御伽噺が終わる時
蛙合戦というやつだろうか。
四方からはうるさいくらいに蛙の鳴き声が聞こえてくる。
あたりに人通りは全くなく、光源といえば夜空に輝く月と路地にある電信柱の古びた電灯のみ。
俺はあのラナと出会ったみかん箱のある路地に隣接する、水田のあぜ道へと足を踏み入れていた。
水がたっぷりと蓄えられている田んぼは、かすかな光をキラキラとはね返し、まるで別の世界のよう。
そんな場所で、俺は一度小さく呼吸を整える。そう、その別の世界の住人に、もう一度こちらの世界に来てもらう為に。
「ラナ……いるか?」
返事は……無い。
「ラナ……俺だ。樹だよ。ここにいるんだろう? 答えてくれよ」
俺の声に応える者はなく、辺りをかしましい蛙達の鳴き声が包むのみ。だけど、俺はそれに負けずに声を張り上げた。それこそ、求婚の為に必死で喉を震わせる彼らのように。
「ラナ!」
俺の声を一瞬で掻き消す蛙達の声。
でも、俺はこれくらいであきらめるつもりはない。
そんな体たらくじゃ、元気付けてくれた美咲や茉莉花姉、そしてあの小さな黒猫に申し訳がねえからな。
「お前を迎えに来たんだ! 一緒に帰ろうぜ!! ラナ!!」
俺の大声に度肝を抜かれたのか、蛙合戦の音が止む。
一瞬の静寂の中、かぼそい声が俺の耳に届いた。
その声は、俺が待ち望んでいたアイツのものだった。
「来ないでくださいと言ったのに……呆れた人ですね、樹さんは」
「ラナ! どこだ! どこにいる!?」
声の主を探し、俺は首を四方に巡らす。
だが、そんな俺をたしなめるかのように、ラナは小さな声で続けた。
「樹さん。私にも羞恥心というものがあるのですよ。出来れば、小さなカエルの姿に戻った私の姿を樹さんに見られたくない。この気持ちを汲んではいただけませんか?」
「ラナ……」
やがて、再び蛙達の求婚の声が少しずつこの水田を支配していく。
ラナの気配はそれに紛れてつかめない。
さらに、先ほどの見られたくないという言葉が俺の動きを止めてしまっていた。やはり、美咲が言うようなハッピーエンドはありえないのだろうか?
「ですが、私には最後の願いがあります。樹さん、聞いていただけますか?」
消沈している俺に、ラナの言葉が投げかけられる。
込められている感情のなせる業だろうか。
それはこのかしましい場所でも、何故か俺の耳に届いた。
「なんだ? 言ってみてくれ」
俺は見えない姿に問いかけた。
「前々から言ってましたよね。私は貴方の子供が欲しいと」
「!? あ、ああ……」
唐突な発言に俺は一瞬答えに詰まる。
「今こそ、その願いを叶えたい。駄目でしょうか?」
最後の頼みになるという予兆があるからだろうか。
ラナの声は悲壮に満ち満ちており、否とは言わせない力強さがあった。
かつての馬鹿みたいなやり取りが遠い過去の物に思えてしまう。
「い……いや……お前の最後の頼みだからな……いいぜ」
だからだろうか。あんなに嫌がっていた俺がこう答えてしまったのは。
戸惑いながらも口にした肯定の返事に、ラナは喜びの声を上げた。
「そうですか。ありがとうございます。私は幸せ者です……では……樹さんから見て、左手の田んぼの淵にまで来ていただけますか?」
「お、おう……」
俺は田んぼを交差する畦道を、踏み外してしまわないように慎重に歩を進める。ラナが俺を誘導するが、彼女もこっちの方にいるのだろう。指示するアイツの声が少しずつ大きくなっていく。
「そのままそのまま……はい、そこでストップです」
ラナに誘導された場所は路地とはちょうど反対側になる水田の縁だった。隣接する大地は林になっており、まばらに生えた木が影をいくつも投げかけている。このあたりには他の蛙はいないのか、彼らの声もあまり聞こえない。
俺は近くにいるはずのラナを求めてキョロキョロする。
「で、どうすりゃいいんだ?」
「まあまあ、そう焦らないで。樹さん、そこから顔を下に向けてください」
「分かった」
自分の子孫が残せる事が嬉しいのか、なんだかウキウキとした声。
その口上に従い、俺は頭を垂らした。
「よく目を凝らしてください。そこに、私の生んだ卵があるはずです」
「!? あ、ああ……こ、これがそうなのか?」
月明かりと旧型の電灯という頼りない光源のせいではっきりとは見えないが、たしかにその場所には小さな卵が大量にあるようだった。
覚悟していたとはいえ狼狽する俺に、ラナは上機嫌に語りかける。
「ではお願いします。樹さん」
「ちょ、ちょっと待て。お願いしますって、お前……」
やっぱりあれか? あれをしなくちゃいけないのか?
