107.【閑話】一方その頃(ヨハンとお兄ちゃん)
私はアンドレ。
ヨハン君によれば、現在私たちは隣国のベネット王国に来ているらしい。
長い間ろくに神殿の外に出る事もなかった私が、まさか国を出る事になるとは思わなかった。
しかも今は森の中にいるんだ。
周囲が木々に囲まれ、枝や葉は風により踊るように揺れサワサワと自然の音を立てる。
今まで聞いたこともない動物や虫の鳴き声もとても近くに聞こえる。
何よりも踏みしめる土の柔らかさに驚かされる。
今までは美しく磨かれた冷たく固い石でできた床の上を歩いてばかりいたから、片足を前に出す度にフカフカと沈む土の感触はとても新鮮だ。
それに匂いも。これが木の、葉の、土の、自然の匂いなのか……とても癒される。
目を瞑って何時間でもここにいられる気がするよ。
数日前、降霊祭の祈りの最中に起きた大きな振動にはとても驚いた。
礼拝堂にいた民たちは神の怒りかと怖がっていたし、私も少し同じ事を思ってしまった。
だけど、もし神の御業だとするならば……あれだけ私やアイリスを犠牲にしても尚、お怒りになられる神など神ではないとも考えた。
そしてこのままアイリスと二人で混乱に乗じて逃げてしまおうかとも。
しかし、私とアイリスは礼拝が終わるとすぐに囲われてしまったけれどね。
あの時は本当に疲れ切っていたから、抵抗も出来なかったよ。
だけど、まさか神殿が破壊されるなんてことになるなんて思わなかったよ。
すごく久しぶりに成長した弟にも会ったし、レオンのご友人と思われる美しく凛々しい女性にも会った。
ほんの少し前の事なのに懐かしいな……あの時は少しも話せなかったから残念だよ。
アイリスの事は心配だけど……きっとレオンや父上がなんとかしてくれるだろう。
大暴れの元凶のヨハン君はいまわたしと一緒にいるのだから危ない事はないはずだ。
アイリス……私も意識を失ってしまったから、別れの挨拶も出来なかったな。
あんなに長い間、二人で一緒にいたのにあっけなく離れ離れになってしまうなんて、これは神の与え給うた試練なのかそれとも運命だというのか……。
いや、今はその女神テレーズとは大分離れた所にきているんだ。しばらくは考えたくもない。
私にとってはこの森そのものこそが神のように感じるよ。美しいし私を癒してくれるのだから。
ヨハン君は、大神殿で対峙していた時こそ神と敵対する悪魔の申し子かと思い、彼に攫われたと気付いた時はいつ殺されるのだろうと怖かったよ。
そう……大神殿での私の役割に疲れ果てていて、何度も『死にたい』と考えていたくせに、いざ殺されるかもしれないと本当の『死』を感じた時は、なぜか『死にたくない』と考えてしまっていたんだ。
だけど、彼はあんな化け物を操って乗っている割には、私を攫ってきた割には……私を気遣ってくれるんだ。少し変わった子だけどね。
移動のために乗っている化け物の肉を生のまま食べていたので『それは身体に悪そうだからやめた方がいいよ』と心配して言うと、『焼けば良いのか?』と魔法を使い焼いた物を、先に私にくれようとしたりと優しい子なんだ。
申し訳ないけど、それは断ったけどね。
私は長い間神に遣える者として菜食主義者だったから、肉は慣れてないし身体が受け付けないんだ。
それに、ヨハン君は私のことを最初女性だと思ったみたいだ。
『私は女性ではないよ』と伝えた途端、ヨハン君はたいそう驚いて乗っていた化け物から転がり落ちてしまっていたな。
落ち方が悪かったみたいで足と腕が折れていたみたいだし気が付けばたいそう血を流していたのですぐに癒しを施したので大丈夫そうで良かった。
だけど彼はそのあと凄く落ち込んでしまっていた……何だか申し訳ないな。
きっと私の髪が長いから女性と間違えたのかもしれないと「髪を切ろうか?」と提案したが、しばらく私を見つめた後に「すごく綺麗だから切らなくて良い」と言っていた。
こんな事を言うのもおかしいかもしれないけど、なんだか微笑ましかったよ。
森に入るとヨハン君は、乗り物を変えると言って、化け物を燃やして殺してしまった。弟たちを襲った悪い化け物かもしれないが、ヨハン君にとっては今まで運んでくれた生き物を使い捨ての様に殺すのは良くないと怒ったが、「そいつはもう死んでたんだ。むりやり動かしていただけだ」と彼は両手を大きく振り回しながら強くそう主張した。
つまり彼は……弔いをしただけだったんだ。
考えなしな意見を言った自分自身に深く反省したよ。
森の中は私の食べられそうな木の実が豊富にあるみたいで、目を瞑り森の声を聞けば果物も見つける事ができた。
私たちはそれぞれの用事を済ませると焚火をたいて食事をとった。
ただの木の実と果物のはずなのに……外で採る食事がこんなにも美味しいなんて知らなかったよ。
アイリスにも食べさせてあげたい。きっと嬉しそうに笑って「美味しいです」なんて言うんだろうな。
ヨハン君とは焚火にあたりながら少し話をした。
そのうち……どこかで彼を見た記憶があると思えば、第8皇子のヨハン皇子にとても似ていたんだ。
そして驚く事に、彼はヨハン皇子その人だった。
すぐに跪いて非礼を詫びると、「身分など私にはもう関係ない。好きに呼べ、むしろ先ほどの様に君付けの方が良い」と言われた。
王族という立場からその様な発言が出た事にまた驚いてしまった。
私は王都に住んでいたとはいえ、長い間を神殿に捧げていた身だからあまり詳しい事はしらないが、稀に聞く風の噂では、第8皇子について以前は良い話ばかりだったのに……この数年は少し悪い話も聞く事があったから。
大神殿に現れた時の彼の事を思えば、確かに良くない事をしているとも言えるが……こうして静かに話をしてみれば自分に正直なだけの様にも見える。
幼少期に神学を学んでいた際、様々な言い回しで『人間とは良い面も悪い面もある』といった言葉に何度も触れて来ていたが、きっとそういうことなのだろう、と私は考えた。
どうやら、ヨハン君は行方不明の許嫁を探しているらしいんだ。
彼が長い間病床に就いていた間に行方不明になってしまったそうで、未だに見つかる事がないと苦しそうに呟いていた。つい女性をみると許嫁と見間違えてしまう事もあるみたいだった。
「そういえば、大神殿で私の妹の事もサリスと言っていたね? その娘が許嫁なのかい?」と聞けば、顔を上げて大きくうなづいた。そして長い間サリスという娘がいかに優しくて美しくて可愛らしいかを熱心に嬉しそうに話してくれたのだった。
外の世界の話は全て私にとっては新鮮だった。だけど、私も神殿で苦しんでいた間にこのヨハン君も苦しんでいたのかと知ると胸が痛くなった。
私はこの命を削り祈りを捧げてきたというのに本当に国民の幸せに貢献できていたのだろうか。
女神は……救いを施して下さっていたのだろうか。
多くの事を考えさせられ、眠ることも忘れて長い間ヨハン君の話に聞き入っていた。
彼は、夜が明けたら国境まで私を送り届けるのでそこからは一人で帰ってくれと言った。
だが、私は彼を一人にしてはいけないように感じだ。
せめて……この脆く不安定な心を支える彼の許嫁を見つける事ができるまでは。