出会い
空は濁色の絵の具を混ぜ合わせたようにどんよりと曇り、太陽を遮る厚い雲の層からはいくつもの雨粒が零れ落ちていた。
それが理由で俺――藤枝樹は右手に黒い傘を差し、左手には可愛らしい水玉模様の傘を下げ、今年小学四年になった妹を迎えに行ってやったんだ。
そして二人で仲良く傘を並べて帰り道を歩いていた時、あの光景に出くわしたって訳だ。そう、一昔前のマンガとかでよく見かけたシチュエーションの、みかん箱の中に子猫が捨てられているっていう、あれだ。
雨のせいでいつもより人通りもない、田んぼ沿いの道の、電信柱の影でそいつはかぼそくにゃあにゃあ鳴いていた。いや、むしろ泣いていたのかもな。
通りかかったのが俺だけなら、きっと多少は心に引っかかりを覚えながらも、横目で見つつ素通りしただろう。
だが、今日は俺の隣にまだそんなにすれていない少女がいた。そいつは無言で通り抜けようとした俺の服を掴み、くいっと引っ張りやがったんだ。
「おにーちゃん!」
「駄目」
言い募ろうとした妹――美咲に対して、俺はにべもなく答えた。途端に美咲はほっぺたを膨らませ、不機嫌になる。
「む~! 何よ! まだ何も言ってないじゃない!」
「皆まで言わなくてもお前の言いたい事は分かる。どうせ可哀想だから連れていこうとか言うんだろ?」
「そ、そうよ! だって可哀想じゃない!」
「そして連れて帰ったら、タオルで全身を拭いてやり、ドライヤーの温風で乾かしてあげて、ほお擦りでもして、皿にミルクを入れてやり、それをちろちろ舐めるこいつを、頬杖を付いて優しくみつめたいとかそう思ってるんだろ?」
「うっ……ど、どうして分かるの!?」
「まあ電子レンジで暖めようとか考えなかった点については、お兄ちゃん花マルをやってもいいがな。だがそれとこれとは別だ。連れて帰ることは許しません」
もっとも、俺達が普段飲んでいるような牛乳は、猫にとってあまりいいものではないらしいが。とは言え、美咲はそんなことはまだ知らないだろうな。
反論しようと口を開いた妹に被せるように、俺はさらに言葉を続けた。
「それに連れて帰ってどうするんだ? ずっと飼うのか? 誰が面倒を見るんだ? エサ代だってタダじゃないんだぜ?」
甘い気持ちを起こさせまいと強い調子で言い聞かせているうちに、美咲の目が潤み出したことに気付く。どうやら少し言い方がきつすぎたらしい。
「あ~……すまん。言い過ぎた。だけど、こればっかりは無理だ。諦めろ」
「……」
美咲は何も言わず、俯いてしまう。頭の両脇で結ばれた二房の髪もつられて力なく垂れ下がる。
やれやれ、困ったな。こういう優しいところは兄としては嬉しいんだが、どうしたもんか。
俺は傘を傾け、頭上を見上げた。空模様は未だに悪く、雨が降り止む気配さえもない。
周りからはこの雨を喜んでいるのか、カエルの鳴き声がいくつも聞こえてくる。よく見てみるとこのダンボールの中にも、子猫と一緒に一匹の小さなカエルが仲良く鎮座していた。先ほどまで鳴いていた子猫は、今ではもうすっかりと鳴き止み、瞳の中に弱りきった俺の姿を映していた。
おいおい……お前もそんな目で俺を見るなよ……俺はお前を連れていってやる事は出来ないんだぜ?
