一度だけ、
性病の話がでてきます。
不愉快になられる方がおられるかもしれませんが、それでも読んでやる!というツワモノ以外の方はブラウザバック推奨です。
性の直接的表現をしているためR15指定しています。ご注意ください。
葉菜が高校の同級生である 原瀬 なつみから突然連絡を受けたのは、卒業以来初めて開かれた同窓会から数えて三か月経った桜の咲くころのことだった。
なつみとは三年間の同じクラスで過ごしていたが、それ以外これと言って仲良くもなんともなかった。
部活も違えば上級生になって選択制になった教科も同じものを取ることもない、単にクラス名簿に同じ名前が並んでいるだけの、それだけの存在だった。
高校を卒業するときに「同窓会は十年後に!」なんて決めたのは誰だったっけ。
きっと幹事を引き受けてくれた子たちがあの当時言ったんだろうなあと深く考えずに、送られてきたメールに出席と打ち込んで返信をした。
そして会った久しぶりの顔ぶれに、皆がみな驚きを隠せない。
でっぷりと太った子もいれば、高校を卒業してから一気に花開いた子もいる。バリバリのキャリアもいれば専業主婦としてすでに家庭に入った子も、子供を持つ父親になった子もいた。
高校時代にいい意味で騒がれていた子の後姿に光る頭部を発見したときはあんまりにも驚いて目を白黒とさせたりもした。
十年一昔とはよく言ったものね、とグラス片手にくすくすと笑っていたら、不意に声を掛けられた。
「栗木、葉菜さん?」
恐る恐る掛けられた声は、まさかという言葉が見え隠れしている。
そこまで変わったかなあと高校時代の自分と今の自分を自分自身で比べてみても驚かれるほどではないと結論付けてから相手を確認すると、遠い記憶の中でさらに靄がかってはっきりとしない場所にいるだろう人物が小動物さながらに首を傾げながら葉菜を見ていた。
頭一つ分くらい小さな身長に両手で包み込めそうなほどの小顔、きゃしゃな体つき。
これだけ身体的特徴が際立っているというのに、少し強めの化粧が本来の顔を隠しているために葉菜には誰かがわからない。
記憶力の悪い人のために名札とかあったらすっごく助かったんだけどなあ。
もともと葉菜は人の顔を覚えるのがとても苦手だった。
小学校時代の友人たちは付き合いが長い分記憶に残りやすいのだが、中学校の友人、高校の友人になると同じクラスで一年過ごし後、翌年度のクラス替えで別のクラスになった途端に忘れてしまう。薄情だと言われるがこればっかりはどうしようもなく、最近では小学校時代の友人すら記憶を探らないと名前と顔が一致しなくなっていることがわかって、自分でもドン引き気味になったこともある。
だから目の前の可愛らしい女性が声を掛けてくれたことに感謝はしつつも、相手を覚えていない恥ずかしさで声を出すことすらできないでいた。
「あ、もしかしてわからないかなあ。原瀬だけど」
にっこりと微笑まれた時に右頬にできたえくぼに記憶を刺激された葉菜は、ようやく目の前の女性が高校時代三年間同じクラスに在籍していた原瀬 なつみだと理解した。
だが在籍中に彼女と声を交わしたことはほとんどない。
それがなぜ今になってこの広い同窓会会場でわざわざ名を確認してまで葉菜に声を掛けてくるのか、まったくわからなかった。
「ああ、うん。原瀬さんだよね。久しぶり。元気だった?」
当惑を押し隠し、愛想よく定例文で答えると、原瀬はピンクのグロスを塗られた唇を引き上げて笑った。
「うん、もちろん元気。
最近よく彼から栗木さんの話を聞くから、栗木さんとは久しぶりとはあんまり思わないけどね」
ウインクなんて本当にする人いるんだ。
悪戯が成功した子供みたいにぱちんとウインクをする原瀬に妙に関心をしてしまった葉菜だったが、彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。
高校三年間同じクラスにいつつも記憶がないということは葉菜にとっては合わない人物、これにつきる。
自分が随分偏屈だということはわかっているが、40人もクラスメイトがいるのだから気の合わない人とわざわざ”友達百人”する必要はない、気の置けない仲間と過ごす時間が惜しいと思っている。
