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謎の客

「……」

「……」

「……」

「……」


 我ら藤枝家の面々を前に、にこにこと笑みを絶やさない少女が座布団に正座している。夏らしい、半袖のシャツに膝までのジーンズ。これだけならどこにだっているただの女の子だ。

 だが、その短く切られた黒髪のてっぺんから二つ、人間には存在しないものが生えている。そう、猫のような黒毛の耳だ。

 そしてジーンズに穴を開けているのか、お尻のあたりからはこれまた猫のような黒い尻尾が伸びていた。


 とりあえず詳しい話を聞くために座敷に上がってもらい、各々座った俺達の前で、玄関で口にした事と似たような言葉をこの娘は開口一番喋ったのだ。そりゃ俺達もリアクションに困るってもんだ。

 左右に目を配って茉莉花姉と美咲の様子を伺い、どうやら進行役を期待されているらしい事を察した俺は、頬を掻きつつ尋ねてみる。

 といっても整理する時間が欲しい。念のため先ほど聞かされた驚愕の事実が空耳でなかった事を確かめよう。


「あ~、すまんがもう一度言ってくれないか? 一体何の用で家に来たって?」

「はいだにゃん! 私はさっき助けてもらった子猫のラナだにゃん! 恩返しに来たにゃん!」

「……」

「……」


 俺は茉莉花姉と目を合わせる。おそらく俺達二人は同じような表情をしていた事だろう。どうしたものかな、と。

 そんな俺の後頭部の方からイグサがすれる音がした。振り向いた視界に映るのは身を乗り出す妹の姿。


「ほ、ほんとなの?」


 待て美咲! その縋るような調子は何だ!? あとそのきらきらしている瞳も!! まさか信じてるんじゃないだろうな!?

 ラナというらしいこの子は、美咲に対してにこりと愛らしい笑みを浮かべる。


「もちろんですにゃん! 御二人のおかげで私は空腹を満たすことが出来たにゃん! とても嬉しかったにゃん!」

「え、えへへ。どういたしまして!」

「ちょ、ちょっとストップ! わ、悪いが用事を思い出した。一旦席を外させてもらうぜ。美咲、お前も来い!」

「え? う、うん……」


 茉莉花姉に目配せしてから戸惑う美咲を強引に部屋から連れ出し、廊下へと退避する。 もちろん茉莉花姉は俺なんかとは経験が違う。御茶の準備をしてきますね、と言い添えて堂々と座敷から抜け出てきた。さすが長女はしっかりしてるなあ。

 部屋から距離をとり、今度は板張りの上で家族会議である。


「なあ……どう思う……?」

「どうって、あの子猫が恩返しに来てくれたんだよね?」

「美咲……お前ももう少しだな……いや、今はいいや。茉莉花姉、どうだ?」


 さっきから俯いて何も言わない茉莉花姉の意見を聞きたくて問いかける。だが、面を上げた茉莉花姉の目にはなぜか軽蔑の光が灯っていた。


「樹……貴方、まだ高校生でしょう? それが何なの! あの娘は! 貴方があんなプレイをやらせてるんでしょう!?」

「ちょっと待て茉莉花姉!! あんた俺の事をそんな目で見てたのかよ!?」


 予想もしなかった言葉に俺の声は自然と大きくなる。あのラナっていう娘の耳に届いていないことを願うばかりだ。


「……ぷれいってなんのこと?」

「大丈夫、美咲は知らなくていいの。さ、美咲はいい子だからあっちへ行ってなさい。私はお兄ちゃんとちょっと話をしないといけないから」


 茉莉花姉は美咲を自分の背後に隠し、俺の事を相変わらず冷たい視線で見据えてくる。さすがに傷つくぞその態度は!?


「違うっつーの! 俺は茉莉花姉が考えてるような事はやってねえよ! まじで絶対!!」


 俺は両手を広げ、オペラ役者のようなオーバーアクションで訴えた。

 くそっ! 何で実の姉からそんな特殊なプレイをしている事を疑われなくてはならんのだ!?


