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動物病院にて

 俺が今日まで動物病院に抱いていたイメージ。

 建物に充満する獣の匂い。

 ひっきりなしに響く動物達の咆哮。

 うちっぱなしのコンクリート。


 今、その先入観が何もかも間違っていたと気付かされたところだ。正直一方的な偏見だったと恥ずかしく思う。


 白と橙を基調とした色彩で統一された内装は、とても温たくて動物達を包み込んでくれるようなイメージがある。掃除が行き届いているのか、床には毛の一本だって落ちてやしない。動物達の声はかすかに聞こえるが、別に獣臭いという事はなく、むしろかすかな花の香りが漂っている。


 そしてこれまたイメージとは違った女性の獣医さん――狭間梨世はざまりよと自己紹介された――は、俺達の目の前でてきぱきと処置を行っていく。


 一通りの治療を終えたのか彼女はほうっと一息ついて、俺達にとても魅力的な笑みをよこした。


「猫風邪の初期症状ね。おそらく、母親から受け継いだ抗体が切れたのね。ずっと放置されていたら危ないところだったわ。キミ達、御手柄ね」


 その笑顔と言葉につられ、息を詰めて見守っていた俺達の力も抜ける。

 美咲もよかったあ……と小さい胸を撫で下ろしている。

 まったくだ、連れて来てよかったよ本当に。


「とりあえず処置はしておいたわ。聞いておきたいのだけど、キミ達はこの子を飼うつもりなのかな?」

「いえ……俺達はこの子の里親を探すつもりです。さすがに飼うのはいろいろと難しいので」

「そう……じゃあ見つかるまではキミ達が面倒をみるのね?」

「はい、そのつもりです。乗りかかった船ですから」

「じゃあ、今から言うことを良く聞いてちょうだい」

「は、はい」


 なぜか先生は急に真面目な顔になり、居住まいを正した。俺の背筋も自然と伸びる。


「まず、この病気は一度罹ったら完全に治る事はないの。仮に治ったように見えても、ウイルスは見えないところにいるだけで、いなくなるわけではないのよ」

「え!?」


 安堵から一転、美咲が悲鳴のような声をあげた。俺も正直驚いた。ラナは知っていたのか、悲しそうに目を伏せ、口を一文字にしている。


「だから、この子はもう外で遊ぶことは出来ないわ……他の子達に病気をうつす訳にはいかないもの」


 な、なんて事だ……ただの風邪だと軽く考えていたのに、そんなに大変な事態だったのかよ……。

 美咲は縋るような目を梨世先生に向ける。


「先生でも駄目なの……?」

「ごめんね……こればっかりはどうしようもないの」


 悲しそうに首を振る先生。美咲は見る見る落ち込み、瞳を潤ませる。

 本来なら俺が元気づけてやるところだが、自分もいつのまにかこの猫の事が気に入っていたらしい。ショックが大きくて何も言うべき事が思いつかない。

 そんな俺を尻目にラナがすっと美咲に近づき、労わるように抱きしめた。


「美咲さん、自分を責めないでください。美咲さんがいなければ、この子はこうして治療を受けることなく命を落としていたと思います」

「……」


 美咲の頭を撫でているラナ。小さな妹は何も言わず、されるがままだ。


「それに人間の世界でも一病息災と言うではありませんか……あ、一つでも病気を持っている方が健康に気をつけるので逆に長生きできるという意味です」

「うん……」

「だからむしろ胸を張るべきです。美咲さんのおかげでこの子は猫としての一生をまだまだ謳歌できる。それは美咲さんの優しさが成した事です」

「うん……」

「それに治らないといっても、健康である内にはウイルスは何も悪さは出来ませんよ。それに猫というのは、基本的に室内で飼われる事を苦にしない種族です。きっと、元気になったら何もなかったかのようにこの子は楽しく遊び回ることでしょう」