それに―――――。
たしか、原瀬はこういう奴だった。
自分の”女”という部分を非常に大切にしていて、男子の前ではか弱い女子、だが女子の前では自分の標的を奪い取ろうとする女子を馬鹿にして攻撃を仕掛けてくる、面倒くさい奴だった。
とすると、今の彼だか標的だかがたまたま葉菜と知り合いで、わざわざ牽制をかけてきたというところだろう。
ほんと、面倒くさい奴。
ちらと彼女の左指をチェックするとやはりリングは光っていない。
妙にプライドが高い彼女は恋人にならない限り特定の場所に指輪を嵌めないから、現在その”彼”が恋人でないことは確かだ、同窓会会場に知り合い――この場合は葉菜だが――を見つけたのなら牽制もかけたくなるのだろう。
わざわざご苦労なことで。
努力する人は嫌いではないが、努力する方向にもよる。
そんなに男を捕まえたいなら男の周りを蹴落とす努力ではなく、男が惚れるくらい自分を磨き上げる努力をすればいいのだ。原瀬のやり方は好きではない。
「へえ、そうなんだ。
いい話だったらいいけどねえ。変なことばかり聞かされていたら、ごめんね?」
にこにこと愛想笑いをしながら手に持っていたワインを飲み切る。
空になったグラスをふらふらと揺らして飲み物がなくなったことをアピールすると、新しい飲み物を取りに行くことを口実にさっさと原瀬の前から離脱した。
後に残された原瀬が悔しそうに顔を歪ませていることなど葉菜には知ったことではなかった。
不快感を残した同窓会の後にまさかその原因である原瀬から連絡が入るなんて思ってもみなかった。
『会って話したいことがある』と思わせぶりなのは相変わらずだったが、三か月も経ってから連絡が来るなんてよほど相手の男が落ちないのだろう、面倒くさいが放っておいてもきっと碌なことにならないだろうと判断して忙しい中時間を割いて会うことにした。
待ち合わせの場所は原瀬が指定してきたが、驚いたことに葉奈もよく訪れるウォータードリップの珈琲の店だった。
その店はオーナーが趣味と言い切るだけあって大通りからは外れ、駐車場もない、よほどの珈琲好きでないと訪れない不便極まりないところに所在する。
よく知っているなあと思う反面、職場の近い葉菜が結構な頻度で訪れているにもかかわらず一度も遭遇したことがない。それともあまり知らないからこそこの店を指定してきたのかもしれないと思うが、それもまた違うように感じていた。
まあ、行けばわかるかな。
最近残業に次ぐ残業で、疲労がピークに達していた。久々の休みをこんなことに使いたくはなかったが、高校時代の彼女を知る限り蛇のようにねちねちとひっつかれるよりは部外者であることをこれ以上なく言いきってすっぱり縁を切りたい。
待ち合わせの時間を午前にしたのは葉菜だった。きっと彼女に会う事で不愉快感が増すだろうから午後いっぱいを使って気持ちの切り替えを行おうと考えたからだ。
仕方がない、頑張るか。
葉菜は憂鬱な気持ちを押し殺して珈琲の漂う店内へと足を運んだ。
扉を開くとほどよい匂いが漂って、オーナーがこちらに目配せするタイミングもいつも通り。
辺りを見渡せば店の奥から片手を挙げて存在をアピールする原瀬に、彼女が何をしてしまったのかは知らないがオーナーの少し困ったように寄せられた眉を見てしまったせいで何やら申し訳ない気持ちになってしまい、そそくさと店を横切り原瀬のいる席の前に立った。
「どうぞ、座って」
まるで店の女主人よろしく、ゆったりと鷹揚に答える様にちょっと呆れかえった葉菜だったが、周りに人があまり座っていないことにほっとして席に着いた。
「で、何の用なの?」
「あらあら、そんなに急がなくてもいいじゃない。私はこの店は初めて来たのだけれど、本当に雰囲気があるお店よね?彼が随分と自慢するだけあって、19世紀英国調の内装も素敵だし、オーナーもロマンスグレーで格好いいし……ああ、もちろん珈琲もとても美味しいけれど。
惜しむらくは交通の便が悪いというところかしら。もし駅の近くにあったらな、私だって彼の様に常連になったと思うわ」
「そんなに気に入ったのなら、少しくらい不便でも来たらいいじゃない」