「本当なの? 樹」

「あ、あたり前だろーが!? 常識で考えてくれよ!」

「そうね……でもあの娘が言ってることよりは幾分常識的だと思うけど?」

「そりゃそうかもしれんが、いくらなんでも突飛すぎるだろ!?」

「ふう……じゃあ、どう言う事なのかしら……」


 ため息を吐く茉莉花姉。俺もつられて大きく一息。もちろん俺のそれは安堵のため息だが。

 今ひとつ話についていけていないようだった美咲が、茉莉花姉の背中から躍り出る。そして輝かんばかりの笑顔で俺達を見上げた。


「でもでも凄いよね! こういう事ってあるんだ! 昔話みたい!」

「いやちょっと待て美咲! だからお前も簡単に信用すんな! 猫が人に化けたり出来るわけないだろ!」

「でもでも、あの人が持ってきてた傘って、おにーちゃんの傘だよ? 色も同じだしビニールだし!」

「俺の傘はお前のとは違って安物でどこにでも売ってるんだよ! 百歩譲って仮に同じ傘だったとしてもやっぱりありえないって!」

「むー、じゃあ、一体どういうことなのよう……」


 頬をふくらませる美咲。

 俺は忍び足で座敷に近づき、そっと顔だけを差し入れて中を覗きこんだ。

 あのラナとかいう女の子は、珍しいのか天井や壁をきょろきょろと見回している。それに付随して動く黒い耳。同じく黒い尻尾。

 しばらくじいっと観察したあと、またこっそりとその場を離れた。二人の元に戻ってきた俺は、自分の率直な感想を述べた。


「ぶっちゃけた事を言おう。あれ、つけ耳だろ? あと尻尾も」

「やっぱり……樹はそんなプレイを……」

「いい加減その発想から離れろよ!? 俺は無実だ!!」

「じゃあじゃあ、あのお姉ちゃんは普通の人間ってこと? それじゃ何のためにこんな事するのよう?」

「いや、さすがに俺もそこまではわからんが」


 普通の人間がネコ耳と尻尾をつけて家を訪ねてくる理由なんて、全く見当もつきやしねえよ。


「そうね……ひょっとして、家出してきた……とか?」


 ようやく俺に対する疑いを解いたのか、頬に片手を当てながら、ある程度まっとうな意見を茉莉花姉が出してきた。


「なるほど……家出してきて途方に暮れているところに、俺と美咲が猫を助けてやったのを偶然見かけて、これは使えると思ってやって来たって事か……まだありえる話だな」


 少なくとも、猫が人間に化けて恩返しに来るという御伽噺よりはな。


「ええ~? そんな事ないよう……絶対本物だもん……」


 夢が砂上の城のように崩れたからか、口を尖らせる美咲。だがあきらめろ、世の中なんてそんなものだ。


「そうだ! あたし、確認してくる!」

「何をだよ?」

「もちろんあの子猫の事だよ! あの人が偽者なら、まだあのダンボールの中にいるはずだよ!」

「まあ、確かにそれで証明できそうだな。だけど行くなら明日にしようぜ。もうすぐ真っ暗になるし、まだ雨も降ってる」

「でも~」


 不服そうな美咲をなだめ、俺は茉莉花姉に向き直る。


「で、だ。どうする? あの娘?」

「そうね……どうしましょう。なんだか変わった娘だけど、そんなに悪い人じゃないみたいだし、一日くらいなら……空き部屋もあることだし」


 さっきも述べたように我が家は無駄に広い。

 海外に行っている両親が使っていた部屋もあるし、今あの娘がいる座敷だって空いている。実際泊める事に問題はない。


「そうだな、じゃあ、とりあえずそろそろ戻るか? 話は適当にあの娘に合わせよう」

「分かったわ」

「む~!」



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「いや、待たせたな! 何しろ慣れないことなんで、ついね」


 何がついね、なのか自分でも分からなかったが、戻ってきた俺と美咲はおのおの座布団に座り、併せて茉莉花姉がお盆に御茶を乗せて登場する。

 ラナは特に不審に思ってないのか、にこやかな笑みを向けてきた。


「大丈夫だにゃん! みかん箱の中で待っていた時間を考えれば、これくらいなんてことは無いにゃん!」

「そ、そうか。そりゃよかった」


 やはり、あの時猫に構っていた俺達をどこかで見ていたのだろう。ダンボールの種類も正しい事を言っていた。

 美咲もそれに気付いたのか、こちらにちらちらと視線を投げかけてくる。だが待て美咲よ。みかん箱なんてある意味テンプレなんだから、当てずっぽうかもしれんだろう? ようし、なら化けの皮を剥いでやるぜ……。


「そうか! ところであの時の飯の味はどうだった? 猫を飼った事が無いからあれでよかったのかちょっと自信が無くてな。美味かったか?」


 どうだ! これなら遠目で見てただけでは分かるまい! ふっ、俺って策士!


