ラナの本性
「……」
「……」
「……」
「……」
誰も一言も喋らず、ただただ時間が流れていく。お茶の間から聞こえてくる、古時計のコチコチといった規則正しい音だけが、この静寂に抵抗を示していた。
座布団に正座し、目を瞑っている元ネコ耳少女、ラナ。
不機嫌な表情でじ~っとラナを見据えている美咲。
一人、縁側の廊下から半開きのふすまに隠れて、ひきつった顔でこちらを恐る恐る伺っている茉莉花姉。そういえばこの人はヘビとかカエルが全く駄目なんだった。
そして俺は途方に暮れていた。まさかネコ耳をつけた少女の正体が、実はカエル少女だったとは……いきなりこいつが現れた時には偽者だと決め付けたものだが、真実とはまことに奇なものだ。もちろん、さっき見た光景が何かの偽装だとは思えなかった。鮮やかな緑色、指先に生えていた吸盤。
うう、今思い出しただけで少し寒気がしてきたぜ……特にカエルが苦手じゃない俺でもこれだ。茉莉花姉はさぞダメージを負ったことだろう。
ちなみにラナは、今ではもう以前の人の姿に戻っている。何でも、一部のカエルが持っている身体の色を変える能力の応用で、姿も人間そっくりに擬態出来るとの事。もっとも、その状態を維持するのには水分の保持が必要だとか。こいつがシャワーをしょっちゅう浴びていた理由はそれだったのだろう。まったく、なんてことだ。
だがこのままでは埒があかない。俺は軽く咳払いをして、目の前の不思議少女に話しかけた。
「あ~、ちょっといいか?」
ラナはまぶたをぱちりと開け、小首をかしげた。
「はい。何でしょうか? 樹さん」
正体がばれた事で別に落ち込んだりはしてないらしい。これが素なのだろう、平淡なトーンの、きっちりとした丁寧語で答えが返ってきた。
「なんだ。もう語尾ににゃんをつけないんだな?」
苦笑しながらの俺の言葉に、ラナは小さく口元をゆがめた。
「当たり前でしょう。今時、何とかだにゃん♪ なんて流行りませんよ。聞いたら失笑してしまいます」
「今までの自分を否定するなよ!? それにお前全く悪びれてないな!?」
「当然じゃないですか。もう猫を被る必要もありませんし……あっ! 今、私上手い事言いました!?」
「目をキラキラさせんな!! 別にそこまで上手くねえよ!!」
「そうですか。残念です」
あまり残念そうに見えない表情で肩を竦めつつ、ラナは首をぐるっと回し、物言わぬ俺の姉妹に視線を向けた。
美咲はむむむむむ……と小さな唸り声を上げながら真っ向から睨み返し、反対に茉莉花姉はひいっ、と小さく悲鳴を上げながらふすまの陰に隠れてしまった。
「やれやれ困りましたね……将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、といいますが、難易度が上がってしまったようです」
「いや、何の話だよ!?」
「決まっているじゃないですか、私と樹さんが結ばれるまでの障害の話ですよ」
「は、はあっ!? お、お前、まだそんな事を言ってんのか!?」
「もちろんです。まさか私が貴方の事を愛していると言った事まで、偽りだと思っていないでしょうね?」
「……!!」
完全に人間の美少女に擬態しているラナに真っ直ぐに見つめられ、俺は不覚にも赤面し、口ごもってしまう。
「ふふ……」
「むむむむ~~っ!! あ~っ!! もう!! さっきから何勝手な事を言っているのよ!? ひどいじゃない!! あたし達を騙すなんて!!」
先ほどから唸っていた美咲が、火にかけられたヤカンが沸騰するかのごとく叫び出した。今まで休火山のマグマの様にエネルギーを溜め込んでいたらしい。聞いたこともないような大声を張り上げた。
「はい。騙しましたよ。それが何か?」
「!? ……な、な、何かって……あ、あ、あのねえ……」
謝罪の言葉が聞けると思ってたのだろう。美咲は予想もしない反論をされ、口をパクパクとさせた。
「だって仕方ないじゃないですか。ぶっちゃけ、カエル少女とかキモいでしょ?」
「あう……え~っと……その……」
「私の正体を見たときの貴方達の悲鳴。私はきっと永遠に忘れません。氷で作られた刃物のように、この胸をずっとじくじくと刺し続ける事でしょう……」
美咲と茉莉花姉に皮肉っぽい笑みを向けながら述懐するラナ。茉莉花姉は申し訳なさそうにさらにふすまの陰に引っ込み、美咲も俯いた。
「って、いやいや、二人とも騙されるなよ!? どう考えても悪いのは正体を隠していたこいつだろ!?」