「いやだ。私、そんなに暇じゃないんですけど」
口元を手で隠しながら笑う姿は一見無邪気そうに見えなくもないが、その仮面の隙間から陰険という棘をぷすぷすと葉菜に突き刺してくるあたり、今だに彼を掴みきれていないことが窺えた。
「栗木さんは知らないでしょうけど、結婚準備ってものすごく大変なんだから。
住む地域を厳選して家だって決めないといけないし、決めたら決めたでカーテンだとか照明やテーブル、ベッドも決めなくちゃいけない。もちろん洗濯機も掃除機も必要だし、冷蔵庫、炊飯器、オーブントースターだって厳選しないといけないわけで。こんな不便なところまでくる時間が惜しいの。暇な栗木さんにはわからないとは思うけど」
「へえ、結婚するの?おめでとう」
「ふふふ、ありがと。貴女に言われるなんて思ってもみなかったわ」
「それいったいどういう意味?お祝いを言えないほど人間終わっていないつもりだけど?」
「そういう意味でいったんじゃないんだけどなあ」
「……何が言いたいの?」
「あら、まだわからない?栗木さんって高校時代は結構成績よかったのに、やっぱり成績だけよくても察しが悪いなんて人間としてだめよねえ」
猫の様に目を細めて随分と楽しそうに嫌味を言っているが、何が哀しくて貴重な休みを同級生というくくりでしかない彼女の意味のない自己満足のために潰されなければならないというのか。
当初の目的も果たせそうにないのなら、この無意味な時間はさっさと終わすべきだろう。
「ねえ、いつまで貴女の戯言を聞かされないといけないのかな。
そろそろ呼び出した理由を教えてもらえない?」
「いやあねえ。戯言なんて言っていなわよ。
でも察しの悪いあなたにはわからないようだから、単刀直入にいうけれど。
――――――彼に付きまとわないで」
それまでの無邪気さとは打って変わり、机に身を乗り出して獲物を追い込むようにまっすぐ睨みつけてくる。
これが彼女の本性なんだろう、強い力を放った瞳に飲み込まれそうになった。
だが身に覚えのないことを言われても、どうしようもないではないか。
「……は?何それ?」
「ほんと、察しが悪いわねえ。
私の彼にずっと付きまとっているでしょう?いい迷惑なんだけど」
「ごめん、原瀬さんが何を言っているのかさっぱりわからない」
「あらあらあらあら。昔から鈍いふりして男に言い寄ってただけあるわねえ。
同僚だかなんだかしらないけれど、私の彼 川角 洵に近づくの、止めてもらえないかしら。
私たち、さっきも言ったけど結婚するの。貴女がちょろちょろネズミの様に目の前を動いていたら鬱陶しいでしょ?」
出された名前にひくと頬の筋肉が痙攣する。
確かに彼は知り合いだ―――――それも結婚を意識するほどの付き合いがある。
「……へえ?あなた、川角君と結婚するんだ。
で、いつから付き合っているの?」
「なんでそんなこと答えなきゃいけないのかわからないけど、私は親切だから教えてあげるねえ。
お互いずっと片思いだったんだけど、三カ月前に偶然居酒屋で隣の席になったの。その時は会社の人たちとの集まりだったからあんまり話はしなかったけれど、背中越しに彼の思いは十分伝わってきたし、指をそっと絡めたりして小さなスリルを味わっていたわ。でもねえ、愛し合う二人のオーラは漏れるみたいで、あっという間にみんなにばれてしまったの。そうすると彼を羨む同僚の人たちからお酒をどんどん進められて、気づいたら……定番よね、ホテルのベッドの上。彼、とっても情熱的だったわよ? 朝に珈琲を飲みながら彼と話していたら、最近付きまとわれている女がいるんだって愚痴を言うの。彼ってなんて誠実なのかしらって思ったわ。だって愛し合う私たちだけど、彼のそばを離れようとしない女がいるって後からわかって私が悲しまないようにって先に教えてくれるんだもの。ストーカーだろうが幼馴染だろうが、彼の傍に女がいるってだけで不安になるものじゃない? それだけ彼に大切にされているんだって実感でいて本当に嬉しかったの。
――――――だからさっさと退場してくれない? この下種女」
どこから地面を這うような低い声をだしているのだろう?
