ自身が自分の存在に確信を持てていないということだ。それは、いなくなったと同義ではないか?」
僕は何も言えなくなった。セレスには自分の見ている世界しか見えていなかった。そしてそれを絶対視していた。今までのセレスならあり得なかったのに。
別人になったセレスは、機敏に立ち上がった。
「砂熱海の大使が帰り支度をしている。止めて話をせねばなるまい。ペトラ、妄想は捨てて立ち上がれ。戦わなければ、私たちの生きる道はない」
そしてセレスは去っていった。セレスは、その時にはもう泣いていなかった。僕は何も考えられなかった。セレスが見えなくなった瞬間、気づけば膝をついていて、気づけば泣いていた。
僕は随分そこにいた。空が赤色に焼けてきたころ、僕はようやく動き出した。マキが出てきた辺りの土を掘り返し、そして見つけた。焼けていない、マキの葉を。それを持って家に帰ると、父さんが言った。
「明日、正式に同盟の調印を行うことになった」
だめだ、セレス。そんなこと、セレスはやっちゃいけない。お願いだから戻って来て!
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セレスタイト陛下は変わった。僕は愚かにもそれを嘆いてしまった。なぜ僕は受け入れるという選択肢を持てなかったのだろう。なぜ僕は、僕自身が自分の世界を絶対視していたことに気づけなかったのだろう。いまさらになって後悔が止まらない。
調印が行われる日、父さんしか呼ばれていなかったにもかかわらず、僕は王宮に行った。行って止めればまだ間に合うと思っていた。ばかだった。そういうことじゃなかったのに。
衛兵に止められながらも、僕は回廊を行く陛下を叫んで呼びとめた。父さんを背後に従えた陛下は、昨日と同じ冷徹な目を僕に向けた。痛いと思った。そして、負けちゃいけないと思った。僕は、考えを変えてくれとひたすら訴えた。でも、陛下は表情一つ変えずに、僕に何の返事も残さないまま歩みを進めた。僕はたまらなくなって叫んだ。
「セレスが考えを改めないなら、僕はセレスから離れる!」
すると、陛下の足が止まった。陛下が振り返った。その表情を見て、僕は敗北を悟った。陛下は言った。
「君主の意見に逆らう気か。ああ、お前などいなくて結構だ。今すぐ立ち去れ。この場からも、この国からもな」
「セレス!」
「二度とそう呼ぶな、ペトリファイド・ウッド。明日の早朝までに国を出ろ」
ストンと体から力が抜けた。いつの間にか泣いていた。
衛兵が僕に帰るよう促したのは、しばらく経ってからだった。僕はマキだけでも陛下のそばにと思って、その場に葉を置いた。だけど、風の蝶がマキを僕の方へと押しやっていた。
「風の精霊を遣わしてまで……。だめだよ、マキ。君は陛下のところにいなくちゃ」
それでもマキは、僕から離れようとしなかった。僕はあきらめてマキの葉を拾った。
父さんが帰って来たのは、僕が旅支度を終えた夜。父さんは僕に言った。
「私が必ず陛下のそばにいるから、ひとまずは安心おし」
ここで僕は愕然とした。父さんは安心について言及したが、僕はその時まで、陛下のことをこれっぽっちも心配していなかった。そんな思考回路など、存在していなかった。マキが見えなくなった陛下の変化をただ嘆き、ただ責めるばかりで。陛下は今まで、僕のことをあんなにも包み込んでくれたのに。
情けなかった。大切な人を大切にできなかったことが悔しかった。僕より父さんの方が陛下のことを思っていたということが、歯がゆかった。
僕が唇をかんでいると、父さんが僕を抱きしめてくれた。
「ペトラ、私は嬉しかったよ。私たちが陛下に気おされて何一つ言えなかったところを、お前は陛下に面と向かって言ってくれたのだからね」
父さんはそう言ってくれたけど、違った。そんな大義のあるようなことじゃなかった。
「違うよ、父さん。あれは僕のわがままだ。……どうしよう、父さん。僕、ひどすぎる」
「ペトラ。それを言うなら、私たちのほうが罪は重いんだよ。私たちは対外のことにかまけるあまり、陛下を顧みていなかったんだ。陛下のおそばには、最近ではもうお前とマキしかいなかったのだよ。そんな私たちの罪を、お前は一人でかぶったんだ。だからみな、あの場では言えなかったがお前に感謝をしている。みなさん少しずつ餞別をくださってね、ついにはこんなになったよ」
父さんは懐から金銭を取り出し、僕の懐へと移し替えた。
「どうしてお前が陛下に対してああ言えたのか、その理由に終生気づかぬほど陛下は愚かな方ではない。いつか陛下もお前の気持ちに気づいてくださる。そして必ず呼び戻してくださる。誰がそれを疑っても、お前だけは信じていなくてはならないよ。わかったね」
僕はこの父さんの言葉を絶対に忘れない。だって、馬鹿な僕が次にすべき最も大切なことだと思うから。僕は深くうなずいた。
すると、王宮でマキの葉を押していた精霊が、今まではずっと隙間風として飛び回っていたのに、突然僕と父さんの間を行き来し始めた。それと同時に、マキが何かを促すように飛んで跳ねた。僕は風の精霊を指に止めて首を傾げた。
「どうしたの」
風の精霊はそれを聞くや僕の指から飛び去って、父さんの耳のそばをかすめた。その瞬間に、父さんが瞠目した。父さんは嬉し泣きに似た表情を浮かべた。
「風鳴りがして、お前がさっき風に投げかけた言葉が聞こえた。風の精霊が、私たちに力を貸してくれるようだな。連絡を取る手段ができた」
僕はマキを呼び寄せて、泣きそうなのをこらえて必死に笑顔を作った。
「マキ……、ありがとう」
そして僕は今、砂熱海にいる。マキの葉は日記に挟んで押し葉にしていて、マキはずっと僕のそばにいる。
マキがなぜ僕のそばから離れなかったのか。きっと、その方が陛下のためになるからなんだ。それなら、マキに従えば、陛下の力になれる何かを見つけることができるはず。これが、謝ることすら許されない僕にできる唯一の罪滅ぼし。
そんなことをしようとしているのは、別に僕がペトリファイド・ウッドだからってわけじゃない。僕はただ、僕の愚かさのせいで大切な人を独りにしたという罪をあがないたいだけなんだ。