「とても美味しかったにゃん! さすがは『子猫も突撃しちゃう』シリーズだにゃん! 上質のマグロの肉が口のなかでとろけていったにゃん!」

「う……ま、まあな」


 こ、こいつまさか、缶詰の種類まできっちり確認してきやがったのか?

 美咲の様子を横目でみると、ほらね! と、こちらのことを得意げに見上げている。くそう、逆効果だった。慌てて話を逸らす。


「あ~、と、ところで。家にやってきた目的をちゃんと聞いてなかったな。なにやら恩返しに来たとか言ってたが?」

「はいだにゃん。ただ、それはあくまで目的の一つにすぎないにゃん。本当の目的は別にあるにゃん!」


 俺はその言葉を聞いて今度は茉莉花姉の方に目をやった。姉貴も、こちらに視線をちらりとよこす。やはり、この家に置いてもらいたいとか言うつもりなのだろう。まあ、こっちはもうそのつもりになっているから、一日くらいは問題ないんだが。

 俺は麦茶をすすりながら、投げやりに問いかけた。


「ほう、じゃあ本当の目的ってなんだ?」

「子作りだにゃん!」

「ブフーーーーーーーッ!?」


 思わず俺は口に含んでいた茶を吐き出す。幸い、コップの中に吹いたから周りに実害は無いが、さすがにもう飲む気にはなれない。


「こづくり?」

「……美咲、これからは大人の話になるからちょっとあっちに行っていなさい。樹、ちょっといいかしら?」

「待て待て待て茉莉花姉! 真に受けるな!」

「私は助けてくれた樹さんを愛してしまったにゃん! だからその証に子供が欲しいにゃん!」

「お前も飛躍しすぎだ! なんでいきなりそこまで進む!?」


 俺ももうこの女に対して礼儀も何もなくなってるが、別にいいよな?


「まずは服を脱ぐにゃん!」

「別に過程を説明しろと言ってるわけじゃねえ!!」


 はあはあはあ……こ、こいつ……演技でやってるとしたら強敵すぎるぜ……。

 ちょうどその時、お茶の間の柱時計がボーンボーンボーン……と計八回音を鳴らした。いつの間にやら、もう外も夜の帳が下りている。

 茉莉花姉がおほん、と軽く咳払いをした。


「ふう……そうね。まあ、個人的にはもっといろいろとお聞きしたいんだけど、時間も時間だし、夜ご飯にしましょうか。暖め直すからちょっと待っててね。あ、ラナさんも一緒にどうぞ」


 すっげー冷たい視線を俺に寄越し、一転ラナにはとても優しい笑顔を向ける茉莉花姉。もっとも、多少はその笑みもひきつっていたようだが。


「ありがとうございますだにゃん!! いただきますだにゃん!」

「あ、ところで何か食べられないものってあるかしら? 今日は鶏肉と卵とさやえんどうを使った三色ご飯と、小松菜とさつま揚げの煮びたし。豆腐とわかめの御味噌汁。あとは野菜サラダなんだけど……」


 猫が食べられないものといったら、やはりタマネギが有名なところだろう。俺も猫に詳しい訳じゃないから良く分からんが、今回の料理なら恐らく大丈夫なんじゃないか? もちろん、こいつが本物の猫だった場合の話だがな!

 ま、美咲じゃあるまいし、茉莉花姉はただ単に好き嫌いの有無について聞いただけだろうけど。


「はい! 大丈夫だにゃん! この体になってから、何でも食べられるようになったにゃん!」

「わーい! 三色ご飯だ! ラナちゃん! お姉ちゃんの三色ご飯、すっごく美味しいんだよ! あ、もちろん他のお料理もだけど!」

「それは楽しみだにゃん! ごちになりますにゃん!」


 なんだか楽しそうにしている妹と、この謎の女にもはや挑む気力もなかった。ほんと、疲れた……。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 我が家の一階には大きな部屋が三つある。