グロスで妖しく濡れていても桜の花びらのような可憐な唇から漏れ聞こえる音とは思えない。
選ぶ言葉も瞳の強さも指先の動きすら、彼女の外見からは想像もつかないほど、醜い。
それが一転、店の扉が静かに開くと、彼女はシャッターが閉じるように歪んだ顔を覆い隠して一瞬で頬を染める。声すら数段高くなって、恋する乙女が出来上がった。
「ほぉらあ。ここに来る前に彼にあなたと話し合うって電話したから心配してきてくれたわ。
やっぱり私って愛されてるわね。
洵、ここよ!」
年甲斐もなく体ごと手を振り上げて、店に入ってきた男に存在をアピールする。
一緒に座っている身としては居たたまれないが、彼女は恥じらいというものを無くしているようで全く躊躇がない。
「―――――原瀬!いったいどういうことだ!……って、葉菜?」
夜勤開けにそのままやってきたのだろう川角の疲れた顔には無精ひげが生え、着ている服もくたくたに崩れている。
原瀬からの電話を受け取らなければ家に帰ってベッドにダイブするに違いない。
だが疲れ切った顔が原瀬の前に座っている葉菜を認めた瞬間に驚愕に染まったようだから、きっと眠気はすっとんだことだろう。
「こんにちは、川角君。お久しぶり」
「葉菜、何を言って……」
「嫌だ、洵ってば。そんな女なんて相手にしないで私を見てよ。
今日のために随分と頑張ったのよ?この後もちろんデートに連れて行ってくれるんでしょう?」
「原瀬。お前いい加減にしろよ。誰がお前となんかデートするか」
「あら嫌だ。洵と私の仲じゃない。デートなんてするに決まっているでしょう?
それに、もうこの女は洵に付きまとわないと思うし」
「お前、いったいさっきから何をいっているんだ?
だいたい俺に付きまとっているのはお前だろ?
いい加減やめてもらえないか」
「洵こそ何を言っているの?私と洵は相思相愛じゃない。
ほら、駅前のホテルでだってあんなに情熱的に私を愛してくれたし、その後だって」
夢見る夢子ちゃんよろしく、原瀬は蜜のような時間に思いを馳せてうっとりとした。
欲情にけぶる瞳はまっすぐに洵に注がれているが、当の洵はそんな彼女にぞっとして一歩後ろに下がっていた。
「やめろ!
あれは、あれは酒に酔いつぶれて気が付いたらホテルにいただけだ!
お前が勝手な想像で、話を膨らますな!」
けれど洵は、認めてしまった。
原瀬の放った言葉の一部だけだろうが、洵は認めてしまったのだ。
「syphilis」
「え?」
「……おま、」
「gonorrhea、chlamydia 、pointed condyloma 、candidal vaginitis、trichomoniasis……」
一つずつ指を折りながら言葉にする。
「な、なによ?なんでいきなり英語とか話してるのよ」
「葉菜、それは!」
「Acquired Immune Deficiency Syndrome」
ああ、指が足らなくなった。
だけど、もう、無理。
「葉菜!!」
「……気持ち悪い」
心底気持ちが悪い。
指を折りきった後の拳を机の上に叩きつけてもなお、不快感が喉元をせり上がってきそうになる。
「な、なによ!あんたの方が気持ち悪いわよ。
さっきからぶつぶつ英語なんてしゃべっちゃってさ、自分が賢いってアピールでもしてるの?」
「葉菜、違うから。違うから、な? ちょっと落ち着こう」
洵がわたわたと慌てているが、何を今更慌てることがあるのだろう。
気持ちが悪いと机の上に突っ伏した葉菜を介抱してくれようとするが、それはもう元彼となった洵の役目ではないし、他の女とやった男に触られたくはなかった。
「触るな!」
「は、葉菜」
「結局のところ、あんたはこの女とやったわけでしょう?違う?違うっていうの?」
「あら、やっとまともになったのねえ。ええそうよ、私と洵はそれはもう濃厚な夜を過ごしたわ」
「それって正確にはいつのことよ?」
「いやあねえ、そんなあからさまに聞くなんて、お里が知れるわよ?