「……ホント?」

「ええ、ホントです。だから、顔を上げてください。美咲さん」

「分かった……ありがとうラナちゃん」


 ごしごしと目元を拭い、ラナを見上げて小さく笑む美咲。瞳は真っ赤だが、それでも笑顔を浮かべてくれた。その光景を見て俺も鼻をすする。やべえ……俺まで泣いちまうところだったぜ。

 先生も優しい眼差しで俺達を見つめた。


「そうね、その子の言う通り。貴方達が気に病む必要なんてないの。私からもお礼を言わせて。この子猫に手を差し伸べてくれてありがとうね」


 感無量。

 俺は、この猫の為に動いて良かったと心の底から思った。





 家での子猫に対する対処の仕方を細々教わり、薬を受け取った後、先生がラナに話しかけた。


「そういえば貴方、猫の事に詳しいのね。ひょっとして調べたのかな?」

「いえ、我々の世界では常識なので」

「お前の世界は一体どうなってんだよ!?」


 ついいつものノリで言葉が荒くなってしまうが、先生はわけが分からないという顔をしている。そりゃそうだ。目の前の少女が、実は水辺の世界の住人だなんて想像の埒外だろう。


「ペットに関する職業を目指しているのかな? もしそうなら応援するわ」

「いえ、私は専業主婦になるつもりです。ここにいる樹さんの」

「バッ! お、お前何言ってやがる!?」

「既成事実を広めておこうかと思いまして」

「広めるな! 先生、こいつの言う事はあまり真に受けないでください!」

「ふふっ……中々面白いわね、彼女」


 片目をつぶる先生。

 くそっ……本当に信じないでくださいよ?