俺はびしりとラナに人差し指を付きつけた。そうだ、こいつが正体を最初から晒していれば、こんなややこしい事には……。
「ほう……ではお聞きしますが、私があのカエル全開の姿で現れたら、樹さんは私を受け入れてくれましたか?」
「何言ってんだ……そんなの当たり前……」
言いかけた俺の脳裏に先ほどの衝撃映像が浮かんだ。
緑色の肌。
吸盤のついた手足。
人間のそれとは違う、満月のように丸くて新月のように真っ黒な瞳。
ぱっくりと開くとすべてを丸のみに出来そうな大きな口。
「……当たり前……」
「その反応が答えですよ。樹さん」
「い、いや!! そりゃ少しは驚いたかもしれないけど、最終的にはだな!?」
「まあまあ、取り繕う必要はありませんよ。人間の男というのは、美醜にうるさく、胸のサイズにもこだわり、ネコ耳をつけさせてにゃあにゃあと言わせるのが好きなのでしょう?まったく救いがたい連中です」
「す、すまん……って、勝手に人をネコ耳フェチにするなよ!?」
「何を怒っているんですか、これは一般論ですよ。別に樹さんの事を言ったわけではありません」
「お前本当にイイ性格してんな!? っていうかそもそもお前は一体何者なんだ!? 俺はカエルを助けた覚えなんてねーぞ!」
そうだ。冷静に考えてみると猫が恩返しに来るならまだ分かるが、カエルが恩返しに来る理由なんて何一つありはしないじゃないか。ショックのあまりに肝心な事を見落としていたぜ。
そんな俺の追及にラナは呆れたように首を振る。
「やれやれ、樹さんは覚えていないのですか? あのダンボールの中、私は貴方を見上げたその時から恋に落ちていたというのに」
「!? お、お前……まさか、あの時子猫と一緒にみかん箱の中にいたあのカエルか!?」
「ええ、そうです。そのカエルですよ」
世の中何が起こるか分からないものだが、これはあまりにも予想外過ぎるだろう。俺はしばらく呆けた顔でラナを見つめるしかなかった。
なるほど……確かによく見ると面影が……あるわけないだろ!
とは言え、先ほどの風呂場での姿を見る限り信じざるを得ない。俺は盛大にため息を吐く。
「あの時、あの猫の隣にいたカエルがお前だったのかよ……まったく、びっくりだぜ。こんな事になるなんてな」
「そうですね、運命ですね」
「勝手に決めんな! 俺達はあの子猫を助けたかっただけで、カエルの事なんか眼中になかったわ! というかお前別にあの時困ってなかっただろ!?」
「まあ、確かにそうなんですが、一飯の恩義は返したいと思いまして」
「……待て。それはまさかあの猫缶の事か?」
「ええ。スタッフの皆で美味しくいただきました」
「何でお前が食ってんだよ!? あれはあの猫にやったんだぞ!!」
缶詰の種類を覚えてたのはそういう理由かよ!? あとスタッフって誰だよ!?
「まあそうなのですが、あの子猫が食べ切れなかった分をちょっとだけ。人間の世界で言うところのお裾分けですね」
「それ絶対猫の同意を得てねえだろ!?」
立て続けに入る突っ込み。
俺は興奮のあまり息も絶え絶えとなり、しばらく呼吸を整えるのに専念しなければならなくなったほどだ。
こ、こいつは……!! とんでもねえ奴だなほんとに!!
「ちょ、ちょっと待ってよ? じゃ、じゃあ、本物の子猫はどこにいっちゃったの?」
俺と同じくあまりの展開に呆然としていたらしき美咲だが、一番大事な事を思い出したのか心配げな声を出した。
そ、そうか。そうだよな。あの黒猫はどこに消えたんだ?
「ああ、あの子ならいまだにあのダンボールの中で鳴いていますが」
「……は?」
美咲の問いかけに予想もしなかったところから答えが返り、ようやく落ち着いた俺がその返事に対して戸惑いの言葉を口に出す。
「いや、そんな筈は無いぜ。俺達が確認しに行った時、あの猫はいなかったからな」
「お、おにーちゃん! それは内緒……」
あ、やべ。ラナにばれないように様子を見に行ったんだっけ。
「貴方達があの子猫の様子を見に行った時、私は先回りしてあの子を別の場所に移しておいたのですよ」
「って、おい! お前の仕業だったのかよ!? 一体何やってんだ!!」
「私の立場を守る為、仕方なくやったことです。理解していただけると幸いですが」
「お前の行動は何一つ擁護出来ねーよ!!」
だからあの時、こいつの体に猫の毛が付いてた訳か。本気で猫の化身だと一瞬でも考えてた自分が恥ずかしくなってきたわ!!