でも優しい私は教えてあげるわ。
あれは、」
教えられた日の少し前、葉菜は突然辞めた同僚のおかげで連勤につぐ連勤を繰り返していた。心身ともにボロボロになりながら家と仕事場の往復だけ、いや、悪ければ仕事場で寝オチして泊まり込むことも当たり前の日々だった。そうなるともちろん洵との連絡もお座なりになりがちになったが、お互い職場は違えど同じ職業についているのだから状況は理解し合っていたはずだった。
そしてほぼ三か月ぶりにまさかこういう状況で会えるとは思っていなかった元彼を心底気持ち悪いと思ってしまう自分と、自分だって今まで放置していたくせにと思える自分がいる。
だが、それよりも大切なことは。
「……よかった。その日よりも前から洵とそんな関係になってない」
緊張が緩和して、ほうっと息が抜ける。
あからさまに胸をなでおろしたのが気に入らないのか、それとも優勢に立つ自分に食って掛からないのかが理解できないのか、なつみは怪訝な顔をしてこちらを見た。
「何それ。いったいどういう意味よ」
「葉菜、お前……」
「だって、気持ち悪いじゃない。
自分の彼が付き合っている最中に他の女とやったなんて考えたらぞっとする。
その女がどんな病気を持っているかわからないのにやったなんて、何かうつされていたらどうするっていうの。
もしうつされていたとして、何も知らずに私とやったら私も罹患するってことだよね?
今は梅毒が流行ってるし、エイズだって潜伏してたら調べない限り罹患しているかどうかもわからない。自覚症状がない性病なんて沢山あるのに、不特定多数と体の関係になる人と寝るだなんて正気のさたじゃないよね。
原瀬さんは昔から好き好んで色んな男をくわえこんでいるけれど、私はそうじゃない。
本人を前にして言うのもなんだけど、高校の時からやりまんで有名な原瀬さんが洵のいうたった一度の相手だなんて、しゃれにならないっての」
高校時代、彼女のグループは随分とあからさまに男を誘っていたグループだった。
その中でも中心人物の彼女はスカートの丈はアニメに出てくるような女子高生のように短くて、もちろん少しでも足を曲げると中が見える。階段を上る時なんて後ろ手にスカートを抑えなければ確実に下着が見えている状態で、男の子が後ろにいるときは手で押さえることなく男の子が挙動不審になるのを楽しんでいるようでもあった。
そのくせブラウスの釦はきっちりとはめ、リボンもだらしなくはつけない。ナチュラルメイクに天使の輪を持つ長い黒髪で清純さをアピールする。
卑猥と清純を奇妙なバランスで持っていた彼女は男子であれば媚び、女子であれば見下した態度をとるせいで男子からの人気は非常に高く、グループ以外の女子からの人気は底辺だった。
だけど自分に火の粉がかからなければ、彼女という存在が皆から好かれようが嫌われようがどうでもいいことだと思っていたのだが。
「な、な、な」
だいたい、何人もの人間と関係を持ったのならそれ相応のリスクを負うかもしれないとどうして考えないのかわからない。
性病に罹ったことがないのなら、そのたまたまの幸運がこれからも続くとは限らないと理解する必要がある。
まあ、今後関係を洵としか結ばないのなら問題はないんだろう。
「……葉菜、そんな身も蓋もない」
「何、他人事のように言ってんの?洵にも言ってるんだけど。
知ってると思うけど自覚症状のないのは女性よりも男性の方だからね。
それともちゃんと避妊具は使ったっていいたいの?
でもねえ、泥酔していて避妊具を使ったとかいわれても誰も信用なんてしないから。
それ使ってもうつる性病もあるしね」
子供たちがプールでよくうつされる毛じらみは、なにも頭部の髪の生え際に生息するとは限らない。髪は下の方にもあるんだから直接触れ合うと簡単にうつってしまう。卵を髪の生え際に産み付けるので簡単な退治法は毛を剃って卵を産む場所をなくせばいいだけだが、誰が好き好んで毛を剃るというのだろう。ヨーロッパではエチケットらしいが、日本ではまだまだ浸透していない。
「というわけで。原瀬の御望み通り、ここは綺麗さっぱり別れます」
唖然とする原瀬と呆然とする元彼に自分の中で最上級の笑顔を見せて、レシートをそっと指の間に挟み込んだ。
目指すはオーナーのいるカウンターだというのに、この空気を読まない男はレシートを持つ手を掴んで離そうとしない。
ざわざわと虫唾が走るので触って欲しくない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。
それはあまりに短絡的だろう?
