167.ワイン
目の前には、ほのかに湯気が揺れる黒みがかった紅いワインと期待した表情をしたゼルリエーヌ氏。
ねだる様に瞳を潤ませてはいるが、その奥に見えるのは譲らない意思……絶対飲ませる気まんまんだな。
まぁ…いいか。ここは飲みきってケロッとしてりゃいいか。
俺に毒耐性があった事が分かれば諦めもつくだろうし、少しは舐められなくなるかもしれない。
『だめよ。レオ、ここはきちんと嵌められたフリをするの!』
なんでだよ? これ『鑑定』だと睡眠作用のある薬草が入ってるじゃんか……寝たふりをしろってか?
『うん。そうよー。その方がこの女の人が何を企んでいるか分かるじゃない』
却下だな。寝たふりして俺が襲われたらどうするんだよ!?
『大丈夫よ。補佐の人が一緒にいるもの』
……まぁ、確かにこの二人はどうもソリが合わない感じがするしなあ。
でも、一応効いたふりはするけどやばそうだったらすぐに起きるからな。
『うん。それでいいわ。じゃあ頑張ってね! 演技力が試されるわー』
茶化すなっての。いいか、寝たふりしてる時に変な事言って笑わそうとしたりするなよ!
『そんなことしないもん!』
仕方ない……やるか。
急に何を言い出したのやらとは思うけど、ルッカなりに考えがあるんだろう。
昔みたいにその場の思いつきの提案はしなくなったし、ここはルッカを信じよう。
「分かったよ。ではご厚意に甘えて少しだけ頂くとしよう」
「ええ! 嬉しいわ。王都でも特別な時にしか開けられないような、とても高級なワインですのよ」
赤い液体の入った目の前のグラスを持った時は感じられなかったのに、まだかなり熱かった。
「……淹れ立ての茶の様に熱い。身体が温まる感じがするな……なるほど、渋みはあるけど飲みやすい」
「ふふ。そのグラスも異国の特産品ですの。魔術が加えられていて、熱い飲み物も入れられるようになっているのよ。ワインはグラスで飲むのが一番ですもの。まだお若いレオン様のお口にも合いそうな物を選んだから、そう言って頂けて嬉しいわ。さ、雨に濡れて冷えたでしょうからもっとお飲みになって」
ゼルリエーヌ氏は上機嫌で、更に更にと勧めてくる。
ぶっちゃけ、どの段階で眠くなれば良いのか分からない……
「ゼルニエーヌ議長、レオン様はこれから本来の視察業務なのでほどほどにして下さい。予定が狂います」
「あら、そういえばあなたもいたのよね。忘れていたわ。仕方ないわね……あなたにも少し差し上げるわ」
「結構です。私は眠る前にしか飲まないようにしておりますので」
『あっ! 話の流れ的に、なんかちょうど良くない? レオ、今よ。いい感じに眠くなって!』
お、おう。
眠くなったふり眠くなったふり……欠伸すんのはわざとらしいよな。取りあえず目を瞑ってみるか。
「……レオン様、どうされました?」
「あら! もしかして少し眠くなられたのかしら……赴任されたばかりでお疲れなのかもしれないわ」
「レオン様、起きて下さい。執務中です」
「ちょっと! 少しくらいそっとしておいてあげましょう……ここでお休み頂いて、時間に合わせて起こして差し上げるわ。ランドールは一度帰りなさいな!」
ランディが俺の事を起こしに近づくのをゼルリエーヌ氏が語気を強めて止めた。
ついでに座っていたソファに若干もたれてみよう。
「……ゼルリエーヌ、何を盛ったのです?」
「失礼な事を言うのね。ワインで眠くなってしまっただけでしょう」
「あの程度の量で? タッソー氏が学校長に就任した当初の噂が私の耳に入っていないとでも? レオン様を同様の手口で手込めになどさせるつもりは私にはありません」
「……それが何か? 言っておきますけど、単なる噂よ。領主殺しの噂の耐えないあなたに言われる筋合いはないわ」
「どうせ貴女と学校長、それに自警団長が仕組んだ私への嫌がらせでしょう。あなたたちの方が余程ウィンバー様を嫌っていたではないですか」