 一つは先ほどの畳が敷き詰められている座敷。いわゆる床の間付きで、親戚が集まって宴会とかをやる時などによく使われる。

 一つはテレビが置かれているお茶の間。今はちゃぶ台が鎮座しているが、冬になるとこれが炬燵と入れ替わる。

 そしてもう一つがここの板の間。

 台所と一体となっているこの場所が、藤枝家で食事処として使われる事が多い。台所が近いことがおそらくここで一番飯が食われる理由だろう。

 さすがに冬場はお茶の間を使う事が多くなるが。


 それはさておき。

 普段は三人で囲んでいるこの板の間の四角い木製テーブルを、今日は四人で囲むことになった。いつもは俺の正面が空いていたため、必然的にラナが俺の正面に来る事になる。先ほどの子作りの件もあって、最高に気まずいのだが……。

 もっとも、目の前の女はどこ吹く風で、用意されたほかほかの料理に心を奪われているようだった。


「これはたしかにとても美味しそうだにゃん! 茉莉花さんは天才だにゃん!」

「あら……お世辞がお上手ね。サラダもよかったら食べてね。いっぱいあるから」


 茉莉花姉もまんざらではないらしい。俺もたまには姉貴の料理を褒めたりしたほうがいいのかね?


「食べていい? 食べていいよね?」

「美咲、お前の好物なのは分かるが、茉莉花姉が席につくまでちゃんと待て」

「はーい」

「さすが樹さんだにゃん! しっかりしてるにゃん!」

「そ、そうか?」

「……樹、貴方の皿にはブロッコリーをたっぷり取ってあげるわ」

「まだ怒ってるんですね、茉莉花姉」


 まじでやめてください。あの緑の野菜だけは苦手なんです。


「ふふ……なんの事かしら?」


 そういいながら、大皿から大量のブロッコリーが俺の取り皿に移された。うう、ドレッシングをかけまくって味を誤魔化してやる……。


「あ……ところでお願いがありますにゃん。申し訳ないですがスプーンとフォークを貸して欲しいですにゃん」

「あら、どうして?」

「箸を使うのは苦手なのにゃん。スプーンとフォークなら何とか使えるにゃん」


 俺達三人はまじまじとラナの手を見た。もちろん見た目は人間と同じ五本の指で、そこに肉球などあるはずがない。

 まったく、念の入った芝居だ。恐れいるぜ。

 俺は苦笑いしつつ、席を立ってカウンターから二つの銀食器を取り出し、手渡した。


「ほらよ」


 俺がラナにそれらを手渡す際に、かすかに手と手が触れ合った。


「!?」


 俺とラナはお互いに慌てて手を引っ込める。ラナは頬を朱に染めて目を逸らしながら呟いた。


「樹さんは大胆だにゃん」

「なっ……何言ってやがる!?」

「ブロッコリー、さらに追加……」

「お、お待ちください、茉莉花姉さま!」

「おにーちゃんほんとにブロッコリーが駄目なんだねえ……」

「悪かったな! あの葉っぱの部分も、幹みたいな部分も泣きたくなるくらい嫌いなんだよ!」


 って言うか勘違いしないでくれ茉莉花姉! 手が触れ合ったのは偶然だし、俺が慌てて手を引っ込めた理由も別にコイツを意識したからじゃねえんだ!!


「さて、ではそろそろいただきますをしましょうか?」

「うん! もうお腹ぺこぺこだよ! いっただっきまーす!」

「「「いただきます」」」


 美咲に続いて、三人の声がハモり、夕餉の時間が始まった。

 美咲は一人もぐもぐと無心に食べているが、俺はもちろん、茉莉花姉もやはり気になるのだろう、食事を進めているラナの様子をそれとなく注視しているようだった。

 とりあえず、箸が苦手だというのはどうやら本当のようだ。見た感じ、スプーンですら使い方が危なっかしい。

 なんと言うか、五本の指を上手く動かすことが出来ていない。ちょうど、猫が人間ほど器用に物を扱う事が出来ないように。


 ……でもこれも演技……だよなあ。

 首をひねりつつ、俺も箸をつけ始めた。もちろん、嫌いなブロッコリーからだ。俺は嫌いな物から真っ先に食べ、それから好きなもので後味を上書きするタイプなのだ。

 心の中で泣きながら、俺はさっきラナと手が触れ合った事を思い出した。

 俺があの時ラナから慌てて手を離した理由……それは、ラナの手があまりにもひんやりとしていたように思えたからだ。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ごちそうさまだにゃん! とても美味しかったにゃん!」