俺だって望んで彼女とやったわけではないし、それにたった一度くらいで」
「……たった、一度、くらい、で?」
単純な言い訳だったはずの一言が葉菜の感情に火をつけたとは思ってもみなかったようで、怒りを含ませた声に驚いた洵は手をぱっと放して固まった。
そんな洵をじっと見ながら、触られていた手を何度か振って穢れをそぎ落とす。
気持ちの上だけの問題だが、それでもその行為を見た洵が不愉快そうに眉をしかめたのには溜飲が下がった。
「たった一度でも妊娠する人もいるし、性病にかかる人もいる。まさかあんたがそれを知らないなんていわないよね?
それに私、誰かとつき合っている最中に恋人以外の人とそういう関係になる人、論外なんだけど」
「だから、それは」
「望んでなかった?でもやったことには変わりがないし、望んでないにしても最終的には嫌ではなかったんでしょう? 本当に嫌だったら洵のことだからこの痴女を張り倒しているか完全に存在を無視しているはずだもの。まあ、襲われたのは可哀想かなって思うけどね」
「だったら!」
「その隙を作ったのは他でもない自分自身なんだし、私は簡単に他の女とできる男は信用しない。
……ほら、だって何をもらっているかわからないじゃない?
私はまだ梅毒で狂いたくないし、クラミジアで不妊になりたくない。
そういえば洵ってば数か月前だるくて辛いって言っていたけど、まさかEBウィルス感染症に罹ったとか?」
「……」
「あらやだビンゴ?
まさかその歳で罹患するなんて珍しすぎて笑えない」
「う、うるさい!」
「でもまあ、それだったらもういいわよね?
たった一度の過ちでも、罹患したんだから文句もないわよね?
さようなら。
そこにいる病原菌さんと仲良くしたら?」
婚約指輪ではないものの、誕生日にプレゼントされた指輪を外してテーブルの上に置く。
葉菜が本気で別れるとは思っていなかったのか、外された指輪を呆然と眺めていた洵と、真実の悪態を吐かれたことで言葉を失っている原瀬を顧みることなく歩き始める。
カウンターには少し困った顔をしたオーナーに伝票と迷惑料込でお札を二枚おいて別れの言葉を言うと静かに首を横に振り、必要な分だけをきっちりと取ってお釣りを返された。
「また、いらっしゃい」
お金を払ったら二度とここには来ないと思っていたことを見通していたのだろう、オーナーはお釣りを手渡しながら一音一音かみしめるように声を出しながら再開を願う言葉を告げた。
少し涙目になったのは黙っておこう。
迷惑をかけていることは自覚しているから、今度改めてお詫びしようと心に誓って店をあとにした。
結局のところ、葉菜はまだ洵を愛していた。
気持ち悪いと思っていても、不誠実だとなじったとしても、愛していることは揺らがなかった。
きっと原瀬の策略に葉菜も洵もまんまとひっかかったのだと分かっていても、恋人である洵が葉菜以外の女に突っ込んで、それを何食わぬ顔で何も知らない葉菜にも突っ込んでくるのかと思うと葉菜の女である部分がそれを拒否するのだ。
もちろん、亭主に浮気されていても、風俗に通われていても、享受する人はいるだろう。
一度くらいだったら許してやれ。
そういう人ももちろんいるだろう。
だが葉菜には無理なのだ。
もし万が一復縁したとしても、きっと今日のことが修復できない傷となって心から彼を信頼できずにいつか破綻してしまう。
自分の潔癖さ加減に嫌気がさすが、けれどこれだけは曲げることができない。
たぶん、私は一生結婚できないんだろうなあ。
憂鬱な帰り道、葉菜は大通りの店のウィンドウに飾られたウェディングドレスから目を背けることもできずにほろほろと涙を流し続けていた。