「あら、酷い言いがかりね。補佐の立場で不自由なウィンバー様を裏で操っていたと考えた方が自然じゃない? どうせ私の仕事の邪魔をしていたのは本当はあなただったんでしょう?」
「酷い言いがかりだとそっくりそのままお返す事にしましょう。ウィンバー様は貴女が胡散臭い商品の輸入に熱心な事や、早々に貴女に毒された若き学校長が歴史ある学校の風習を次々に壊している事や、外者の自警団長の態度に常日頃憂いておりましたよ」
「ふん。もういない方が何を言っていたかなんて確証もないじゃない」
「……確証?……どうでしょうね」
「……何かあるの?」
「いえ別に。気になりますか?」
「あらどうして? 全く気にならないわ」
『気になっている感じがするわね。今夜の領主邸は荒れるかしら?』
領主邸にはプルード氏の息がかかった奴もいるし、早ければ今日中に何かしら伝達は入るだろう。
いや、ゼルリエーヌ氏とプルード氏の仲も険悪な雰囲気だったからそれはないか。
だが、わざわざ含ませた物言いでゼルリエーヌ氏を煽ってる事はランディだって分かっているはずだから、何か考えてはいるんだろう。
……そうだな。確かに荒れそうな予感がする。面倒だな……今日のうちにどこかで手を打っておくか。
っていうかそろそろ起きても良い? 寝たふりも辛くてさ。
俺が眠った途端にランディの口調も丁寧さが欠けたし、この二人が仲が悪いって事もその理由も何となく分かったじゃん。どっちもどこまでが本当か分からないけど、後は単なるいがみ合いだし。
『そうね。どうせもう大した話は聞けなそうだし、ここはもう良いわ』
助かる。寝たふりってのも疲れるんだよな。
「……うーん。どうしたんだ、喧嘩か?」
「あら、レオン様? ……もうお目覚めになりましたの?」
「ああ……やっぱり少し眠ってしまったのか。すまない仕事中だというのに」
「そうですよ、レオン様。着任直後とはいえもう少しご自身の立場を自覚して下さい」
「……すまなかった。普段酒を飲まないものでね」
「今後は訪問先で出された物は口にしない方が良いでしょうね」
「失礼な言い方ね。それでは今日の昼食ではレオン様が何も食べられなくなってしまうでしょう」
「ああ、そういえばレオン様は早急になさらなくてはいけない仕事がありましてね。本日の昼食の予定はなくなりました」
「……ランドール、あなた……何を言っているか分かっているの?」
「ええ。領主様の予定の変更ですよ。それよりもゼルリエーヌ議長、そろそろ視察の予定ですので外出の準備といたしましょう」
「……急な仕事とは、私との会食よりも大切なものなのかしら?」
「ええ、昨夜より領主様が早急に取りかかりたいと仰っていたものですから。それよりも早く視察に参りましょう。予定まであと半刻です……急がなくては」
「急かさないで! 商工会議所で見て何かレオン様に役に立つものなど無いに等しいわ。それなら予定を繰り下げて今から軽食でもいかがかしら?」
「いえ、視察はレオン様たっての希望でしたから必ず参ります。ああ、そうそう。女性は支度に時間が付きものでしたね。では我々は先に参りましょう」
「ランドール……何を企んでいるの?」
「企みなど穏やかではありませんね…レオン様の予定を優先させているだけですよ。他意はありません」
ゼルリエーヌ氏の表情も声もこわばっている……目元に浮き上がった血管がひくひくと動いている……相当な怒りだな。
『この人、そんなにレオとランチしたかったのねー』
いや、さっきのワインと同様、俺に何か仕掛ける気だったって考えた方が良さそうだ。
彼女の様子を見る限り、ワインは……眠らせた俺に何かするか視察の時間を無くさせる為に仕込んだっぽいな。
ま、どっちにしろランディには感謝だな。こんなところで助け船を貰えるとは思わなかったよ。