彼女は魚が好き? それとも……
おやつの時間のあと、美咲をお茶の間に残し、俺と茉莉花姉はこっそりと隣の座敷の片隅でひそひそ話をしていた。昨日ラナが寝ていたこの部屋は無駄にだだっ広い。美咲もテレビに集中しているようだし、聞こえることは無いだろう。
ちなみにラナは、汗をかいたとかでまたシャワーを浴びている。動物園のカバじゃあるまいし、そんなにしょっちゅう水を浴びなくてもよさそうなものだ、
「茉莉花姉、分かってると思うけど……」
「ええ、ラナさんの事でしょ? 貴方どうするつもりなの?」
「いや……どうって言われてもなあ……俺が聞きたいくらいなんだが」
「樹……ちゃんと自分の行為には責任を持たないと。いったいどういう契約なの?」
「……契約?」
「ああいったプレイをいつまでしてもらえるの? でもあんな事にお金を使うようじゃ、お小遣いの事をちょっと考え直さないといけないわね」
「またその話かよ!? 濡れ衣だって言ってんだろーが!!」
となりの美咲に聞こえないよう、小声で怒鳴るという器用な事をする俺。
茉莉花姉、俺はあんたに全く信用されてないんだな!?
「そもそも、あいつが家出少女なんじゃないかって言ったのは茉莉花姉だろ!?」
「まあそうなんだけど……樹。本当に心当たりはないのね?」
「神に誓ってないっ!」
……もちろん、あいつが本当に猫だったりしたら話は別だが。
「昨日考えたように、ただの家出少女で、たまたま猫を助けた俺達を見て利用してるだけさ、きっと」
そう言い捨てた俺は、一瞬だけ心にチクリとしたものを感じた。それがなんなのか、よくは分からなかったけれども。
「うーん……」
首を捻りながら唸る茉莉花姉。
もちろん、俺もそんな事を本気で信じているわけじゃない。でも、猫が人間に化けるなんて事があるのは御伽噺の中だけだ。だったら、こんな結論くらいしか出せないじゃないか。
そんな時、ふすまが開いて美咲が顔を覗かせた。
「? おねーちゃん達、なに話してるの?」
「あ、ああ。いや、別に大したことじゃねえよ」
美咲には聞かせられない話だ。俺は慌ててごまかす。茉莉花姉もにこやかに続けた。
「うふふ……そうよ。ただ樹の夜ご飯をまたブロッコリー尽くしにしようかってだけの話よ」
「それめっちゃ大事なんですけど!?」
ていうかそろそろ許してくれてもいいだろ!?
「そうなんだ。大変だねおにーちゃん!」
「お前も他人事みたいに言わないで助けろよ!」
俺の絶叫に二人ともただ笑うだけだ。
くそう、この家での俺の地位、低すぎるだろ……。
「でもでも、今日の晩御飯はどうするの? ラナちゃんの分も作るよね?」
「あ~」
俺はどうしたもんかと茉莉花姉に目線を送る。美咲の乱入で結局答は出てないままなんだよなあ。茉莉花姉も困り顔だ。実際、出て行ってもらうにも切り出し方が難しいからなあ。
「今日はお魚がいいんじゃないかな? きっとラナちゃんも大好きだよ!」
そんな俺達の苦悩も知らず、天使のような笑みを浮かべる美咲。
やれやれ、参ったな。コイツ、ラナにぞっこんだ。
「……そうね。美咲の言う通りお魚にしましょうか……きっとこれが最後になるでしょうから」
小さく付け加えられた言葉は俺の耳にしか届かなかったらしい。美咲は自分の意見が通った事に無邪気に喜んでいる。コイツに残酷な現実を突きつけるのは気が重い。きっと悲しむだろう。茉莉花姉もさっきの言葉を口に出した時、一瞬だけとてもつらそうな表情を見せた。
……まあ陽気な気分になれないのは確かだな。あまり認めたくないが、俺も少しはラナの事が気に入り始めていたらしい。
俺達の態度を特に不審に思わなかったのか、美咲が先ほどと変わらぬ調子で話しかけてくる。
「ところでラナちゃんお風呂長いね。あ、そういえば、もうお風呂場に石鹸が無かったよ。誰か新しいの出したりした?」
「あら、そうだったの? 困ったわね。まだ出してないわよ」
「ラナちゃんきっと困ってるよ! あたしが届けてくるね!」
「お、おい?」
言うが早いか、俺と茉莉花姉が止めようとする前に美咲は駆け出してしまう。追いかけようとしたが、止めた。脱衣所あたりで裸のラナと鉢合わせでもしたらかなわん。茉莉花姉もしょうがないか、というような表情をしている。俺は先程の話を続ける事にした。
「んで、さっきの続きだけど、どうやって切り出すん……」
「きゃああああああああああああ!!」
「!?」
家内を貫く、大きな悲鳴。
美咲!? 何かあったのか!?