「いつか言っていたように、セクシーポーズを取ってあげられないのが残念です。ですが、そこは妄想でカバーしてください。別に私を使ってくれても構いませんよ?」
「何にだよ!? いやそうじゃなくて、本当にやらないといけないのか!? それを!?」
「当たり前でしょう。めしべにはおしべが必要なのですよ。ソフトな表現をすればね」
ラナの悪戯っぽい声が響く。
「くっ……分かった! お前の最後の頼みだからな! やってやるよ!」
「ありがとうございます!! では、思う存分に欲望をぶちまけてください!!」
俺は卵の塊を見下ろし……ラナが言うその行為に及ぼうとしたその時、ふとある事に気付いた。
さっきから聞こえていたラナの声。
その声音の違和感に。
俺は水田の外側に隣接する、立ち並ぶ樹木に向き直る。
やがてそちらに向かって早足で歩きだした。
そして……。
ガシッ!!
俺の五指は、木陰に隠れていた奴の腕をがっしりと掴んだ。
「おい……」
「何でしょうか、樹さん?」
前と変わらぬシャツとデニムを身に着け、完全に人間の姿をしているラナを俺は冷たい目で見下ろし、ゆっくりと怒気にまみれた言葉を吐き出した。
「その手に持ってるのは何だ?」
「ただのフラッシュ機能付き高画質のデジカメですが」
「何でそんなモン持ってるんだよ!?」
「もちろん樹さんの痴態を撮影する為に決まってるじゃないですか」
「何を考えてんだお前は!?」
「いえ、樹さんを攻略するためにもう一押し何か欲しいなと思いまして。恥ずかしい写真で脅せばクリアできるかなと」
「どこの鬼畜ゲーだよ!? っていうか今回の事は全部この為の芝居だったのか!?」
「ええまあ、有り体に言えばそうですね」
「お、ま、え、って奴はぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ちょっ……樹さんまじで痛いんで出来たら力を緩めてくださいお願いです」
その台詞に嘘は無いのか、油をとられる蝦蟇のように汗をだらだらと流すラナ。
俺は力を込めていた右手を反射的に離し、そのままラナを抱きすくめた。二度と、どこにもいかせない為にぎゅうっと強く。
「い、樹……さん……?」
「……もうこんな事はしないでくれ……お前がいなくなって、俺が一体どれだけ不安だったと思ってやがるんだ……」
「う……あ……その……」
俺の行動。
俺の震える声。
全てが予想外だったのか、腕の中で戸惑いの声を上げるラナ。
そうだよ。これが俺の気持ちだ。お前の言葉で言えば、俺はとうにお前にクリアされていたんだ。
しばらく、されるがままになっていたラナ。
そして俺も、咄嗟に自分が取った行動に驚き、あまりの恥ずかしさに次の動きが取れないでいた。
そんな赤くなった俺の耳朶を、ラナのからかうような声が叩く。
「ふふ……本当に大胆ですね、樹さん」
「う、うるせえよ」
「まるでカエルの抱接のように激しく抱きしめてくれるなんて、嬉しいです。でも、これだけでは足りませんね」
「なっ!! お、お前まだ欲望をどうこうとか言う気じゃないだろうな!?」
「違いますよ樹さん。もっとも、樹さんが露出プレイをしたいというのでしたら止めませんが」
「んなわけねーだろ!? 俺はそんな特殊な趣味は持ってねえ!!」
「まあ先ほどの行為は見なかった事にしておいてあげますよ」
「くっ……」
「樹さんの変態的趣味は置いといて、私がして欲しいのはアレです。分かるでしょう?」
俺の抱擁から抜け出したラナが、月の光りを浴びて輝く瞳で見上げてくる。
さすがに鈍い俺でも分かった。こいつが何を求めているのかが。
俺の顔がさらに紅潮する。ラナも余裕ぶってはいたが、緊張しているのが見え見えだ。
「ああ、い、いや、その……」
情けなくもしどろもどろな受け答えをしてしまう俺。そんな俺をラナがいたずらっぽく見つめる。
「全く肝心なところでヘタレですね、樹さん。本当は樹さんのその姿を目に焼き付けておきたいのですけど、可哀相ですし目蓋を閉じてあげますよ」
相変わらずの居丈高な口調とは裏腹に、しおらしい仕草でそっと目を閉じるラナ。もちろん、唇を少し突き出してだ。
俺は凍りつき、その小さな口唇をまじまじと見つめる。まるで蛇に睨まれたカエルのように動けない。
「一応念のために言っておきますが……私も結構恥ずかしいのですよ?」
「!? わ、わかった!! す、すまん!!」
慌てて俺はラナの両肩をがっしりと掴む。
ラナが目を閉じたまま小さく笑ったように思えた。
そう、これでもう俺は引けなくなっちまった。
覚悟を決め、ラナの顔を真正面から見据える。だが、中々俺の上半身は前進してくれない。
だあーっ!! 全く俺ってやつは!! これじゃラナの言う通りヘタレ野郎じゃねえか!