普段なら美しいと感じさせるであろう真っ黒の毛並みが、水分を大量に含んでぐっしょりとなっているのは俺の目からみても痛々しい。
俺にすらそんな感情があるのだ。まだ純粋な美咲が、子猫を見捨てていくのに強い罪悪感を覚えるのも無理はなかった。
落ち込む妹と、訴えかけるような目を向ける子猫の前で途方に暮れる俺。
「……よし。美咲、ちょっとここにいろ。すぐに戻ってくる」
「えっ?」
慌てて顔を上げた美咲をそのままに、俺は水溜りから飛沫を跳ね上げつつ駆け出した。向かうは角を二つ曲がった先にあるスーパーだ。美咲には悪いが家で猫を飼う事は出来ない。俺に出来ることといったら、これくらいが限界だ……。
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俺が先ほどの場所に戻ってくると、美咲はダンボールの上に傘をかざしていた。全く、それじゃあお前が風邪を引いちまうだろうによ。
「待たせたな美咲」
「うん……どこに行ってたの? おにーちゃん」
訪ねる美咲に俺は白い買い物袋を突き出した。もちろんさっきのスーパーで買ったものだ。美咲がこれで納得してくれりゃいいがな。
「そいつの食べもんとかを買ってきてやった。飼うことは出来ないが、これくらいはやってもバチは当たらないだろ?」
「おにーちゃん!」
美咲の瞳が曇天の下でも喜びに染まるのが見えた。
「ほら、お前からエサを与えてやれ。こいつも別に赤ちゃんってわけじゃないし、もうキャットフードくらい食えるだろ」
俺が買ってきたのはいわゆる猫缶と呼ばれるやつの、子猫タイプのものだった。俺は傘を顎と首の間で支えながら、それの蓋を開けて美咲に渡してやる。美咲は受け取ると嬉しそうにかがみこみ、猫の前にそれを置いた。
やはりお腹を空かせていたのだろう、子猫は缶に顔を突っ込むようにして猛烈に食べ始めた。美咲は猫に傘を差してやりながら、にこにこと見守っていた。
しかし、これがある程度成長した猫でよかったぜ……本当にキャットフードも食えないような子猫だったら、俺もどうすればいいか分からないからな。
ダンボールの中にいたカエルも、じっとその猫の食事風景をうらやましそうに見つめている。さすがにお前の分は買ってきてないんだ、すまんな。
「美咲、ほい。これでそいつの体を拭いてやれ」
「? あっ。ありがとうおにーちゃん!」
俺が手渡したタオルを嬉々として受け取り、雨粒をすって重くなってしまっている子猫の体毛を優しくぬぐってやっている。猫缶で空腹を癒せたらしい子猫は満足気に体をゆだねていた。
「あとはこれだ、レジャーシート。ダンボールももうびちゃびちゃだろうからな。これを底に敷いてやろうぜ」
「……おにーちゃん、口ではああ言ってたけど優しいね」
「ち、違うぞ美咲。ただ単に見捨てたら寝覚めが……後味が悪いなと思っただけだ!」
「えへへ……でも嬉しい! おにーちゃん大好き!」
「お、おう……」
きまりが悪くぶっきらぼうな答えを返す俺。実は結構な出費なのだが、まあ良いか。美咲の笑顔はプライスレスだからな。
美咲が子猫の身体を抱えている間に、俺は折りたたまれたままのレジャーシートをダンボールの中に無理やり詰め込んだ。
ついでに中にいたカエルも潰さないように外側に出してやる。
そこに美咲がそっと子猫を降ろしてやると、こいつは新しくなった住処で小さく一回りした。その行為がお礼を言っているように見えたのは俺だけじゃないだろう。
俺はもう一つ猫缶を取り出し、開封して並べてやった。ま、こんなところかな。
「さて、そろそろ行くぞ美咲」
「うん……やっぱり飼ってあげるのはダメなんだよね……?」
「当たり前だ。さっきも言ったが諦めろ。あまりお兄ちゃんを困らせるんじゃない」
「……うん。ごめんなさい……」
「とはいえ、まだまだいくつか猫缶は買ってきてある。お前が気になるんなら、明日もここに来てエサをあげたらいいさ」
さすがに照れくさいので脇を見ながらの言葉になった。それでも、美咲の嬉しそうな表情は目に見えるようだったが。
「ホント!? ありがとう、おにーちゃん!!」
「よし。じゃあ行くぞ。これ以上遅くなると、茉莉花姉が心配するからな」
「うん! あ……でも雨が……」
立ち上がった美咲は、空と、俺と、足元のダンボールを順番に見やる。何が言いたいかはもちろん分かった。
俺は自分の黒いビニール傘をそっと、みかん箱を覆い隠すように置いてやった。
「お、おにーちゃん! あたしの傘を使ってよ! あたしが言い出したことなんだから!」
「駄目だ」
「何で!?」
「お前の傘は高い」
「……」
さっきまで俺を敬愛するかのように見つめていた妹の瞳が、一気に冷めた気がする。これでいいんだよ。俺の傘は所詮スーパーのレジ前で売っているような安物なんだからさ。 俺はこれでお別れとダンボールの中を覗きこむ。新しい缶詰に顔を突っ込んでいた子猫はそれに気付いたのかこちらを見上げた。
「それじゃあな」
そんな子猫に一言、別れの言葉を告げ、俺は美咲と一緒に帰途についた。
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「お帰りなさい。遅かったから少し心配しちゃった……あら? なんで二人ともそんなに濡れてるの?」