「あの猫の今後が気になるのでしたら、町内で飼い主を探してあげてはいかがでしょうか。私がこっそりと面倒を見ていましたが、そろそろ手持ちの餌も尽きてきましたから」
「……おい、その餌ってひょっとして……」
「ええ、もちろん樹さんがポケットマネーで買ってきたあれです」
「人の物を勝手に持ち出すな! 高かったんだぞ!」
「心優しい樹さんなら、きっと許してくれると思ったのです。あの小さな子猫の為に、雨の中足を止め、出来る範囲で手を差し伸べようとするお二人なら、きっとこうするだろうと……」
俺と美咲の顔を順に見つめるラナ。
その神妙な表情を見て、俺は追及の意思を削がれてしまう。美咲も何だか困ったような顔をこちらに向けてきた。
「……い、いや、別に俺も猫に餌をやった事を責めてるわけじゃないさ」
「ですので、行き場を無くしつつある小さなカエルに対しても手を差し伸べるべきだと思います」
「ふてぶてしいなお前は!? 結局それが言いたかったのかよ!?」
「まあ、はっきり言えばそうですね。私は樹さんと共にありたい……これだけは信じてほしい……いや、ほんとに他意はありませんよ?」
「お前、自分の信用度が右肩下がりな自覚はちゃんとあるのな」
慌てて付け加えたラナを半眼で見返した後、隣の美咲と相変わらず座敷に入ろうともしない茉莉花姉に顔を向けた。
はっきり言ってまだ俺も混乱してるし、コイツの処遇をどうすればいいか見当もつかない。なので、我が藤枝家姉妹の意見を求めようとしたのだが……。
「どうする? 美咲、茉莉花姉」
「……むー」
「……」
美咲はやはり不機嫌に唸り、茉莉花姉は相変わらず怯えたまま。
「すでに樹さんは私にメロメロですので、後はお二方が私の逗留を認めてくだされば全て丸く収まりますね」
「ありえない妄想を口にすんな! そもそもまだ俺も、ここにいていいだなんて言ってねーぞ!」
「素直になる事は大事ですよ、樹さん」
「お前が隠すべきは外見じゃなくてその性格なんじゃねーのか!?」
ぜえぜえ……。
全く疲れるやつだ。実際、最初っからこんな奴だって分かってたら、俺は玄関を潜らせたりはしなかったぜ、畜生!
……ま、退屈だけはしないで済むかもしれないけどな。
「とにかく、俺の許可だけ得てもしかたないだろ? まずは茉莉花姉と美咲に何か言う事があるんじゃないか?」
「……そうですね……では、美咲さん、茉莉花さん」
「……むー」
「……」
ラナは二人に向き直る。相変わらずむくれている美咲。ふすまの向こうから顔を出すのが限界の茉莉花姉。もっとも、そんな事は大して気にならないのか、ラナは口を開き……。
ちょうどその時、座敷にあの耳障りな音が入ってきた。そう、夏の風物詩、蚊だ。俺がその事を認識したかしないかのその刹那。ラナの首が高速で蚊がいる場所の方を向き、口の中から勢いよくピンク色の何かを発射した。
そして、そのピンク色の何かは、蚊がいる場所を薙ぎ、再びラナの口の中に戻る。
もぐもぐ、ごくん。
と、何かを飲み干した後、俺達の表情に気付いたのか、はっと目を見開くラナ。もちろんこの時、俺はすでに何が起きたのかをよく理解していた。そう、カエルが獲物を捕食する時のように、ラナは舌で蚊を絡め取り、それをそのまま口の中に引き入れたのだ。
「「い、いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!」」
茉莉花姉と美咲の声が綺麗に唱和し、二人は脱兎のごとく逃げ出した。
俺? 俺も逃げ出したかったんだが、あまりの事に腰が……。
「これは失敗しましたね。うっかりと、本能が理性を凌駕してしまったようです」
そう言ってニコリとするラナ。
本人は無邪気な感じを演出したかったのかもしれないが、この時の俺は、それこそ蛇に睨まれた蛙だった。
ぶっちゃけ、カエル少女はキモイです、はい。