「さあさあ、早くしてください。そんなにもたもたしていたら、カエルの世界じゃ今頃ボロ雑巾のようになって水面に浮かんでますよ」
「くっ!! ええい! 分かった! 今やってやる!!」
俺は今日何度目かの覚悟を決めて目をぎゅっと閉じ、ゆっくりとラナの唇があるであろうその場所へと、頭を傾けていく。
そしてふと……角度が上手くいっているのかが気になったのか、はたまた神の悪戯か、俺は目を開けてラナの様子を伺った。
その瞬間、俺の動きはピタリと止まる。
俺の目の中に飛びこんできた光景。
少ない明かりの下でも分かる、緑色でぬめっとした肌。
今は目蓋に閉じられているが、顔の両側についた大きな目。
そして俺がアレをしようとした幅広の口はだらしなく開かれ、その深遠な淵を覗かせていた。
目の前にいたのは、大きなカエル以外の何物でもなかった。
俺はそいつの両肩にかけていた手をゆっくりと外す。
「……どうしたんですか? 樹さん。今こそ勇気を見せる時ですよ」
擬態が解けてしまっている事に気付いてないのか、目を閉じたまま大きな口を広げて人間の言葉を喋るカエルっぽい何か。
……うわあ……。
俺は身体を反転させた。
そう、俺は鶴の正体を見てしまったんだ。
だから、御伽噺はこれで終わる。
「すまん、やっぱ無理」
俺は言い捨て、脱出経路である水田のあぜ道を、ズボンや靴が汚れるのも気にせず走った。
「ちょっ……何で逃げるんですか!? 樹さん!!」
「ええい! 来るな! 来るんじゃねええええ!!」
やはり水地では奴の方が速いのか、追いすがってくる足音が段々と近づいてくる。
だが、それもアスファルトの道路まで出ればこっちのもんだ!
俺はクラスで三番目に速いと言われている自慢の足で、ただひたすらに駆けた。
「そんなぁ!! 酷いですよぉぉ!! 乙女の心を弄ぶなんてぇぇぇ!!」
遠くから怨嗟の声と足音が聞こえてくるが気にしない。
このとある夏の日の、哺乳類と両生類の追いかけっこが誰の目にも留まらなかったのは不幸中の幸いだった。
うん。やっぱりカエル少女はキモイです。
さて、これが俺が先日体験した不思議な話だ。
現代に蘇った御伽噺って感じだろ?
よくある、鬼婆やらに追いかけられて、肝を冷やすが最後には無事に逃げ延びられてハッピーエンド。いわゆるどっとはらえってやつだ。
でもそんな御伽噺とは違い、しくじった事がある。
「初めまして。このたび転校してきた雨宮ラナです。よろしくお願いします」
そいつは、ニコリと俺の方を見て笑った。
だが俺の目には、獲物を飲み込もうとするカエルの笑みにしか見えなかった。
己のクラスにかなりの美少女が編入された事を喜ぶ野郎共の歓声を耳にしながら、俺は机に突っ伏す。
そう。結局俺はコイツから逃げることが出来なかったんだ。今でもこのカエル少女は俺の家に居ついてしまっている。
全く、正体を知られても出て行かないなんて、御伽噺に出てくるヒロインの風上にも置けないだろ?
俺はしばらくぐったりとしていたものの、そのうち諦めの心境と共に顔を上げて頬杖を突き、窓の外に遠く広がる青空を見据えた。
今はもう九月。人間の目から見たらすでにカエルの季節は過ぎ去った。
だけどあの時俺の家にやってきた小さなカエルは、我が藤枝家でやがて来る冬を越すつもりらしい。
全く困ったやつだぜ、ほんとによ。
心に浮かんだ言葉とは裏腹に、そんな未来が楽しげなものに思えて俺は片頬を上げた。
これで完結になります。
読んでいただき、ありがとうございました!