料理の最中だったのだろう。エプロン姿で俺達を出迎えた、姉貴の最初の言葉がそれだった。
美咲の傘は子供用だし、美咲のやつが嫌がる俺を無理矢理その小さい傘の中に入れようとするしで、二人とも家に辿り着いた頃にはかなりびしょびしょだった。
姉貴――茉莉花と書いてまりかと読む――が目を丸くするのも当然だろう。
茉莉花姉は首をかしげ、腰のあたりまで伸ばされている髪を揺らした。
「そんなに雨ひどかったかしら? ちょっと待ってて、すぐにタオルと雑巾を持ってくるから。ちゃんと足を拭いてから上がってね?」
「「は~い」」
意図したわけでもなく、異口同音な俺と美咲。俺達は顔を見合わせてクスリと笑う。基本的には優しい姉だが、怒らせると怖いのだ。
ちなみに、家は築ン十年になる、無駄にでかいのだけが自慢の、木造の一戸建て。もちろん廊下も板張りだ。濡れ鼠のまま廊下に上がったりしたら酷い事になると、俺も美咲もとうの昔に知っていた。
「お待たせ、はい、どうぞ」
「サンキュ、茉莉花姉」
俺は二枚のタオルの内、ひとつを受け取り、それで美咲の頭を拭いてやる。
「おにーちゃん。これくらいあたし一人で出来るってば!」
美咲が暴れるが気にしない。さっき、あの子猫を見捨てていたら、今でも気が咎めていただろう。これは俺が出来るせめてもの御礼なのだ。
「よし、あとはちゃんと雑巾で足を拭いていけよ。茉莉花姉、風呂は沸いてる?」
「ええ、湧いてるわよ。美咲、体が冷えない内に、入っちゃいなさいな」
「はーい。おにーちゃんも一緒に入る?」
「美咲。お前もあと何年かしたら中学生なんだし、恥じらいというやつをだな……まあいいや。俺は買ってきたものを片付けないといけないしな、後で入るわ」
「うん、わかった! さっきはほんとにありがとうね! おにーちゃん!」
美咲は向日葵のような笑みを浮かべ、早足で去っていった。ま、安くない買い物だったが、あんな笑顔が見れたんだし良しとするか。
「帰り道、何かあったの? 樹」
「ああ、ちょっとしたイイ話さ。後で茉莉花姉にも説明するわ」
きっとこの時の俺の顔にも、暖かな笑みが浮かんでいたことだろう。
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「ねえねえ、明日も様子を見に行っていいよね? おにーちゃん、おねーちゃん」
茉莉花姉も交えた夕食前のひと時、美咲はやはり気になるらしいあの子猫の事を切り出した。
俺は美咲が風呂に入っている間に茉莉花姉に対しての説明も済ませておいた。その時に確認したが、やはり飼うという選択は不可能だったようだ。
ペットの飼育がおそらく大変な事だろうというのは未経験の俺にも予想がつくしな。とりあえず美咲ももう飼う事に固執はしていないらしい。ほっと一安心だ。
「そうだな。まあ、まだ買い込んだ食材も残ってるし……」
俺はちらりと茉莉花姉に視線を投げかけた。
「そうね。美咲がそんなに気になるなら……」
飼う事に不賛成の姉貴も、美咲が小動物に対してそういった気持ちを示すことはやはり嬉しいらしい。瞳に優しい光が浮かんでいる。
「えへへ……ありがとう!」
「俺も付いていくわ。美咲がまた飼いたい病を発症させても困るしな」
「うふふ……樹も素直じゃないわね」
「ほんとほんと! おにーちゃんだってあの子を気にしてるくせに!」
「う、うるせえな!」
そんな微笑ましい会話がお茶の間で繰り広げられていたその時、来客を告げる電子音が鳴った。
「あら、誰かしら……いいわ、私が出るから」
腰を浮かしかけた俺を制し、茉莉花姉はインターホンが設置してある廊下に出ていった。折り目正しく閉めて行った引き戸の向こうから、茉莉花姉が受け答えする声がかすかに聞こえてくる。最近のインターホンは玄関先を見ながら会話が出来たりもするそうだが、我が家のそれはそんなに上等なものじゃない。
「こんな時間に誰かな?」
「さあな。セールスとかじゃね? ところで明日の事だが……」
何時くらいにあの猫の様子を見に行く? と言いかけた俺は、再び引き戸が開く音を聞いてそちらに注意を向けた。応対に出ていた茉莉花姉が、何とも言えない表情をしながら部屋に入ってくる。そして俺に向かって口を開く。
「ねえ、樹……ちょっといいかしら?」
「どうしたんだ? しつこいセールスとかか?」
「ううん、そうじゃなくて……何だか貴方に用があるっておっしゃっているんだけど……受けた恩を返したいだとか」
「はあ?」
「貴方ちょっと出てみてくれない? まだ雨も降ってるし、あまり外でお待たせするわけにもいかないから」
茉莉花姉は狐につままれたような顔をしているが、見返す俺も同じようなものだったろう。美咲もきょとんとしている。
受けた恩……? 一体何のことだ?
俺は首をひねりつつ、木張りの廊下をやや早足で歩いていく。
玄関の土間に出してあるつっかけに足を入れ、はいはいお待たせしました~、とすりガラスの向こうに見える人影に声をかけながら鍵を開け、横開きの戸を開く。
まだ雨が降りしきる薄闇の田舎町を背景にして、そこに立っていたのは……。
「こんばんはだにゃん! 先ほどの恩を返しに来たにゃん!」
黒いビニールの雨傘を上げたことにより露になったその頭には、ふさふさの可愛らしい猫の耳が生えていた……。