「くっ!!」
俺と茉莉花姉は慌てて声の方向へと向かう。
一体何があった!? まさか、泥棒が家に押し入ってきたりしたのか!?
板の間の方に通じる出口を駆け抜ける。
部屋を見回し、台所の方にある勝手口にも目をやるが、きちんと閉じられており、誰かが入ってきたような形跡はない。
ほっとしながらも、じゃあ何があったのかと訝しんでいると、廊下の奥の、浴室に通じる戸が開けっ放しになっている。
どうやら美咲は風呂場であの悲鳴をあげたようだ。
俺と茉莉花姉はお互い頷き、浴室への廊下を駆けた。
だが、途中で今ラナが風呂に入っている事を思い出し、一瞬足が止まる俺。もちろん、ほんのわずかな時間だったが、その間に茉莉花姉が俺を追い越し、洗面所の敷居を先にまたいだ。
「美咲!! 何があったの!? ラナさんもだいじょう……」
そこで茉莉花姉の声が突如凍りつき。
「いやああああああああああああああっ!?」
今度は、茉莉花姉の絶叫があたりを揺るがした。
一体なんだ!? 何が起きてるんだ!?
ええい、躊躇してる場合じゃないぜ!!
俺は茉莉花姉に続いて、中の様子を伺える位置に辿り着く。
洗面所でへたりこんでいる茉莉花姉。
開いた浴室の扉のところで、石鹸を握り締めたまま、これまたぺたんと座り込んでいる美咲。
そして、いまだにシャワーの音が続いている浴室の中にいたのは。
「お、お前……ラ、ラナ……か?」
かすれた声が俺の喉から小さく漏れる。
呆然と立ちすくむ俺の眼前にあるその姿は……。
まず、いやでも目につくのは鮮やかなライトグリーンの肌。その人間ではありえない色彩が全身の大部分を覆っている。お腹の辺りの色は白。何だか子供向け番組に出てくる謎の生物のようだ。
腕の色も緑が大部分を占めており、これだけでもびっくりなのに、さらに手の先についている指の数は四本。
しかもその四指についている、先端が丸くなった吸盤。
愛らしかった容貌ももはや原型をとどめておらず。
毛一本も無い頭の両側についた大きくて丸い目。
顔面を横断する一筋の口唇。
それは決して人間ではなかった。
もちろん、ネコ耳少女でもありえない。
一言で言えば。
カエル少女だった。
いや、カエル人間だった。
鳥獣戯画から抜け出てきたかのような存在が、我が家のお風呂場にいた。
「この場合、悲鳴をあげるのは私の方だと思うんですけどね」
その生命体は、今まで聞いた事のない冷静な声音で人間の言葉を喋った。
風呂場の端に濡れないように置かれている、ネコ耳のカチューシャと尻尾の飾り物だけが、その生物がかつてラナと呼ばれていた少女である事を示していた。