「うふふ……お粗末さまでした」


 もう茉莉花姉はラナの芝居に完全に付き合ってやる事にしたのか、途中から彼女の事を観察するのをやめたようだった。今もにこやかにラナに対して返礼している。


「でしょでしょ? おねーちゃんの料理は最高だよー!」


 もとから美咲はこの猫モドキ娘派だったし、この短い時間でとても打ち解けている。

 問題はこの俺の立場だがな! いきなり子作りとか冗談にしてもきつすぎるっつーの!


「ところでお願いがありますにゃん」

「あら、何かしら?」


 この家のヒエラルキーで、一番上位にいるのが茉莉花姉だとすでに悟っているらしいラナが、恩人の俺にではなく茉莉花姉に直接頼みごとを申し出た。


「ぶしつけですけど、お風呂をお借りしたいにゃん。雨に打たれたせいか、少し体が冷えているみたいですにゃん」

「あっ……ご、ごめんなさいね。気付かなくて……」

「いえ、突然押しかけたのは私ですにゃん。気にしないでほしいですにゃん」


 何だ、さっきアイツの手が冷えていたのはそのためか。びっくりして損したぜ。


「着替えは私のパジャマでいいかしら?」

「はいですにゃん。助かりますにゃん」


 スタイルのいい茉莉花姉と、その対極にいるラナの間で視線を動かし、俺はにやにやしながら言った。


「ぶかぶかになるんじゃねえ?」

「樹さんはラナの事を、しっかりと見ていてくれたみたいで嬉しいにゃん♪」

「樹……あとで私の部屋にいらっしゃい……」

「だあああーーーっ! 済みませんでした! つまらない冗談でした! 俺が悪かったです!」


 笑みは一瞬で凍りつき、ただひたすらに頭を下げまくる俺。雉も鳴かずば撃たれまいに、全く俺ってやつは……。


 俺がぺこぺこと謝っている間に、茉莉花姉はラナに風呂の場所を教え、今着ている服はかごに入れておくように伝えた。

 頭を上げた俺の前に、にこにこと微笑むラナの姿があった。雨で冷えた体を暖められる事が決定したからか、すごく嬉しそうだ。


「それでは御借りしますにゃん。あとシャワーも使わせてもらいますにゃん」

「あ、ああ、自由に使ってくれてかまわねえよ……おっと、家のシャワーはお湯に切り替わるまで結構かかるから気をつけてな」

「はいですにゃん」


 ラナはすたすたと風呂場の方に向かい……洗面所へと続く廊下に入ろうとしたところで動きを止め、こちらに振り向いた。


「そうそう、樹さん。覗いたら駄目ですにゃん♪」

「だ、誰が覗くか! さっさと行け!」

「はいですにゃん」


 がらがらがら。

 ラナの姿は戸板の向こうに消えていった。

 俺達は自然と集まって顔を寄せ合う。姉貴は苦笑いしているし、美咲は目を輝かせている。


「やっぱり本物だよ! 覗いたらダメなところも鶴の恩返しと一緒だし!」

「お前まだ信じてたのかよ!? 覗くなってのはそういう意味じゃないに決まってるだろーが!」


 両手でぐっと握りこぶしを作りながら力説する妹に、俺は呆れ返ってしまう。全く、ちょっと純粋に育ちすぎちまったかもしれねえな。


「えー? だってご飯の時だって、ふーふーしながら食べてたじゃない。猫舌っていうんでしょ? そういうの」

「……お前よくそんな事に気が付くなあ……」


 注視してた俺が全く気付いてなかった事の指摘に、思わず唸ってしまう。こいつはよくテレビの刑事ものとかを見てるからな。その影響もあるのかもしれん。


「ふふ……なんにせよ面白い人ね。お姉ちゃん、ちょっとあの子が気に入っちゃったわ」

「お、おいおい。まさか、ずっとここに置いとこうなんて言い出さないよな?」

「いいえ、さすがにそれとこれとは別問題よ。まあ、詳しい事を聞かせてくれたらいいんだけどね……」


 風呂場からシャワーの音が聞こえ始めた。湯船にはお湯が張ってあるんだし、そっちを使えばいいのに。シャワーの音に耳を澄ますと、結果としてラナの今の姿を想像してしまう事になり、慌てて頭を振って妄想を追い出す。やべえやべえ。