「じゃあ、後の事は貴方達に任せるわ。でも、何かあったらすぐに電話を頂戴」

「はい! ありがとうございます!」

「ありがとう! 先生!」


 俺と美咲の感謝の言葉が合わさる。

 ちなみに、今回の費用は月賦で少しずつ払ってくれればいいと言ってくれた。この病院に連れてこられたのは本当にラッキーだったのだろう。子猫にとっても、俺達にとっても。


「あ、そうそう。里親を探す件だけど、なんならウチに張り紙をしてくれていいわよ。待合室に貼ってあったでしょう?」


 来た時はそれどころじゃなかったのでうろ覚えだが、そういえばカラフルなポスターを何枚か見たような記憶がある。


「ホント? ありがとう、先生!」

「でも、病気にかかった事は書いておいてね。大事な事だから。ここ以外の場所で飼い主が見つかった場合も、今日教えた事は必ず伝えること」

「……うん」

「はい、分かりました。その、本当にありがとうございました。色々と」


 俺と美咲は深々と頭を下げる。ラナもちょこんとこうべを垂れた。俺に抱えられた洗濯ネットの中のコイツも、もしかするとお辞儀をしたのかもしれない。

 俺達を見回し、先生はにこりと微笑んだ。


「他にも何か困った事があったらいつでも来てくれていいわ。里親探し、頑張ってね」

「はい! 頑張ります!」


 俺は力強く答え、美咲も大きく頷いた。



      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ただいまー」


 雲がたなびく空も、年代物の瓦も、漆喰の壁も、もはやすっかり茜色だ。そんな夕日さす我が家に俺達の帰宅を告げる声と、扉に付けている鈴の音が響き渡る。


 それに答えるように、軽いスリッパの音が聞こえた。予想通り、茉莉花姉はすでに帰宅していたようだ。


「おかえりなさい。病院、どうだった? あ、あら? その子……」


 洗濯ネットに包まれた黒猫というオブジェは、俺より豊富な彼女の人生経験の中にも存在しなかったらしい。俺がこのやり方を初めて知った時と同じようにぽかんとしている。


「すまねえ茉莉花姉。ネット使わせてもらった。あとでちゃんと洗うから」


 靴を脱ぎつつ廊下に上がる俺達。まずは猫をあの寝床に運んでやるのが先決だろう。


「それは構わないのだけど……あとで報告お願いね?」


 俺達の気持ちを汲んでか、自分の好奇心を後回しにする心遣いに感謝した。

 縁側を通って座敷に入り、数刻前に設置された即席の棲家に子猫を解放する。もちろん、ネットから出す時も慎重だ。美咲の手によりそっと簡易ベッドの上に寝かせられる。


 先生の処置のおかげだろう、白い袋から解放された黒い猫は、出かける時に比べて風邪のような症状もいくぶん治まっているように思えた。


「とりあえずはこれでOKです。後でご飯を上げる時に薬も一緒に与えましょう」

「うん……よかった……」


 美咲の小さな手がそっと子猫の頭を撫でる。

 猫もほんの少しだけど、顔を上げてそれに答えたように見えた。


「ふふっ……みんな御疲れ様。お腹すいたでしょう? 私達もご飯にしましょう」

「ああ、言われるまで気付かなかったけど腹ペコペコだわ。さすが茉莉花姉。タイミングばっちしだよ」

「そうですね。さすが茉莉花さんです。完璧ですね。自慢の姉になりそうです」

「え、ええ……あ、ありがとう……」

「だから俺はお前とくっつく気はねえって言ってるだろ!」


 ラナに対する苦手意識はやはり拭えないのか、目を逸らしながら返礼する茉莉花姉と、いつものように大声を出す俺。

 ラナはそんな俺に向き直ると口の前で人差し指を立てた。


「おっと、この子の前で大声で喋るのはNGですよ、樹さん。猫の聴覚は人間とは比べ物になりませんからね。特に今は安静にしておくべきですから」

「くっ……一体誰のせいだと……」


 苦々しくつぶやくが、ラナの言っている事は正論だろう。しぶしぶ口を閉ざした。


 俺、美咲、ラナの三人は洗面所で手を洗い、夕食の準備を手伝った後にそれぞれ板の間の席に着く。遅れて茉莉花姉も着席し、皆で手を合わせた。


「それで、今日の事を聞かせてもらえるかしら? 樹」

「ああ……」


 茉莉花姉もやはりまだ本調子ではないのか、いつもより器の数が少ない食卓を前に、俺はさっきの出来事を伝えた。俺の説明があやふやになると、欠かさずラナの補足が入る。


 こいつは本当にいろいろと猫の事に詳しくてびっくりだ。今日はラナにずいぶんと助けられた。すぐに調子にのるから口には出したくないが、俺はもちろん、美咲も感謝している事だろう。


「そう……そんな事になってたのね……」


 俺とラナ、美咲の説明が終わると、茉莉花姉は目を伏せた。


「ふふ……それじゃあ美咲達にだけ任せる訳にはいかないわね。何かあったら言ってね? 私も力になるわ」

「うん! ありがとうおねーちゃん!」

「そういえば、今日お渡ししたリストのものは買っていただけましたか? 確認するのを失念しておりました」

「ええ、大丈夫。ちゃんと貴方が書いてくれたものは全て買ってきたわ」

「ありがとうございます、茉莉花さん」

「そういや一体全体何を買ったんだ?」

「おいおい皆さんにも説明しますよ。今は茉莉花さんの料理を堪能させてください。やはり樹さんの料理とは雲泥の差です。ただ、いつもより品数が少ないのが残念ですが」

「悪かったなチクショウ!」


 先ほどの事もあり、小声で文句を言う。

 ていうか料理の数が少ないのは多分お前のせいだからな!?

 美咲は屈託なく笑い、茉莉花姉はひきつった笑みを浮かべている。

 ラナと美咲の関係は、今日一日でずいぶんと改善された。今も食事をしながらにこやかに談笑している。


 茉莉花姉もラナとこんな風に遠慮なく笑える日がくればいいんだけどな……俺があの緑の野菜を好きになるのとどっこいかもしれん。

 あの子猫と一緒に、ラナの事も上手くいってくれる事を祈りながら箸を進めた。


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