「とりあえず、あの子の布団を用意したほうがいいわね。樹、お願いできる?」

「へいへい、まあそれくらいはお安い御用さ。座敷でいいよな?」

「そうね。お布団だけど、押入れの上の段に一式そろっているわ。埃がたまってるかもしれないから、ちゃんと敷く前に掃除してあげて」

「あいよ」

「おにーちゃん、あたしも何かしたほうがいい?」

「いや、大丈夫だ。元々俺の客だしな。俺にまかせとけ」


 つっても、招かれざる客だけどな! というツッコミは自分の胸の内で吐き出しておいた。まったく、俺もお人良しすぎるぜ……。

 食後の一服が済んだ後、俺は座敷に向かい、押入れのふすまを開けて敷物をひっぱりだした。

 茉莉花姉がよく虫干しをやっているおかげで、使用するのに支障はなさそうだ。言われた通りに軽く掃除を済ませると、寝床を整えていった。


「やれやれ、これでいいか」

「ありがとうだにゃん! とても清潔そうなお布団だにゃん!」

「うおっ!? い、いきなり後ろに立つな! びっくりしただろうが!」


 突然かけられた声に慌てて後ろを振り向く俺。そこには風呂を済ませたのか、姉貴の寝巻きを着たラナがいた。まあ、着ているといっても、やはりサイズが合ってないのかぶかぶかだったが。もっともそのおかげで尻尾が上手く服の中に納まっているようだ。


「ところで枕は一つしかないのかにゃん?」

「? 何言ってんだ、二つもいらな……」


 言いかけて気付く俺。


「ラナはいつでも構わないにゃん! ラナを組み敷いて欲望をぶちまけて欲しいにゃん!」

「あ、あ、あほかぁぁぁぁ!! っていうかいかがわしい言い方すんじゃねえ!」

「こういう表現の方が雄の劣情をくすぐると思ったにゃん!」

「お、お前って奴は! 湯冷めしない内にとっとと寝ちまえ!」


 俺はあまりの気恥ずかしさにラナの顔を直視できず、顔をそらしながら怒鳴った。表情は見えないが得意そうに笑っている気配を感じるぜ。くそう、情けねえ。

 顔の熱が冷めるのを待っている俺の耳に、嫌な羽音が飛び込んできた。そう、夏になると大量に発生し、人が寝ようと電気を消すと出てきて、叩きつぶそうと飛び上がると、さっと姿を隠してしまう憎たらしいあいつが飛び回る音だ。


「ち、蚊がいやがるな……」

「蚊!?」


 俺の呟きを耳にしたラナが、素っ頓狂な声を出して反応した。

 なんだかオーバーなリアクションだな? ああ、そういえば猫が蚊に刺されると何とか言う病気になる可能性があるって聞いたことがあったな。そこまで演技をしなくてもいいのにと俺は苦笑する。


「ど、ど、どこにいるにゃん?」


 目をギラギラとさせて、きょろきょろし始めるラナ。

 おいおい、念入りだな? とは言っても実際うっとうしいし、俺が何とかしてやるべきか……。


「あっ!!」

「うおっ!?」


 途端に大声を上げて部屋の隅を指差すラナ。俺はつられてその人差し指の先に振り向き、両手を開いて身構えた。もちろん蚊を叩く為のファイティングポーズだ。

 だが、その方向には何もない。

 くそっ、どこに行きやがった?

 俺は構えたまま上半身を捻り、敵の姿を追う。


「らいじょうぶにゃん。もういなくなったみらいだにゃん」


 珍しく少し不明瞭な声で、後ろからラナが話しかけてきた。振り向くと、口をもごもごさせながら、にこにこと上機嫌に俺を見つめている。


「何だ? 大丈夫なのか?」


 彼女は一旦、ごくんと喉を鳴らすと、


「はいだにゃん。もうどこかに行ったっぽいにゃん。ありがとうだにゃん!」


 言われて耳を澄ますと、たしかにもうあの不快な羽音が聞こえる事はなかった。何だか一人相撲でちょっとばつが悪いが、まあいいか。


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